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明晰夢工房

主に自分語りです。

木下昌輝氏の珠玉の文章が光る一冊。『決戦!川中島』

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歴史小説というものはその構造上、結末はあらかじめわかっている。

海外のマイナーな事件を取り上げたものなら別だが、題材が日本史なら、ある人物がどのような結末を迎えるのかは調べればすぐにわかる。

いわば最初から全部ネタバレしているようなものなのだ。

 

皆が結末を知っている小説を、どう読ませるか。

それは結局、結末に至るまでの過程をどう読ませるか、という話になる。

そしてどの視点から歴史を切り取るのか、ということも大事だ。

歴史上の有名人物から見える風景も、別の人物にスポットを当てれば全く違うものがみえてくる。

たとえば、この『決戦!川中島』における甘粕景持のように。

 

この短編集で一番印象に残ったのが木下昌輝氏の「甘粕の退き口」。

何がいいと言って、まず文章が素晴らしい。

言葉選びの一つ一つに徹底したこだわりが感じられ、これこそ文芸という文章のありがたみが感じられる。

小説というのは文章しかないのだから、できることならこういう端麗な文章を味わいたいものだ。

 

そして甘粕景持という、比較的マイナーな人物から見た川中島合戦、という視点もいい。

今まで知らなかったが、甘粕景持というのは上杉四天王の一人で、甲陽軍鑑によれば川中島合戦においては上杉軍の殿軍をつとめ、謙信本人と間違われるほどの奮闘ぶりを見せつけたらしい。

殿軍とは敗勢の中において軍勢をまとめることが求められるので、有能な将にしか任せられない。

この小説で描かれている通り、甘粕景持は相当に優秀な人物だったのではないかと思う。

 

この甘粕の目から見ると、謙信とは相当に厄介な人物だ。

村上義清上杉憲政などに請われるままに出兵する「義将」としての謙信の姿は、部下である甘粕景持からすれば「一貫した戦略眼がない」ということになってしまう。

それでいて戦争には滅法強く、だからこそ家臣の言うことも聞かない。

この短編での謙信は、あくまで強敵である信玄と戦いたくて戦っているという人物だ。

信玄のように領土という実利が欲しくて戦っている武将より、上司としてはずっと困った人である。

 戦っても領土が増えないなら、何をもって家臣に報いるのか、ということになってしまうからだ。

 

このような謙信の問題点も描きつつ、この作品では武田家への目配りも欠かさない。

最近の研究成果を取り入れたのか、武田の領国は貧しいためそれだけ兵は必死になるから強く、上杉の領国は豊かであるためその点が及ばない、ということも書かれている。

実際に武田兵のほうが強かったかはわからないが、そういうこともあるかもしれない、と思わせる。

武田家では戦争における「奴隷狩り」のようなことが行われていたことにも触れられていて、戦国の世の過酷さの表現にも努めている。

武田兵はゆるい矢尻を用いており、矢を抜く時に矢尻が体内に残るしかけがしてあるため上杉兵は長く苦しむという描写なども、史実かは分からないが武田家の容赦のなさをうまく描いているのではないかと思う。

 

川中島合戦には決定的な勝者はいないのだろうが、甘粕景持の立場からすればこの戦いは敗戦だ。

にもかかわらず、作者の構成の巧みさのため、この作品は読後感がいい。

この一遍を読むだけでも、このアンソロジーには価値があるのではないかと思う。

おんな城主直虎9話「桶狭間に死す」感想:小規模な争いが国衆のリアル

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義元の戦死の場面はどうなることかと思ったら一切描かれず。
直盛は自害するが、結局桶狭間の戦闘シーンも殆ど描かれなかった。
このドラマは徹頭徹尾、井伊谷を描くという方針で行くらしい。
だから井伊谷の外のことは最低限しか描かれないし、義元すら出てこない。

氏真は父の死に直面して家臣に事を丸投げして逃げてしまったが、今までのイメージ通り暗愚な人物として描くらしい。



変わって詳しく描かれるのは、直盛死後の井伊家の混乱。
直盛は遺言で井伊家を中野に任せると言っていた。
中野は井伊の分家であり、反小野派なので直親を矢面に立たせず井伊家を守るためにはそうした方がいいと判断したか。

 

 

小野政次と奥山の争いについては、とても小規模な争いをやっているなというのが正直な感想。

奥山の娘なつとその息子を実家に返せという奥山に対し、政次は井伊家が大変なときに自分の家のことしか考えていないのかと言返す。

言い分は正論だが、政次は言い方がいつも煽りっぽい。

父のような立ち回りができないのは、やはりまだ若いということか。

 

 

小規模な争いと書いたが、これこそが国衆のリアルだろう。

直虎を主人公にすればこういうドラマにならざるを得ない。

ただ、こういう井伊谷の中での揉め事をこれからずっとみせられるのかと思うと、これが大河ドラマという枠で求められるドラマなのだろうかと思ったりもする。

今までにない視点と言われればそうなのだろうけれども、もう少しスケールの大きい話を期待したいところだ。

直政が全面に出てくれば、もう少し話に広がりも出てくるだろうか。

 

saavedra.hatenablog.com

真田丸もまた最初は国衆の物語だったのだが、真田丸の場合は井伊家のように後継者で揉めることはなかったし、当主の昌幸はじめ二人の息子も賢く、信尹のような優秀な弟や矢沢頼綱のような頼りになる一族もいた。人材も多いし一族の結束も硬い。対して井伊家は家中にまとまりがなく、智謀に長けていそうなのが小野正次しかいない。そしてその小野が家中で煙たがられているという何とも頭の痛い状況。

 

この状況下で奥山を小野が斬ってしまったため、来週からさらなる困難が予想される。

昌幸が乗り切った「天正壬午の乱」も大概だったが、昌幸は上杉と徳川と北条の勢力が拮抗しているのをいいことにこの混乱を巧みに乗り切った。

対してこれから井伊家が突入する「遠州忩劇」。

歴史を結果から見るなら井伊家はこれをうまく乗り切ったとは言い難いが、生き残っただけでも良しとしなければいけない状況かもしれない。

 

 

桶狭間で義元が勝っていれば家康が天下を取ることもなく、当然井伊直政が大大名に出世することもなかっただろう。

ただ、直盛が健在であれば井伊家も今川家の勢力下でそれなりの力を保っていられたのかもしれない。

これは家康も同様だ。

歴史とは結局何が幸いするか全く予想できない。

徳川幕府の代わりに今川幕府ができていたとして、井伊家は徳川家についた場合よりも幸運だったか?なんてことは誰にもわからないのだ。

 

 

それにしても、義元が死んだ時点ですぐに独立を考えられる家康はやはり只者ではない。

後に信長が滅んだ後すぐに甲斐に侵攻しているところを見ても、家康はとにかく決断すれば素早いが、この時点で家康はすでにそういう人物だ。

何が幸いと言って、直虎にとってはこういう人物がすぐ隣にいたことが最大の幸運なのかもしれないなあ。

大事なことは、自分の欲望の在り処を自分で見つけること

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togetter.com

神絵師になれないこと自体は問題ではない

読んだんですが、これ、神絵師になれていない事自体が問題なわけではない、と思います。

1の人は3日で描くのをやめたということは絵がそれほど好きではないのだろうし、2の人については絵を描くより交流が好きな人に見えるし、3の人にしても絵よりも作品の調査や分析が好きな人のように思える。

3人とも「神絵師になれるものならなりたい」という漠然とした願望はあるだろうけど、そうなるために必死で手を動かさないということはこの人達は努力が足りないというよりは、そもそもそれほど神絵師になりたいという欲求が強くはないのではないか。

 

人間、本当に好きなことって、「そうせずにはいられない」ものなんですよ。

どうしても絵で脚光を浴びたいなら、毎日何かしら描いているはず。

いや、そもそも本当に絵が好きなら、人から評価されるかどうかとは関係なしにとにかく手を動かしているのかもしれない。

例えばヤマザキマリさんがそうであるように。

saavedra.hatenablog.com

 でも、やっぱりだめだった。何をしても結局、絵を描いてしまう。時間に支配される感覚から開放されるのは、絵に向き合ったときだけでした。それで食べていけるかはわからない、評価されるかもわからない。だけど、私はやはり絵を描く人間なのだと悟った時、腹をくくった気がします。もう『フランダースの犬』のネロ少年になっても仕方がない、絵描きとしてのたれ死んだとしても構わないや、と。

 

 同じ「好き」にもレベルの差というものがあります。

いくら絵が好きでも、このレベルで好きな人というのはかなり限られるでしょう。

少なくともあの漫画の3人はこのレベルで絵が好きなわけではないし、それ自体はなんら問題ではない。

異常なレベルで何かが好きであることこそが、天から授かった「才能」だから。

 

自分の願望は、なかなか自分で気づけない

では何が問題なのかというと、この3人はそんなに絵が好きなわけでもないのに絵で認められたいという欲求だけは持っている、それが良くないのだとこの漫画の作者は主張したいのでしょう。

手は動かさないのに神絵師としてちやほやされたいっておかしくない?と。

 

言いたいことは解ります。

望む結果が得られていないのなら、結果を得られるよう努力するか、願望自体を手放さなくてはいけない。

個人的には2と3の人については目標自体をもう少し低くした方がいいんじゃないかな、とは思いますが、望む結果が得られなくても失敗という経験を得たことは大事なことだったのではないかと思います。

 

はっきりいえば、自己評価と客観的評価のギャップに打ちのめされることなんて創作をしている人なら誰でも一度や二度は経験しているし、むしろその挫折を経験したところからが真のスタートなんですよ。

仮にこの失敗に懲りて絵をやめたとしても、それが問題だとは全く思いません。

それはそんな苦しい思いをしてまでも続けたいほど絵が好きではないということだし、そこに気づければ今度は別のジャンルに力を注ぐという選択もできる。

「自分にどれくらいの情熱があるのか」ということも、実際に取り組んでみないとわからないのです。

 

1の人についていえば、3日で絵はやめたとしてもこの人なりに同じ趣味を持つ人達と交流できているようだし、本人はそれで満足かもしれない。

当人がそれで納得しているのなら、それで十分「成功」です。

何も神絵師になることが全てではないし、「そうか、自分はチヤホヤされたいんじゃなく、同好の士と交流したいだけだったんだ」ということに気づけるのも、とりあえず行動してみた人ならでは。

 

絵を続けるにしても、神絵師のレベルまで到達する必要があるかどうかは当人にしかわからないわけです。

本当は別に同人誌を作らなくてもいいかもしれないし、twitterで300RTくらいされるような絵を描ければそれで十分かもしれない。

何もニコ生でファンを沢山つくらなくても、身内の数人に褒められれば満足という人だっている。

どのくらい認められれば満足かは人によって違うし、その欲求レベルがどの程度かも、とにかく動いてみなければわからない。

 

承認欲求目当てで創作をするのは良くないことなのか

この手の話でよく出てくるのが、「人から褒められたいがために創作をするのは邪道」といった話です。

「貴方は小説が書きたいのか、作家になりたいのか」という問いもそうですが、本当にそれが心から好きだから創作することが正しいのであって、人に認められたいがために創作をするなんて動機が不純だ、といったことを言う人もいます。

だからこそ、この漫画の3人も良くない感じに描かれているのでしょう。承認欲求の皮ばかり突っ張っていて努力が足りないとこうなりますよ、といった含みがこの漫画にはあります。

 

ただ、この3人がそこまで描くことが好きではないのに「神絵師になりたい」という願望を持ったことはわかるような気がします。

現代には、承認を得ている人こそが正しい、という風潮があります。

ブログ一つ取ってみても、PVを稼げないブログにはまるで欠陥があるかのように言い立て、もっと人目を引くように工夫しなければいけませんよ、と言う人はいる。

ウェブ小説の閲覧数であれ動画の再生数であれ、数字を持っている人が正義で、持っていない人は無価値であるかのように思い込んでしまう空気は確かに存在します。

 

そういう価値観を内面化してしまうと、たくさんの承認を得ている神絵師のような存在になりたいという願望が芽生えても無理はありません。

本当は同人誌を3部売ったことだって見方によっては十分「成功」と言えるのに(本を作るところまでこぎつけてるわけですからね)、それが哀れな失敗例のように言われてしまうのも、売れない人は無価値だと思い込まされているから。

そういう風潮のために、本来神絵師を目指す必要がない人までもそうしてしまう、ということもあるのかもしれない。

 

それに実際問題として、「人に褒められる」というのは、創作意欲を強力にブーストしてくれるものです。

褒められるからやる気が出るし、やる気が出るからたくさん描いて技術が向上するという好循環に入れれば、これは強い。

そもそも褒められる必要が無いのならチラシの裏にでも描いてろという話になるわけで、承認欲求もまた創作意欲に大きく関わっていること自体は疑いようがないのです。

承認欲求が強すぎれば、それを得られない自分自身とのギャップに苦しむという問題はあるとしても。

 

誰もが上を目指さなくてはいけないわけではない

どういう人にも「適正な欲望のサイズ」というものがあります。

そしてそのサイズが神絵師レベルになることであるという人が、果たしてそんなに多いのか。

志が低くても、低位安定でも本来は全然問題はないし、そこで飽き足らなくなったらもう一ランク上を目指してみる、というやり方もあるはずです。

 

そして、描いてみたけれどやっぱりやる気になれないならやめるというのも全然アリ。

何事も続けなければいけないわけではないし、もっと自然に続けられることに目標を変えてもいい。

絵師の世界なら「神絵師になる」ことがひとつのゴールとして想定されるのだろうけど、そのゲームから降りればそもそも絵が描けなくても何の問題もない。

諦めればそこで試合終了だと言われても、時には早く終わらせたほうがいい試合だってある。

勝てなくて苦しんでいるばかりの試合だったなら特に。

 

しかし繰り返しますが、自分が別に「上を目指さなくてもいい」人間かどうかも、一度は上を目指してみないとわからないというところがあります。

その意味では、この3人は貴重な経験をしたといえると思います。

ある意味そういう経験ができただけでも、彼等は何もしない人よりも「成功」している。

自分が何者かは、一歩を踏み出した人にしかわからないことだからです。

けものフレンズ8話感想:最終回でペパプライブをもう一度見ることはできる?

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ペンギンたちのアイドルグループ、ペパプのライブ回。
マーゲイからの情報で、ペパプは3代目であることがわかる。
ペパプの初代からは、どれくらい時間が経っているのだろうか?
ペパプのメンバーの言葉からは、先代のペパプがどういう感じだったのか直接は知らないということがわかる。
つまり、それくらい先代のペパプが存在した時代からは時間が経っている。
マーゲイは初代のペパプを知っているのが、その知識は図書館で得たもので、自分で直接初代を知っているわけではないらしい。

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ペパプは初代が4人、次が3人、3代目が5人。
以前のペパプにはロイヤルペンギンはいなかった。
そのために自分がいてもいいのか?と悩むプリンセスをサーバルが半ば強引に連れ戻す。
マーゲイの声真似によってプリンセスがステージに登場。
この功績でマーゲイはペパプのマネージャーに。

 


プリンセスの言葉から、ヒトは最後に港で目撃されたことが判明。
これはかなり前のことらしいのだが、何年くらい前なのか?
いずれにせよ、ヒトは絶滅したのではなく、ジャパリパークの外へ移住したらしい。

 


この流れからすると、順当に行けば最終回はかばんちゃんがジャパリパークから去ることになりそうだ。
イワビーが「今度は海でライブがやりたい」と言っていたので、最終回でもペパプのライブがあったりするかもしれない。
その場合、今回は省略された「ようこそジャパリパークへ」も聞ける?

 

 

今までのストーリーの考察で、ツチノコがヒトが絶滅したことを教えたのは、聖書で蛇が知恵の実を食べるよう促したことの比喩だというものを見かけた。

そして、実際に図書館は齧りかけのリンゴの姿をしていた。

だとすれば、ジャパリパークエデンの園なのだろうか。

しかし、図書館でもかばんちゃんはまだジャパリパークについての決定的な情報は得ていない。

ジャパリパークの秘密を知ったときが、ジャパリパークを出て行く時になる?

 

 

その秘密はセルリアンとも確実に関わっているだろうから、セルリアンの正体も最終回までには明かされるのではないかと思う。

この辺はあまり深刻な話ではないことを期待したい。

note.muこの8話に関して興味深かった考察。

ヒトがフレンズに叡智を授けるのではなく、フレンズが自力で文化を築こうとしている姿勢が確かにペパプには見て取れる。

最終的にかばんちゃんがジャパリパークを離れるのなら、フレンズ達が自力で新しいものを生み出していく動きが必要になるということかもしれない。

8話はかばんちゃんが安心してジャパリパークを去ることができるような動きを見せる起点となるか。

今後も目が離せない。

史実の「三国志」について学べるおすすめ本を12冊紹介します。

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こういうエントリを読むような方は「三国志にはフィクションである三国志演義陳寿の書いた正史である三国志が存在して……」などという話はとっくにご存知だと思いますのでそのへんは省略します。

書棚を見たら今まで読んだ三国志本が結構溜まっていたので、史実の三国志について知ることのできる本をこの際まとめて紹介してみようと思います。

 

1.金文京『三国志の世界』

 

12冊も読んでられないから1冊だけにしてくれ、と言われたら自分はこれを選びます。

講談社の「中国の歴史」シリーズの1冊ですが、内容は非常に読みやすく、史実の三国志とフィクションとしての三国志演義の違いについて丁寧に説明してくれます。

 

 董卓袁紹を盟主とする反董卓連合軍の戦いは悪と正義の戦いなどではなく関西軍閥勢力と関東諸侯との争い、天下三分の計の実現に大きな役割を果たしたのは魯粛である、劉備の蜀政権は地元の名士からは歓迎されていなかった、などの指摘は小説としての三国志しか知らない方には目から鱗ではないかと思います。

三国時代の文化や邪馬台国についても一章が割かれているので、三国時代の実相を知りたい方には最初におすすめしたい1冊です。

 

2.渡辺義浩『三国志演義から正史、そして史実へ

 

三国志という時代は、「名士」という存在を抜きにして考えることはできません。

本書では儒教の教養を持ち中国全土にネットワークを張り巡らせている「名士」の存在が三国時代を分析する鍵であるとして、三国志の実態に迫っていきます。

一般的には暴虐無道の君主であったとされる董卓ですら「名士」の蔡邕を登用しているし、劉備は「名士」である陳羣のアドバイスを受け入れなかったために呂布に徐州を奪われてしまいます。

名士の影響力とはとても大きなもので、蜀の重鎮である張飛ですら蜀の名士である劉巴のもとを訪れても「兵隊野郎」などと言われて口すらきいてもらえない状態でした。

 

しかし、なら「名士」と言うことをただ聞けばいいかというとそう簡単なものではなく、本書では袁紹は名士の言うことを聞きすぎたために君主権力を確立できず、曹操に敗れ去ったと分析されています。

かといって名士を全く登用しなかった公孫瓚は、名士の持つ情報網を活用できなかったためにこちらも滅びています。

結局、曹操のように名士を活用しつつ、かつこれとせめぎ合った君主だけが生き残ることになったというのが著者の分析です。

この名士論には異論もあるでしょうが、三国時代を見る一つの興味深い視点を提供してくれるものです。

 

3.石井仁『魏の武帝 曹操

 

曹操が主人公なのでまずは曹操ファンにおすすめしたい一冊なのですが、本書の価値は何と言っても霊帝を改革者として高評価しているという点にあります。

横山光輝の漫画では「霊帝は盲帝であった」と言われ、ただ宦官に振り回されるだけの哀れな一生を送った皇帝と見られがちですが、本書では聡明で覇気にあふれる人物だったと評価されています。

 

この霊帝が採用したのが、牧伯制という軍事制度です。

これは州単位の広域行政ブロックを作って、州を治める牧に将軍も兼任させることで頻発する反乱に対処することができるようにしたというものですが、牧の権力が強大となったため結果としては群雄割拠を促す結果となってしまいました。

ある意味、霊帝三国時代の幕を開けた人物といえるのかもしれません。

本書ではこの霊帝の軍事制度を曹操も引き継いでいるとしています。

 

政治責任とは結果責任なので、統治に失敗したなら結局霊帝はダメな人ではないのか?という評価もあるでしょう。

ただ、霊帝がこのような改革を実施した以上、後漢末の混乱をどうにか鎮めようとしていたことは事実です。ただの無気力な人物ではありません。

どんな人物でも多角的な視点から評価していくことが、歴史を考える上では大事です。

曹操霊帝ファン(いるのか?)に強くおすすめしたい1冊です。

 

4.満田剛三国志 正史と小説の狭間』

 

情報量が多く、かなりおすすめの一冊なのですが残念ながら絶版。

 

後漢三国時代~普の統一までを時系列順に追い、著者の見解を付け加えつつ解説していくのですがこの解説部分が他の本ではあまり知ることのできないものが多く、「黄巾の乱はただの農民反乱ではなくクーデターだった」「陶謙袁紹とは別の反董卓同盟を結成していた」「劉表は交州の支配を狙って動いており、ただの消極的な人物ではなかった」「諸葛亮の南征は西南シルクロードの確保を狙っていた」などの興味深い情報を得ることができます。

 

後漢末の機構や貨幣経済の状況も解説してあり、今までにない角度から三国志について知ることができます。三国志全体を俯瞰する内容なので、金文京『三国志の世界』に次いで強く推薦します。

5.徳間書店三国志

 

史実の「三国志」がどのように展開していったのかはこの本が一番わかりやすいと思います。

後漢末期から始まって普の統一まで満遍なくカバーし、思想についても1巻分が割かれています。

問題はこれがもう古書でしか見つからないという事。

根気よく古書店を回ればかなり安く手に入るかもしれません。

6.坂口和澄『もう一つの「三国志」異民族との戦い』

 

これは個人的に非常におすすめの本です。

三国志と言っても、魏呉蜀だけがこの時代のプレイヤーだったわけではありません。

この3国の周囲には常に異民族が存在し、時に三国と争い、時に協力関係を取り付けて、三国の争いに重要な役割を果たしていたのです。

 

実際、史書で呉の歴史を読んでいると、呉の主な武将はほとんどが山越という南方の異民族の討伐を行っていることがわかります。

呉があまり魏に対して積極的な攻勢に出られなかったのは、単に孫権の性格のせいだけでなく、山越対策に兵を割かなければいけなかったからという事情もあります。

諸葛亮も南蛮征伐のために兵を出しているし、呉は蜀を背後から脅かすために異民族を味方につけようとしています。

異民族が脅威であることは魏にとっても同じで、郭嘉も異民族対策のための策を立てて活躍しているし、曹彰も将軍として烏桓を討伐しています。

 

これらの異民族は単に三国と敵対しているわけではなく、ときに兵士として三国の軍隊に組み込まれることもあります。

この時代、三国はどこも人口不足に悩まされていたため、勇敢な異民族は兵士の補充先として重宝されていたのです。

こうした今までにない視点から三国志に光を当てるという意味で、本書は貴重な一冊となっています。

 

7.三国志軍事ガイド

 

表紙イラストのひどさには目をつぶりましょう。

これは貴重な三国時代の兵法や軍事制度・戦いの実態を解説した本です。

これ1冊で、三国志の主要な戦いから城の構造、布陣の様子や戦場における情報伝達・物資の輸送方法まで把握することができます。

 

実は正史の『三国志』の記述はかなり簡素で、どの戦いも詳しい描写はありません。

本書では少ない情報の中から、できるだけ当時の戦争の様子を詳しく復元しています。

武器や防具もイラスト付きで詳しく解説されているので、三国志の軍事面について知りたい方には特におすすめの1冊です。

 

8.渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』

 

みんな大好き?な邪馬台国論争を三国志の視点から解説する一冊。

邪馬台国と言えばまずは倭人伝なのですが、この倭人伝をどう読むべきなのか?ということを、著者は豊富な東洋史の知識を駆使して教えてくれます。

本書を読む限り、倭人伝には当時の政治的事情が反映されているため、これをそのまま読んでも邪馬台国の位置はとうてい解るものではないということが示されます。

 

今はプロの学者は皆考古学の成果を無視して邪馬台国を語ることはできないと考えているようなのですが、東洋史の視点から見ても倭人伝だけ読んで邪馬台国を語るのは難しいようです。

本書で語られる邪馬台国の位置が本当に正しいのか?はわかりませんが、倭人伝の読み方については本書の指摘はかなり重要なものであると思います。

 

9.川勝義雄魏晋南北朝

 

少し古い本ですが、三国時代の世相や社会構造について知ることができます。

三国時代だけを扱った本ではないですが、三国志を知ればその後の時代にも興味が向くかもしれないので、普が天下を統一したその後についても知ることのできる本書を選んでみました。

 

実は三国志というのはその後長く続く中国の分裂時代の幕開けに過ぎず、普の統一もほんの儚いものに過ぎません。

かつて中国史の世界では三国時代が中国における「中世」の始まりではないかという議論がありましたが、確かにそう言いたくなるほどに三国時代以降の中国では大混乱が続いています。

その混乱を引き起こした要因として「五胡」の侵入があげられるわけですが、これはローマ史におけるゲルマン民族の大移動にも比較されるもので、そうした洋の東西における共通性についても本書は指摘しています。

三国時代をより俯瞰して眺めてみたい方におすすめです。

 

10.渡邉義浩『「三国志」軍師34選』

 

タイトルだけ見るとミーハーな感じがしますが、中身はかなり真面目な本です。

渡邉さんの本なので、軍師というよりは「名士論」の本として読むのが正しいのかもしれません。

取り上げられている人物には荀彧や郭嘉のような文字通りの軍師から孔融阮籍のようなこれは軍師なのか?と言った人物まで含まれていますが、出て来る人物はすべて知力を活かして活躍した人物です。

これだけ多くの人材が輩出しているのも、魏呉蜀が戦争を繰り広げていて、各政権が優れた人物を必要としていたからなのでしょう。

この時代だからこそ世に出られた人物というのも数多くいたはずです。

「人」を通じて三国志を理解したい方におすすめです。

 

11.渡邉義浩『呉から明かされたもう一つの三国志

 

物語ではどうしても脇役に甘んじがちな呉の通史。

それほど目新しい情報はありませんが、呉をクローズアップした本があまりないので、孫堅の時代から呉の滅亡までを一通り学べる本書は呉ファンにとっては貴重なものです。

呉の武将のエピソードは実際にあったものも多く、孫策太史慈との一騎打ちも史書には記録されています。

呉を悩ませた異民族である山越のこともきちんと書かれているし、呉と邪馬台国との関係についても触れられています。

個人的には孫策が陸康(陸遜の一族)を攻めて陸一族を壊滅させていた黒歴史にも触れている点を高評価したい。

 

後継者問題で揉めて衰亡の一途をたどる呉の様子を眺めるのは寂しい限り。

これに比べれば、在位期間が長かった劉禅の統治はは案外悪くなかったのか?

そんなことを思ってしまうくらい、無常観に溢れる呉の末期の姿までを知ることができます。

 

12.世界古典文学全集 三国志

 

三国志の「正史」となる史書。

史実の三国志を知りたければ、やはり正史は避けては通れません。

陳寿の『三国志』はちくま文庫からも出ていますが、こちらは3冊で正史をすべて把握できるのでおすすめです。

もう古本しかないと思いますが、図書館になら置いていると思います。

これをいきなり読むのは少々辛いので、まずは金文京『三国志の世界』などを先に読んでおくことをおすすめします。

 

基本的な部分を把握したら、気になる人物の列伝を読んでいくと意外な史実を発見できたりします。

個人的なおすすめは3冊目の呉書です。孫堅孫策の活躍は史実でも物語で語られているものと近いので、割と入っていきやすいのではないかと思います。

 

けものフレンズ7話感想:己が何者か知りたがることがフレンズが「ヒト化」している証拠?

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図書館の「博士」の正体はオフリカオオコノハズクワシミミズク

動物クイズの看板を作れるということは、フクロウには文字が読めるということですね。サーバルには読めない。

クイズに全問正解してようやくたどり着いた図書館。

 

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知恵の実をかじったという比喩。

フクロウたちが文字が読めるのはなぜなのか……?

 

罠を仕掛けてかばんちゃんが文字を読めることを知った博士は料理をつくるように指示します。

ヒトなら道具を使えるはずだという予想からです。

かばんちゃんは虫眼鏡で太陽光を集めて火をおこし、見事にカレーを作ることに成功。

フクロウたちとサーバルは火を怖がる。

出来上がったのは野菜カレー。肉は入っていない。

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カレーに満足した博士と助手は、かばんちゃんが「ヒト」であることを教えます。

この後、重要な情報が次々と提示されています。

 

・フレンズは動物がヒト化したもの

・ヒトはある日を境にいなくなった(絶滅した?)

・ヒトに合わないところに住んでいると寿命が縮まる

・他のフレンズは自分が何の動物かを知ったら大喜びする

・ヒトの近くにはセルリアンがいる

 

などなど。

特に重要なのは「フレンズは動物がヒト化したもの」でしょう。

フクロウが文字が読めるのもヒト化しているからだし、サーバルはじめ他のフレンズが言葉を話しているのもヒト化しているからです。フレンズの姿は単に動物を擬人化しているのではなく、本当にああいう姿をしているということです。

 

各フレンズはそれぞれの動物の特徴を残しながらも、ヒト化している。

だからヒトであるかばんちゃんともコミュニケーションを取れるというわけですね。

ライオンがかばんちゃんを食べたりしないのも、そういうことでしょう。

ペパプのようなアイドルが存在するのもヒトの行動を模しているから。

 

そもそも図書館に自分が何のフレンズか知りたくてやってくるフレンズがいるというのも動物がヒト化している証拠ですよね。

「己が何者か知りたがる」これは人間の特徴そのものなので。

ただの動物は自分探しをする必要はない。

 

では、そもそも動物をヒト化させたのは誰なのか?

普通に考えればそれが可能なのは人間なのですが、その目的は何なのか。

もし本当に人間が絶滅しているなら、この世界の環境に適応できなくなったヒトが、動物をヒト化させて何とか種の保存を図ったということなのか……?

 

博士の言葉からは、まだヒトが滅びてしまったかどうかは確定できません。

かばんちゃんが生き残っているからには、どこか他の地方で生きていることも考えられます。

ヒトの謎に迫ることが物語後半の鍵になりそうです。

 

ここで1話を思い出してみると、かばんちゃんは狩りごっこをしているサーバルから逃げ回って「食べないでください!」と叫んでいます。

フレンズのライオンはヒト化しているので、かばんちゃんを食べたりはしない。

しかし、かばんちゃんには「ヒトを食べる動物もいる」という知識があります。

これはどういうことか?というと、ヒト化する前の動物の姿をかばんちゃんは知っているということでしょう。

かばんちゃんはジャパリパークができる前から生きているのでは?

 

その辺はおいおい明かされていくでしょうが、このアニメは基本ゆるいノリで進んでほしいので、あまり深刻な真実が開示されることが無いように期待したいところです。

ところで、このフレンズっていつ出るの?

 

『パスタでたどるイタリア史』感想:パスタとイタリアの歴史を両方楽しめる贅沢な一冊。

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岩波ジュニア新書には名著が多い

岩波ジュニア新書って名著の宝庫なのでは?と最近思っています。

『砂糖の世界史』なんてその典型ですが、各ジャンルの一流の著者が中学生くらいの読者を想定して書くので読みやすく、しかも水準は一切落としていないものが多くあります。だから大人が読んでも楽しい。

 

さてこの『パスタでたどるイタリア史』ですが、この切り口でイタリア史をたどることが本当にできるのか?と思ったんですが本当にそれを可能にしています。

現在のものとは違いますが、古代ローマの時代からイタリア人は「パスタ」を食べていているので、時代とともにパスタのたどる変化の流れを追っていくことで自然とイタリア史を語ることが出来てしまうのです。

食の歴史とイタリアという地域の歴史が見事に融合しています。

古代ローマから始まる「パスタ」の歴史

パスタの起源は古代ローマで、最初は小麦の練り粉を焼くか揚げるかして蜂蜜や胡椒で和えて食べていました。この時点では茹でたり蒸したりする水との結びつきはまだありません。この「パスタ」ですが、これがゲルマン人が侵入してくることで一旦衰退してしまいます。

「狩猟民族」であるゲルマン人は肉を食べることにアイデンティティを持っているため、鹿や猪、ノロジカなどの肉料理が多くテーブルに並ぶことになり、パスタは料理としてはしばらく忘れられた存在となっていきます。著者に言わせると、パスタは「古代ローマという高度な文明の果実」だったようです。

 

パスタが復活するのは13世紀末ごろのイタリアで、この頃からパスタはローマ時代のような小麦を油で揚げたり焼いたりしたものではなく、現在のような水と結合したものになっています。大事なことはここでパスタとチーズを合わせて食べる料理法が始まったことで、これが栄養学的にも炭水化物+脂肪となるので優れたものになりました。

 

興味深いのは、乾燥パスタの起源はアラブであるという説もあるということです。

アラブは乾燥した砂漠地帯で荷物を運ばないといけないので、乾燥パスタが生まれたということです。

アラブの文化がイタリアに入ってくるのは、特にシチリアが一時期イスラムの領土だったこともあり、この地は異文化との文化交流が盛んだったからです。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の軍隊にもイスラム教徒の部隊がありました。

イタリア南部が「辺境」であり文化の交差点に存在することで生まれた食文化も存在するということです。

大航海時代が産んだイタリア料理

さらに時代が下ることで大航海時代を迎え、新大陸から重要な食材がもたらされました。パスタに欠かせない唐辛子とトマト、そしてじゃがいもです。

トマトはしばらく観賞用でなかなかパスタソースとしては普及しませんでしたが、唐辛子はすぐにパスタには欠かせないスパイスとなりました。じゃがいももまたニョッキを作るのに必要です。じゃがいもは今後多くの地域で飢饉を防ぎ、人口を増やすのに貢献していますが、新大陸の食材はイタリア料理の基礎をつくる上でも極めて重要でした。

 

さて、イタリア料理といえばトマトです。

なぜ、トマトが重要な食材となったのか?というと、ナポリでトマトソースをいろいろな料理に利用する料理人が多数輩出し、パスタとも結びつくようになったからです。

ナポリはもともと15世紀に人口が急増し、これに肉の供給が追いつかないのでパスタが市民の胃袋を満たす食品として食されていたという歴史がありました。

ナポリでもパスタと一緒に食べられていたのはチーズでしたが、トマトソースの誕生により、ナポリはパスタ業の中心地としてその名を知られていくことになります。

アメリカで非難されたイタリア移民のパスタ

この後、パスタは順調に発展して世界的に有名な料理の地位を獲得することになったのか?というと、実はそうではありませんでした。

近代化の過程において、パスタは一度危機に見舞われています。

 

パスタの強力な敵として台頭してきたのは、アメリカでした。

 19世紀に入ってもイタリア南部の農民は貧しく、多くのイタリア人が移民としてアメリカに渡りましたが、アメリカではイタリア人は激しい差別を受け、その中でパスタもまた蔑視される食べ物となってしまいました。

19世紀末ごろからアメリカは自由と平等を実現した先進国としてイタリアからも仰ぎ見られる存在でしたが、そのアメリカではパスタはなかなか受け入れられず、しばらくは肉料理の付け合せとしての地位に留まっていたのです。

アメリカのソーシャルワーカーはイタリア移民の家庭に入り込み、パスタは栄養に乏しいとしてアメリカの食文化への同化を求め、学会誌では専門家がイタリア移民の食事を攻撃しています。

 

しかも20世紀初頭には、前衛芸術運動の中で生まれた「未来派宣言」において、パスタはイタリア人のモラルを堕落させる悪であるとして攻撃対象になってしまいました。ムッソリーニもパスタはイタリア文化の遅れの象徴として嫌っていたそうです。

しかし結局この運動もパスタを駆逐することはできず、結局全世界に浸透するに至っています。思想などで食生活をコントロールするなど不可能なのでしょう。

パスタはなぜ日本でも受け入れられたのか

順番が前後しますが、本書では最初の章で日本における麺類の歴史とパスタの浸透について簡単にまとめられています。

日本には長きにわたる麺類の食文化があり、1200年台にはまずそうめんが中国から伝わり、後に南宋からはうどんの元になる切麦が伝わっています。

江戸時代には蕎麦も普及し、江戸の飲食店の6割以上がうどんや蕎麦などの麺類の店だったとも言われています。

 

このような土壌があるため、日本では一種の「国民食」としてパスタが定着したと本書では書かれています。

一時は栄養に乏しいとして学者にすら批判され、イタリアの堕落の元とまで言われたパスタは見事な復活を遂げ、東洋の島国にまでたどり着きました。

結局、インテリがどう言おうが、美味しいものには誰も勝てない。

食文化の持つ底力について考えさせられる一冊です。