明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

けものフレンズ7話感想:己が何者か知りたがることがフレンズが「ヒト化」している証拠?

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図書館の「博士」の正体はオフリカオオコノハズクワシミミズク

動物クイズの看板を作れるということは、フクロウには文字が読めるということですね。サーバルには読めない。

クイズに全問正解してようやくたどり着いた図書館。

 

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知恵の実をかじったという比喩。

フクロウたちが文字が読めるのはなぜなのか……?

 

罠を仕掛けてかばんちゃんが文字を読めることを知った博士は料理をつくるように指示します。

ヒトなら道具を使えるはずだという予想からです。

かばんちゃんは虫眼鏡で太陽光を集めて火をおこし、見事にカレーを作ることに成功。

フクロウたちとサーバルは火を怖がる。

出来上がったのは野菜カレー。肉は入っていない。

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カレーに満足した博士と助手は、かばんちゃんが「ヒト」であることを教えます。

この後、重要な情報が次々と提示されています。

 

・フレンズは動物がヒト化したもの

・ヒトはある日を境にいなくなった(絶滅した?)

・ヒトに合わないところに住んでいると寿命が縮まる

・他のフレンズは自分が何の動物かを知ったら大喜びする

・ヒトの近くにはセルリアンがいる

 

などなど。

特に重要なのは「フレンズは動物がヒト化したもの」でしょう。

フクロウが文字が読めるのもヒト化しているからだし、サーバルはじめ他のフレンズが言葉を話しているのもヒト化しているからです。フレンズの姿は単に動物を擬人化しているのではなく、本当にああいう姿をしているということです。

 

各フレンズはそれぞれの動物の特徴を残しながらも、ヒト化している。

だからヒトであるかばんちゃんともコミュニケーションを取れるというわけですね。

ライオンがかばんちゃんを食べたりしないのも、そういうことでしょう。

ペパプのようなアイドルが存在するのもヒトの行動を模しているから。

 

そもそも図書館に自分が何のフレンズか知りたくてやってくるフレンズがいるというのも動物がヒト化している証拠ですよね。

「己が何者か知りたがる」これは人間の特徴そのものなので。

ただの動物は自分探しをする必要はない。

 

では、そもそも動物をヒト化させたのは誰なのか?

普通に考えればそれが可能なのは人間なのですが、その目的は何なのか。

もし本当に人間が絶滅しているなら、この世界の環境に適応できなくなったヒトが、動物をヒト化させて何とか種の保存を図ったということなのか……?

 

博士の言葉からは、まだヒトが滅びてしまったかどうかは確定できません。

かばんちゃんが生き残っているからには、どこか他の地方で生きていることも考えられます。

ヒトの謎に迫ることが物語後半の鍵になりそうです。

 

ここで1話を思い出してみると、かばんちゃんは狩りごっこをしているサーバルから逃げ回って「食べないでください!」と叫んでいます。

フレンズのライオンはヒト化しているので、かばんちゃんを食べたりはしない。

しかし、かばんちゃんには「ヒトを食べる動物もいる」という知識があります。

これはどういうことか?というと、ヒト化する前の動物の姿をかばんちゃんは知っているということでしょう。

かばんちゃんはジャパリパークができる前から生きているのでは?

 

その辺はおいおい明かされていくでしょうが、このアニメは基本ゆるいノリで進んでほしいので、あまり深刻な真実が開示されることが無いように期待したいところです。

ところで、このフレンズっていつ出るの?

 

『パスタでたどるイタリア史』感想:パスタとイタリアの歴史を両方楽しめる贅沢な一冊。

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岩波ジュニア新書には名著が多い

岩波ジュニア新書って名著の宝庫なのでは?と最近思っています。

『砂糖の世界史』なんてその典型ですが、各ジャンルの一流の著者が中学生くらいの読者を想定して書くので読みやすく、しかも水準は一切落としていないものが多くあります。だから大人が読んでも楽しい。

 

さてこの『パスタでたどるイタリア史』ですが、この切り口でイタリア史をたどることが本当にできるのか?と思ったんですが本当にそれを可能にしています。

現在のものとは違いますが、古代ローマの時代からイタリア人は「パスタ」を食べていているので、時代とともにパスタのたどる変化の流れを追っていくことで自然とイタリア史を語ることが出来てしまうのです。

食の歴史とイタリアという地域の歴史が見事に融合しています。

古代ローマから始まる「パスタ」の歴史

パスタの起源は古代ローマで、最初は小麦の練り粉を焼くか揚げるかして蜂蜜や胡椒で和えて食べていました。この時点では茹でたり蒸したりする水との結びつきはまだありません。この「パスタ」ですが、これがゲルマン人が侵入してくることで一旦衰退してしまいます。

「狩猟民族」であるゲルマン人は肉を食べることにアイデンティティを持っているため、鹿や猪、ノロジカなどの肉料理が多くテーブルに並ぶことになり、パスタは料理としてはしばらく忘れられた存在となっていきます。著者に言わせると、パスタは「古代ローマという高度な文明の果実」だったようです。

 

パスタが復活するのは13世紀末ごろのイタリアで、この頃からパスタはローマ時代のような小麦を油で揚げたり焼いたりしたものではなく、現在のような水と結合したものになっています。大事なことはここでパスタとチーズを合わせて食べる料理法が始まったことで、これが栄養学的にも炭水化物+脂肪となるので優れたものになりました。

 

興味深いのは、乾燥パスタの起源はアラブであるという説もあるということです。

アラブは乾燥した砂漠地帯で荷物を運ばないといけないので、乾燥パスタが生まれたということです。

アラブの文化がイタリアに入ってくるのは、特にシチリアが一時期イスラムの領土だったこともあり、この地は異文化との文化交流が盛んだったからです。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の軍隊にもイスラム教徒の部隊がありました。

イタリア南部が「辺境」であり文化の交差点に存在することで生まれた食文化も存在するということです。

大航海時代が産んだイタリア料理

さらに時代が下ることで大航海時代を迎え、新大陸から重要な食材がもたらされました。パスタに欠かせない唐辛子とトマト、そしてじゃがいもです。

トマトはしばらく観賞用でなかなかパスタソースとしては普及しませんでしたが、唐辛子はすぐにパスタには欠かせないスパイスとなりました。じゃがいももまたニョッキを作るのに必要です。じゃがいもは今後多くの地域で飢饉を防ぎ、人口を増やすのに貢献していますが、新大陸の食材はイタリア料理の基礎をつくる上でも極めて重要でした。

 

さて、イタリア料理といえばトマトです。

なぜ、トマトが重要な食材となったのか?というと、ナポリでトマトソースをいろいろな料理に利用する料理人が多数輩出し、パスタとも結びつくようになったからです。

ナポリはもともと15世紀に人口が急増し、これに肉の供給が追いつかないのでパスタが市民の胃袋を満たす食品として食されていたという歴史がありました。

ナポリでもパスタと一緒に食べられていたのはチーズでしたが、トマトソースの誕生により、ナポリはパスタ業の中心地としてその名を知られていくことになります。

アメリカで非難されたイタリア移民のパスタ

この後、パスタは順調に発展して世界的に有名な料理の地位を獲得することになったのか?というと、実はそうではありませんでした。

近代化の過程において、パスタは一度危機に見舞われています。

 

パスタの強力な敵として台頭してきたのは、アメリカでした。

 19世紀に入ってもイタリア南部の農民は貧しく、多くのイタリア人が移民としてアメリカに渡りましたが、アメリカではイタリア人は激しい差別を受け、その中でパスタもまた蔑視される食べ物となってしまいました。

19世紀末ごろからアメリカは自由と平等を実現した先進国としてイタリアからも仰ぎ見られる存在でしたが、そのアメリカではパスタはなかなか受け入れられず、しばらくは肉料理の付け合せとしての地位に留まっていたのです。

アメリカのソーシャルワーカーはイタリア移民の家庭に入り込み、パスタは栄養に乏しいとしてアメリカの食文化への同化を求め、学会誌では専門家がイタリア移民の食事を攻撃しています。

 

しかも20世紀初頭には、前衛芸術運動の中で生まれた「未来派宣言」において、パスタはイタリア人のモラルを堕落させる悪であるとして攻撃対象になってしまいました。ムッソリーニもパスタはイタリア文化の遅れの象徴として嫌っていたそうです。

しかし結局この運動もパスタを駆逐することはできず、結局全世界に浸透するに至っています。思想などで食生活をコントロールするなど不可能なのでしょう。

パスタはなぜ日本でも受け入れられたのか

順番が前後しますが、本書では最初の章で日本における麺類の歴史とパスタの浸透について簡単にまとめられています。

日本には長きにわたる麺類の食文化があり、1200年台にはまずそうめんが中国から伝わり、後に南宋からはうどんの元になる切麦が伝わっています。

江戸時代には蕎麦も普及し、江戸の飲食店の6割以上がうどんや蕎麦などの麺類の店だったとも言われています。

 

このような土壌があるため、日本では一種の「国民食」としてパスタが定着したと本書では書かれています。

一時は栄養に乏しいとして学者にすら批判され、イタリアの堕落の元とまで言われたパスタは見事な復活を遂げ、東洋の島国にまでたどり着きました。

結局、インテリがどう言おうが、美味しいものには誰も勝てない。

食文化の持つ底力について考えさせられる一冊です。

綾辻行人『Another エピソードS』感想:さらなる続編はあるのか?

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今回は前作とは打って変わって賢木晃也の「幽霊」の立場から物語は紡がれる。

正直に言って、この内容は肩透かしだった。

Anotherの続編だと思っていたのだが、これはスピンオフと言ったほうが正確だ。

見崎メイは出てくるが、この物語は夜見市の「外」の物語だからだ。

 

なので、作中では夜見中学3年3組の「死のシステム」については何も語られない。

Another世界での謎は謎としてそのまま残されたままだ。

この作品でその点について語られるのかと思っていたが、そこは何もわからないまま物語は進む。

 

というより、この話自体は夜見市の外で展開されているため、夜見中学3年3組の「死のシステム」とはリンクしつつも、作中で展開される「謎」自体はそれとはあまり関係のないものとなっている。

事の真相には結構驚いた。

だが、京極堂の言葉を借りれば、「不思議な事は何もない」。

この物語における謎には、超常現象的なものは一切絡んでこない。

 

この作品単体として見るならば、それなりに面白いミステリとして成立しているのではないかと思う。

しかし、Another本編にあったような、理不尽に人が次々と死んでいく緊張感やスリルをこの作品に求めるとそれは外れる。

死者は一人しか存在しないからだ。

登場人物も、メイを除いてあまり魅力的とは思えない。

Anotherの千疋のようなキャラクターが存在しないのだ。

 

ただ、Another本編にはないが、この作品にある味もある。

それはある種の哀愁だ。

夜見市の「死」が外にまで漏れ出しているのは、「死」がある意味伝染する性質を持っているからだ。

アイドルが自殺すると後追い自殺する者が出るように、夜見市の惨劇もまた、外部の人間までも死の縁に引きずり込んでしまう。

こんな風にしてまでも、時に人は人と繋がりたいと思ってしまうことがある。

ここにあるのは恐怖ではない。どこまでも人間的な哀しみだ。

 

Another本編ではすでに夜見中学周辺での連続死が止まっているため、続編を書いたとしてもあの緊張感をもう出すことはできないから、Anotherの世界を書くならこうした「外伝」の形として書くしかなかったのではないかと思う。

もう一度あの惨劇を描くなら、何年か経った後の世界にするか、あるいは夜見市とは別の土地で同じようなことが起きるようにするか。

 

そのへんはわからないが、あとがきを見る限り、これが発売された2013年の時点では綾辻行人氏にはさらなる続編を書く気があったようだ。

Anotherの初出版が2009年で、AnotherエピソードSの出版が2013年。

さらなる続編があるとしたら、発売は今年辺りなのだろうか?

それがもし書かれるなら、今度は夜見中学3年3組を取り巻く死の真相に迫る内容を望みたい。

 

読まれる記事を書くために必要なのは文章力ではない。

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熱意や文章力が読まれるかどうかの決め手ではない

あまり読まれることに貪欲とはいえない僕のような人間でも、時には「こういう文章が読まれる」「人の心を惹きつけるのはこんな文章だ」といった記事を読むことがあります。

アクセスを増やしたいから、というよりは他の人の文章に対する考えを知りたいからですが、「どうすればブログを読んでもらえるのか」と言うことを考えるときに、まず文章力から入るのは何か違うのではないか、という気持ちがあります。

 

このブログも一年以上続いているわけですが、最初は創作論に関する記事を多く書いていました。

それらの記事はほとんど読まれていません。

自分用にまとめた内容なので読まれなくても特に困りませんが、興味のあることを書いているので、それなりに熱は入ってはいます。

 

「読まれたければ熱意のこもった文章を書け」というアドバイスがありますが、こと「読まれるかどうか」に関しては、熱意を込めて書いているかどうかはあまり関係ないのではないか、というのが今までの経験から得た結論です。

このブログで比較的読まれた記事はアドラーの『嫌われる勇気』についての記事や、『ローマ人の物語』についての記事などがありますが、これらの記事を他の記事より熱心に書いたつもりはありません。

創作論に関してはもっと熱心に書いていると思いますが、それでも読まれていないのです。

魚のいない釣り堀で釣り糸を垂れても、読者は釣れない

では両者の差は何なのかというとそれは簡単なことで、単に創作論などよりローマ人の物語や嫌われる勇気について関心を持つ人が多いということでしょう。

文章力や熱意以前に、「どのジャンルで記事を書くか」で9割方勝負は決まっています。

 

似たようなジャンルで記事を書いている人との差別化には文章力や熱意が大事かもしれません。

でも、そもそも需要のないことでいくら情熱的な文章を書いても、そのことがそれほど読まれるかどうかに影響するとは思えないのです。

 

文章力というものを魚を釣り上げる能力に例えるとすれば、まずは魚のいる場所に釣り糸を垂れなければ意味がありません。

どんな釣り名人でも、魚が一匹もいない釣り堀で何時間粘ろうが何も釣れません。

逆にいえば、魚がたくさんいて釣り人が少ないブルーオーシャンを見つけられれば、釣りが下手でも魚はたくさん釣れます。

saavedra.hatenablog.com

このブログで一番読まれた記事はウメハラの講演会についての記事ですが、これは別に文章力があるから読まれたのではなく、ウメハラのネームバリューと講演会が話題になったタイミングに合致した結果だと思っています。

 

僕の知っているウェブ小説に、小説家になろうでは全く鳴かず飛ばずだったけれど、カクヨムに移したら途端に話題を呼び、最終的には書籍化までされた作品があります。

内容は全く変えていないのだから、変わったのは文章ではありません。

なろうという場には合っていなかった小説が、カクヨムの読者の需要には合ったのです。

 

なろうで需要のないタイプの小説を、なろう内で連載しつついくら文章をブラッシュアップしたとしても、ブレイクすることはほぼ不可能だったでしょう。

これなども「どう書くか」より「どこで書くか」の方がはるかに重要であるということの一例です。

 

fujipon.hatenablog.com先日、このような記事を読みました。

ここに書かれていることはブログにも応用できると思うので、一部引用します。

 職業選択の際に、誰もが気にする自分自身の将来の年収について。実はこれは職業を選んだ時点でだいたい決まっているのです。それは選んだ職業の年収が一定の幅で決まっているからです。「え? ホントかいな!」と思う人もいると思いますが、市場構造が一定であるならば、その市場にいる人の収入も「ある一定の幅」で決まってしまうのです。
 例えば、あなたがうどん屋の主人になったとします。競争力のあるうどんの単価、店舗のキャパシティー、原材料費、店舗にかかる諸費用、従業員人件費など、それらの相場は好き勝手にコントロールできないことがほとんどで、市場構造やビジネスモデルによってあらかた決まってしまっているのです。

これはブログに置き換えるなら、どれくらいアクセスを集められるかは、その記事のジャンルにどれくらいの規模の需要があるかでほぼ決まる、ということでしょう。

需要のないジャンルで記事を書くことを選んだ時点で読む人がいないし、そこを文章力でひっくり返すことが果たして可能なのか?

プロなら、マイナーなジャンルのことも面白そうに記事に書け、読者も呼べるのかもしれません。

でも、素人である1ブロガーには難しいでしょう。

そんなに面白い文章が書けるなら、そもそも何を書いたって皆読んでくれるだろうから。

 

記事は属人的に評価される

これ、あまり言うと身も蓋もなくなってしまいますが……

さらに言うと、読まれるかどうかに影響するのは、「誰が書いたか」という点ではないかと思います。

中年男性よりは若い女性、無名人よりは有名ブロガー、一般人よりは芸能人の書いた文章の方が読まれるでしょう。

それを知っているからこそ、とにかく炎上でも何でもさせて有名人になろうとする人がいるわけです。

世の中には有名な人が言っている、というだけで評価する人が一定数いるし、行列のできているラーメン店は美味しそうに見えるからです。

 

この部分は努力で変えようがないので、文句を言っても仕方がありません。

ただ、記事が読まれるかどうかは文章力以外の部分で左右されることが多いということは確かだと思います。

 

好きなことで記事を書いていれば自然と文章に熱は入るでしょうが、それが読まれることとは必ずしも結びつきません。

そのことに気づいた人達が、検索ボリュームを睨んで記事を書くようになっています。

 

エモくても読まれない記事と、気持は入ってないけどたくさんアクセスを呼べる記事はどちらがいいのか?

これに決まった答えはないでしょう。

しかし、読まれたいのであれば、まずは多くの読者が求めている話題はなんなのか、ということから考えたほうがいいのかもしれません。

最もその読者の需要というのも、たくさん書かなければ見えてこないものではあるので、言うほど簡単なものではないのですが。

 

「趙の三大天」李牧の兵法と冒頓単于についてのメモ

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史実でも名称だった李牧

キングダムでは趙の「三大天」の一人ということになっている李牧。

この漫画は1巻しか読んだことがないので作中での扱いはよく知らないんですが……

史記を読んでいてあることに思い至ったので、ここにメモしておきます。

 

三大天というものが実際に趙に存在したわけではありませんが、李牧が名将だったことは史実です。

李牧はもともと趙の北辺を守っていて、対匈奴戦の名手として知られていました。

戦国七雄の中でも北方に位置する燕・趙・秦は長城を築いて北方の民族から国を守る必要があったわけですが(秦の万里の長城とは、この元々存在した防壁を一つに繋げたものです)、匈奴の侵入に悩まされていた趙では李牧を北の守備に割かなくてはいけなかったわけです。

 

李牧は主に守りを固めるだけで、積極的に匈奴を攻めるということはしていません。

しかし、次第に李牧の姿勢を味方ですら臆病だと思うようになり、李牧は他の将軍と交代させられてしまいます。

趙軍は匈奴を攻めるようになりますが敗北ばかりで、李牧の時代とは違い辺境の民は安心して暮らせなくなってしまいました。

結局李牧は呼び戻され、匈奴を撃つことになります。

 

このときに李牧が採用した策は、囮を用いるというものです。

李牧は匈奴が攻めてくるとわざと敗走し、戦場に数千人を置き去りにします。

匈奴単于はその様子を見て大軍を率いて攻め込んできますが、李牧は左右から軍を展開して匈奴を攻撃し、十数万騎を殺すほどの大勝利を収めます。

 

李牧に大敗した匈奴は、以後十数年間趙に攻めてくることはありませんでした。

李牧のおかげで、趙の北辺は平和になったのです。

後に李牧は趙の大将軍となり、秦の桓騎を打ち破る大功を立てていますが、李牧が北辺から引き上げて大将軍になれたのも、もうしばらくは匈奴が攻めてくる危険がないと判断されたからではないかと思います。

 

なお、この後の李牧の運命は……これはネタバレになるから言わないほうがいいですかね。

キングダムと史実が同じ展開になるとは限らないですが……

 

李牧と冒頓単于の用いた兵法は同じ

李牧が死して二十年ほど経った時、匈奴に一人の英雄が現れます。男の名は冒頓。

周囲の民族を討伐し急速に勢力を拡大した冒頓は、やがて漢の初代皇帝・劉邦の率いる32万の軍勢を迎え撃つことになります。

 

この時の冒頓が用いた作戦は、弱兵を前に置いて漢軍を誘い込むというものでした。

敗走したふりをして後退を続けた冒頓単于劉邦は追いかけますが、結局白頭山において冒頓の軍に包囲されてしまいます。

窮地に陥った劉邦は、冒頓の妻に賄賂を送ってようやく包囲を解いてもらう有様でした。

史書にいう「平城の恥」です。

 

さて、このときに冒頓単于が用いた、囮を使って誘い込むという戦法なのですが。

これ、李牧が使ったものと大体同じです。

よくある戦法だと言われればそれまでですが……これは匈奴が李牧から学んだものなのでは?と個人的には思っています。

 

冒頓単于がこの作戦を使う以前には、匈奴が兵法らしきものを使った形跡はありません。

というより、そもそも冒頓以前の匈奴については情報量が少なすぎて、ほぼ何もわからないような状況です。

十数万騎も殺されたと史記に記録されるくらいですから、匈奴にとって李牧に敗北したことはかなりの衝撃だった事は間違いないでしょう。

匈奴はこの敗北から学んだのではないか、と思います。

冒頓単于白頭山において劉邦に対してやったことは、中華世界に対する数十年越しの復讐だったのかもしれません。

 

劉邦冒頓単于の作戦に引っかかってしまったのは、自分こそが中国を統一した男だということや大兵力を率いていることからの自信もあったでしょうが、恐らく劉邦は野蛮な匈奴が兵法なんて使うことはあり得ないと考えていたのではないかと思います。

冒頓は、そういう劉邦の油断を逆に利用したのでしょう。

結果として、劉邦は見事に冒頓の術中に嵌ってしまいました。

この後、漢王朝からは匈奴へ貢物を送って平和を維持するという屈辱的な時代が始まり、それは武帝匈奴に攻勢に転じるまで続くことになります。

人は、敗北からより多くを学ぶ生き物

かなり妄想混じりの話ではありますが、長いスパンで見れば、李牧の名采配が結果として匈奴を強くしてしまった、ということも言えるのかもしれません。

「英雄たちの選択」で、磯田道史さんは「人は成功よりも敗北からより多くを学ぶものだ」と語っています。

兵法を用いて戦う中華世界の人間と戦うには、自分達も兵法を理解することは必至だったでしょう。

 

趙という国家は武霊王が騎馬戦術を取り入れて以来の尚武の国で、李牧の他にも廉頗や趙奢などの名将を輩出した強国でした。

秦の名将である白起は長平の戦いで趙をさんざんに破り、史書には40万人の趙兵が穴埋めにされたなどと言われていますが、隣国の燕はこの戦いの直後に趙に攻め込んで返り討ちにされています。

趙とはそれほどの軍事大国でした。

 

この趙も征服してしまうのが秦です。

趙を上回る超大国が南に出現したことは、匈奴にとって大変な脅威だったでしょう。

秦により中華世界が統一されたことが、匈奴が民族としてまとまるきっかけだったと指摘する史家もいます。

 

匈奴は中国史上、初めて北方に誕生した強力な騎馬民族国家でした。

冒頓の父である頭曼単于の名は、史上初めて名前の記録されている単于です。

蒙恬が30万の軍隊をもって匈奴を北へ追い払ったのが頭曼時代の匈奴ですが、すでにそれだけの軍を割かなければならないほど匈奴の存在は大きな脅威となって北からのしかかっていたのかもしれません。

そこまで匈奴が強大化した遠因には、李牧の存在があったのではないか?

個人的には、そう思えてならないのです。

 

命を繋いだものが勝つ、という生き方もある。佐藤賢一『カペー朝』

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野心は一代で達成しなくてもいい

軍師官兵衛の中で一番記憶に残っている人物は荒木村重です。

妻子を置いて城から逃げ出しても、「生きのびれば信長に勝ったことになる」とうそぶき、本能寺の変で信長が横死した後に官兵衛の前に茶人として姿を現す村重。

キリシタンの侍女を前に従容として死を受け入れた妻のだしとは全く対照的でしたが、見苦しかろうが何だろうが生き残ってやる、というエゴをむき出しにする村重はある種の強烈な負の魅力を放っていました。

 

当時の価値観で言えば、武士らしく城を枕に討ち死にでもするのがいい生き方なのかもしれません。

しかしそれで村重は本当に納得できるのか。

生きてさえいればまだ子供を作れるかもしれないし、自分自身はもう浮かび上がれないとしても、子孫が家名を高めるようなことをしてくれるかもしれない。

その意味ではとにかく生き延びて血筋を絶やさない、ということが何より大事、という価値観だってあり得るのです。

 

信長の野望みたいなゲームを遊んでいると、何となく「天下統一は一代で成し遂げなくてはいけない」みたいな気分になってきます。

でも本当はそうではないし、親子二代で、いや三代で達成したってかまわない。

毛利元就あたりで始めたら、年齢上の問題でそうなることも多いだろうけど。

 

斎藤道三の美濃乗っ取りは実際には親子二代に渡るものだったと言われていますが、達成したい野心に対してどうしても寿命が足りない場合、「その目標を受け継いでくれる子孫がいる」ということが何より大切だということになってきます。

中世のフランスにおいてもやはりこの「血統を絶やさない」ということが大事だった、ということをこの『カペー朝』は教えてくれます。

 

直系の後継者が絶えなかった「カペーの奇跡」

カペー朝のスタートは、実は極めて頼りないものでした。

始祖であるユーグ・カペーが受け継いだフランス王国は群雄割拠の状態で、国内にはカペー家も凌ぐ有力な諸侯が多数存在するいわば戦国時代。

王の地位など名目上のものでしかなく、ユーグは凡庸な人物であったからこそかえって警戒されずにその地位に就けた節もある。

権威は存在していても、せいぜいが有力諸侯のひとつに過ぎない、というのが当時のフランス王の実態だったわけです。

 

しかしこのような状況であっても、ユーグ・カペーにもできる仕事があります。

それは子孫を作ることです。

自分自身はフランスの万民の王として君臨する器量はなくとも、子孫を作って後の代に望みをつなぐことはできる。

いや、それしかできなかったのが実態かもしれません。

著者の佐藤賢一氏は、この時のフランス王についてこう書いています。

 

己の無力はユーグ・カペーが、誰よりも承知していたはずだ。頭に王冠を載せたからには、万能の支配者になれるはずだなどと、そうした無邪気な勘違いとも無縁である。なんらかの夢想が許されるとするならば、希望の言葉は「いつか」でしかありえない。今は名ばかりの王にすぎない。が、いつかは万民の王としてこの国に君臨してやると。

 

そのために取るべき手段は、細くとも長くと、先に希望をつなげることだった。ユーグ・カペーが王として最初に手がけた事業は、というより王として手がけた唯一の事業は、息子のロベールに王位を継がせることだった。

 

この後カペー朝では、何代も名ばかりの王が続きます。

12世紀に入り、戦争好きで行動的なルイ6世が登場することで、ようやくカペー朝は「王権の覚醒期」を迎えることになり、その事業は息子のルイ7世、さらには「尊厳王」フィリップ2世にも受け継がれることになります。

 

本書でもかなりページ数を割かれている通り、フィリップ2世はカペー朝の中でも傑出した君主です。

バイイやセネシャルなどの官職を設立して内政を充実させ、戦争でもブーヴィーヌの戦いでイングランドを破るという大功を立て、フランスが大国となる基礎を固めています。

カペー朝で最も優れた君主と言っても過言ではありません。

 

しかし、このフィリップ2世にしても、カペー朝歴代の君主が直系の男子に王位を相続させてきたからこそ、歴史の表舞台に登場することが出来たわけです。

本書では凡庸な君主と評価されているロベール2世やアンリ1世にしても、生前に息子に王位を相続させるという仕事はきちんとやっています。

王位継承をめぐって内乱が起こり、国が乱れることが日常茶飯事だったこの時代において、相続でトラブルを起こさなかったカペー朝はそれだけでも賞賛に値します。

 現代人と封建制の時代の人間の価値は、同列には語れない

このように血統の力で成功してきたカペー朝が断絶したのも、また血統を残すことに失敗したからでした。

カペー朝最後の王・シャルル4世の息子は早世したため、ついに後継者は絶え、フランス王の座はヴァロワ朝へと受け継がれることになります。

 

封建制の時代では、家が途絶えればその時点で試合終了です。

それを知っていたからこそ、家康は御三家まで作って徳川家を15代も存続させました。

その徳川家を支えた井伊家にしても、直虎が苦しい時期を乗り切って井伊直政家督を継がせたからこそ大大名になることができたわけです。

 

そう考えれば、特に何ができなくとも、ただ子孫を作って家を絶やさなかったというだけでも、その人には大きな価値があったのかもしれません。

カペー朝の初期の君主は、まさにそのような存在でした。

一個人の自己実現などよりも、「家」というシステムのために人が生きなければならなかった時代に、権力者は何を考え、どう行動したのか?

本書を通じて、そのような時代の様相を垣間見ることができます。

アイヌ民族の歴史と文化について知るならまずはこの一冊。瀬川拓郎『アイヌ学入門』

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著者の瀬川拓郎氏は今まで何冊かアイヌ関連の書籍を上梓していますが、これが一番わかりやすいと思います。

序章ではアイヌの歴史について簡潔に触れられており、ここでは日本との関係だけではなく、北東アジアの文化との交流やオホーツク人との戦いなどを経てアイヌの文化や生活圏が常に変化し続けてきたことが示されます。

 

matome.naver.jp

アイヌは遺伝子的には縄文人の末裔とも言うべき存在で、北海道南部から次第に勢力を拡大して北海道北部沿岸に存在したオホーツク人を北海道から追い出し、さらに千島やサハリンにも進出します。

そして鷹をめぐってサハリンのニブフ族と闘いを繰り広げたアイヌは元の介入を招き、サハリンではアイヌとモンゴルの戦争まで起きています。この時アイヌアムール川下流域にまで攻め込んでいますが、交易品である鷹や鷲を巡って活動するアイヌには「海の民」「ヴァイキング」としての側面もあることを瀬川氏は指摘しています。

 

この章の後でも沈黙交易アイヌ語、呪術や祭祀などについて興味深い話題が続きますが、特に興味を惹かれたのはコロポックル伝説です。

この小人伝説は古代ローマに紀元を持つもので、これが中国を経て遙かアイヌにまで伝わったというわけです。

著者は北海道アイヌで言うコロポックルの正体は千島アイヌだと推定しており、北千島アイヌの奇妙な習俗が北海道アイヌの間に小人伝説として定着したのだろうと考えています。

 

千島アイヌは北海道のアイヌとは沈黙交易を行っていて直接接することがなく、互いの交流はほぼ絶たれていました。接触を避けていたためにこのような伝説が生まれたのかもしれません。北千島では北海道では失われた竪穴式住居や土器を使う生活が続いていて、縄文時代の文化をより色濃く残しています。外界との交流が絶たれると過去の文化が冷凍保存されたような地域が形成されるという、極めて興味深い一例です。

 

そしてもうひとつ興味深いのがアイヌの金の話題です。

実は北海道でも金が採れるのですが、なんとアイヌの金が平泉の中尊寺金色堂に使われていた可能性について著者は指摘しています。

 

常滑産のつぼが厚真町から出土 12世紀に交易か:苫小牧民報社

現在、平泉政権が北海道の厚真にまで入り込んでいた可能性が考えられています。

奥州藤原氏アイヌを支配していたというわけではなく、あくまで両者は対等な交易を行っていたと推定されていますが、これが本当なら奥州藤原氏は北方世界との交流も深かったということになり、その影響力は従来考えられていたよりも大きかったことになります。

藤原基衡が朝廷に献上した品の中にはアザラシの毛皮やオオワシの羽など、北海道にしか存在しない物もあるため、平泉では北海道のことをかなり正確に把握していたはずです。その情報は厚真の現地スタッフがもたらしたものかもしれません。

藤原泰衡は平泉を退去して蝦夷ヶ島に渡ろうとしていたと言われていますが、この泰衡の行動はこのような平泉とアイヌとの結びつきを抜きにしては考えられないでしょう。

 

そして最終章はアイヌの女性へのインタビューで締めくくられています。

現在、アイヌ民族の置かれた状況について様々な議論があります。

しかしまずはこのインタビューを読んでから考えてみても遅くはないのではないかと思います。

この章でインタビューを受けたAさんは、子供の頃の体験についてこう語っています。

 

「ただ小学生の時に一度だけ、とても仲の良かった友人から、『あなたはアイヌなの?』と聞かれたことがあります。びっくりして口ごもっていると、『そうだよね、アイヌって頭が悪いもんね』というのです。当時、私は大人たちから優秀な子と言われていました。ですから、アイヌではないよね、というわけです。

これは後からわかったことですが、大人たちは私のことを『アイヌなのに頭がよい』といっていたそうです」

 

Aさんは10代から20代にかけて、アイヌであることを恥ずかしいと思い、人からアイヌと言われたらどうしようかといつも怯えていたそうです。

後にAさんはこのような自分の殻を破りたいと考え、アイヌ文化を学びアイヌであることを表明して生きていくことになるのですが、それができるようになるまでは多くの葛藤があったようです。

アイヌとしての自覚をもつ事は、日本人が自分が日本人だというアイデンティティを持つほど容易いことではありません。

Aさんはインタビューの最後に、このように語っています。

 

アイヌ民族を表明して生きることについて、家族が賛成してくれているわけではありません。でも、それが私の選んだ生き方だから、と割り切ってくれているようです。アイヌとして生きるかどうかは、人それぞれが自由に判断することです。子供に強いるつもりはありません。

 

アイヌとして生きることが、痛みや葛藤をともなわない社会になってほしい。アイヌであることが何も特別なものではなく、母であり、職業人であるのと同じような、ひとつの選択と受けとめてもらえるような社会になってほしい、と願っています。