明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

おんな城主直虎12回感想:高橋一生の演技力が凄味を増す一方

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最近このドラマの評価が自分の中でどんどん上がっていますが、今回も緊迫感に満ちた良い回だったと思います。
やはり特筆すべきは高橋一生の演技力。表情が完全に吹越満と同じになっている辺りに凄味を感じます。結局政次は父の予言通り、政直と同じ道を歩み始めました。

同じ目付けでも新野左馬助とは全く違います。

ところで、新野左馬助が鼻に碁石を詰められていたのはアドリブだろうか?

 

政次は月代を剃りましたが、これはいよいよ少年時代と訣別したということでしょうね。
次郎のもとに戻ってきたのはもう鶴ではありません。
井戸の傍で次郎の手を払いのけるあたり、もう次郎と政次の間には埋められない溝ができてしまいました。


いつもふてぶてしい態度の南渓や冷静な傑山が号泣している辺りも、いかに直親の死が重かったかを感じさせます。
この後、直平や中野直由まで死んでしまっていますが、ここまでの危機に見舞われる大河が今まであったのか?と言うくらいにどうしようもない状況に陥っています。


以前、こんなに次々と主要人物が退場していっては花燃ゆの二の舞いではないのかと思っていましたが、このドラマに関しては不思議と悪い予感はしません。ここ数話でかなりいい話作りをしていますし、死んでいったのも特に有名な人物ではないのであまり惜しい感じがしないからというのもあります。まあ、それでも直親がいなくなってしまったのは痛すぎますが……そうでなければ直虎の出番もないですからね。


幼いころ、おとわは「我が亀の代わりに太刀も履く。戦にも出る」と言っていたことを思い出して自分が亀の代わりになることを思い出すのですが、これはもしかして直虎が合戦に出るような場面もあるということでは?と予想しています。自分で戦わなくても甲冑を身につける場面くらいはあるでしょう。井伊谷はこの後武田家にも攻められるわけですし、なんといっても直虎は城主ですから。


もはや直虎には頼れる人物が南渓くらいしかいなくなってしまいましたが、来週からは井伊家の内政をどう取り仕切るかが問題になってくるようです。いよいよ徳政令の話になるか?

女性当主で頼れる家臣もなく政次も黒政次化、そして新たに乗り込んできた近藤康用菅沼忠久鈴木重時の3人もまず味方という感じではないという相変わらずの縛りプレイ状態。

直虎はこれから虎松(井伊直政)が成人するまで井伊家を支え続けなければいけません。ここからがいよいよ本番です。

おんな城主直虎11回「さらば愛しき人よ」感想:また一人見送らなくてはならない

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瀬名を助けに来たのは家康の家臣、石川数正でした。
瀬名は一命をとりとめ、竹千代も助かりましたがこの後今川家での陰謀が動き出します。
家臣が次々と離反することに悩む氏真に向かって「事が起きる前に握り潰せ」と言う寿桂尼
この後に起きることの主犯はこの人でしょう。


そして政次と今後のことを相談する直親。
政次も直親も今川からは離れるということで意見は一致しています。
選択の余地はないので元康と接触することを決める直親。
そんな折、元康からの使者がやってきます。


松平元康から書状が届いたので、直接会いに行く直親。
しかしこの元康は今川の家臣が化けた偽物でした。
直親は直接感状をもらったことを喜びますが、これは罠でした。
結局政次は駿府に呼び出され、寿桂尼に真相を問いただされます。
嵌められたことに気付いた政次は、「私は今川家の目付です」と答えることしかできない。


今川家が軍勢を繰り出してきたため、弁明のため駿府に行くことを決意した直親。
しかし道中ではすでに今川の手の者が待ち伏せしていて……という流れ。

このような策を仕掛けてくるあたり、今川も相当焦っているということでしょう。


来週はいよいよ直親が死んでしまい、井伊直虎が誕生するということですが、結局直親の人生とは何だったのか?
直政を残したことが、井伊家で為したほぼ唯一の仕事ということになってしまいそうです。
おとわとの想い出が唯一の美しい思い出だと語った直親。
父を今川家に殺され、しばらく潜伏した後自分も今川に謀殺されてしまうこの人は何を思い死んでいったのかと思わずにはいられません。

「生きていれば好機はある」と言われても、もう生きてられないわけですからね……

直平の「もう見送るのは嫌じゃ」の一言があまりにも重い。


今週も先週に続き、直虎は瀬名と竹千代を人質にして元安の助力を仰ぐという策を思いつきますが、結局瀬名が協力してくれなかったので実行には至らず。
こうした直虎の発想力や行動力が、来週からはいよいよ生かされるということでしょうか。
しかしまあ、直親がいなくなってしまったので視聴率的には相変わらず厳しいかもしれないですね。

 

 

直虎が今後どうやって井伊家を切り盛りしていくのか?が見どころになると思われますが、女性当主であることやあまり有能そうな家臣もいないところを考えると、結局今後の井伊家の舵取りも厳しそうです。

あまり胸のすく展開などは期待できないでしょう。

今後は元康との関係も強くなっていくものと思われますが、直政が成長するまで直虎がこの困難な時期の井伊家をどう維持していくのか、しばらく見守りたいと思います。

おんな城主直虎の視聴率の推移について

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saavedra.hatenablog.com

おんな城主直虎の10話については、当ブログでは非常に高く評価しているのですが、残念ながら視聴率という点では苦戦しています。前回の視聴率は12.5%と、前々回の14.0%をさらに下回ってしまいました。

 

headlines.yahoo.co.jp

これはWBCと重なったからという要因もあるでしょうが、ドラマが面白くないと感じたから直虎からWBCにチャンネルを変えた人もいたかもしれないので、その場合はやはり多くの視聴者があまりこのドラマを評価していないということになってしまいます。

 

同じく視聴率の振るわなかった『平清盛』は歴史好きな人からは高く評価されています。視聴率とドラマの質は必ずしも比例しません。

質の高い内容でも、視聴者が求めるわかりやすい要素がそこになければ、やはりウケない。

確かにカタルシスを得られる物語ではない

おんな城主直虎に関していえば、直虎を中心に直親と政次との三角関係でも描けばある方面の人達からのウケは良くなるかもしれませんが、安易にそういう内容にしなかったことは良かったと思っています。

寿桂尼も都合良く情にほだされて瀬名を助けたりしないし、次郎法師は有能なところを見せつつも肝心なところでは役に立たない。

こういう点は良いところだと思っているのですが、多くの視聴者にとってはストレスの貯まるところなのかもしれないですね。

 

チート能力を持った主人公が異世界で無双する、といった体の物語が書店の一角を占めているところからも分かる通り、今はノンストレスで主人公の活躍を読める作品が強く求められている時代なのかもしれません。

これは労働者に求められる仕事の質が日々高まっていて、現代日本が多大なストレスのかかる社会になっていることとも無関係ではないでしょう。

いや、何も現代だけのことではありません。

今では高尚な作品扱いの司馬遼太郎作品だって、そうした作品との共通点は多々あるわけです。

togetter.com

結局のところ、多くの場合、娯楽作品とは視聴者の願望充足装置であるわけです。

お金や時間を使ってドラマを見て、わざわざストレスを味わいたくはありません。

そういう点から考えると、おんな城主直虎では今後もストレスのかかる展開が続くだろうし、視聴率という点では苦戦が続くのかもしれません。

直虎は有能ですが、一騎当千の武将でも智謀に長けた策略家でもないので、あまりカタルシスを得られるような場面は期待できそうにないからです。

井伊家が今川家や武田家などの大国の狭間で苦労し続けるのは史実ですし。

井伊直政が前面に出てくれば変わるかもしれませんが……

 

ある種の「縛りプレイ」を楽しむ物語

イケメン二人がどうこうなんて話ではなく、僕はおんな城主直虎が楽しめるのはある種の「縛りプレイ」が好きな人ではないかと思っています。

信長の野望でいえば、武田家のような有能な武将がたくさんいる勢力でどんどん領国を広げるような遊び方はもう飽きたという人。

能力値が50~60台くらいの武将しかいない弱小勢力でどう生き残るか?というシミュレーションがしたい人なら、このドラマは面白いのではないかと思います。

うん、やはり一般向けじゃありませんね、これは。

 

弱小勢力である国衆がどうやって生き残りを図るのか?というドラマになっているという点では真田丸の前半と同じなのですが、井伊家は真田家と違って当主が桶狭間で戦死、残った一族や家臣にも井伊家全体をうまく舵取りしていけるほどの人物がおらず、そこをこれから直虎がどうにかできるのか?というところ。

そもそも真田昌幸が大名にのし上がれたのは武田家がすでに崩壊してしまっているからですが、井伊家はまさにこれから最盛期を迎えようとする武田家を相手にしなければいけません。

 

ネタバレになるので書きませんが、井伊家の人物は今後さらに何人も死んでしまいます。

この危機に瀕する井伊家を、「おんな城主」である直虎がどう舵取りしていくのか?

これはそういう物語です。

 

「女大河」をどう考えるか

時代劇では女性を主人公にすると、いろいろな物語上の制約がつきまといます。

男性中心の世界ではどうしても出番が限られる、戦争には出られない(例外はありますが)、無理に出番を増やそうとすると史実からはみ出してしまう、など。

ですが直虎に関してはそもそも当主になるのですから直虎を中心とした物語でも問題はないし、なんなら合戦に出したって別にいいと思っています(そんな場面があるとは思えませんが)。

この時代で女性であるということもまた、一種の縛りプレイみたいなものですね。

 

無骨な男達が戦場を駆けるようなドラマを期待している人からすれば、女性が主人公である時点でどうしても物足りなさを感じてしまうところはあると思います。

韓国の時代劇などでは女性主人公のドラマはたくさんありますが、こちらはフィクション度を高めることでエンターテイメント性を増しているので、同じ手法を大河ドラマでもできるかどうかと言われると難しいところです。

ただ、僕はおんな城主直虎に関しては、このただでさえ困難な時代を、直虎がどう切り抜けていくのか?という点に大いに注目しています。

多くのハンデを背負った状態での城主の奮闘には、真田昌幸や信繁のような有名な武将の活躍とはまた違った味わいがあると信じたいところです。

現在の視聴率の流れ

第11回「さらば愛しき人よ」の視聴率は13.7%と、前回に比べればかなり盛り返しました。裏番組との関係もあるでしょうが、いよいよ直親の命が危ないという危機感も手伝っているようです。来週はいよいよ直親が最後を迎えてしまうのでもう少し視聴率も伸びそうな気がしますが、三浦春馬さんがいなくなったら見どころがひとつ減ってしまうのではないか?という懸念もあります。

 

とはいえ、その辺は直虎の活躍で埋め合わせることもできるだろうし、そのあたりは脚本次第だと思います。来週以降は直虎がいよいよ前面に出てくるでしょうが、その前に直平(前田吟)の死をどう描くのか?にも注目したいと思います。ネタバレになるので書きませんが、この人の最期も悲しいものがあります。

おんな城主直虎10話「走れ竜宮小僧」感想:井伊家の内情を丁寧に描いた内容に好感。今後に期待大

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前回は奥山のキレ方など今ひとつよくわからない点が多かったんですが、今回はかなり良い内容だったと思います。非常に見応えがありました。

直親の政治的判断


結局奥山を斬り死なせてしまった政次。
しのは政次の厳しい処分を求めるが、床についた傷から斬りつけたのは足の悪い奥山朝利であると冷静な判断を下す直親。このあたり「名君」としての片鱗も感じさせる。この資質が直政にも受け継がれているということでしょうかね。直親には奥山家と小野家の繋がりを絶たないための高度な政治的判断ができる。

奥山は直親にとっては義理の父に当たります。本当の父である直満が小野政直により死に追いやられた過去を思い出しつつも、それでも己を律して事に当たることができ、反小野派を抑えることもできる直親の器量はなかなかのものです。


なつは奥山の娘でありながら小野の名代として直親に政次の言い分を伝える。なつが実家に戻りたくないのは小野家での待遇が良かったからでしょう。なつが父が死んでいるにも関わらず政次の味方をするのは政次に私心がないことをよく知っているからだと思います。もちろん奥山家と小野家の仲立ちになりたい、ここで井伊家を混乱させたくないという思いがあるでしょうが、そうする気になるのも政次のことをよく理解できているから。


結局直親は政次には何の罰を与えることもなく事は終了。しかし井伊家中での政次への不満は治まらないので次郎法師は政次に写経をさせ、反省の姿勢を見せることを思いつきます。いよいよ次郎法師の有能さが前面に出てきました。その甲斐あって中野直由も政次に好感を示し始めます。

奥山の怨霊が出るから写経をした方がいい、と次郎法師が言い出すのは尼僧である設定を活かした上手い描写。


そして井伊家では待望の嫡子が誕生。虎松、後の井伊直政
政次からは祝いとして直満の所領を直親に変換することに。
政次は子供の頃からわだかまっていた感情をここでようやく解消する。

「鶴」「亀」とお互いを幼名で呼び合う二人は、この時だけでも子供時代の心情に戻れていたのかもしれません。

政次と直親の間に立ちはだかる壁が少しづつ低くなっていく描写、地味ながら丁寧でとても良いと思います。

尼僧の立場を上手く活かしたシナリオ作り


一方、松平元康が次々と所領を増やし、今川家に反旗を翻したために瀬名姫の身に危機が迫ります。
瀬名姫の助命のために次郎法師は寿桂尼の元を訪れますが、その場で寿桂尼の孫が元康のために殺されたことを使者が報告してきたため助命嘆願は失敗。
こうした展開はともすれば「江」のような強引さを孕んでしまいますが、ご都合主義にならないいぎりぎりの線で上手く留めていたと思います。
瀬名と竹千代を助けてほしければ元康を説得してこいという寿桂尼に対し、それなら瀬名と竹千代を連れて行くという次郎法師の切り返しも見事。次郎法師は寿桂尼に匹敵する「おんな城主」としての器量があることをきっちりと描いています。


それにしても、1年もたっても元康から何の音沙汰もないということは、元康は瀬名のことは大して好きでもないんでしょうかね。仮にそうだとしても竹千代の立場は……?大事な跡継ぎを死なせてもいいんでしょうか。子供はまた作ればいいと思っているのだろうか。

瀬名と竹千代に今後待ち受けている運命を思うと、ここの描写は色々と考えさせられるものがあります。

 

次郎法師が瀬名に引導を渡すという話も、直虎が尼僧だったという史実を上手く活かしたシナリオになっていると思います。まだ引導を渡していないという次郎法師の時間稼ぎは結局失敗しましたが、最後に駆け込んできたのは元康?直親?

 

saavedra.hatenablog.com

有名人物を描くだけが大河ドラマではない


このブログでは以前、直虎の人生がほぼ井伊谷の中で終わることからスケールの小さい大河になってしまうのではないかという懸念を示していましたが、「大国の動乱の渦に巻き込まれる国衆の苦闘」という観点からの大河も面白いものだなと今回の放送で認識を新たにしました。

上記のエントリでは有名な人物がいないので話が盛り上がらないのではないかとも書きましたが、やはりここはシナリオ次第だなと思わされました。考えてみれば、真田昌幸や信繁のような有名人物は、少し歴史に詳しければその生涯はだいたい知っています。もちろん結果が同じでも過程をどう描くかというのが脚本家の腕の見せ所ですが、やはり有名人を描くだけが大河ドラマではありません。井伊家は現時点ではほとんどがマイナーな人物ばかりですが、井伊家が有名で有能な人物ばかりならそもそも直虎の出番がないのです。

 

真田丸では昌幸が混沌として状況を逆に利用して乱世を乗り切る様が描かれましたが、井伊家にはここまでしたたかな人物がいません。しかしその分だけ、国衆の悲哀や大国の状況に振り回される弱者の視点からの戦国時代がよく見えてきます。荒波に揺られる小舟のような井伊家の姿をしっかり描けているので、これは次回からの放送も大いに期待できそうです。

けものフレンズ9話感想:少しづつ増えてくる情報にますます目が離せない

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ゆきやまちほーの新フレンズはキタキツネとギンギツネ、そしてカピバラ
今回はすごく情報量が多くて、とても全部は書ききれない。
カピバラといえば温泉、というわけで今回は温泉回。

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サーバルはサバンナの生き物なので寒さには弱いが、かばんちゃんは割と平気。
適応できる範囲が割と広いのもヒトの特徴。
かまくらを作ってで寒さをしのいでいるうちに、キツネたちが壁から顔を出す。
当人は狩りの習性だと言っているけれど、ジャパリまんのあるジャパリパークでは狩りの必要がない。
どのフレンズも動物だったときの習性を残しているのは同じ。


ギンギツネの案内で温泉に入る時、初めて自分達の衣服が脱げることを知るフレンズ。
あの服は「ああいう姿の生き物」なのではなく、本当に着ているものだった。
服を着るということは人間しかしない行為なので、やはりフレンズはヒト化している。
しかし服が脱げることを知らないあたりはまだ動物。

 


キタキツネの口からは「湯の花が多いときはセルリアンも多い」という情報が示される。
ボスの口からも「セルリアンはサンドスターを食べているので、フレンズが食べられると元の動物の姿に戻るか消滅する」と告げられる。
「ミライ」とは一体誰なのか?おそらくは人間だろうけれど。

人間なら、人間にもジャパリパークの仕組みがよくわかっていないということになる。

 


桶と板を使って即席のそりを作り、セルリアンの襲来から逃げるかばんちゃん一行。
ヒトの知恵が今回も存分に発揮される。
そしてその知恵の実行には他のフレンズの力を借りることが必要なのは今回も同じ。
ヒトと他のフレンズの関係は並列で、ヒトが上に立っているわけではない。

 


そしてまた重要情報が追加されるCパート。
火山の噴火でサンドスターが増え、新しいフレンズが生まれることが予想される。
フレンズはサンドスターが動物に当たると生まれる。
あるいは「動物だったもの」に当たっても生まれるとプリンセスペンギンは指摘しているが、「動物だったもの」とは骨や化石だろうか?
サーベイは「ジャイアントペンギンはそのタイプ」とも言っている。
「歴史の重み」があるとペパプの皆が言っているあたり、ジャイアントペンギンは古い化石からできたということだろうか。

逆にいえば、今のペパプは動物にサンドスターが当たってできたフレンズということになる。

ジャパリパークにはまだ動物がいる?

 

 


サンドスターを生む火山が神聖な場所で博士の許可がないと立ち入れないのは、この場所がジャパリパークの秘密の鍵を握っているからだろう。
博士たちはまだ隠していることがあるかもしれない。

1年間のカクヨムでの活動を振り返ってみる。小説家になろうとの比較など

カクヨムが3月1日でサイトオープン1周年を迎えた。

割と大きな期待を背負って始まったサイトだと思うが、曲がりなりにも自分もここで1年間活動してきたので、過去を振り返りつつカクヨムについて思うところなどをまとめてみたいと思う。

 

カクヨムはウェブ小説の新しい潮流を作れたのか

カクヨムといえばこれ、という代表作に「横浜駅SF」がある。この作品は第1回カクヨムコンテストSF部門で大賞を取り、書籍化された。

ウェブ小説といえば異世界転生、くらいファンタジーが強いイメージがあるが、こうしたSF作品が注目を集めたことはウェブ小説における新しい流れだったのではないかと思う。

 

カクヨムはSF短編でも『フォルカスの倫理的な死』などの有名作品がある。これは傑作なので、ぜひ読んで欲しい。

 

kakuyomu.jp

こうした明らかに「なろう系」とは異なる作品が出てきてはいるものの、まだまだカクヨムの人口が少ないために、これらの流れはまだ萌芽にとどまっている、というのが現状ではないかと思う。なろう系とはカラーの異なるカクヨムの看板作品といえるものが横浜駅SF以外にももっと必要だが、現段階ではまだ十分ではない。やはりカクヨム内部での人口の少なさが足を引っ張っている。

ファンタジーは相変わらず異世界転生一強

一方、ファンタジーはどうか。

小説家になろうはとにかく異世界転生物が多い。

カクヨムはもっと違うタイプの小説が読まれるようにするべきだ、という声も聞いた。

実際、サイト内容にもっと多様性があるべきだと考えていた人は少なくなかったのではないかと思う。実は自分自身もその一人だ。

 

しかし、蓋を開けてみると、結局ファンタジー部門では異世界転生物が席巻している。カクヨム全体の累計ランキングも、10位までは横浜駅SF以外は全て転生譚だ。

最もこれはカクヨムの責任とはいえない。ウェブのファンタジーでは相変わらずこういうものを求める人が圧倒的に多いのが実態であり、むしろカクヨムは人が少ない分だけ余計に非転生物を書いている人が報われにくくなっている。

第1回カクヨムコンでもいくつか健闘した非転生作品があったが、結局受賞することはなかった。

それらの作品の質が劣っていたというよりは、転生者に比べて需要がないために勝利できなかったという印象がある。

 

何しろ、小説家になろうに掲載されていてすでに多くの読者を獲得している作品もこのコンテストには応募していたから、それは当然強いわけだ。

作品自体が読者の多いなろうからファンを連れてくるからだ。

最初期にはカクヨム内部自体の読者が少なかったこともあり(今でも少ないが)、この状況を指して「カクヨムはなろうの植民地なのか」と言っていた人もいる。

カクヨム内部での読者がもっと増えなければ、外からファンを連れてくる人は相変わらず強いだろう。

 

結局、読者が少ないゆえに、カクヨムのファンタジーはなろう以上に異世界転生の一強状態になっている。これならなろうのほうがまだ多様性があるし、人が多いだけに非転生物でも実際書籍化した作品は少なからず存在する。

現代ドラマでは週間ランキング1位、歴史ジャンルでは2位を獲得

これが自分自身の戦績。

 

最もそんなに長く居座っていたわけではないし、それこそカクヨムの人口の少なさゆえに可能だったことなのであまり威張れる結果ではない。

鶏口牛後を目指すことができるのは過疎ジャンルならでは。カクヨムでも異世界ファンタジーでは上を目指すのは難しい。

 

どんなランキングでもいいからトップページに出たいという人は、カクヨムで異世界ファンタジー以外の部門に投稿してみたらいいかもしれない。

現代ドラマやミステリ、ホラー、歴史などは過疎っています。週間ランキング上位作品の星の数の少なさを見れば明らか。

 

ついでなので上記の戦績を残した自作の宣伝をしておきます。

kakuyomu.jp後の始皇帝である秦王の刺客として名を残した荊軻の物語。「暗殺者」としてではなく一人の人間としての荊軻の像を浮かび上がらせるように心がけてみた。オリキャラを史実にどう混ぜるか?を工夫するのは苦労もあったが楽しかった記憶がある。

 

kakuyomu.jp4000字以下の短編なのですぐに読めます。内容は書くこと自体がネタバレになるので書けない。どんでん返しがやりたくて書いた話。

 

現状のカクヨムの問題点

とにかく人がまだまだ少ない、ということに尽きる。

同じファンタジー作品を試しに小説家になろうカクヨムに投稿してみたところ、なろうのほうがPVは10倍以上多くなった。

非テンプレ作品でも、ファンタジーは今のところなろうに投稿するほうが旨味があるのではないかと思う。

やはりなろうの人口の多さは圧倒的だ。

人が多い分だけ、非テンプレ、非転生作品にも居場所がある。

 

多様性は結局人口に支えられるので、カクヨムで非転生作品で戦うのはなろう以上に厳しくなってしまっている。

大都会ならマイナーな趣味でも同好の士を見つけられるが地方だとそれが難しいのと同じことだ。

自分自身、今後はファンタジーを書くときは小説家になろうに重点を置くことになるのではないかと思う。

ウェブ小説と評価について

なんだかんだと言って、こういう小説を投稿する場があるというのはありがたいことである。これらの投稿サイトができる前には自サイトや自ブログで作品を宣伝するしかなかったのだろうし、それではかなり厳しい戦いを強いられたことだろう。

投稿サイトがあるおかげで自分でも思った以上に自作を評価してくださる方にも出会えたので、活動してみたことは自分に取り大きくプラスになったと思っている。☆の数を数えたりすることよりも、こうして創作をすることで交流が増えることが何より貴重な財産なのかもしれない。やはり何事もやってみるものだ。

 

一方、ウェブで評価される作品にはある種の偏りと言うか、癖のようなものがあるとも感じている。自作については何も言う気はないが、他の方の作品ではこんなにいい作品なのに評価が低すぎないか、と思うことがままある。自分の考えるいい作品と、ウェブでの評価が必ずしも一致しない。

そういう作品は、要するにウェブでの需要とマッチしていないのだ。ストーリーも文章もしっかりしていても、ウェブ小説というコンテンツに求められる要素を満たしていないと読まれないし評価もされない。

 

ウェブ小説、特に「なろう系」と称される作品についてはこういう分析がある。

togetter.com

自分から見ていても、ウェブで人気のファンタジーは転生なり転移した先の「異世界」を主人公がどう攻略するかという物語が人気になっていることが確かに多いと感じる。

なろう小説が時に「ゲームの実況動画」と言われるのもそのためだ。

読まれるかどうかはこういうテイストを持っているかどうかという要素が大きく、文章力やストーリー以前にまずこの「世界をハックする」という部分を満たせているかどうかが人気作となれるかどうかの鍵を握っているように思う。

 

ただし、なろうは広いのでこの原則に当てはまっていなくてもヒットする作品もないわけではない。やはり人口が多いのはそれだけで可能性ではある。

敗軍の将が兵を語るということ

プロ作家なら、作品が売れなければ真意がどうあれ「私の力不足でした」以外のことは言えないだろう。それ以外のことを言ったら信用にも関わる。

 

だが、アマチュアは多少はこういうことを語ってもいい気はする。上手く行かなかった理由を人のせいにしろということではなく、「こういう理由で心が折れた」「この環境ではモチベーションが上がらない」といった声を聞けるのもウェブならではだと思っている。よく「ネットで人生のネタバレが進んだ」と言うことを言う人がいるが、成功者の声しか聞けないウェブというのも味気ない。

 

あまり呪いを周囲に撒き散らされても困るが、賛同するかどうかは別として、挫折する人の気持ちというのも理解できる人間でありたいものだ。小説というのは色々な人間を書かなければいけないのだから、敗者となった人、諦めてしまった人の気持ちなど一顧だにしないという姿勢が良いとは思えない。

挫折するという経験はステージに上っている人にしかできない。その後も創作を続けるにせよ断念するにせよ、それは得難い経験だろう。

「自分は今どういうゲームをプレイしているのか」を考え続ける

一般論として周りから高く評価される方がいいに決まっているし、誰だって評価が欲しくて創作をしている。

しかしその求める評価というのがどれくらいなのかは個人差がある。

絵を描くにしても必ずしも神絵師を目指さなくてもいいし、人気作家を目指さなくてもいい。

 

とにかく好きな作品を書ければいいのか、周囲の人数人に褒められればいいのか、書籍化まで行かなければいけないのか。創作に決まったゴールはないし、自分がどんなゲームをプレイしているのかは自分で好きに決めればいい。

ただし、人は自分自身にだけは絶対にウソを付くことができない。

どうすれば自分は満足なのか?ということを、常に自分に問い続けることが大切だ。

saavedra.hatenablog.com

批評家マインドは創作意欲を殺す

ここ一年ばかり、創作とはある意味「バカになる」ことができないと難しいということを痛感した。こんな話のどこが面白いのか?似たような話はすでにいくらでもあるのではないのか?といったことを考えすぎると何も書けなくなる。

こうした突っ込みは作品の質を向上させるために必要なこともあるが、あまり自分を批評家的な立場に置くと批評の矢が自作にも向いてしまい、創作意欲が冷めてしまう。

 

どうせ他人は好きなことを言ってくるのだから、せめて自分自身だけでも徹底して自作の味方であれ。メタに構えて自分自身すら冷笑の対象にするようになると、ベタに行動することができなくなる。踊る阿呆になれ。

 

いちばん大事なのはメンタルの管理

カクヨムで活動を始める前にはなろうで半年ほど活動していたが、計一年半の活動を通じて思うのは、創作活動には結局メンタルの管理が一番重要、ということだ。

人は心が折れてしまったら何もできなくなる。創作で心が折れないためには、自分で自分を鼓舞していくことも大事だが、もっと大事なのは創作仲間を作ることだ。やはり人間一人だけで頑張るのには限界がある。

 

どんなことでもそうだが、人間楽しくもないことに多大なリソースは費やせない。創作が楽しくなくなるのは、多くの場合反応が得られないことだ。作者同士での交流を増やしていくことでここはある程度解決できる。もちろん作品の質自体を挙げていくことも大事だが、モチベーションが落ちたらそもそも書くことができない。

 

他者の作品に寛容であることも大事だ。人を酷評ばかりしていたら、その評価は結局自分自身にも跳ね返ってくる。これは単に社交辞令上の話ではなく、自分のマインドを良好に保つ上でも大事だ。他人の失敗が許せないなら自分の失敗も許せないし、結局一歩を踏み出すハードルがどこまでも高くなるだけのことだ。失敗することを自分に許せないなら人の作品の批評だけやっていればいい。

 

結局、強制でもされない限り人間は楽しいことしか続けられないので、「どうすれば楽しんで書けるか」を追求することが必要だ。書くのが楽しくなくなったなら読む方に専念するか、いっそしばらく小説から離れてみるのも一つの手。それでもまたやりたくなったら何か書けばいい。

英雄たちの選択 坂上田村麻呂についてのメモ

もう3回位放映されているが、興味深い内容だったのでメモ。


田村麻呂の選択は降伏してきたアテルイの命を助けるかどうかという点。
なぜ阿弖流為が命乞いなどをしてきたのか?という考察が面白かった。
里中美智子説はアテルイは本来死ぬ気だったが、田村麻呂が生きるようアテルイに持ちかけたというもの。
アテルイを生かして蝦夷への指導力を発揮させたほうが東北の統治もうまくいきそうだし、何より信頼関係のあったアテルイを殺す気にはなれなかった。


これに対して司会の磯田道史が持ち出した「ブラック田村麻呂」説。
これはアテルイが命乞いをしてきたと喧伝することにより、アテルイのカリスマ性を破壊して、代わりに田村麻呂自身が頼りになる指導者として登場するというシナリオ。
アテルイを生かしておいても権威がなくなるし、天武が死刑にしろと言ったら死刑にすればいいのでどう転んでも田村麻呂は得をする。


この磯田説には宮崎哲弥もあり得ると半ば賛同している。
というのは、田村麻呂は天武に逆らってアテルイの助命を嘆願したにも関わらず出世を続けているから。
事の真相はわからないが、これもありえない話ではない。

田村麻呂が今でも東北の人間からある種の尊敬を集めているのは、田村麻呂がアテルイを助けようとしたことが関係しているはずだ。
しかし、その目的が実はアテルイの権威失墜にあったとすれば、田村麻呂は極めて狡猾な人物だったということになる。

 

田村麻呂の実像はどちらだっただろうか?

個人的には、田村麻呂はアテルイの権威を利用したかったのではないかと思う。

広大な蝦夷の領域を田村麻呂一人では統治できないので、アテルイという実力者を通じて間接的に朝廷の力を及ぼした方がいいと考えたのではないだろうか。


いずれにせよ田村麻呂はエミシの文化を破壊せずに残した。
蝦夷奥州藤原氏が登場する頃まで存在し続け、それ以降は北海道が「エゾ」の島になる。
もののけ姫ではアシタカが「エミシの少年」と言われているが、室町時代ではもうエミシとは呼ばなくなっているのであくまでファンタジーの話である。