明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

アイヌ民族の歴史と文化について知るならまずはこの一冊。瀬川拓郎『アイヌ学入門』

スポンサーリンク

 

 

 

著者の瀬川拓郎氏は今まで何冊かアイヌ関連の書籍を上梓していますが、これが一番わかりやすいと思います。

序章ではアイヌの歴史について簡潔に触れられており、ここでは日本との関係だけではなく、北東アジアの文化との交流やオホーツク人との戦いなどを経てアイヌの文化や生活圏が常に変化し続けてきたことが示されます。

 

matome.naver.jp

アイヌは遺伝子的には縄文人の末裔とも言うべき存在で、北海道南部から次第に勢力を拡大して北海道北部沿岸に存在したオホーツク人を北海道から追い出し、さらに千島やサハリンにも進出します。

そして鷹をめぐってサハリンのニブフ族と闘いを繰り広げたアイヌは元の介入を招き、サハリンではアイヌとモンゴルの戦争まで起きています。この時アイヌアムール川下流域にまで攻め込んでいますが、交易品である鷹や鷲を巡って活動するアイヌには「海の民」「ヴァイキング」としての側面もあることを瀬川氏は指摘しています。

 

この章の後でも沈黙交易アイヌ語、呪術や祭祀などについて興味深い話題が続きますが、特に興味を惹かれたのはコロポックル伝説です。

この小人伝説は古代ローマに紀元を持つもので、これが中国を経て遙かアイヌにまで伝わったというわけです。

著者は北海道アイヌで言うコロポックルの正体は千島アイヌだと推定しており、北千島アイヌの奇妙な習俗が北海道アイヌの間に小人伝説として定着したのだろうと考えています。

 

千島アイヌは北海道のアイヌとは沈黙交易を行っていて直接接することがなく、互いの交流はほぼ絶たれていました。接触を避けていたためにこのような伝説が生まれたのかもしれません。北千島では北海道では失われた竪穴式住居や土器を使う生活が続いていて、縄文時代の文化をより色濃く残しています。外界との交流が絶たれると過去の文化が冷凍保存されたような地域が形成されるという、極めて興味深い一例です。

 

そしてもうひとつ興味深いのがアイヌの金の話題です。

実は北海道でも金が採れるのですが、なんとアイヌの金が平泉の中尊寺金色堂に使われていた可能性について著者は指摘しています。

 

常滑産のつぼが厚真町から出土 12世紀に交易か:苫小牧民報社

現在、平泉政権が北海道の厚真にまで入り込んでいた可能性が考えられています。

奥州藤原氏アイヌを支配していたというわけではなく、あくまで両者は対等な交易を行っていたと推定されていますが、これが本当なら奥州藤原氏は北方世界との交流も深かったということになり、その影響力は従来考えられていたよりも大きかったことになります。

藤原基衡が朝廷に献上した品の中にはアザラシの毛皮やオオワシの羽など、北海道にしか存在しない物もあるため、平泉では北海道のことをかなり正確に把握していたはずです。その情報は厚真の現地スタッフがもたらしたものかもしれません。

藤原泰衡は平泉を退去して蝦夷ヶ島に渡ろうとしていたと言われていますが、この泰衡の行動はこのような平泉とアイヌとの結びつきを抜きにしては考えられないでしょう。

 

そして最終章はアイヌの女性へのインタビューで締めくくられています。

現在、アイヌ民族の置かれた状況について様々な議論があります。

しかしまずはこのインタビューを読んでから考えてみても遅くはないのではないかと思います。

この章でインタビューを受けたAさんは、子供の頃の体験についてこう語っています。

 

「ただ小学生の時に一度だけ、とても仲の良かった友人から、『あなたはアイヌなの?』と聞かれたことがあります。びっくりして口ごもっていると、『そうだよね、アイヌって頭が悪いもんね』というのです。当時、私は大人たちから優秀な子と言われていました。ですから、アイヌではないよね、というわけです。

これは後からわかったことですが、大人たちは私のことを『アイヌなのに頭がよい』といっていたそうです」

 

Aさんは10代から20代にかけて、アイヌであることを恥ずかしいと思い、人からアイヌと言われたらどうしようかといつも怯えていたそうです。

後にAさんはこのような自分の殻を破りたいと考え、アイヌ文化を学びアイヌであることを表明して生きていくことになるのですが、それができるようになるまでは多くの葛藤があったようです。

アイヌとしての自覚をもつ事は、日本人が自分が日本人だというアイデンティティを持つほど容易いことではありません。

Aさんはインタビューの最後に、このように語っています。

 

アイヌ民族を表明して生きることについて、家族が賛成してくれているわけではありません。でも、それが私の選んだ生き方だから、と割り切ってくれているようです。アイヌとして生きるかどうかは、人それぞれが自由に判断することです。子供に強いるつもりはありません。

 

アイヌとして生きることが、痛みや葛藤をともなわない社会になってほしい。アイヌであることが何も特別なものではなく、母であり、職業人であるのと同じような、ひとつの選択と受けとめてもらえるような社会になってほしい、と願っています。

 

けものフレンズ6話感想:ヘラジカはかなりヤバイ生き物だったことを知った。

スポンサーリンク

 

 

このアニメは1話を視聴しただけで、2~5話は観ていません。

3月3日に一挙放送があるのでそこで復習しようと思っています。

 

live.nicovideo.jp

ところでこの6話なのですが……

今回はバトル回でしたが、ある意味各フレンズの特徴を活かしたほのぼの異能バトルといった趣があってなかなか面白かったと思います。

 

なぜ、ライオンは城の中にいて、ヘラジカは武士みたいな口調で話すのか?

と思ってたんですが、この設定にもちゃんと意味があるんですね。

サーバルが囮になってヘラジカの兜をかぶっているシーンがありましたが、これはヘラジカが武士のような存在であるという設定にすることで可能になる作戦でした。

あの兜、本多忠勝の兜みたいですね。

真田信繁の兜にも鹿の角が付いているし、鹿=武士という設定でも特に違和感はない。

 

かばんちゃんの特技である「知性」もフレンズの特徴のひとつにすぎない、という点も良い。

ウェブ小説では現代人が現代の知識を異世界に持ち込んで無双したりする話がよくありますが、かばんちゃんの知性も役には立つものの、この能力だけで他のフレンズに君臨できるほど強力なわけではありません。

 

知性はあくまでサーバルの跳躍力とかアルマジロの硬い甲羅、カメレオンの透明化能力などと同じレベルの「役に立つ異能」の一つにすぎない。

かばんちゃんの知性はあくまで他のフレンズの能力があって生きるものなので、この世界では皆が協力して生きていかなくてはならない。

こういうバランス感覚もこのアニメの良いところだと思います。

多様性の尊重って、正にこれでは?

 

f:id:saavedra:20170217133220j:plain

さて、今回登場したヘラジカなのですが……

作中では「とにかく力が強い」という描写になっていました。

これは現実のヘラジカの能力の反映なのか?

力が強いって言ってもヘラジカってトナカイみたいな生き物なんじゃないの?

 

と思っていたらこのようなツイートを見かけました。

 

これはライオンでも勝てないのでは?

ライオンが「ヘラジカはいつもまっすぐに突っ込んでくるだけ」と言っていたのも、実際にこういう走り方をするからなのでしょう。

ちょっと検索するだけでもこんなまとめも出てきます。

matome.naver.jp

体高は人間をゆうに上回り、突進力も強い。

車と衝突すると車の方が破壊される。

奈良公園にいるような鹿と同じ眷属とはとても思えない。

 

これほど強いヘラジカですが、それでも天敵であるヒグマや虎や狼などには敵わない模様。

やはり牙を持つ生物は強い。

ということは、実際にライオンとヘラジカが戦ったらライオンのほうが強いでしょうか。

ヘラジカは動物を狩るようにはできてませんからね……

 

とはいえ、姿だけみればヘラジカは確かに最強クラスの生物のように見えるし、この動物をライオンのライバルにしたのは上手い設定だったのではないかと思います。

 

ヘラジカの画像も探してみましたが、興味を持った人が多かったのか、検索結果がこれだったのには笑いました。

f:id:saavedra:20170217132745j:plain

 

けものフレンズはよく「IQが下がる」と言われていますが、各フレンズの特徴を活かしたストーリー展開やキャラクターの秀逸なデザイン(ハシビロコウが特にいい)、物語を牽引する大きな謎としてのセルリアンやジャパリパーク、そしてかばんちゃんの正体など、隙なく作り込まれた良作だと思います。

6話に関してはハシビロコウが最後に言った一言が気になる。

果たしてかばんちゃんは「ヒト」なのか……?

これは来週も見逃せません。

ローマ人の物語は長すぎる!という方にはこの一冊。モンタネッリ『ローマの歴史』

スポンサーリンク

 

 

ローマ人の物語については、以前こういう記事を書いたのですが……

saavedra.hatenablog.com

実のところ僕自身は、『ローマ人の物語』について気にしているのはこれが史実ではない部分もある、ということではありません。

そんなことより、とにかく長い。長過ぎる。

これを全部読み通すのはさすがに骨が折れる。

このシリーズは官僚が読むべき本とされているようですが、東大出身のエリートならこの長大なシリーズも難なく読めてしまうのか?

よほどの歴史好きでもない限り、これを完読するのは容易なことではないように思うのですが。

 

史実ではなく娯楽書でいい、と割り切るとしても、もっと楽に、1冊で読み通せるローマ史の本はないものか……?

そういう人におすすめしたいのがこの一冊です。

 

内容については下手な紹介より、辻邦生のあとがきを引用した方がいいでしょう。

 

読みだしたら止められないような本がある。小説の場合もあるし、ノン・フィクションの場合もある。だが、歴史でこんな面白い本はちょっと例がない。ローマ史は大体陰気臭いと決まっている。ところが、これはそうではない。シェークスピア劇が連続上演されているようだ。息つく暇もない。

 

本書は本当にこういう内容のローマ史です。

翻訳を担当しているのは名著『物語 イタリアの歴史』の著者である藤沢道郎氏なので文章のリズム感も抜群。

とにかく飽きさせないし、読んでいて退屈する部分が全くない。

「娯楽本」で良いのなら、ローマ史に関してはこれ一冊で十分ではないかと思うくらいの内容です。

 

著者のモンタネッリの真骨頂は、何と言ってもその身も蓋もなさに尽きます。

塩野七生の本を読んでいてツラいのは、その過剰なまでの「カエサル萌え」にあります。

塩野氏はカエサルが好きすぎてローマ人の物語では上下二巻分も費やして彼のことを書いてしまうし、後の巻で出てくるアレクサンデル・セヴェルス帝の評価でも「カエサルならこういうことは言わなかっただろう」という言い方をするし、ローマ人の物語の続編とも言える『ローマなき後の地中海世界』でも登場人物はカエサルと比較されます。

ローマ人の物語カエサルを讃えるためのシリーズ、と言っても過言ではありません。

塩野氏と萌えポイントが同じ人ならいいですが、そうでない僕のような人にとってはこれがなかなかツラいところでもあるのです。

 

カエサルが文武両道の極めて優秀な人物であったことは確かです。

しかもこの人は敵に対して寛容であったことでも有名で、脱走して宿敵のポンペイウスについた副官のラビエヌスにわざわざ荷物を送り届けたりしています。

こうした鷹揚さもまた塩野七生カエサルを高評価する理由のひとつです。

 

では、モンタネッリはカエサルの人間性をどう見ているのか?

本書ではカエサルはこのように評価されています。

 

こうした寛仁大度には、人間に対する軽侮の念が多少混じっていたのだろう。さもなければ、身に迫る危険にあれほど平気でいられたはずがない。周囲に陰謀が渦巻いていること、寛仁は憎悪の鎮静剤ではなく逆に刺激剤であることを、まさか知らなかったわけではあるまい。敵がその陰謀を実行に移すだけの度胸を持たぬと、たかをくくっていたのだ。

 

この「陰謀」というのはブルートゥスのカエサル暗殺計画のことですが、カエサルが寛容でいられるのは他人を舐め腐っているからだろう、という評価なのです。

モンタネッリに言わせれば、カエサルは他人を見下していたから暗殺されてしまったのだ、ということです。

こういう辛辣で容赦のない人間観を読むことができるのも本書の魅力です。

 

全体的にシニカルでどこか突き放したような描写をするのがモンタネッリの特徴なので、塩野七生の「ローマ萌え」を多少なりとも冷ましてくれるという効果もあります。

時代的にもこれ1冊でローマの誕生から西ローマ帝国の滅亡まで押さえられるし、言うことなし。

読んで楽しいローマ史の本ということで、文句なしのおすすめです。

ネット小説は「誰にでも書ける」のか?

スポンサーリンク

 

 

anond.hatelabo.jp

小説は誰でも書ける。書くだけなら。

まずはタイトルの質問に答えましょう。

書けますよ。

別に小説には決まった書き方なんてないし、何を書いたっていいのだから、書くだけなら誰だって書ける。

好きなことを書いて、これが自作ですと人前に出せばそれでいい。

 

ただし長編をきちんと完成させられるかどうかというと話は別。

10万字以上の分量があって、曲がりなりにもストーリーとして成り立っていて、日本語も引っかからずに読めるというレベルになるとそれは「誰でも書ける」ということはない。

 

それは「小説を書くのにだって才能は必要」という話ではないのです。

書籍化されている小説にだって、ストーリーも文章力も水準以下のものだっていくらでもある。

「これなら俺だって書けるわ」と思う人も、それはいるでしょう。

世の中には読書経験が豊富な人間ばかりいるわけではないから、レベルの低い作品でも商品としては成り立つこともある。

小説を書くのに本当に必要な力とは何か?

では、長編を完成させることができる人と、できない人は何が違うのか。

実は小説を書くのに一番必要な能力は、文章力でもアイデアを生み出す力でもプロットを考える力でもありません。

一番必要なのは体力です。

 

 体力と言っても、ここで言うのは何もフルマラソンを完走できるような「体力」のことを言っているのではありません。

村上春樹は本当にそういう意味での体力を身につけるためにランニングを続けているそうですが、もっと必要なのは物事をひたすらに考え続ける「知的体力」とでも言うべきものです。

 

結局のところ、小説というのは全て文章で構成されていて、頭で考えて書くものなので、長い文章を書き続けるにはひたすらに物事を考え続けられる力が必要なのです。

破綻のないプロットを作るのも、キャラの台詞に整合性を持たせるのも、世界観を構成するのも、全てはこの「知的体力」から生まれます。

村上春樹はこの「知的体力」を支えるには肉体的な体力も大事なのだと考えているから身体を鍛えているのだと思います。

 

小説というのは知的労働だから、一作書き上げるには傍から見てとても頭が悪い内容に見えても、それなりに労力は使うものです。

「こんなん俺でも書けるわ」程度の内容でも、書き続けられるという時点でその人は凡人から頭一つ抜け出ているのです。

凡庸なことも、毎日続けるのは非凡な人

ダイエットにしたって、1時間ウォーキングするとか、朝食を飲み物だけにするとか、筋トレするとかの行為を1日だけに限定すれば「そんなん俺だってできるわ」ですよ。

でも、それを毎日やり続けられるか?と言われればやはり話は違う。

凡人でも可能なレベルのことであっても、それをやり続けられるということがすでに非凡なんです。

 

ヒカキンの動画だって、見てて大爆笑できるようなレベルってわけじゃないですよ。

瞬間風速レベルなら、彼より面白い芸を見せられる人はいくらでもいるかもしれない。

でも、あのレベルでコンスタントに動画を作り続けられるかと言われれば、大抵の人には無理でしょう。

動画をアップすれば誰でもユーチューバーにはれるけど、ユーチューバーであり続けることは誰にでもできるわけではない。

 

ダイエットと同じように、小説にだって誘惑は多いですよ。

まず、貴方がまだアマチュアだと仮定して、小説を書かなくたって別に誰も困りはしない。

小説を書く時間はもっと楽しいことにも使える。ネットなりゲームなりどこかに遊びに行くなり。

 

しかも、モチベーションってだいたい書き始めた時点がマックスで、後はだんだん落ちていく一方です。

ウェブ小説ならうまい具合にランキングに乗るなりしてポイントがたくさんついたらモチベーションが上がるだろうけど、当然そうならないことも多い。

書いても書いても何の反応もないと、もう一人の自分が執筆の邪魔をしてきますよ。

 

「こんなもの書いて何になるの?」

「オレって何の才能もないんじゃないか?」

「こんなことする時間をもっとマシなことに使えるだろ」

 

これらの「もう一人の自分の声」に打ち勝つことができた人だけが、作品を完成させることができます。

完成させたところで誰も褒めてくれないかもしれないし、感想欄で批判されて心が折れるかもしれない。

それでも自分で自分を励まし、奮い立たせるメンタルの強さと知的体力を持つ人だけが次のステージに進むことができます。

 

多少才能があったところで、とにかく書き続ける体力がなければ何の役にも立ちません。

良いものを書いても注目されるとは限らないからです。

当たるまで書き続ける気力体力がある人だけしか日の目を見ることはありません。

「こんなの俺だって書ける」は、立派な執筆の動機

結局この手のことって、傍から見た「できそう」と実際に「できる」ことの間に一万パーセクの距離があるんです。

「こんな文章、俺だって書ける」と言っている人は、実際にそうやって腐している小説よりもいい文章を書けるかもしれないし、才能だってあるかもしれない。

 

でも問題は、結局実際にやるかやらないか、なんです。

今読んでいるその駄文を書いている作者は、少なくとも最後までその作品を書ききった。

文句を言っている人は書いていないからこそ、文句を言う側にいる。

読んだ人には作品に文句を言う権利があるけれど、それでも本を一冊上梓するというのは、やはり、それなりのことだと思う。

 

田中芳樹は著書の中で、「小説を書くのには二つの動機がある。ひとつは良い小説を読んでこういうものを自分も書きたいというもの。もう一つはひどい小説を読んでこれなら自分が書いたほうがマシだというものだ」と語っています。

「こんなん俺だって書けるわ」だって、小説を始める立派な動機になるのです。

 

しかし、もし本当に「俺だって書ける」と思っている人は、すでに書き始めているでしょう。

それをしない人はもともとあまりやる気もないのだろうし、その時点で実は「誰でも書ける」わけではないということの証明になってしまいます。

やる気が出ない時点でその人はすでに「書けない」側の人間だから。

やればできると言われても、実際にやらないことが問題なのだから、潜在的に能力はありますと言われてもどうしようもない。

 

saavedra.hatenablog.com

才能というのは、「この自分を世に出したい」というところまで含めた能力のことだと僕は思っています。

周囲の字書きの方達を見ていても、ほぼ全員が「進捗できる人は偉い」と言っています。

いくら優れた能力が眠っていても、実際に書かない限りその能力が表に現れることはないし、出力された結果がダメであっても、質を高めるのはまず量をこなさなくてはいけないことも皆知っています。

 

だから結局、いちばん大事なのは進捗できる体力なんです。

潜在能力があるかどうかなんてことは二の次三の次に過ぎない。

一部の天才を除いて、生まれ持った能力なんてそんなに差があるわけじゃないですから。

 

もちろん、ネット小説なんて書かなくても何の問題もありません。

別に書き上げたからといって世間的に褒められるようなものでもないし、それこそ元増田のように「こんなん誰でも書けるわ」と言われるくらいが関の山かもしれない。

しかしだからこそ、最後まで作品を完成させる力は貴重なものだと感じます。

作品を書くということは、「批評する側」から「批評される側」になるということであり、今まで自分が人の作品に対して言ってきたことを言われる立場になるということです。

 

それ自体は作者の宿命であり、どうすることもできません。

しかし、そのようなリスクのある場に身を晒す、という時点で、すでにその人はその他大勢から頭一歩抜け出ているし、ステージに上る勇気はあるということです。

その結果生まれたものが駄作としか言いようのないものであっても、多くの人はまず作品を完成させるところまでたどり着けない。

「こんなの誰でも書けるよね」と言われるくらいに衆目を集める事自体が実は得難いことで、そう言われる作品の影に、何十倍何百倍もの「何も言ってもらえない作品」があるのです。

わざわざ増田にエントリを書かせるくらいに影響力のあるウェブ小説がこの世にあるとするなら、それはやはり「誰にでも書けるものではない」ということです。

 

ウイリアム・ウォレスはキルトを着ていなかった。『スコットランド 歴史を歩く』

スポンサーリンク

 

 

スコットランド史の本はなかなか見かけないのでこの本は貴重。

この1冊があれば、あまり知られることのないスコットランドの近世の歴史を学べます。

岩波の歴史系新書の中でもこれはかなりの「当たり」で、女王メアリとノックス、宗教改革、タータンとキルトの起源やグレンコーの虐殺事件などなどこの本で初めて知ったトピックが多く、スコットランドに少しでも興味のある方なら面白く読めるのではないかと思います。

 

私、スコットランドの歴史と言われても、思い浮かぶことが『ブレイブハート』しかありません。

バノックバーンの戦いでイングランドを破った闘将ウイリアム・ウォレスの活躍は、スコットランドでは数少ないイングランドへの勝利として長く記憶に残っています。

 

そのウォレスが映画の中で身に付けていたのがあの有名なキルトなわけですが。

スコットランドと言えばキルトと言えるくらい有名なあの民族衣装、本書によるとどうもかなり後に成立したものらしいのです。

 

たとえば、あのキルト 男のはくあのひだ付きの膝丈のスカート は今日では代表的なスコットランドの民族衣装とされているが、古代・中世に起源を遡る古い歴史はない。たかだか18世紀初めにハイランドの森の作業場で、必要から生まれた作業着にすぎない。それが19世紀初めの民族衣装ブームの間に上・中流階級の間に広まり、急速に古来の民族衣装に昇格したというのが事の真相なのだ。

 

ということは、『ブレイブハート』でメル・ギブソンが身に着けていたキルトはフあの時代には存在しなかった……?

あくまであれはフィクションだとして見るべきなのでしょうね。

ちょっとぐぐってみると、ブレイブハートのWikiでもこの点についての指摘がありました。

 

ブレイブハート - Wikipedia

 

 この映画では、ウォレスに従うローランダーたちがキルトを着けているが、普通ローランドではキルトは着けない上、そもそもキルトがスコットランドの民族衣装扱いされるのはもっと後の時代である。また、封建領主や貴族たちの武装も本来のものとは違っていた(足を守る防具を身に着けて、特別に交配された軍馬に乗っていたはずである)。

 

スコットランドはハイランドとロウランドに分かれています。

ウォレスはロウランドの人物なのでハイランドの民族衣装を着るはずがない。

しかもキルトが成立したのはウオレスの時代から400年ほど後……

 

現実なんてこんなものでしょかね。

詰まるところ、キルトというのは「作られた伝統」のようです。

しかもさらに悲しいことに、本書ではキルトは実はイングランド人が発明したのではないか?という説も紹介されています。

ランカシャーの製鉄業者がキルトを作り、それを彼のパートナーの族長がハイランドに広めたのだとか……

 

時代のズレを日本で例えるなら、江戸時代の衣装を鎌倉時代からあったと言ってる位の感覚ですね。

外国の話なので大して気にしないですけど、これが日本だったら、事の真相がわかったらかなり問題になるんじゃないでしょうか。

 

そしてこのキルトの話の前章では「オシアン事件」について触れられています。

オシアンとはハイランドの古代史を翻訳したもので、3世紀ころにスコットランドで活躍したと言われるフィン王の物語なのですが、これは当時のヨーロッパの文学界に大変な衝撃を与え、ゲーテも『若きいウェルテルの悩み』の中で詩を引用するほどで、オスカー・ワイルドの名前もこのオシアンから取られています。

 

しかし、この詩を翻訳したというマクファースンにある疑惑が持ち上がります。

それは、オシアンは贋作ではないのか、というものです。

未開の国の奥地に、ホメロスにも匹敵すると言われた古代史など本当に存在していたのか?

オシアンを熱烈に愛好していたナポレオンですら、この詩が本物だとは信じていなかったようです。

 

結局、後世の調査ではオシアン詩は存在していたものの、マクファースンは原作にかなりの修正を加えたりオリジナルのエピソードを足して公開したというのが真相のようで、贋作とは言わないまでもとうてい「翻訳」と言えた代物ではないようです。

 

そこまで文学的才能があるのなら、オリジナル作品として発表したほうが良かったんじゃないでしょうかね……

結局、フィンガル王の話もまた「作られた伝統」でした。

このように、本書で語られるトピックはどうも悲しくなるような話が多いのです。

ノックスの宗教改革で文化が破壊されルネサンスの良さが奪われてしまったり、ウィリアム3世の策略でハイランドの氏族が虐殺されるなど、気が滅入る話が繰り返されます。

 

このように政治的にはなかなか安定しなかったスコットランドではありますが、優れた文化人を多く産んでいることも書かれています。

貧しい小国だった割に15世紀から大学が3つも存在し、どんな身分でも才能のある者は地主や教区が支えて大学まで行かせるシステムが出来上がっていました。

輩出した人材はアダム・スミスやヒューム、スティーブンソンなど。

 

本書でざっとスコットランド史を眺めた感じでは、スコットランドは優れた人材は多いし教育システムも整っているのに、あまり政治には人を得ていなかったのかなと。

もっとも、世界一老獪な国家であるイングランドが隣にあっては苦労するのも当然かもしれませんが。

 

「痛みを知ると人に優しくなれる」とは限らない。

スポンサーリンク

 

 

ただの「近親憎悪」では片付けられない話

先日、ツイッターのTLをこういう文言が流れていった。

 

「女性が兵器になるようなゲームで遊んでいるような連中が、戦争を起こす」

「こうして女の子を支配したいという欲求が、人を他国への侵略へと駆り立てる」

 

何の話かよくわからなかったが、そのツイートに添えられていた画像を見る限り、ブラウザゲームによくある女の子が兵器になって戦うタイプのゲームのプレイヤーのことを指して言っているらしい。

少女を兵器に見立ててゲームの中で戦争をするような輩は、ヴァーチャルな世界の中でおぞましい征服欲や支配欲を満たしているのだろう……という話だ。

 

これだけなら、単に世間によくある偏見ということで話は済む。

一々相手にするほどのものでもない。

だが問題は、この話をしていた人達の属性だ。

これらの批判をしていた人達のアイコンは、ロボットや怪獣の姿だった。どうやら彼等は特撮ファンらしいのだ。

彼等のうちの一人は、こういうことも言っていた。

 

「俺のPCにも怪獣の画像が沢山保存してあるけど、こういう現実と二次元の女性が区別できない輩とは違うぞ」

 

特撮ファンである彼等は、決して「世間」の側に立つ人達ではない。

むしろ彼等だって、「いい年して子供が見るものに夢中になるなんて」といった世間からの偏見に晒される側だったのではないかと思う。

そういう人達でも、時にこうした偏見を、他の属性を持つ人達には向けてしまう。

 

彼等が展開していたような「美少女ゲーム」に対する批判は、そのまま特撮に対しても適用可能だ。

「怪獣に街を破壊させるのは、容易に他国への征服欲へつながる暴力衝動の現れ」

「怪獣退治に活躍するのは自衛隊などの国家権力であり、これは体制礼賛につながる」

などというこじつけだっていくらでも可能だし、後者に関しては実際に言っていた批評家もいる。

特撮ファンだって、決して安全な位置から物を言える立場ではないのだ。

 

お断りしておくと、特撮ファンが皆こういう人達だといいたいわけではない。

彼等がたまたまそういう人達だったと言うだけだろう。

特撮を楽しみつつ、女の子が兵器になるようなゲームを楽しんでいる人達も多いはずだ。

 

だが、中にはこういうことを言う人もいる。

社会から偏見の目を向けられてきた人が、他の人達に対しては世間と同じ視線そのものを向けて露骨に軽蔑してみせることもある。

迫害を受けてきた人同士だから仲良くできるとは限らないのだ。

「痛みを知ることで、人は優しくなれる」が、時に綺麗事でしかないということもある。

同じ属性を持つ人になら優しくなれるかもしれないが、差別や偏見にさらされてきた人が、別カテゴリの人には容赦のない罵声を浴びせてしまうことも決して珍しくない。

むしろ自分に近い属性にこそ厳しくなる、ということもままある。

 

「あんな連中とは違う」という処世術

僕自信が「世間一般」の立場を理解しているわけではないのだが、オタク文化などよく知らない人からしてみれば、特撮ファンも美少女ゲームが好きな人達も、似たようなカテゴリに放り込まれているのではないか?とは思う。

彼等自身の認識でいえば、自分達は「硬派な特撮ファン」であって、少女を兵器に見立てるような連中とは違うと言いたいのだろうし、事実違うのかもしれないが、周囲もそう見てくれるとは限らない。

 

だからこそ、「自分はあんな連中とは違う」ということを強調する必要があるのではないだろうか。

完全に別ジャンルだとみなされているのなら、わざわざ「違う」と言う必要はないのだから。

世間からの偏見に晒されてきた人は、時に世間に対して自分の趣味の正当性を証明する必要に駆られる。

見下されがちなカテゴリに身を置いている人ほど、自分は偏見を向けられるような人間ではないことを示さなくてはいけないということだ。

 

そのときに持ち出されるのが、「あんな連中とは違う」なのではないかと思う。

美少女ゲームを遊び、他国への支配欲や侵略欲を募らせる不気味な連中」というモンスターを作り上げ、「自分はそんな連中とは違う」と言い募ることで、「正しい趣味人」になれるし、仲間内での自尊心も満たせる。

偏見に晒されがちな趣味を持っているからこそ、自分達よりも倫理的に劣った他者をカテゴライズし、これを叩くことによって、自分達が「正しい」存在であることを示さなくてはいけない、といった考えを持つことはあり得る。

現実は『ペイ・フォワード』の逆バージョン

 

ペイ・フォワード』という映画がある。

 この作品が伝えているのは、「世界を変えたいと思ったら、他人から受けた善意を別の他者へと回していくことだ」というメッセージだ。

恩を返すのではなく、恩を別の人に送る。

そのことで、世界はよりハッピーになっていくはずだ――という一つの理想論だ。

 

綺麗事に聞こえるし、事実そうなのだが、この映画の結末はただの理想論では終わっていない。

このラストには賛否両論あるだろうが、自分としてはこれでよかったのではないかと思う。

本当にこの理想論が理想のまま終わってしまったら、それはそれで現実離れしすぎているからだ。

 

この世で起きていることの多くは、この『ペイ・フォワード』の逆バージョンだ。

他人から悪意を受けたら、その悪意をより弱い立場の人間に回す。

狭い空間に閉じ込められた鶏が、順番により弱い個体を突付くように。

自分を突付いた人を突き返せるような強い人ばかりではない。

自分より弱い立場の者を叩くことで「世間」というさらなる強者から身を守るというのも、ある種の人達が生きていく中で身につけた処世術なのだろう。

 

そのような人がいる一方で、自分と同じように世間から痛めつけられてきた人に優しい視線を向けることができる人もいる。

世の中から冷たくされて他者に優しくなれる人と、世の中の論理を自分の中に取り込んでしまい、他者に攻撃性を向ける人との差は何だろうか?

そのことに対する明確な答えを、自分はまだ持っていない。

「この世にいない者」として扱われたかった人もいる。綾辻行人『Another』

スポンサーリンク

 

 

綾辻行人館シリーズしか読んだことがなかったが、どちらかというと本格ミステリよりもこういうホラーというか、超常現象を含んだ内容のほうが好きだ。

というわけでこの『Another』、最後まで非常に楽しめた。

3年3組を包んでいる「死」の秘密が最後までわからないところもかえって余韻を残すし、こういうのはむしろわからないほうが読者に想像の余地があっていいのではないかと思っている。

 

しかし僕が本作を読んでいてずっと考えていたのは、そうした謎解きの部分ではなく、この作品で主人公が受ける「いないもの」としての扱いについてだった。

3年3組に取り付いている「死」を防ぐにはどうすればいいのか?

主人公の転校してきた夜見北中学3年3組では、何故か毎年多くの人死にが出る。

生徒だけではなく教師や生徒の二親等以内の人間までが死に巻き込まれる。

そんな事態が26年も前からずっと続いている。

 

3年3組における連続死は、まずこのクラスの人数が知らぬ間に一人増える、というところから始まる。

増えたことだけはわかるが、増えた一人が誰なのか、なぜか誰にもわからない。

増えた当人ですら、自分が本来はそこにいない人間だと気付いていない。

しかし、増えたということだけはわかる。その時点から毎月、3年3組の周囲では次々と不自然なほどに死ぬ人物が増えていく。

 

そのようなことを繰り返しているうちに、次第にこのクラスから人死にを出さない方法が編み出されてくる。

その方法というのが、クラスの中のある人物を「いないもの」として扱うという方法だ。

不自然にクラスの人数が一人増えてから連続死が始まるのだから、それを防ぐためには誰か一人をこの世に存在しない者として扱えばいい。

そのために、主人公が転校してきた時点で、すでに「いないもの」として扱われている人物がいた。

それがヒロインの見崎メイである。

 

「この世に存在しない者」として扱われるということの自由

ストーリーが進むと、主人公はある事情からメイとともに「いないもの」としての扱いを受けることになってしまう。

「いないもの」に認定されると、その名の通り、誰もその人物には話しかけてこない。

この世に存在しない人間なのだから、教師も授業中に指名したりすることはない。

皆にその存在をスルーされてしまうことになるのだ。

 

授業中に外に抜け出したり、遅刻したりしてもそれを咎められることはない。

この世に存在しないはずの人間なのだから、「いないもの」を注意してはいけないのだ。

「いないもの」認定された人間は3年3組の教師やクラスメイトと合意した上でその役割を引き受けているので、教師も嫌な役割を押し付けたという負い目から好きにさせているということもあるのだろう。

 

ある意味クラス全体からシカトされているのと同じ扱いなのだが、これは悪意によるいじめとは異なる。

あくまでクラスに降りかかる惨劇を防ぐための仕方のない措置なのだ。

この「いないもの」としての扱いを当然、主人公もいいとは思っていないのだが、慣れてくるとそこにある種の「自由」を感じるようにもなっていく。

 

授業を抜け出してメイと会話することもできるし、図書室で調べ物をすることもできる。

体調が理由で体育の授業はいつも見学だが、律儀に見学していなくても文句は言われない。

彼に話しかける者もいないが、邪魔する者も誰もいないのだ。

自分としても読んでいて、主人公の享受している「いないもの」としての立場が、少し羨ましくなった。

もっとも、そんなことをしている間にも次々と死ぬ人物が増え続けているのだから、本来は羨ましいなどと言えるものではないのだが……

 

皆から存在しない者として扱われるということは、クラスの派閥や人間関係のしがらみから完全に自由でいられるということでもある。

それは人付き合いの好きな者からすれば地獄のようなものかもしれないが、これは生徒の個性によってはある種の「救い」をもたらすものではないだろうか。

何しろ「いないもの」に認定されれば、空気扱いとなるが、積極的に迫害を受けることもないのだ。

むしろこの立場を、積極的に選べるものなら選びたい人だっているのではないか?

ヒロインの見崎メイもまた、人付き合いに煩わしさを感じるという性格から、ある程度自主的に「いないもの」としての役割を選び取ったような風がある。

 

あの頃、私達は一人になりたかった

実はこの点が、この作品の隠れた魅力にもなっているのではないかと思う。

思春期とはとかく感情が過剰になりやすい時期で、それだけに人付き合いの摩擦も大きい。

自分の中学時代を振り返っても、とかく感情が逆立つことが多く、部活動での人間関係にいつも疲弊していた。

一人になりたい、と思っているのに、一人になれる場所は校内にはどこにもなかった。

 

ところがこの作品では、皆が自分のことを「いないもの」として扱ってくれるのだ。

「いないもの」になれば、人間関係の軋轢からも、教師の圧力からも完全に解き放たれる。

学校生活におけるストレスの原因から自由になれるのだ。

こちらに干渉してくる者もなく、面倒事に巻き込んでくる者もいない。

この透明人間のような生活に、密かに憧れる人は少なくないのではないだろうか。

 

もちろん、主人公が「いないもの」としての生活をそれなりに享受できているのは、見崎メイという対話の相手が存在し、二人の間にある種の甘やかな共犯関係が結ばれているからでもある。

しかしそうした関係性がなくても、時に「いないもの」として扱われたいという人だっているはずだ。

自分の存在が多くの圧力に晒され、生き辛いと感じている人なら特に。

 

「関係性の死」が人を自由にする

主人公や見崎メイが味わっている境遇は、いわば擬似的な「死」だ。

人間は社会的動物なので、関係性から切り離されることでその人物は社会的には「死ぬ」。

 

しかし、人間を殺しにかかるのもまた関係性なのだ。

虐めがその極北だが、人間関係における過剰な軋轢は時に人の命まで奪う。

そうなるくらいなら、いっそ社会的な関係性を一切断ち切り、「いないもの」になりたい、という願望が芽生えても不思議ではない。

虐められて死にたいと考える人は、生命体として死にたいわけではない。

そのような関係性から自由になりたいのだ。

そこまで行かなくても、人は時にいつも身を浸している人間関係をリセットし、あらゆる関係性から解き放たれてみたくなる。

この作品の底にたゆたっている不思議な魅力は、そうした願望を叶えてくれるところから生まれてくるものではないだろうか。

 

 

たまに都会に旅行に行くと、この中に自分を知っている人が誰もいない、ということに心底ほっとすることがある。

群衆の中に紛れることで、人は匿名の存在になり、ただの無個性な個としてそこに埋没することができる。

普段のしがらみが多ければ多いほど、そこでようやく息をつけるような気分になれるような気がする。

大袈裟にいえば、人は時折関係性から自分を切り離し、社会的に死んで見せることで、ようやく生き返ることができるということかもしれない。