カクヨムが3月1日でサイトオープン1周年を迎えた。
割と大きな期待を背負って始まったサイトだと思うが、曲がりなりにも自分もここで1年間活動してきたので、過去を振り返りつつカクヨムについて思うところなどをまとめてみたいと思う。
カクヨムはウェブ小説の新しい潮流を作れたのか
カクヨムといえばこれ、という代表作に「横浜駅SF」がある。この作品は第1回カクヨムコンテストSF部門で大賞を取り、書籍化された。
ウェブ小説といえば異世界転生、くらいファンタジーが強いイメージがあるが、こうしたSF作品が注目を集めたことはウェブ小説における新しい流れだったのではないかと思う。
カクヨムはSF短編でも『フォルカスの倫理的な死』などの有名作品がある。これは傑作なので、ぜひ読んで欲しい。
こうした明らかに「なろう系」とは異なる作品が出てきてはいるものの、まだまだカクヨムの人口が少ないために、これらの流れはまだ萌芽にとどまっている、というのが現状ではないかと思う。なろう系とはカラーの異なるカクヨムの看板作品といえるものが横浜駅SF以外にももっと必要だが、現段階ではまだ十分ではない。やはりカクヨム内部での人口の少なさが足を引っ張っている。
ファンタジーは相変わらず異世界転生一強
一方、ファンタジーはどうか。
小説家になろうはとにかく異世界転生物が多い。
カクヨムはもっと違うタイプの小説が読まれるようにするべきだ、という声も聞いた。
実際、サイト内容にもっと多様性があるべきだと考えていた人は少なくなかったのではないかと思う。実は自分自身もその一人だ。
しかし、蓋を開けてみると、結局ファンタジー部門では異世界転生物が席巻している。カクヨム全体の累計ランキングも、10位までは横浜駅SF以外は全て転生譚だ。
最もこれはカクヨムの責任とはいえない。ウェブのファンタジーでは相変わらずこういうものを求める人が圧倒的に多いのが実態であり、むしろカクヨムは人が少ない分だけ余計に非転生物を書いている人が報われにくくなっている。
第1回カクヨムコンでもいくつか健闘した非転生作品があったが、結局受賞することはなかった。
それらの作品の質が劣っていたというよりは、転生者に比べて需要がないために勝利できなかったという印象がある。
何しろ、小説家になろうに掲載されていてすでに多くの読者を獲得している作品もこのコンテストには応募していたから、それは当然強いわけだ。
作品自体が読者の多いなろうからファンを連れてくるからだ。
最初期にはカクヨム内部自体の読者が少なかったこともあり(今でも少ないが)、この状況を指して「カクヨムはなろうの植民地なのか」と言っていた人もいる。
カクヨム内部での読者がもっと増えなければ、外からファンを連れてくる人は相変わらず強いだろう。
結局、読者が少ないゆえに、カクヨムのファンタジーはなろう以上に異世界転生の一強状態になっている。これならなろうのほうがまだ多様性があるし、人が多いだけに非転生物でも実際書籍化した作品は少なからず存在する。
現代ドラマでは週間ランキング1位、歴史ジャンルでは2位を獲得
これが自分自身の戦績。
最もそんなに長く居座っていたわけではないし、それこそカクヨムの人口の少なさゆえに可能だったことなのであまり威張れる結果ではない。
鶏口牛後を目指すことができるのは過疎ジャンルならでは。カクヨムでも異世界ファンタジーでは上を目指すのは難しい。
どんなランキングでもいいからトップページに出たいという人は、カクヨムで異世界ファンタジー以外の部門に投稿してみたらいいかもしれない。
現代ドラマやミステリ、ホラー、歴史などは過疎っています。週間ランキング上位作品の星の数の少なさを見れば明らか。
ついでなので上記の戦績を残した自作の宣伝をしておきます。
kakuyomu.jp後の始皇帝である秦王の刺客として名を残した荊軻の物語。「暗殺者」としてではなく一人の人間としての荊軻の像を浮かび上がらせるように心がけてみた。オリキャラを史実にどう混ぜるか?を工夫するのは苦労もあったが楽しかった記憶がある。
kakuyomu.jp4000字以下の短編なのですぐに読めます。内容は書くこと自体がネタバレになるので書けない。どんでん返しがやりたくて書いた話。
現状のカクヨムの問題点
とにかく人がまだまだ少ない、ということに尽きる。
同じファンタジー作品を試しに小説家になろうとカクヨムに投稿してみたところ、なろうのほうがPVは10倍以上多くなった。
非テンプレ作品でも、ファンタジーは今のところなろうに投稿するほうが旨味があるのではないかと思う。
やはりなろうの人口の多さは圧倒的だ。
人が多い分だけ、非テンプレ、非転生作品にも居場所がある。
多様性は結局人口に支えられるので、カクヨムで非転生作品で戦うのはなろう以上に厳しくなってしまっている。
大都会ならマイナーな趣味でも同好の士を見つけられるが地方だとそれが難しいのと同じことだ。
自分自身、今後はファンタジーを書くときは小説家になろうに重点を置くことになるのではないかと思う。
ウェブ小説と評価について
なんだかんだと言って、こういう小説を投稿する場があるというのはありがたいことである。これらの投稿サイトができる前には自サイトや自ブログで作品を宣伝するしかなかったのだろうし、それではかなり厳しい戦いを強いられたことだろう。
投稿サイトがあるおかげで自分でも思った以上に自作を評価してくださる方にも出会えたので、活動してみたことは自分に取り大きくプラスになったと思っている。☆の数を数えたりすることよりも、こうして創作をすることで交流が増えることが何より貴重な財産なのかもしれない。やはり何事もやってみるものだ。
一方、ウェブで評価される作品にはある種の偏りと言うか、癖のようなものがあるとも感じている。自作については何も言う気はないが、他の方の作品ではこんなにいい作品なのに評価が低すぎないか、と思うことがままある。自分の考えるいい作品と、ウェブでの評価が必ずしも一致しない。
そういう作品は、要するにウェブでの需要とマッチしていないのだ。ストーリーも文章もしっかりしていても、ウェブ小説というコンテンツに求められる要素を満たしていないと読まれないし評価もされない。
ウェブ小説、特に「なろう系」と称される作品についてはこういう分析がある。
自分から見ていても、ウェブで人気のファンタジーは転生なり転移した先の「異世界」を主人公がどう攻略するかという物語が人気になっていることが確かに多いと感じる。
なろう小説が時に「ゲームの実況動画」と言われるのもそのためだ。
読まれるかどうかはこういうテイストを持っているかどうかという要素が大きく、文章力やストーリー以前にまずこの「世界をハックする」という部分を満たせているかどうかが人気作となれるかどうかの鍵を握っているように思う。
ただし、なろうは広いのでこの原則に当てはまっていなくてもヒットする作品もないわけではない。やはり人口が多いのはそれだけで可能性ではある。
敗軍の将が兵を語るということ
プロ作家なら、作品が売れなければ真意がどうあれ「私の力不足でした」以外のことは言えないだろう。それ以外のことを言ったら信用にも関わる。
だが、アマチュアは多少はこういうことを語ってもいい気はする。上手く行かなかった理由を人のせいにしろということではなく、「こういう理由で心が折れた」「この環境ではモチベーションが上がらない」といった声を聞けるのもウェブならではだと思っている。よく「ネットで人生のネタバレが進んだ」と言うことを言う人がいるが、成功者の声しか聞けないウェブというのも味気ない。
あまり呪いを周囲に撒き散らされても困るが、賛同するかどうかは別として、挫折する人の気持ちというのも理解できる人間でありたいものだ。小説というのは色々な人間を書かなければいけないのだから、敗者となった人、諦めてしまった人の気持ちなど一顧だにしないという姿勢が良いとは思えない。
挫折するという経験はステージに上っている人にしかできない。その後も創作を続けるにせよ断念するにせよ、それは得難い経験だろう。
「自分は今どういうゲームをプレイしているのか」を考え続ける
一般論として周りから高く評価される方がいいに決まっているし、誰だって評価が欲しくて創作をしている。
しかしその求める評価というのがどれくらいなのかは個人差がある。
絵を描くにしても必ずしも神絵師を目指さなくてもいいし、人気作家を目指さなくてもいい。
とにかく好きな作品を書ければいいのか、周囲の人数人に褒められればいいのか、書籍化まで行かなければいけないのか。創作に決まったゴールはないし、自分がどんなゲームをプレイしているのかは自分で好きに決めればいい。
ただし、人は自分自身にだけは絶対にウソを付くことができない。
どうすれば自分は満足なのか?ということを、常に自分に問い続けることが大切だ。
批評家マインドは創作意欲を殺す
ここ一年ばかり、創作とはある意味「バカになる」ことができないと難しいということを痛感した。こんな話のどこが面白いのか?似たような話はすでにいくらでもあるのではないのか?といったことを考えすぎると何も書けなくなる。
こうした突っ込みは作品の質を向上させるために必要なこともあるが、あまり自分を批評家的な立場に置くと批評の矢が自作にも向いてしまい、創作意欲が冷めてしまう。
どうせ他人は好きなことを言ってくるのだから、せめて自分自身だけでも徹底して自作の味方であれ。メタに構えて自分自身すら冷笑の対象にするようになると、ベタに行動することができなくなる。踊る阿呆になれ。
いちばん大事なのはメンタルの管理
カクヨムで活動を始める前にはなろうで半年ほど活動していたが、計一年半の活動を通じて思うのは、創作活動には結局メンタルの管理が一番重要、ということだ。
人は心が折れてしまったら何もできなくなる。創作で心が折れないためには、自分で自分を鼓舞していくことも大事だが、もっと大事なのは創作仲間を作ることだ。やはり人間一人だけで頑張るのには限界がある。
どんなことでもそうだが、人間楽しくもないことに多大なリソースは費やせない。創作が楽しくなくなるのは、多くの場合反応が得られないことだ。作者同士での交流を増やしていくことでここはある程度解決できる。もちろん作品の質自体を挙げていくことも大事だが、モチベーションが落ちたらそもそも書くことができない。
他者の作品に寛容であることも大事だ。人を酷評ばかりしていたら、その評価は結局自分自身にも跳ね返ってくる。これは単に社交辞令上の話ではなく、自分のマインドを良好に保つ上でも大事だ。他人の失敗が許せないなら自分の失敗も許せないし、結局一歩を踏み出すハードルがどこまでも高くなるだけのことだ。失敗することを自分に許せないなら人の作品の批評だけやっていればいい。
結局、強制でもされない限り人間は楽しいことしか続けられないので、「どうすれば楽しんで書けるか」を追求することが必要だ。書くのが楽しくなくなったなら読む方に専念するか、いっそしばらく小説から離れてみるのも一つの手。それでもまたやりたくなったら何か書けばいい。