明晰夢工房

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新海誠氏の不倫報道を見て、人格と作品の関係性について考えた

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今朝、新海誠氏の不倫報道が流れていたことを知った。新海氏はそのような事実はない、とこれを否定している。

headlines.yahoo.co.jp

 

この件自体にはそれほど関心があるわけではないのだが、こういう報道があったとき、氏の作品評価にどれほど影響が出るだろうか、ということは考えたりする。深海氏のツイートには監督を信じますというリプライがたくさん飛んでいるが、この件は置いておいて一般論として作者が不倫などの不道徳な行為をしていた場合、そのことをもって作品の評価まで下げてしまうことは妥当だろうか。

 

よく「作者の人格と作品の評価は分けるべき」であると言われる。原則としてはその通りだろうと思う。僕なら仮にアニメの監督や漫画家が不倫をしていたとしてもそのことで作品を読まなくなったり敬遠したりすることはない。ASKAが逮捕されても僕は彼の曲のファンであることはやめなかったし、彼のしたことがどうであれ、彼の作った曲の価値がいささかも変わるものではないと思っている。

 

 

しかしそうは言っても、物事には自ずから限度というものがあるだろう、とも思っている。たとえ当人が過去に到底受け入れがたい行為を行っていたとしても、そのことと作品自体を切り離して評価できるか?それは大変難しいということを、この本のレビューは示している。

 

この本の元になった『絶歌』にはあまりリンクを張りたくないのでこちらを張る。こういうことをする時点で、僕自信が作者の人格と作品自体を切り分けられていない。

 

アマゾンで『絶歌』のレビューを読んで頂ければわかる通り、この本に対する批判の多くは、「元犯罪者を印税で設けさせてはいけない」といった、本の内容とは別の部分に関するものである。そういう批判が出てくる事自体は大いに頷けるのだが、本の評価はあくまで内容自体について行われるべきであるとするなら、そうしたことをレビューに書き込むのはふさわしくないということになる。

 

もっとも、この本はノンフィクションであるので、当人の反省が足りない、といった倫理的観点からこれを批判するのはいいだろうと思う。逆にそういう点こそが資料として価値があると評価しているレビュワーもいるが、こういうものを評価することで傷つくのは誰か、ということを考えれば、やはりこうした本を評価することは心情的に難しい。その意味で、作品と著者の人格とを簡単に切り分けられないこともあるのだ。

 

著者が嫌いなので、作品の評価も下げてしまう。これは例えば文学賞の選考委員であるなら許されない態度であろうと思う。しかし一消費者なら、坊主憎ければ袈裟だって憎くもなる。僕自身は作者が嫌いなので決してこの人の本は読まない、と思っている人は一人しかいないが、やはり人格と作品を完全に切り分けることは難しいのだ。その人は麻薬に手を出したこともなし、不倫だって多分したことがないだろうが、インモラルな行為をしていなくてもどうしても受け付けない人というのはいる。

 

さらに言うと、世の中には「作者と作品を切り分けられない本」というものがあると思っている。例えばこういうものだ。

 

 こういうものは、小池氏に好感を持っている人しかまず読まない。もちろん色々と味のあることが書いてあるのだが、こういうものはまず誰が言うかが大事だ。銀河英雄伝説の中でヤンがユリアンに「それはアーレ・ハイネセンが言うからこそ意味のある言葉だね」みたいなことを言っているシーンがあるが、名言の多くはそういうものだ。尊敬できる人格とセットでなければ、名言の多くは心に響かない。

 

原則論として、やはり作者の人格と作品とは切り分けるべきなのだろうと思う。しかし近年それが難しくなっているのは、今はツイッターなどのSNSで作者の人柄に触れる機会が多くなっているからだ。作者に幻滅して作品まで読みたくなくなるような事態を避けるには、こちら側でなるべく作者の情報を近付けないような工夫が必要な時代になっているのかもしれない。

『嫌われる勇気』に対する真摯な批判

『嫌われる勇気』の最大の問題点は何か

先日、宇樹義子さんによるこちらのエントリを読んだ。

decinormal.com

このエントリでは、『嫌われる勇気』によって有名になったアドラー心理学のデメリットについて簡潔かつ丁寧に解説されている。このブログでも以前『嫌われる勇気』の気になった点について指摘したが、こちらのエントリの方がまとまっているので『嫌われる勇気』の内容に疑問を持った方はぜひ読んでみて欲しい。

saavedra.hatenablog.com

個人的に宇樹義子さんの上記のエントリでもっとも重要な点は、岸見一郎氏のような「トラウマは存在しない」という主張は、重篤なトラウマを持つ人への二次加害になりかねないという部分ではないかと思う。『嫌われる勇気』を読んでいて一番気になった点もここだ。こちらのエントリでも紹介されている通り、実際に専門家からこのような指摘が出ている。

www.facebook.com

人の苦悩に対してどういうアプローチをするのか、<原因論を取るのか、目的論を取るのか>ということと、<トラウマがあるのか、ないのか>という考えを混同しないでほしいと思います。

自分の治療的な立場が目的論<のみ>で(実際にそれでいけるということは、素晴らしいセラピストであるか、重篤なトラウマサバイバーの治療を行なったことがないか、あるいは壮絶な被害を体験した直後の方にも出会ったことがないか、のどれかであると思われます)あったとしても、もし、その治療法のみでうまくいっていたとしても、一般的に「トラウマという現象がない」というような安易な机上の論考をしないでほしいと切に願います。

 

僕は以前、アドラーを愛読しているあるブロガーが「今不幸を訴えている人は、実は不幸に浸ることが好きなのだ」というエントリを書いているのを見たことがある。これはまさに「不幸な人は不幸でいることを選択しているのだ」という『嫌われる勇気』の主張とも重なる。

『嫌われる勇気』の中では、トラウマとは周りの注意を自分に引きつけるために出しているものだ、という目的論の解説が行われているが、これは要するに「トラウマなんて訴える人はかまってほしいだけだ」と言っているのだ。文中ではもう少しマイルドな言い方になっていたが、意味しているのはそういうことだ。

 

これを読んだ人が、「ああそうか、トラウマなんて言ってる人は単に被害者アピールをして自分に優しくしてほしいだけなんだな」と思うことはあり得る。そうした見方が、深刻なトラウマを持つ人にとり二次加害となり得るという懸念があるということだ。

 

目的論が正しいとしても

僕はそもそもアドラーの目的論自体があまり正しくないのではないかと思っているが、仮にアドラーの目的論を正しいとするとしても、岸見氏の書き方に問題があるとする立場もある。元アドラー心理学会会長で現アドラー・ギルド代表の野田俊作氏はこのように指摘している。

 たとえば、岸見氏が、「不安だから、外に出られないのではなくて、外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」という意味のことを言われるのは、理論的にはそのとおりだと思います。しかし、治療現場で患者さんに向かって、「あなたは外に出たくないから、不安という感情を作りだしているんですよ」というようなことを言うのは、ほとんどの場合に反治療的だと思います。アドラー心理学の目的は、「人間を知る」ことではなくて、「人間を援助する」ことです。「人間を知る」のは、あくまで「人間を援助する」ためです。ですから、ものの言い方にはいつも敏感でなければなりません。

 三たび野田俊作氏が口を開く 岸見氏の問題は「手術じゃなくて解剖」 : 正田佐与の 愛するこの世界

 

たとえアドラーの目的論が正しいとしても、今苦しんでいる人に「貴方は自分で不安を作っているだけだ」と直接指摘することが効果的かは別問題だ。野田氏からすると岸見氏のしていることは「手術ではなく解剖」だという。理屈自体は正しくとも、その伝え方には慎重でなければときに「それ以上いけない」という事態にもなりかねない。(『嫌われる勇気』を読んでいるときにも、これは何度も感じた)

 

 人間のために心理学がある。その逆ではない

結局のところ、心理学や自己啓発というのは人を生きやすくするために存在しているのであって、その逆ではない。あくまで主体は人間であり、心理学は道具だ。人間のほうが道具に振り回れるようではいけない。

 人はひとりひとり違う存在だし、そのひとりだって、日々どんどん変化していく存在だ。だから、ままならない自分をなんとかしようとして読んでみた心理学本や自己啓発本がいまいちしっくりこなかったり、あるいは「お前のせいだ」と言われたようで苦しくなったりしたときは、単に「自分に合わなかったのだ」と思って放り投げてしまっていいはずだ。

残念ながら、人生に対する魔法の杖も、唯一解も存在しない。でもそれは逆に言えば、私たちが世の中のあらゆる「正解」から完全に自由であっていいということなのだ。

 なので、宇樹さんのこのスタンスには全面的に賛成する。アドラーを読んで苦しくなる人にアドラーは必要ないし、これは他のすべての心理書にも言えることだ。

 

 なぜ『嫌われる勇気』はここまで売れたのか

こういうことを分析するのは「なぜけものフレンズは大ヒットしたのか」を考えるようなもので、結局後付の感は拭えない。それを承知の上で書くと、この本がヒットした理由は「色々なことを断言してくれているから」ではないかと思う。

世の中には、自分で考えるよりも他人に決めてほしい人の方がが多い。平成ももうすぐ終わろうとしているこの世の中ですらまだ朝の番組で占いコーナーがあるのも、今日着ていく服の色も誰かに決めてほしい人が多いからだ。そうした些事から人生はどう生きるべきかという問題に至るまで、人は権威ある他者の言葉に答えを求める。

 

この点、『嫌われる勇気』はとにかく明快だ。どういう過去があろうがトラウマなんてものはないのだし、全ては自分次第。他人にどう思われようが、そんなことは「他人の課題」なので関係はなし。幸福になりたければ共同体に貢献し、今ここを生きるようにすればいい。実にシンプルでわかりやすい。明快に言い切ってくれている。

 

しかしこうしたシンプルさこそが、実は危険な点ではないかと思う。『嫌われる勇気』では「世界はシンプルで、人生もまたシンプルだ」と書かれているが、それはアドラー心理学のフィルターを通じて見た世界がシンプルだということだ。重篤なトラウマで苦しんでいる人を見ないようにし、共同体に貢献すると言っても共同体そのものが狂っている時はどうすればいいのか?ということを考えないようにすれば、たしかに世界はシンプルだ。法則に合致しない人や事象を視界から外せば、世界は法則通りに運行されているようにみえる。しかしこうした態度は、寝台からはみ出た旅人の脚を切り落とすプロクルステスにも似た暴力性を容易に孕む。

 

人生はシンプルではないし、世界は複雑だ。人はどう生きるべきかということには簡単には答えられない。しかし世の中の不可解さ、わからなさの前に佇むということができなくなっている人が多いのかもしれない。安易なスピリチュアル本などに比べれば、アドラーは人生の難題に対する回答としては上質な部類ではないかとは思う。しかし合わないと感じたら従う必要もないし、捨て去ってもかまわない。

平井堅『ノンフィクション』を聴いた

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優しいというのはこういうことではないか、と思った。


平井堅という人は僕の中ではラブソングの人、というくらいの雑なイメージしかなかったが、この曲でそのイメージは大いに修正された。自ら命を絶った友人のために作った曲らしい。

それだけに内容は重い。しかし、良い。
何が良いと言って、この歌は人間のネガティブな部分も含めて全肯定したい、という意志にあふれているからだ。



一時期、自己啓発書を読みふけっていた時期があった。
それらの本には気持ちを常にポジティブに保っておくことが大事であるとか、プラス思考で考えよだとか、同じ出来事でもそれに明るい意味付けをするようにせよ、といったことがよく書かれていた。


それらも時には大事なことなのだろうし、全否定する気もないが、こうした本は読めば読むほどに違和感が募っていった。なぜ、ここまで人間の負の部分を拒否するのだろう?ネガティブな部分を心の中から完全に追い出せという、ある種の強迫観念にも似たこの押し付けがましさは何なのだろうか?という気持ちばかりが強くなり、いつしかこの手の本は全く読まなくなった。



僕が成功本の類にどこか苦手意識があるのは、「キラキラしていなければ本当の人生ではない」と言った価値観があの種の本の根底にあるからだ。今あなたの人生がうまく行っていないのであれば、この本を読んで自分を変えましょう。本来あるべき栄光を手に入れましょう。そういったメッセージを刷り込まれる。輝いていない今のあなたはダメなんですよ、という前提がそこにはある。



「ノンフィクション」から流れてくるのは、これとは真逆のメッセージだ。成功が全てなのか?といきなり切り込んでくるのだから。描いた夢はかなわないことのほうが多い。それが現実だ。ならば成功を請け負おうとする人々は誇大宣伝をしているのだ。この歌を聴いていると、その手の本を読むよりも、この歌のように「みすぼらしくても欲まみれでも、ただ貴方に会いたいだけ」といったメッセージのほうがよほど大事なのではないか?と思えてくる。成功している自分、ポジティブな自分を手に入れるため努力するということは反面、そうしたネガティブな部分は切り捨てるということでもあるからだ。負の部分も含めて一人の人間であるはずなのに、そこを否定することがほんとうの意味でポジティブだと言えるのか。


自己啓発書に代わり、時おり仏教関係の本を読むようになった。仏教は根本に「人生は苦だ」という見方がある。これが合うかどうかは人によるが、僕なんかはこの価値観だと世の中への期待値が下がってかえって生きやすくなるようなところがある。とにかくこちらを変えてくるよう求められる成功哲学の類よりも、まずは負の部分もひっくるめて自分を認めてしまったほうが楽だ。


とはいえ、100%自分で自分を肯定していくのには限界がある。そういうときに支えになったりするのが文学や音楽の力だ。醜くても正しくなくてもいい、というこの曲のメッセージは、今の自分を受け入れられない人には大いに救いとなるメセージではないだろうか。


高橋祐一『緋色の玉座』感想:スニーカー文庫で読める東ローマの歴史小説

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こういう作品がスニーカー文庫から出るというのがまず驚き。

東ゴートやヴァンダル、ササン朝の地図が見られるラノベはなかなかない。

 

表紙を飾る主人公は東ローマ帝国の名将ベリサリウス(ベリス)で、隣りにいるのがベリスの書記官を務めたプロコピオス(プロックス)。登場人物が全員実在の人物で、脇を固めるシッタスやユスティン(ユスティニアヌス)、テオドラ、アナスタシアなどのキャラクターも魅力的に書き分けられている。

 

本書の特徴は、ストーリー自体は骨太な歴史小説でありながら、キャラクターはラノベであるということ。テオドラの妹であるシアは魔法が使え、これがストーリーにも関わってくる。とはいえそれほど全面に出てくるわけでもなく、ストーリーの核となっているのは主人公ベリスの軍人としての強さと「軍師」であるプロックスの頭脳だ。

 

時代は後に東ローマ皇帝となるユスティンが即位する前の時点から始まる。

戦記ファンタジーらしく冒頭はペルシアとの戦いから始まり、戦争が集結すると一転して帝都コンスタンティノープルで探偵のようなこともやる。ここで後にユスティンの皇妃となるテオドラの怖さも存分に描かれる。まさに魔性の女。

 

そして再びペルシアとの戦いが描かれ、王子であるホスローも登場するが、この王子がまた敵役としての魅力に富んでいる。まだまだシリーズは続くようなので当然決着はついていないが、この先のベリスの戦いについて大いに期待の持てる一巻だった。

 

史実のベリサリウスはユスティニアヌスにとってはまさに至宝とも言うべき家臣で、名称中の名将だ。劉邦にとっての韓信、シャルル五世にとってのデュ・ゲクランのようなものである。しかしベリスの活躍を史実通りに描くなら、結局最期は悲惨なことになってしまうのでは?という危惧もある。とはいえそこは小説なのでうまくまとめてくれるだろう。

 

本作ではベリサリウスの書記官を務めたプロコピオスが軍師役になっているため、そのぶんベリサリウスが純粋な武将タイプと言った感じになっていて、戦士としてもかなり強い。このプロコピオスは『秘史』という書物を著しており、この中では「自ら実見した皇帝と妃テオドラ、将軍と妻アントニナらの悪行を暴露した」とある。そのせいか、本作でもプロコピオスはかなり癖の強い人物になっており、とにかく口が悪い。だがベリスの力量は認めていて、彼がローマ皇帝になることを願っている。

 

 あとがきを見ると、すでに二巻の発売は決定しているようだ。べリスとプロックスが今後どのような活躍を見せてくれるのか、大いに期待したいシリーズだ。

おんな城主直虎14回『徳政令の行方』感想:ここまで内政を丁寧に描く作品は他にはない。

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先週はノロウイルスで倒れていて感想が書けませんでしたが、このドラマは毎回挑戦的なことをやっていて大変素晴らしいと思っています。今回は前回に引き続き徳政令の話でしたが、方久に年貢を納めることになった村人が不満をつのらせて逃散する事態にまで発展してしまいました。

 

前回の方久のわらしべ長者劇場も面白かったですが、ここまで戦国時代の領主の内政をじっくりと描く作品は今までになかったはずです。実はこの日の昼は風林火山も観ていたのですが、確かにクオリティは高いものの内容には少し古さも感じてしまいました。合戦や謀略だけが歴史ドラマではない、ということを直虎を見るうちに強く感じるようになったからです。

 

ただし、この内容は楽しめる人は限られているとも思います。直虎が言っているとおり、「井伊家には人も金もない」という縛りプレイ状態で、前面に出てくるのが領国経営という地味なテーマなので、従来の大河らしさを求める人には合わないでしょう。

 

しかし、このような新しい試みは高く評価したいと思います。そもそも戦国大名も国衆も仕事の大部分は戦争ではなく領国の統治であって、華やかな合戦の影にあってそういう部分の苦労はあまり光が当てられてきませんでした。そこを敢えて正面から描くには、エピソードの少ない直虎が適任だったのではないかと思います。

 

今回の直虎は田植えを手伝って文字通り泥まみれになっていましたが、こういう泥臭い部分から目をそらさずきちんと描こうとする姿勢は支持したいと思います。大河も長年放映しているのだから、時にはこういう新しい視点から光を当てる作品があっても良いはず。

 

民百姓はただ領主から虐げられるだけの弱い存在ではなく、時にはしたたかな交渉者としての一面を見せることを描いているのも好ポイント。歴史とは一面的な見方では割り切れない、ということをきちんと描くシナリオも良いと思います。

headlines.yahoo.co.jpなのでこのような見方は、この作品の本質を何一つ捉えていない、表面的な見方でしかないと思います。

井伊家を支える男達が皆死に絶え、銭の亡者である方久の力にすがらなければ領国経営さえままならない窮状を余すところなく描いている本作は、月9ドラマとは全く対極にあるものです。「時代劇というよりラブコメ」と書かれていますが、今の政次は完全に直虎の敵でしかないのですが、本当にちゃんと観ているの?

 

来週は直虎と寿桂尼の対決のようですが、方久がどう井伊谷を発展させるのか?という部分も描いて欲しいところです。

おんな城主直虎12回感想:高橋一生の演技力が凄味を増す一方

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最近このドラマの評価が自分の中でどんどん上がっていますが、今回も緊迫感に満ちた良い回だったと思います。
やはり特筆すべきは高橋一生の演技力。表情が完全に吹越満と同じになっている辺りに凄味を感じます。結局政次は父の予言通り、政直と同じ道を歩み始めました。

同じ目付けでも新野左馬助とは全く違います。

ところで、新野左馬助が鼻に碁石を詰められていたのはアドリブだろうか?

 

政次は月代を剃りましたが、これはいよいよ少年時代と訣別したということでしょうね。
次郎のもとに戻ってきたのはもう鶴ではありません。
井戸の傍で次郎の手を払いのけるあたり、もう次郎と政次の間には埋められない溝ができてしまいました。


いつもふてぶてしい態度の南渓や冷静な傑山が号泣している辺りも、いかに直親の死が重かったかを感じさせます。
この後、直平や中野直由まで死んでしまっていますが、ここまでの危機に見舞われる大河が今まであったのか?と言うくらいにどうしようもない状況に陥っています。


以前、こんなに次々と主要人物が退場していっては花燃ゆの二の舞いではないのかと思っていましたが、このドラマに関しては不思議と悪い予感はしません。ここ数話でかなりいい話作りをしていますし、死んでいったのも特に有名な人物ではないのであまり惜しい感じがしないからというのもあります。まあ、それでも直親がいなくなってしまったのは痛すぎますが……そうでなければ直虎の出番もないですからね。


幼いころ、おとわは「我が亀の代わりに太刀も履く。戦にも出る」と言っていたことを思い出して自分が亀の代わりになることを思い出すのですが、これはもしかして直虎が合戦に出るような場面もあるということでは?と予想しています。自分で戦わなくても甲冑を身につける場面くらいはあるでしょう。井伊谷はこの後武田家にも攻められるわけですし、なんといっても直虎は城主ですから。


もはや直虎には頼れる人物が南渓くらいしかいなくなってしまいましたが、来週からは井伊家の内政をどう取り仕切るかが問題になってくるようです。いよいよ徳政令の話になるか?

女性当主で頼れる家臣もなく政次も黒政次化、そして新たに乗り込んできた近藤康用菅沼忠久鈴木重時の3人もまず味方という感じではないという相変わらずの縛りプレイ状態。

直虎はこれから虎松(井伊直政)が成人するまで井伊家を支え続けなければいけません。ここからがいよいよ本番です。

おんな城主直虎11回「さらば愛しき人よ」感想:また一人見送らなくてはならない

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瀬名を助けに来たのは家康の家臣、石川数正でした。
瀬名は一命をとりとめ、竹千代も助かりましたがこの後今川家での陰謀が動き出します。
家臣が次々と離反することに悩む氏真に向かって「事が起きる前に握り潰せ」と言う寿桂尼
この後に起きることの主犯はこの人でしょう。


そして政次と今後のことを相談する直親。
政次も直親も今川からは離れるということで意見は一致しています。
選択の余地はないので元康と接触することを決める直親。
そんな折、元康からの使者がやってきます。


松平元康から書状が届いたので、直接会いに行く直親。
しかしこの元康は今川の家臣が化けた偽物でした。
直親は直接感状をもらったことを喜びますが、これは罠でした。
結局政次は駿府に呼び出され、寿桂尼に真相を問いただされます。
嵌められたことに気付いた政次は、「私は今川家の目付です」と答えることしかできない。


今川家が軍勢を繰り出してきたため、弁明のため駿府に行くことを決意した直親。
しかし道中ではすでに今川の手の者が待ち伏せしていて……という流れ。

このような策を仕掛けてくるあたり、今川も相当焦っているということでしょう。


来週はいよいよ直親が死んでしまい、井伊直虎が誕生するということですが、結局直親の人生とは何だったのか?
直政を残したことが、井伊家で為したほぼ唯一の仕事ということになってしまいそうです。
おとわとの想い出が唯一の美しい思い出だと語った直親。
父を今川家に殺され、しばらく潜伏した後自分も今川に謀殺されてしまうこの人は何を思い死んでいったのかと思わずにはいられません。

「生きていれば好機はある」と言われても、もう生きてられないわけですからね……

直平の「もう見送るのは嫌じゃ」の一言があまりにも重い。


今週も先週に続き、直虎は瀬名と竹千代を人質にして元安の助力を仰ぐという策を思いつきますが、結局瀬名が協力してくれなかったので実行には至らず。
こうした直虎の発想力や行動力が、来週からはいよいよ生かされるということでしょうか。
しかしまあ、直親がいなくなってしまったので視聴率的には相変わらず厳しいかもしれないですね。

 

 

直虎が今後どうやって井伊家を切り盛りしていくのか?が見どころになると思われますが、女性当主であることやあまり有能そうな家臣もいないところを考えると、結局今後の井伊家の舵取りも厳しそうです。

あまり胸のすく展開などは期待できないでしょう。

今後は元康との関係も強くなっていくものと思われますが、直政が成長するまで直虎がこの困難な時期の井伊家をどう維持していくのか、しばらく見守りたいと思います。