明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなど

おんな城主直虎14回『徳政令の行方』感想:ここまで内政を丁寧に描く作品は他にはない。

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先週はノロウイルスで倒れていて感想が書けませんでしたが、このドラマは毎回挑戦的なことをやっていて大変素晴らしいと思っています。今回は前回に引き続き徳政令の話でしたが、方久に年貢を納めることになった村人が不満をつのらせて逃散する事態にまで発展してしまいました。

 

前回の方久のわらしべ長者劇場も面白かったですが、ここまで戦国時代の領主の内政をじっくりと描く作品は今までになかったはずです。実はこの日の昼は風林火山も観ていたのですが、確かにクオリティは高いものの内容には少し古さも感じてしまいました。合戦や謀略だけが歴史ドラマではない、ということを直虎を見るうちに強く感じるようになったからです。

 

ただし、この内容は楽しめる人は限られているとも思います。直虎が言っているとおり、「井伊家には人も金もない」という縛りプレイ状態で、前面に出てくるのが領国経営という地味なテーマなので、従来の大河らしさを求める人には合わないでしょう。

 

しかし、このような新しい試みは高く評価したいと思います。そもそも戦国大名も国衆も仕事の大部分は戦争ではなく領国の統治であって、華やかな合戦の影にあってそういう部分の苦労はあまり光が当てられてきませんでした。そこを敢えて正面から描くには、エピソードの少ない直虎が適任だったのではないかと思います。

 

今回の直虎は田植えを手伝って文字通り泥まみれになっていましたが、こういう泥臭い部分から目をそらさずきちんと描こうとする姿勢は支持したいと思います。大河も長年放映しているのだから、時にはこういう新しい視点から光を当てる作品があっても良いはず。

 

民百姓はただ領主から虐げられるだけの弱い存在ではなく、時にはしたたかな交渉者としての一面を見せることを描いているのも好ポイント。歴史とは一面的な見方では割り切れない、ということをきちんと描くシナリオも良いと思います。

headlines.yahoo.co.jpなのでこのような見方は、この作品の本質を何一つ捉えていない、表面的な見方でしかないと思います。

井伊家を支える男達が皆死に絶え、銭の亡者である方久の力にすがらなければ領国経営さえままならない窮状を余すところなく描いている本作は、月9ドラマとは全く対極にあるものです。「時代劇というよりラブコメ」と書かれていますが、今の政次は完全に直虎の敵でしかないのですが、本当にちゃんと観ているの?

 

来週は直虎と寿桂尼の対決のようですが、方久がどう井伊谷を発展させるのか?という部分も描いて欲しいところです。

おんな城主直虎12回感想:高橋一生の演技力が凄味を増す一方

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最近このドラマの評価が自分の中でどんどん上がっていますが、今回も緊迫感に満ちた良い回だったと思います。
やはり特筆すべきは高橋一生の演技力。表情が完全に吹越満と同じになっている辺りに凄味を感じます。結局政次は父の予言通り、政直と同じ道を歩み始めました。

同じ目付けでも新野左馬助とは全く違います。

ところで、新野左馬助が鼻に碁石を詰められていたのはアドリブだろうか?

 

政次は月代を剃りましたが、これはいよいよ少年時代と訣別したということでしょうね。
次郎のもとに戻ってきたのはもう鶴ではありません。
井戸の傍で次郎の手を払いのけるあたり、もう次郎と政次の間には埋められない溝ができてしまいました。


いつもふてぶてしい態度の南渓や冷静な傑山が号泣している辺りも、いかに直親の死が重かったかを感じさせます。
この後、直平や中野直由まで死んでしまっていますが、ここまでの危機に見舞われる大河が今まであったのか?と言うくらいにどうしようもない状況に陥っています。


以前、こんなに次々と主要人物が退場していっては花燃ゆの二の舞いではないのかと思っていましたが、このドラマに関しては不思議と悪い予感はしません。ここ数話でかなりいい話作りをしていますし、死んでいったのも特に有名な人物ではないのであまり惜しい感じがしないからというのもあります。まあ、それでも直親がいなくなってしまったのは痛すぎますが……そうでなければ直虎の出番もないですからね。


幼いころ、おとわは「我が亀の代わりに太刀も履く。戦にも出る」と言っていたことを思い出して自分が亀の代わりになることを思い出すのですが、これはもしかして直虎が合戦に出るような場面もあるということでは?と予想しています。自分で戦わなくても甲冑を身につける場面くらいはあるでしょう。井伊谷はこの後武田家にも攻められるわけですし、なんといっても直虎は城主ですから。


もはや直虎には頼れる人物が南渓くらいしかいなくなってしまいましたが、来週からは井伊家の内政をどう取り仕切るかが問題になってくるようです。いよいよ徳政令の話になるか?

女性当主で頼れる家臣もなく政次も黒政次化、そして新たに乗り込んできた近藤康用菅沼忠久鈴木重時の3人もまず味方という感じではないという相変わらずの縛りプレイ状態。

直虎はこれから虎松(井伊直政)が成人するまで井伊家を支え続けなければいけません。ここからがいよいよ本番です。

おんな城主直虎11回「さらば愛しき人よ」感想:また一人見送らなくてはならない

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瀬名を助けに来たのは家康の家臣、石川数正でした。
瀬名は一命をとりとめ、竹千代も助かりましたがこの後今川家での陰謀が動き出します。
家臣が次々と離反することに悩む氏真に向かって「事が起きる前に握り潰せ」と言う寿桂尼
この後に起きることの主犯はこの人でしょう。


そして政次と今後のことを相談する直親。
政次も直親も今川からは離れるということで意見は一致しています。
選択の余地はないので元康と接触することを決める直親。
そんな折、元康からの使者がやってきます。


松平元康から書状が届いたので、直接会いに行く直親。
しかしこの元康は今川の家臣が化けた偽物でした。
直親は直接感状をもらったことを喜びますが、これは罠でした。
結局政次は駿府に呼び出され、寿桂尼に真相を問いただされます。
嵌められたことに気付いた政次は、「私は今川家の目付です」と答えることしかできない。


今川家が軍勢を繰り出してきたため、弁明のため駿府に行くことを決意した直親。
しかし道中ではすでに今川の手の者が待ち伏せしていて……という流れ。

このような策を仕掛けてくるあたり、今川も相当焦っているということでしょう。


来週はいよいよ直親が死んでしまい、井伊直虎が誕生するということですが、結局直親の人生とは何だったのか?
直政を残したことが、井伊家で為したほぼ唯一の仕事ということになってしまいそうです。
おとわとの想い出が唯一の美しい思い出だと語った直親。
父を今川家に殺され、しばらく潜伏した後自分も今川に謀殺されてしまうこの人は何を思い死んでいったのかと思わずにはいられません。

「生きていれば好機はある」と言われても、もう生きてられないわけですからね……

直平の「もう見送るのは嫌じゃ」の一言があまりにも重い。


今週も先週に続き、直虎は瀬名と竹千代を人質にして元安の助力を仰ぐという策を思いつきますが、結局瀬名が協力してくれなかったので実行には至らず。
こうした直虎の発想力や行動力が、来週からはいよいよ生かされるということでしょうか。
しかしまあ、直親がいなくなってしまったので視聴率的には相変わらず厳しいかもしれないですね。

 

 

直虎が今後どうやって井伊家を切り盛りしていくのか?が見どころになると思われますが、女性当主であることやあまり有能そうな家臣もいないところを考えると、結局今後の井伊家の舵取りも厳しそうです。

あまり胸のすく展開などは期待できないでしょう。

今後は元康との関係も強くなっていくものと思われますが、直政が成長するまで直虎がこの困難な時期の井伊家をどう維持していくのか、しばらく見守りたいと思います。

おんな城主直虎の視聴率の推移について

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saavedra.hatenablog.com

おんな城主直虎の10話については、当ブログでは非常に高く評価しているのですが、残念ながら視聴率という点では苦戦しています。前回の視聴率は12.5%と、前々回の14.0%をさらに下回ってしまいました。

 

headlines.yahoo.co.jp

これはWBCと重なったからという要因もあるでしょうが、ドラマが面白くないと感じたから直虎からWBCにチャンネルを変えた人もいたかもしれないので、その場合はやはり多くの視聴者があまりこのドラマを評価していないということになってしまいます。

 

同じく視聴率の振るわなかった『平清盛』は歴史好きな人からは高く評価されています。視聴率とドラマの質は必ずしも比例しません。

質の高い内容でも、視聴者が求めるわかりやすい要素がそこになければ、やはりウケない。

確かにカタルシスを得られる物語ではない

おんな城主直虎に関していえば、直虎を中心に直親と政次との三角関係でも描けばある方面の人達からのウケは良くなるかもしれませんが、安易にそういう内容にしなかったことは良かったと思っています。

寿桂尼も都合良く情にほだされて瀬名を助けたりしないし、次郎法師は有能なところを見せつつも肝心なところでは役に立たない。

こういう点は良いところだと思っているのですが、多くの視聴者にとってはストレスの貯まるところなのかもしれないですね。

 

チート能力を持った主人公が異世界で無双する、といった体の物語が書店の一角を占めているところからも分かる通り、今はノンストレスで主人公の活躍を読める作品が強く求められている時代なのかもしれません。

これは労働者に求められる仕事の質が日々高まっていて、現代日本が多大なストレスのかかる社会になっていることとも無関係ではないでしょう。

いや、何も現代だけのことではありません。

今では高尚な作品扱いの司馬遼太郎作品だって、そうした作品との共通点は多々あるわけです。

togetter.com

結局のところ、多くの場合、娯楽作品とは視聴者の願望充足装置であるわけです。

お金や時間を使ってドラマを見て、わざわざストレスを味わいたくはありません。

そういう点から考えると、おんな城主直虎では今後もストレスのかかる展開が続くだろうし、視聴率という点では苦戦が続くのかもしれません。

直虎は有能ですが、一騎当千の武将でも智謀に長けた策略家でもないので、あまりカタルシスを得られるような場面は期待できそうにないからです。

井伊家が今川家や武田家などの大国の狭間で苦労し続けるのは史実ですし。

井伊直政が前面に出てくれば変わるかもしれませんが……

 

ある種の「縛りプレイ」を楽しむ物語

イケメン二人がどうこうなんて話ではなく、僕はおんな城主直虎が楽しめるのはある種の「縛りプレイ」が好きな人ではないかと思っています。

信長の野望でいえば、武田家のような有能な武将がたくさんいる勢力でどんどん領国を広げるような遊び方はもう飽きたという人。

能力値が50~60台くらいの武将しかいない弱小勢力でどう生き残るか?というシミュレーションがしたい人なら、このドラマは面白いのではないかと思います。

うん、やはり一般向けじゃありませんね、これは。

 

弱小勢力である国衆がどうやって生き残りを図るのか?というドラマになっているという点では真田丸の前半と同じなのですが、井伊家は真田家と違って当主が桶狭間で戦死、残った一族や家臣にも井伊家全体をうまく舵取りしていけるほどの人物がおらず、そこをこれから直虎がどうにかできるのか?というところ。

そもそも真田昌幸が大名にのし上がれたのは武田家がすでに崩壊してしまっているからですが、井伊家はまさにこれから最盛期を迎えようとする武田家を相手にしなければいけません。

 

ネタバレになるので書きませんが、井伊家の人物は今後さらに何人も死んでしまいます。

この危機に瀕する井伊家を、「おんな城主」である直虎がどう舵取りしていくのか?

これはそういう物語です。

 

「女大河」をどう考えるか

時代劇では女性を主人公にすると、いろいろな物語上の制約がつきまといます。

男性中心の世界ではどうしても出番が限られる、戦争には出られない(例外はありますが)、無理に出番を増やそうとすると史実からはみ出してしまう、など。

ですが直虎に関してはそもそも当主になるのですから直虎を中心とした物語でも問題はないし、なんなら合戦に出したって別にいいと思っています(そんな場面があるとは思えませんが)。

この時代で女性であるということもまた、一種の縛りプレイみたいなものですね。

 

無骨な男達が戦場を駆けるようなドラマを期待している人からすれば、女性が主人公である時点でどうしても物足りなさを感じてしまうところはあると思います。

韓国の時代劇などでは女性主人公のドラマはたくさんありますが、こちらはフィクション度を高めることでエンターテイメント性を増しているので、同じ手法を大河ドラマでもできるかどうかと言われると難しいところです。

ただ、僕はおんな城主直虎に関しては、このただでさえ困難な時代を、直虎がどう切り抜けていくのか?という点に大いに注目しています。

多くのハンデを背負った状態での城主の奮闘には、真田昌幸や信繁のような有名な武将の活躍とはまた違った味わいがあると信じたいところです。

現在の視聴率の流れ

第11回「さらば愛しき人よ」の視聴率は13.7%と、前回に比べればかなり盛り返しました。裏番組との関係もあるでしょうが、いよいよ直親の命が危ないという危機感も手伝っているようです。来週はいよいよ直親が最後を迎えてしまうのでもう少し視聴率も伸びそうな気がしますが、三浦春馬さんがいなくなったら見どころがひとつ減ってしまうのではないか?という懸念もあります。

 

とはいえ、その辺は直虎の活躍で埋め合わせることもできるだろうし、そのあたりは脚本次第だと思います。来週以降は直虎がいよいよ前面に出てくるでしょうが、その前に直平(前田吟)の死をどう描くのか?にも注目したいと思います。ネタバレになるので書きませんが、この人の最期も悲しいものがあります。

おんな城主直虎10話「走れ竜宮小僧」感想:井伊家の内情を丁寧に描いた内容に好感。今後に期待大

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前回は奥山のキレ方など今ひとつよくわからない点が多かったんですが、今回はかなり良い内容だったと思います。非常に見応えがありました。

直親の政治的判断


結局奥山を斬り死なせてしまった政次。
しのは政次の厳しい処分を求めるが、床についた傷から斬りつけたのは足の悪い奥山朝利であると冷静な判断を下す直親。このあたり「名君」としての片鱗も感じさせる。この資質が直政にも受け継がれているということでしょうかね。直親には奥山家と小野家の繋がりを絶たないための高度な政治的判断ができる。

奥山は直親にとっては義理の父に当たります。本当の父である直満が小野政直により死に追いやられた過去を思い出しつつも、それでも己を律して事に当たることができ、反小野派を抑えることもできる直親の器量はなかなかのものです。


なつは奥山の娘でありながら小野の名代として直親に政次の言い分を伝える。なつが実家に戻りたくないのは小野家での待遇が良かったからでしょう。なつが父が死んでいるにも関わらず政次の味方をするのは政次に私心がないことをよく知っているからだと思います。もちろん奥山家と小野家の仲立ちになりたい、ここで井伊家を混乱させたくないという思いがあるでしょうが、そうする気になるのも政次のことをよく理解できているから。


結局直親は政次には何の罰を与えることもなく事は終了。しかし井伊家中での政次への不満は治まらないので次郎法師は政次に写経をさせ、反省の姿勢を見せることを思いつきます。いよいよ次郎法師の有能さが前面に出てきました。その甲斐あって中野直由も政次に好感を示し始めます。

奥山の怨霊が出るから写経をした方がいい、と次郎法師が言い出すのは尼僧である設定を活かした上手い描写。


そして井伊家では待望の嫡子が誕生。虎松、後の井伊直政
政次からは祝いとして直満の所領を直親に変換することに。
政次は子供の頃からわだかまっていた感情をここでようやく解消する。

「鶴」「亀」とお互いを幼名で呼び合う二人は、この時だけでも子供時代の心情に戻れていたのかもしれません。

政次と直親の間に立ちはだかる壁が少しづつ低くなっていく描写、地味ながら丁寧でとても良いと思います。

尼僧の立場を上手く活かしたシナリオ作り


一方、松平元康が次々と所領を増やし、今川家に反旗を翻したために瀬名姫の身に危機が迫ります。
瀬名姫の助命のために次郎法師は寿桂尼の元を訪れますが、その場で寿桂尼の孫が元康のために殺されたことを使者が報告してきたため助命嘆願は失敗。
こうした展開はともすれば「江」のような強引さを孕んでしまいますが、ご都合主義にならないいぎりぎりの線で上手く留めていたと思います。
瀬名と竹千代を助けてほしければ元康を説得してこいという寿桂尼に対し、それなら瀬名と竹千代を連れて行くという次郎法師の切り返しも見事。次郎法師は寿桂尼に匹敵する「おんな城主」としての器量があることをきっちりと描いています。


それにしても、1年もたっても元康から何の音沙汰もないということは、元康は瀬名のことは大して好きでもないんでしょうかね。仮にそうだとしても竹千代の立場は……?大事な跡継ぎを死なせてもいいんでしょうか。子供はまた作ればいいと思っているのだろうか。

瀬名と竹千代に今後待ち受けている運命を思うと、ここの描写は色々と考えさせられるものがあります。

 

次郎法師が瀬名に引導を渡すという話も、直虎が尼僧だったという史実を上手く活かしたシナリオになっていると思います。まだ引導を渡していないという次郎法師の時間稼ぎは結局失敗しましたが、最後に駆け込んできたのは元康?直親?

 

saavedra.hatenablog.com

有名人物を描くだけが大河ドラマではない


このブログでは以前、直虎の人生がほぼ井伊谷の中で終わることからスケールの小さい大河になってしまうのではないかという懸念を示していましたが、「大国の動乱の渦に巻き込まれる国衆の苦闘」という観点からの大河も面白いものだなと今回の放送で認識を新たにしました。

上記のエントリでは有名な人物がいないので話が盛り上がらないのではないかとも書きましたが、やはりここはシナリオ次第だなと思わされました。考えてみれば、真田昌幸や信繁のような有名人物は、少し歴史に詳しければその生涯はだいたい知っています。もちろん結果が同じでも過程をどう描くかというのが脚本家の腕の見せ所ですが、やはり有名人を描くだけが大河ドラマではありません。井伊家は現時点ではほとんどがマイナーな人物ばかりですが、井伊家が有名で有能な人物ばかりならそもそも直虎の出番がないのです。

 

真田丸では昌幸が混沌として状況を逆に利用して乱世を乗り切る様が描かれましたが、井伊家にはここまでしたたかな人物がいません。しかしその分だけ、国衆の悲哀や大国の状況に振り回される弱者の視点からの戦国時代がよく見えてきます。荒波に揺られる小舟のような井伊家の姿をしっかり描けているので、これは次回からの放送も大いに期待できそうです。

誰も読んでくれない小説を書き続けることに、どんな意味があるのか?

先日、ときまき!さんのこういうエントリを読ませて頂いた。

 

tokimaki.hatenablog.com

これは小説に限らず、創作を事としている人ならばいろいろと思うところのある文章なのではないかと思う。

誰も読んでいない作品を、それでも最後まで書き続ける意味はあるのだろうか?

むしろ書くだけ時間の無駄ではないのか?

このように考えたことのある人は少なくないのではないかと思う。

今回はこのことについて、自分なりに思うところを書いてみたい。

 

読者に恵まれた作品を書き続けるのは簡単

はっきり言うと、人気作となり、読者から感想がたくさん届けられる作品を更新し続けるのは容易なのだ。

モチベーションは高くなっているのだから、もっと認められたくてどんどん書いていける。

書けば書くほど読者が増え、褒められるという好循環に入れれば誰だって書くスピードは上がるのだ。

 

継続は力なり、はもちろんひとつの真実ではある。しかし、実のところは優れた書き手は反応をたくさんもらえるから継続できる、というのもウェブ時代における真実の一面でもある。力があるからこそ褒められるし継続もできる、ということも、否定できない事実として確かに存在している。

 

ウェブ小説の場合、反応が得られないのは読者の需要とマッチしてないからということもあるし、必ずしも実力不足が原因でもないのだが、とにかく数字が稼げなければこちら側に何らかの原因があるのだ、と考えざるを得ない。原因が何であれ、自分には読者を惹きつけ続けるほどの「力」がない。自分も含めて、多くの創作者がそういう現実に直面することになる。

 

誰も読んでいない作品でも、書き続けることで何らかの力はつくかもしれない。

完結させないと終わらせる力がつかない、というのもよく言われることだ。

しかし、人間というのは「いつか実になるかもしれない」という漠然とした希望にすがって努力し続けるのはとても難しいものだ。

いくら自分のためになるかもしれないと言われても、現実問題として誰も読んでいない作品を書くモチベーションを維持するのはとても難しい。これは、自分自身も創作をする立場の人間として、よく理解しているつもりだ。

 

自分が満足していれば成功、だが……

 

プロを目指しているのでない限り、結果がどうあろうと自分が納得できていればそれは成功なのだ、という話はこのブログでは何度かしてきている。先日もそういうエントリを書いた。読者が一人もいなくても、とにかく書きたいものを書けたのだからそれでいいのだ、と心から思えるなら、それで十分なのだ。

saavedra.hatenablog.com

ここに書いたことは、今でもこの通りだと本当に思っているし、誰もが世間から仰ぎ見られるような成功者を目指す必要などないと思っている。

結果がどうあれ、自分が自分のしたことに満足できているなら、それは「成功」だ。

しかし、読者がゼロの作品を書いてしまったら、多くの人はそれを「失敗」だと思うはずだ。

僕自身はたとえそういうものでも書くこと自体に価値があるとは思っているのだが、そのこととその事実に満足できるかどうかは別問題だ。

 

やはり、多くの人は誰も読んでくれない作品を書き続けるのは辛い。

それは壁に向かって延々喋り続けるのと同じだからだ。

誰もいない虚空に向かって言葉を放ち続けることに、一体どんな意味があるというのか?

その問いの前に、多くの創作者が立ち竦んでしまうに違いない。

 

 自作への愛を持ち続けられるか

 結局、創作にはルールというものがない以上、読者がいなくなってしまった作品を終わらせるかどうかも作者の自由でしかない。

何しろ誰も読んでいないのだから、中断させたところでどこからも文句は出ない。

書き続けていてももう読者が増える見込みが無いのであれば、中断させるのも一つの手だと思う。効率を考えたら、見込みのない作品の執筆はさっさと中断して次作に力を注いだほうがいいのかもしれない。

 

しかし、これではいけない、と思う場合もある。

それは、自作のキャラクターが命を持っている、と感じられる時だ。

架空の存在であれ、この世に誕生したキャラクターはその時点で命を持つ。

少なくともそう感じられる時、というのがある。

自作への愛着が深くて、キャラクターたちの物語を中断させたままではいけない、と思うのなら、やはりその作品は完結させたほうがいいのではないかと思う。

 

よく「キャラクターは勝手に動き出すもの」と言われるが、これは本当である。

生み出したキャラクターは、作者にとってもすでに他者だ。

そのキャラ達が、きちんと自分達の物語に幕を引いてくれ、とこちらに主張してくる。

出番を与えてくれと訴えかけてくる。

彼等の願いに答えるためには、この手で物語を完結させるしかない。

 

その作品に対しては、作者は神にも等しい力を持っている。

生み出した世界をまるごと一つ、自分の手で滅ぼすこともできる。

そして、作品を中断させるということは、その世界の時間を自分の手で止めるということだ。

 

もちろんそれも自由なのだが、その世界への愛着が深いなら、まずいったんその作品内での決着を「神」である自分自身の手でつける、ということも価値のあることなのではないだろうか。

これが単なる自己満足、とは思わない。これは自分の生み出したキャラクターという「他者」のためにする行為だからだ。

作品を誰も読んでいなくとも、キャラ達の活躍は創造主である自分自身が見ている。

最後まで創造主に見捨てられなかったというだけでも、生まれ出たキャラクター達の存在には意味があるのではないかと思う。

誰にも必要とされていないときこそ、誇りが必要

創作だけでなくブログでも何でもそうだが、最初からたくさんの読者に恵まれスタートダッシュを切れる人というのはごく一握りだ。多くの人は何もない所から頼りなく始めていくしかない。何の反応も得られないときはつい自分に自信を失いそうになるが、そういう時こそ自分の力を信じる必要があるのではないかと思う。

 

そもそも作品が誰にも読まれなかったところで、そのことで死ぬわけでもないし、誰かが「そんな作品しか書けないならもうやめろ」などと言ってくるわけでもない(むしろこういうことを言われるのは注目作だ)。

しかし、自分自身がこういうことを自分に言ってしまうということはある。読まれていない作品には価値がない、そんな作品しか書けない自分にも価値がない、という三段論法が成立してしまうのだ。

 

本当は読まれるかどうかと作品の価値は必ずしも=ではないし(商業的には=だろうけれど)、作品のPV数と自分の価値も別物なのだが、読まれなくて焦っている時にはついついこういうことを考えてしまいがちだ。

結局、多くの創作者は自分自身の心に殺されるのではないかと思う。仮に周囲が皆自分を見捨てていたとしても、自分自身だけは自分を見捨ててはいけない。自分自身すら自作を見捨てたら、自作の最初で最後の読者である自分自身すらいなくなるわけで、本当に「読者がいなく」なってしまう。

その意味では、読者ゼロの作品を完結させるのは自分自身を見捨てないためのトレーニング、という意味もあるのかもしれない。

 

自己完結できる人なんてほとんど存在しない

創作で一番強いのは、とにかく自分の好きなものを作れれば幸せ、というタイプの人ではないかと思う。こういう人は他者からの承認というモチベーションを必要としないので、ひたすら子供が砂場で一人遊びを続けるように、自己完結の世界で遊んでいられる。作品のクオリティを上げるという点ではこのやり方ではうまくいかないかもしれないが、とにかく本人が楽しいのだからそれでも問題はない。

 

しかし、僕はこういう創作者というのをまず見たことがない。いたとしても、こういう人はそもそも他者からの評価が必要ないから自己アピールも少なく、目にする機械がないのかもしれない。少なくとも、ウェブに作品をアップするような人は、何らかの形で評価されることを皆求めている。求める評価の程度に違いはあれど、評価されたいからこそ皆作品を人前に晒しているのだ。

 

だから、もしこれを読んでいる貴方が「自分なんかの稚拙な感想では喜ばれないのではないだろうか」と考えているのなら、そんなことはない、と伝えておきたい。否定的な反応でない限り喜ばれないということはまずないし、 作者は誰でも自作への反応を求めている。応援したい作品への肯定的な感想は遠慮などせずどんどん伝えたほうがいい。「無反応という反応」こそ、創作者を挫折させる最大要因だからだ。そもそも無報酬で創作しているアマチュアには肯定的な感想以外の見返りが存在しない。

 

他人から評価されることを目的に創作することを邪道であるかのように言う人もいるが、そもそも評価されることを目指さないのであれば作品のクオリティアップなど望みようもない。強すぎる承認欲求は苦しみを生むが、かと言ってこれが全く無いのが良いわけでもないし、そもそも承認欲求をゼロにすることなどできない。

 

最後の読者は自分自身

少し話がそれたが、結局のところ創作を続けるために必要なのは「俺が需要だ」ではないかと思う。自分自身が自作の続きを楽しみにし、書いていくことができるのなら、その作品には最低でも自分自身という読者がいる。

その意味では、本当は「読者がいない作品」というのは存在しない。存在するとすれば、それは「もうこんなものを書いていても仕方がない」と作者自身に見捨てられた作品だ。

 

実際問題、読まれていない作品を書き続けるのはきついし、そういうものは中断させて早く次作に進んだほうがいい場合というのも多々あるだろう。

それは仕方がないし、そういうことをする人はもちろん責められない。

ただしその場合、作者自身という読者もその作品は失うということを意味する。

それでも良ければ中断するのも良いし、そうさせるのは忍びない、と思うのであれば、読者がいなくても完結するまで続ける意味もあるのではないだろうか。

最後の読者である自分自身が、その作品の結末が書かれることを望むのであれば。

けものフレンズ9話感想:少しづつ増えてくる情報にますます目が離せない

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ゆきやまちほーの新フレンズはキタキツネとギンギツネ、そしてカピバラ
今回はすごく情報量が多くて、とても全部は書ききれない。
カピバラといえば温泉、というわけで今回は温泉回。

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サーバルはサバンナの生き物なので寒さには弱いが、かばんちゃんは割と平気。
適応できる範囲が割と広いのもヒトの特徴。
かまくらを作ってで寒さをしのいでいるうちに、キツネたちが壁から顔を出す。
当人は狩りの習性だと言っているけれど、ジャパリまんのあるジャパリパークでは狩りの必要がない。
どのフレンズも動物だったときの習性を残しているのは同じ。


ギンギツネの案内で温泉に入る時、初めて自分達の衣服が脱げることを知るフレンズ。
あの服は「ああいう姿の生き物」なのではなく、本当に着ているものだった。
服を着るということは人間しかしない行為なので、やはりフレンズはヒト化している。
しかし服が脱げることを知らないあたりはまだ動物。

 


キタキツネの口からは「湯の花が多いときはセルリアンも多い」という情報が示される。
ボスの口からも「セルリアンはサンドスターを食べているので、フレンズが食べられると元の動物の姿に戻るか消滅する」と告げられる。
「ミライ」とは一体誰なのか?おそらくは人間だろうけれど。

人間なら、人間にもジャパリパークの仕組みがよくわかっていないということになる。

 


桶と板を使って即席のそりを作り、セルリアンの襲来から逃げるかばんちゃん一行。
ヒトの知恵が今回も存分に発揮される。
そしてその知恵の実行には他のフレンズの力を借りることが必要なのは今回も同じ。
ヒトと他のフレンズの関係は並列で、ヒトが上に立っているわけではない。

 


そしてまた重要情報が追加されるCパート。
火山の噴火でサンドスターが増え、新しいフレンズが生まれることが予想される。
フレンズはサンドスターが動物に当たると生まれる。
あるいは「動物だったもの」に当たっても生まれるとプリンセスペンギンは指摘しているが、「動物だったもの」とは骨や化石だろうか?
サーベイは「ジャイアントペンギンはそのタイプ」とも言っている。
「歴史の重み」があるとペパプの皆が言っているあたり、ジャイアントペンギンは古い化石からできたということだろうか。

逆にいえば、今のペパプは動物にサンドスターが当たってできたフレンズということになる。

ジャパリパークにはまだ動物がいる?

 

 


サンドスターを生む火山が神聖な場所で博士の許可がないと立ち入れないのは、この場所がジャパリパークの秘密の鍵を握っているからだろう。
博士たちはまだ隠していることがあるかもしれない。