明晰夢工房

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「精神の自給率」が高い人が最強という話

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「精神の自給率」が高い人が一番幸せ

 

ウェブで小説などをやっていると、次第に周りではプロになる人というのが出てきます。

なんらかのコンテストで受賞したり、そうでなくとも編集の人の目にとまり、投稿サイトにアップしていた小説が書籍化する。創作を手がける人なら、一度は憧れる到達点です。

本当はそこから先が大変だし、ずっと作家であり続けるには大きな苦労が伴うものなのですが、それでも自作が書籍として店頭に並ぶ、これは大きな喜びでしょう。

 

そこにたどり着けた人に対し、正直、羨ましさは感じます。何しろ私には無縁なことですから。

ですが、創作をしている人ではプロになれた人が一番羨ましいのか?と言われると、それは違います。

それで稼げるという点はたしかに大きなメリットなのですが、私にとってはそれよりも、「創作物の評価で揺らがない人」の方が、よほど羨ましいと感じるからです。

 

「創作物の評価で揺らがない人」と言うのは、言い換えれば「自分が好きなことを書いていればそれで幸せ」という人のことです。

他者から褒められるかどうかは関係なく、幸福を自給自足できているタイプの人。

幸せのために賞賛やお金という外からの承認を補給しなくてもいいから、とても経済的。

こういう人のことを、私は「精神の自給率が高い人」と呼んでいます。

 

 

 

この「精神の自給率」という言葉は、この本の中で小池龍之介さんが使っている言葉です。

これは精神的な充足度、といった意味ですが、本書ではまず人間の心の仕組みとして「自己承認は成り立たない」ということが説かれています。

いくら自分で自分を褒めてみても、それは単に自分でそう思い込もうとしているだけなので、どうしてもどこか虚しさが募る。

自分の靴紐を自分で持ち上げて空を飛べないように、自分で自分を承認することには限界があります。つまり、精神の自給率は構造上どうやっても100%にはならない、ということです。

 

不幸アピールをする人は本当に不幸

 

だとすれば、充足度の足りない分は他者から受け取らなければいけない、ということになります。精神的自給率が低い人ほど他者からの承認が多く必要になるので、創作をしている人ならそれだけ多く賞賛されないと辛いし、作品で人目を引く手段を持たない人は不幸アピールをしてみたり、炎上するようなエントリを書いてみたりと、いろいろな手管を使うようになります。

 

自分は不幸だと語る人に対して、「貴方はそうやって同情を引きたいだけだ、本当に不幸な人はもっと他にいる」という人がいますが、不幸アピールをして人の気を引こうとする人は「精神の自給率」がとても低いだろうから、そういう人はやはり不幸なのだと思います。幸せなら、そんな形で興味を持ってもらう必要がないのですから。

 

このように精神の自給率が低い人であっても、他者からたくさん与えられているために今は幸せ、ということはもちろんあり得ます。ですが、他者からの承認はいつ失われるかわかりません。

ずば抜けた小説の才能を持っていて、かつ精神的自給率が低い人、というケースを考えてみます。こういう人の場合、才能は優れているので他者からの承認は得やすく、プロとしても稼げる。しかし、常にたくさんの評価を外部から補給しなければいけないので、小説の評価に一喜一憂しなければならず、精神的には不安定になりやすい、という構造的弱点を抱えています。外需依存の精神経済は脆い。

 

こういう人よりも、たとえアマチュアで作品の質は低くても、精神的自給率が高いために好きなことを書いていればそれで幸せ、というタイプの方がよほど幸せにはなりやすいのです。

あまり人目を気にしないので技術的向上という点では不利かもしれませんが、そもそも上手くなって褒められることを必要としていないので、それでも無問題。幸福という観点から見れば、これこそ最強です。自分の足で立てる人が一番強い。

 

「精神的自給率が高い人」と「精神的自給率は低いがたくさんもらっている人」の区別はつきにくい

とはいえ、この「精神的自給率が高い人」というのも、あくまで私にはそう見える、というだけの話です。その人が創作物の評価を気にせずにすむのも、実は私生活が幸せであるために気にしなくていい、というだけのことかもしれません。本当は精神的自給率が低くても、他者からたくさん受け取っているから見かけ上は高く見えるだけ、という可能性もあるのです。

 

saavedra.hatenablog.com

以前、アイドルに「ガチ恋」をしている人のことについて書きましたが、これは精神の充足度が足りない部分をアイドルの存在によって埋める、という行為です。この「ガチ恋おじさん」を批判する人たちは、 パートナーなどを心の拠り所にできるためにアイドルにガチ恋せずにすんでいるようでした。この人達がもし精神的自給率の低いタイプなら、パートナーを失ったら他になにか精神のよりどころが必要になります。アイドルに救いを求めるかどうかは別としても。

 

他者から多くを受け取っているために見かけ上精神的自給率が高く見えるタイプの人は、自給率が低くてもその自覚は持てないかもしれません。その自覚がないままに他者から受け入れられつつ生きられるのなら、それはそれでひとつの幸せです。

 

精神的自給率と幸福度の関係を4タイプに分けて考えてみる

あくまで主観ですが、ここで精神的自給率の高さと幸福度がどう関係するかを4タイプに分けて考えてみます。タイプは以下の4つです。

 

1.精神的自給率が高く、かつ承認を得やすいタイプ

2.精神的自給率は高いが、承認が得にくいタイプ

3.精神的自給率が低いが、承認が得やすいタイプ

4.精神的自給率が低く、承認も得にくいタイプ

 

私は、1>2>3>4の順番で幸福度が高くなると考えています。

まず精神的自給率が高いことが大事で、そのうえ社交性やなんらかの才能に秀でているため承認が得やすい1のタイプが一番幸福。3のタイプは外から承認は得られるものの、精神的充足が外需頼みなのでこれを維持するためのコストがかかり、しかも状況次第ではいつ承認が得られなくなるかもわからず、4に転落してしまう危険があります。そして、4に転落したらもっとも不幸。自給率が低い上、外から補給する手段もないからです。

 

多くの場合、今不幸だと嘆いている人はタイプ4の人だと思います。そしてこのタイプ4に対し、幸せになりたいのなら認められる努力をしろ、こっちはそれを必死でやっているんだ、と言うのがタイプ3の人です。外部から承認を得ているためにタイプ4よりは幸せですが、幸せが外需頼みであるために不安定であることはタイプ4と変わりません。

一方、タイプ2の人からするとタイプ4の悩みが、どうしてそんなに人から褒められたりモテたりする必要があるの?別に貴方は貴方でいいじゃない?と理解不能なものになります。これは本音を言っているだけですが、タイプ4には冷たいアドバイスに聞こえるかもしれません。タイプ1がこう言っていた場合はもっと冷たく聞こえます。貴方は才能や交友関係に恵まれているからそう言えるんだ、とタイプ4には見えてしまうからです。

 

自己啓発と仏教のアプローチは真逆

大雑把に言うと、自己啓発というのはタイプ4の人に対してタイプ3を目指しなさい、と言っているように思えます。今自分に地位なり名誉なりパートナーなり、足りないと感じるものがあるならそれを手に入れるよう努力すればいい。自己啓発はそのためのノウハウやマインドセットを教えます。精神的自給率が低ければ、これを埋めるものを手に入れることこそが幸福だと思えるのだからこれは当然のこと。

 

一方、仏教的アプローチはタイプ4にタイプ2を目指すよう教えているようです。世の中は諸行無常で、外から得られる幸せはいつ失われてしまうかわからない。だとすれば、精神の自給率を高めて外需に頼らない幸福を手に入れたほうが、より本質的な幸せに近づきます。上記の『”ありのまま”の自分に気づく』で、小池さんは精神の自給率を高める方法について次のように紹介しています。

 

嫌なことが忘れられないのなら、「忘れられないのだね」と微笑みとともに気づき、承認してやる。うれしいときにも、「嬉しいのだね」と気づき、承認してやる。リラックスした時は、「リラックスしているのだね」と気づき、承認してやる。「良い」「悪い」という主観的判断は捨てて、ただ無条件に「そうなのだね」と承認するのです。

私達の心は、このようにいつも気づいてもらい、見守り承認してもらっているということを通じてこそ、安心感や幸福感を自給自足し始めるのです。

 

心理療法にもこれと似たノウハウがあるので、これは実際に有効だと思います。

しかし切ない話ですが、本書ではこの方法でまずは精神的自給率50%くらいを目指しましょう、と説かれているのです。修行僧でもない一般読者にはそのあたりが無理のない目標だろう、ということです。

我々凡人はカーズ様のような究極生命体ではないので、 完全に自分で自分を満たすことはできません。足りない部分は、やはり他人に満たしてもらうことになります。精神自給率100%なんて、悟りでも開かない限り無理かもしれません。

 

タイプ3を目指すから得られるものもある

もしそれが可能であるとして、本当はタイプ4の人はタイプ2を目指したほうが、長期的には幸せにはなれそうです。

例えばタイプ3を目指すために創作の世界で成功することを夢見ると、なかなか辛いことになりそうです。成功すれば得られる名誉は大きいものの成功率は低く、成功するまで辛い状況が続きます。一度成功してプロになれたとしても、精神的自給率が低いままならずっと高い評価を得続けるよう努力しないといけません。

 

それくらいなら、精神の自給率をあげることで夢は叶わなくとも幸せな、あるいはそもそも夢を見る必要がない状態を目指すのもアリでしょう。ですがこの場合、他者に認められたい、賞賛されたいという切実な動機が失われ、その結果として世に出るはずだった素晴らしい作品が生み出されなくなることもあるかもしれません。

 

togetter.com

そもそも、人は一人では完全に自分を満たせないからこそ他者を求めるという側面があります。彼氏は貴方の心を埋める道具じゃないんだ、と言われたところで、人の精神的自給率はまず100%にはなりません。

もし、人間の精神的自給率が皆100%になる世界があったら、それはどういう世界なのか?そうなったら他者を求める心が失われて結婚する人は激減し、少子化が進むだけではないだろうか?という気もします。

 

精神の自給率を高めるというのは、いわば精神のミニマリストを目指すような道です。幸せを得るために地位も名誉もパートナーもいらないのなら、メンタルヘルス的にはとてもいいことです。ですが、あくまでそうした俗な欲求を追求することで経済が回り、社会が維持されているという点も見逃せません。

あえて外部からの承認を目指すことで満足したいという方向性を目指すのもまた人間らしさですし、私もまたそのような煩悩が生み出した創作物を味わいつつ生きている以上、このある種のバグを抱えているとも言える人間の仕様もまた、味わい深いもののように思われるのです。

おんな城主直虎「決戦は高天神」この戦いに持たせた意味の重さ

このドラマの特徴として、徹底して信長と家康を対照的な人物として描く、というものがある。

ひたすら家臣を威圧して恐怖で縛り付ける信長と、正直に胸の内を明かし家臣の信頼を勝ち取ることで家中をまとめていく家康。

そして家康のこのやり方は、かつて直虎が百姓たちと直接向き合ったことを万千代から学んだためにできたこと、というシナリオになっている。

ドラマ前半で徳政令をめぐるやり取りを丁寧に描いていたことが今ここで生きてくるという演出は実に巧みだ。

 

そして、この信長と家康の対比が高天神城の戦いでも描かれる。

高天神の周囲に付城をたくさん築き、戦わずして降伏に追いやろうとする家康。

この家康はあまり戦が好きではない。しかし信長はそんな家康に対し、高天神城の降伏を受け入れてはならないと言う。

 

saavedra.hatenablog.com

信長が高天神城の降伏を受け入れなかった背景には、こういう事情がある。

簡単に言うと、武田勝頼がこの城を救援する力がないことを周囲に示すためだ。

高天神城を攻めても勝頼が助けに来なければ、それは勝頼が味方を見殺しにしたということになり、武田家の当主としての権威を失墜することになる。

この作戦が功を奏したため、穴山信君はじめ有力な家臣が武田家から離反することになり、結局これが武田家滅亡の原因となってしまった。

 

しかしこのドラマでは、この事情については描かなかった。

おそらくこのドラマでの信長は、家康が高天神城の城兵をそのまま吸収し、戦力を増強してしまうことを恐れていたのではないかと思う。

前々回でも、信長は徳川家が強くなりすぎることを警戒していて、信康が手駒として使えないのなら殺してしまうという描き方になっていた。

その流れからすると、信長は家康と武田家をできるだけ戦わせることで、互いの力を削ぐことを狙っていたのではないだろうか。

 

罪もない瀬名と信康に難癖をつけて殺させ、敵の降伏も許さない信長の天下を直虎は望んでいない。

叶わない夢とは思いつつも、無駄な戦いを避けようとする家康にこそ直虎は強くなって欲しいと願っている。

このドラマは高天神城という舞台を使って、この信長と家康のコントラストを鮮やかに描いてみせた。

信長があのような人物である以上、滅ぼしてしまわなければ徳川の天下は訪れない。

ここで南渓和尚安国寺恵瓊の「予言」を持ち出してくるあたりも、確実に本能寺への期待を高めている。

 

かつて政次が命をかけていた「戦わない戦」の路線を受け継いでくれるのは、家康しかいない。

弱小の国衆として辛酸をつぶさに舐めた直虎の苦労を理解できるのも、信長にさんざん虐げられてきた家康だ。

家康は直虎の夢を継ぐ存在として、この戦国の世を生きている。

 

高天神城の戦いを直接描くことがなかったのも、この「戦わない戦」こそがこのドラマのテーマの一つになっているからだろう。

今川の徳政令を撥ねつけるのも、付城を作るために木を切り出すのも、家康に政次の話を聞かせるのも、全て直虎の、そして万千代の戦だ。そういう部分に力を入れているからこそ、このドラマは今までの戦国物とは一線を画す出来になっている。

 

来週はいよいよ光秀が謀反に向けて動き出すようだ。光秀に協力を呼びかけられたのは家康なのだろうか。まだまだ目が離せない。

おんな城主直虎『悪女について』信長へのヘイトを溜め、本能寺への期待を高める脚本が見事過ぎる

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もうね、こんな凄い回観たあとだと本当に文字通り言葉を失いますね。

これは言語野が死ぬ。

家康も瀬名も氏真すらも、自分のことなんて一切顧みずただ徳川家を救うために最善を尽くしているのに、結局最悪の結果に終わってしまう。

これはもう、完全に信長へのヘイトを貯めるための回ですよ。

これだと嫌がおうにも本能寺への期待が高まってしまう。

 

瀬名(築山殿)が武田と通じていたかもしれない、という史実の解釈もこう来たか……という感じでした。

信康にせよ瀬名にせよ、皆が自分を犠牲にして家康を助けようとしている。この描写が無理がないと感じられるのも、今まで万千代の目を通じて家康の心配りの細やかさを丁寧に描写していたからこそ。

 

そして、自らの命を投げ出そうとしている瀬名に直虎がかける言葉も見事に重い。

次々と一族を殺され、政次まで失った痛みを知っているからこそのあの台詞。

もうこれ以上の自己犠牲など、直虎は見たくない。いくら瀬名のその姿が石川数正から「美しい」と言われるほど尊いものであったとしても。

真田丸でも描かれたとおり、後に数正は徳川家を出奔していますが、その遠因は実は信康事件にあったんじゃないか……とも思わせる脚本でした。

 

結局、北条との同盟を氏真が成立させたにも関わらず、氏真は瀬名の首桶と対面することになってしまいました。

信長と面会した家康は北条との同盟を手土産に信康の助命を嘆願するも、信長は「徳川殿の好きになされば良い。その代わり儂も好きにする」と暗に手切れを匂わせる。

信長の内心を「忖度」した家康は、結局信康を斬るしかなかった。

 

かつて井伊家に降りかかった惨劇を目の前で繰り返されるような展開を見せつけられた直虎の口から出た言葉は、「いっそ全ての大名が一斉に和を結べばいい」でした。

今までの大河でも「戦のない平和な世を作るのだ」的な台詞を主人公が喋ることはありましたが、直虎のこの台詞は今までのすべての経験が言わせた、血を吐くような言葉です。

それはただの夢物語でしかないかもしれない。しかし、できないことしかやらないのはしみったれた考えだ、とはかつて直虎自身が龍雲丸に聞かせた台詞。

夢を夢でなくするためには、家康を天下人に押し上げるしかない。万千代にはそのために働いてもらえばいい。

 

その万千代に、直虎は「死んだものの志は生きているものが受け継げばいい」と諭します。

井伊直盛も直親も政次も、そして信康も、その魂を万千代が引き継げばいい。

今まで散々容赦のない展開を続けた『おんな城主直虎』ですが、彼等の死は無駄ではなかった、というメッセージがここにはあります。

万千代の中に、失われたすべての命が生きている。だからこそ万千代は、家康の前で切々と政次のことを説いて聞かせた。そんな彼がやがて元服し、井伊直「政」になるのは必然。

 

 そして、家康が天下を取るためにどうしても必要なことは、信長が滅びること。

前回と今回を使って信長への反感を散々煽ってきたこのドラマですが、それだけに本能寺の変の回ではおそらく一気に胸のつかえがとれる感覚が味わえるのではないかと期待しています。

ただし、その前に為すべきは武田との戦です。

来週ははいよいよ高天神城の戦いが描かれますが、これは武田家が崩壊する決定的な原因となった戦いです。長篠の敗戦よりこちらの方が勝頼にとっては大打撃。

saavedra.hatenablog.com

こちらでも書いたように、ここで信長の採った作戦はもう本当にエグい。

来週も今週に続いて、さらに信長へのヘイトが高まるような展開が続くでしょう。

そして、本能寺の変はどのように描かれるのか?

今のところ光秀は忠実な信長の家臣と言ったイメージですが、個人的には家康が光秀を煽って謀反を起こさせるなどの黒い展開を期待したいところです。

それくらいやっても、皆が許すような演出を繰り返してきているので。

パラレルワールドの「僕」と「俺」の2つの人生を体験できる『君を愛したひとりの僕へ』『僕が愛したすべての君へ』感想

 

 

 

シュタインズ・ゲートの功績として「世界線」という言葉を世の中に定着させたことがあります。

シュタゲ以前にもパラレルワールドのアイデアを用いたSFはいくらでもあったわけですが、この「世界線」という概念を多くの人が理解したことでこの手のSFの解説がしやすくなりました。

これから紹介する『君を愛したひとりの僕へ』『僕が愛したすべての君へ』も、同じ主人公の別々の「世界線」の人生を描いた物語になっています。どちらか1冊だけでも楽しめますが、やはり2冊セットで読んだほうがより楽しめます。片方がもう一方の内容を補完する内容になっているからです。

 

読む順番はどちらからでもいいと思いますが、個人的には『君を愛したひとりの僕へ』を先に読むのがおすすめです。というのは、こちらのほうが悲しい世界線で、より幸せな『僕が愛したすべての君へ』の舞台裏のようなストーリーだからです。一人称が「俺」の主人公が大切に思っていたヒロインの栞は主人公の行動によりある不幸に見舞われてしまい、それを解決するためにこの世界線での幸せをすべて犠牲にして奮闘する、という物語になっています。

 

ヒロインを不幸に突き落としてしまう原因は、この小説世界特有の「パラレル・シフト」という現象です。これは、少し離れた平行世界に意識だけが移動する、という現象です。移動した世界の先の自分の意識は元の世界の自分と入れ替わることになります。

実はこの世界では近い世界へのパラレル・シフトは割とひんぱんに起こっています。近い世界線では元の世界線とはほとんど変わらないので、それでも特に困ることなく生活できるのですが、このシフトの距離が遠くなればなるほど元の世界とのズレも大きくなっていきます。

 

そして、このパラレル・シフト現象を解明する「虚質科学」が発展することによって、このパラレル・シフトを人為的に起こすことも可能になってきます。主人公とヒロインの栞は互いに淡い恋心を抱いていますが、互いの両親が結婚することになったため、この世界ではもう結ばれないと将来を悲観します。

そこで、二人が兄弟にならない世界へ飛ぼうと主人公が起こしたパラレル・シフトによって、逆に悲劇的な結果を招いてしまいます。この悲劇を回避するために、生涯をかけて虚質科学の研究に打ち込み、やがて主人公は人生を変えるためある決意をする──というのが『君を愛したひとりの僕へ』のストーリーとなります。これは悲壮なまでの決断です。ヒロインを救うために犠牲にしなくてはいけないものが、あまりにも重い。

 

一方、『君を愛したひとりの僕へ』の主人公の努力が反映された世界が『僕が愛したすべての君へ』の世界になります。こちらの世界のヒロインは『君を愛した一人の僕へ』とは別人の和音ですが、和音は『君を愛した一人の僕へ』の世界でも重要な役割を果たしています。和音は主人公との関わり方は違うとはいえ、虚質科学の研究者でありどの並行世界にいっても重要な存在になるというあたりはシュタゲの牧瀬紅莉栖とも似ています。性格はかなり異なりますが。

 

『僕が愛したすべての君へ』のストーリーはこの和音との恋愛が中心となりますが、こちらの世界では平行世界における「自分」とは何なのか、というある種哲学的なテーマもはらんでいます。

先に述べたように、この世界では近い世界へのパラレル・シフトは日常的に起こっています。では、少し離れた世界の自分もこの自分と同一人物と言えるのか?離れた世界の和音をこの世界の和音と同じように愛せるのか?という問いが、主人公には突きつけられます。パラレル・シフトの存在が知られてしまったがゆえに起きる悩みです。この悩みにどう答えを出すのか、ということが、この小説の読みどころの一つとなっています。

 

全体的には幸せな世界である『僕が愛したすべての君へ』なのですが、後半ではあるショッキングな事件も起こります。詳細は書きませんが、少し離れた世界でも、この世界では起きない悲劇が起きている可能性がある。今ある幸せというのはとても儚いものであって、別の世界の可能性を知らないからこそ成り立っているのだ、という世界観がここでは示されます。

世界には無限の可能性があって、今生きている世界はそのひとつであるに過ぎない。フィクションの話とはいえ、このストーリーはどこかこちらの幸福感を揺さぶってくるものがあります。ほんの少し離れた並行世界でも今悩んでいることはなかったことになっていて、また別のことで悩んでいるかもしれない。この世界が唯一の世界でないことを知ってしまうことで、いろいろな葛藤が起きます。ましてや実際に平行世界に移動可能となると苦悩もより深くなる。人間は平行世界の存在なんて知らないほうが幸せだったのではないか、とすら思えてきます。

 

saavedra.hatenablog.com

実際、こちらの選択次第でもっと別の世界を生きることができたんじゃないか、なんてことを本気で考えていると怖くなってくるんですよね。今生きている世界が唯一のものならなんとか受け入れていくしかないけれど、無限に平行世界が存在するということになると、今生きてるルートがバッドルートなんじゃないか、なんて妄想にも取り憑かれる。実際、『君を愛したひとりの僕へ』はバッドルートに入った運命を変えるために狂気ともいえるほどの執念をみせてくれているのだけれども。

 

この『僕が愛したすべての君へ』のラストシーンは『君を愛したひとりの僕へ』を読んでいればすべて納得できますし、こちらを先に読んでいれば少し不思議な余韻の残る読後感になります。私は『僕が愛したすべての君へ』の方を先に読みましたが、こっちをあとにすれば良かったかな……と思いました。これを先に読むと『君を愛したひとりの僕へ』のほうが謎解き編ということになります。それはそれで面白いですが。

 

 平行世界のアイデアがあって成り立っている作品なのでジャンルとしてはSFでしょうが、どちらもヒロインへの強い想いがストーリーの根幹となっているのでラブストーリーとしても読めます。切ない系の話が読みたい方には強くオススメ。割と万人受けしそうなのでいずれアニメ化なり映画化なりして欲しい。

講談社『興亡の世界史』シリーズのおすすめの巻を紹介してみる

なにか面白い世界史の本ってないの?という方におすすめしたいのが、講談社の『興亡の世界史』シリーズです。これはなかなか意欲的なシリーズで、世界史本によくあるイギリスやドイツ、中国と言った国ごとの単位で歴史を見るのではなく、もっと広い視野で国同士や民族の関わりを描き、巨大な歴史のうねりを体感できる内容になっています。

 

最近は文庫化もされていて手に取りやすくなっているので、このシリーズで今まで読んだ卷の内容について一通り解説してみます。といっても7巻分だけですが、今後の読書計画の参考までにどうぞ。

 

 

 1.アレクサンドロスの征服と神話

 

 

この中でどれか1冊だけに絞るなら間違いなくこれ。私は大腸の手術で入院するときにこれを持っていきましたが、再読に耐える本で一週間の入院期間中に何度も読み返しました。

 

本書はアレクサンドロスを扱っていながら、彼の一代記にとどまらない広い視野を持つ内容になっています。ギリシアとペルシアの関係性やマケドニア史を丁寧に叙述し、アレクサンドロス登場以前の世界がどのようなものだったのかがわかりやすく解説されます。

特筆すべきは、アレクサンドロス父フィリッポスの業績がかなり詳しく書かれていることです。アレクサンドロスの率いていたマケドニアファランクスも、フィリッポスの軍事改革により生み出されたものでした。軍事面ではテッサリアトラキアを征服し、内政ではパンガイオン金山を開発し、征服した土地の住民を強制移住させて農地の開墾を進めるなどの手腕を発揮しています。コーエーSLGなら政治と戦争と智謀が全部90を超えるくらいの人です。

 

アレクサンドロスの業績は巨大ですが、それはあくまで父フィリッポスの築き上げた基盤の上に成り立っているものでした。フィリッポスの作り上げた世界最強の軍隊をもって、アレクサンドロスはペルシアへの東征を進めることになります。

その過程は省略しますが、本書では大王の東征の結果として起こったヘレニズム文化についても再考しています。このヘレニズムという概念はギリシア中心主義を内在させているという問題提起が本書では示され、ガンダーラ美術はアレクサンドロスの東征より400年近い隔たりがあるという事実を指摘し、あくまでギリシア、イラン、ローマの3つの文化によって成り立っているものであると説明されています。その意味で、本書はアレクサンドロスの「ギリシア文化の伝道者」としての姿に修正を迫るものでもあります。

 

個人的に一番興味を惹かれたのが、ギリシア文化の最東端となったアイ・ハヌムの遺跡。バクトリアではギリシア文化は地元に根づいたものではなかったのではないかというのが著者の見解です。この遺跡もメソポタミア文化の影響が濃く、ギリシア文化一色というわけではありません。こういう点など、東西交渉史や中央アジア史に興味のある方にもおすすめしたい本です。

 

2.スキタイと匈奴 遊牧の文明 

 

 

 およそスケールの大きさという点で、遊牧民の活動を上回るものはあまりないでしょう

。本書は歴史というよりは考古学の話が多いですが、スキタイと匈奴という共通点の多い遊牧民の活躍を考古学から裏付けることで、世界史の醍醐味を存分に味あわせてくれます。

 

スキタイというと黒海の北方に住んでいたというイメージが強いですが、本書を読むと広義のスキタイ文化というものはもっとはるか広い地域に分布していたということがわかります。

スキタイ文化の起源はアルタイ山脈のあたりにあると言われていますが、この地域から出土する考古資料から、ヘロドトスの『歴史』に著されているのと同じ生活習慣をもった人々が黒海からはるか離れた土地に住んでいたことがわかります。文献史料が考古学に裏付けられるというのはたいへん面白い。

 

匈奴については知っていることも多かったですが、ここでも大事なのは考古学で、出土品によると匈奴の領域内でもどうやら農業が行われていたようです。とは言っても匈奴が農耕に従事していたのではなく、中国からさらってきた農民を強制的に働かせていたのだろうと推測されています。

遊牧だけでは生産が安定しないのでやはり農業も大事。でも匈奴は農耕民を見下しているので自分ではやらない、という推測がここでは成り立っています。少ない史料から想像力を駆使して匈奴の実像に迫るという愉しみがここにはあります。

 

匈奴は結局フン族になったのか?という部分の考察もけっこう詳しく、この問題や末期のローマ帝国史に興味がる方でも楽しく読める内容になっています。これを読んだ限りでは、匈奴がフンになったかどうかはまだ証明できないようです。

 

3.モンゴル帝国と長いその後

  

 

中央アジアの話がなぜか多い興亡の世界史シリーズですが、本書もその一冊。著者はモンゴル史が専門の杉山正明氏。杉山氏の特徴として、一部で「杉山節」といわれるほどの強力なモンゴル肯定の歴史叙述がありますが、本書でもその特徴は遺憾なく発揮されています。

本書ではモンゴル軍のロシア侵攻について詳しく書かれていますが、北東ルーシはモンゴル軍にとっては単に「駆け抜ける」ための地域でしかなく、キプチャク草原制圧のための「ついで」の侵攻に過ぎなかったと説明されています。

土地が痩せていて人口も少ないロシアはモンゴルにとって全く魅力的ではなく、大した旨味もないから間接支配で満足していたのだそうで、モンゴルの虐殺などというものはロシア愛国主義の作り出した創作にすぎない、とも書かれているのですが、ロシア史家から見ればこの点は異論もあることでしょう。その点については『ロシア・ロマノフ王朝の大地』を読めば、また別の視点からとらえることができます。

 

「その後」と書かれているだけあって、本書ではモンゴルがユーラシアの大部分を制覇した後の歴史についても触れられています。ティムールもチンギスの末裔の婿として振る舞わなければいけなかったし、ティムールの子孫が建設したムガル帝国の「ムガル」もモンゴル。そしてダイチン・グルン(大清帝国)もまたモンゴルの後継国家、という歴史観が示され、いかにモンゴルの影響力が巨大であったかが語られます。このあたりはモンゴル史家の面目躍如といったところでしょうか。

 

全体としてはモンゴル史というよりも遊牧民の文明論という色彩が強く、モンゴル史を学ぶための最初の一冊としては向いていませんが、世界史を遊牧民の側から見直したい方、杉山氏のファンの方なら楽しめる一冊だと思います。モンゴル史を一から知りたい方はこちらのほうがオススメ。

 

 

4.オスマン帝国500年の平和

 

  

私が子供の頃はまだ「オスマントルコ」だった記憶のあるオスマン帝国。どうして「トルコ」がなくなってしまったのかは、本書の冒頭を読むとわかります。オスマン帝国というのは多数の民族の混成体であって、トルコ人だけのものではなかったからです。

アナトリアオスマンが興ったころには、トルコ系やモンゴル系に加え、ビザンツ帝国の傭兵すら存在していました。この雑多な集団がバルカンに進出し、やがてビザンツ帝国を滅ぼして大国に成長する過程を一通り描いた後、オスマンの文化と帝国支配のしくみについて解説しています。

 

際立った特徴はありませんが、オスマン帝国の概説書として手堅い出来で、高校世界史程度の予備知識があれば読み進められる良書だと思います。著者の林佳世子氏は世界史リブレットから『スレイマン1世』を出す予定だそうですが、一体いつ出るのか。

 

5.ロシア・ロマノフ王朝の大地

  

 

ロシア史の通史ってあまり日本にはありませんよね?本書はこのようなタイトルですが、実際読んでみるとキエフ公国からソ連に至るまでのロシア史の通史でした。配分はロマノフ朝についての部分が一番多いですが、個人的にはロマノフ朝崩壊以後はいらなかったように思います。

 

国単位で歴史を切り分けないのがこのシリーズの魅力だと書きましたが、ロシアくらいの大国になると通史を書くだけで十分に「世界史」になります。その「世界史」とロシアとの関わりとして外せないのがモンゴルの侵攻と「タタールの軛」ですが、この出来事は先に紹介した『モンゴル帝国と長いその後』とは異なり、ロシアにとっては国土を徹底的に荒廃させたかなり重大な出来事だと書かれています。やはり歴史は片側だけから見てはいけないんでしょうね。

キエフの人口は大幅に減少し、交易路が断ち切られて経済が停滞し、手工業も大打撃を受けるなど、ロシア史家から見るとモンゴルの負の影響力は甚大のようです。このようにモンゴルによってロシア南部のステップ支配がこの地域を衰退させたため、権力の中心は北東部のモスクワに移ることになりました。こうして次のモスクワ・ロシア時代が始まることになり、その権力はロマノフ朝にも受け継がれます。

 

ロマノフ朝の部分がやはりメインなので、代々の皇帝の業績や人間像も詳しく知ることができます。ピョートルやエカチェリーナのような有名どころからパーヴェル帝やエリザヴェータのようなマイナーな皇帝までこれ一冊でおさえられます。中でもピョートルの存在感がとにかく凄い。もうこの人は怪物。伝統の破壊者という点では信長なんて比較にもならないレベル。

全体として文章が読みやすく、モンゴルの巻のように癖もないのでロシア史の概説として間違いのない一冊だと思います。著者の土肥恒之氏は世界史リブレットから『ピョートル大帝』も出していますが、こちらもコンパクトながら内容が濃いのでおすすめです。

  

 

 

6.シルクロード唐帝国

 

 

こういうタイトルですが、中身はソグド人三昧。ソグドは凄い、という主張に尽きる一冊。いいですね、こういう徹底的に著者が言いたいことを語り倒す本は好きです。もっとも、読者がどこまでついていけるかは疑問なのですが。

 

モンゴル帝国と長いその後』もそうでしたが、本書も中央アジアの視点から歴史を見直す、という趣があります。唐という大帝国だって最初は突厥に圧迫されていた。その突厥で外交に軍事に活躍していたのがソグドだから、ソグドは凄い。シルクロードの交易を担っていたのもソグドだから、やっぱりソグドは凄い。そして唐に反旗を翻した安禄山もソグドの血を引いているからソグドパワーは凄い。そんなことが書かれている本です。ソグドが好きな方ならたまらない一冊でしょうね。

 

一方、本書を「唐とシルクロード」という言葉から連想される西域趣味というか、歴史のロマン的なものを求めて読むと少々当てが外れてしまうかもしれません。ソグドがこの時代における極めて重要な存在だったことは間違いないのですが、奴隷売買文書に一章割くなどむしろ専門書に近いような内容もあり、これを概説書として勧めるのは少々戸惑うところもあります。中央アジア史やソグド人に興味のある方には間違いなくおすすめですが、そうでない方にはちょっと敷居は高いかもしれません。

 

 7.通商国家カルタゴ

 

   

カルタゴと言えばハンニバルハンニバルと言えばポエニ戦争。そんなイメージってありませんか?そういうイメージがあるのは結局、カルタゴという国はローマのライバルとして語られてきたからです。

本書でも対ローマ戦争やハンニバルの活躍にも十分にページを割いていますし、その部分は戦記としても楽しめるわけですが、この点についてはローマ人の物語の『ハンニバル戦記』などでもかなり語られてきたところなので、あえてそこを求めて本書を買う必要もないかな、とは思います。

 

それよりも、本書の価値はむしろ前半にあります。カルタゴという国はもともとフェニキアの都市テュロスの建設した植民都市ですが、本書ではテュロス時代からのカルタゴの歴史が詳述されています。

地中海文明というと、私達が想像するのは主にギリシャやローマですが、そもそも地中海の歴史はメソポタミアやエジプトの影響を受けながら東方から開けたものです。本書ではカルタゴの歴史を通じて、ギリシャやローマの影に半ば隠れてしまっているフェニキア人の活動を活写します。したたかな商人であり、ハンノのアフリカ探検に見られるように優れた航海技術も持っていたカルタゴの姿を、少ない史料から浮かび上がらせるよう最大限の努力が払われています。

 

カルタゴでは幼い子供を生贄に捧げる儀式が存在したと言われるとおり、現代人から見たカルタゴのイメージはあまり良いものではありません。ですが、こうしたカルタゴ像の多くが結局ローマ側からもたらされたものです。本書ではそうしたカルタゴのイメージを完全に覆しているわけではないものの、ギリシャやローマの影に半ば隠れてしまっているフェニキア史の一部としてカルタゴの姿を浮かび上がらせることに成功しています。

全体として文章も読みやすく、世界史のマイナーな部分に光を当てた好著だと思います。個人的には最初に挙げた『アレクサンドロスの征服と神話』に並ぶ面白さだと感じました。興亡の世界史シリーズの中でも特に推奨したい一冊です。

 

8.大英帝国という経験

 

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

 

 

大英帝国、近代イギリス史を知る最初の一冊としてはおすすめできませんが、この時代についての一通りの知識があるならかなりおすすめできる本です。政治史よりも社会氏に重点が置かれていて、イギリス本国よりもスコットランドアイルランド南アフリカ戦争や奴隷解放、植民地や移民、そしてレディ・トラベラーなど、帝国の周縁や虐げられた人々にスポットが当てられているため、大英帝国という国家を多角的に理解することができます。

大英帝国のなかのカナダという地域に言及している本は少ないので、これを書いてくれている本書はそれだけでも価値があります。ヴィクトリア時代に関心をもつ方には文句なしにおすすめできる一冊です。

この本の内容についてはこちらでくわしく紹介しています。

saavedra.hatenablog.com

小姓の視点から中世ヨーロッパの城の生活を体験できる『中世の城日誌―少年トビアス、小姓になる』

 

岩波ジュニア新書なんかを読んでいてもよく思うことですが、児童書というものをナメてはいけません。この手の本は多くは専門家が書いていて、子供だましどころか子供向けであるがゆえに内容がわかりやすく、それでいて高度な内容がさりげなく詰め込まれていたりするものです。

 

中世の城日誌―少年トビアス、小姓になる (大型絵本)

中世の城日誌―少年トビアス、小姓になる (大型絵本)

 

 

ここで紹介する『中世の城日誌―少年トビアス、小姓になる』もそんな一冊。

これは絵本なんですが、騎士の叔父上に小姓として使えることになった少年トビアスの視点から、中世の城の生活を詳しく知ることができます。

 

この生活の様子というのがかなり多岐にわたっていて、給仕の仕事からイノシシ狩りの様子、パン作りの現場や宴席での旅芸人の歌や踊りなど、かなり詳しく書かれています。城の中だけでなく麦の刈り入れの手伝いや密猟者との出会い、牢に入れられる友人の話など、なかなかシビアな部分にも触れられています。

ビアスが病気で倒れて医師に治療してもらう場面などもあります。中世なので治療法は放血。「地と火がこの子の体の支配権を巡って争っている」という医師の台詞がファンタジー感満載。そのまま小説に使いたいくらい。

 

よく「SFは絵」だなんて言いますが、私は歴史こそ絵だと思っています。

こういうものはビジュアルが鮮明であることが大事。その点、絵本なら全部イラストがついてるから文章の理解度が200%増し。ただ眺めているだけでも楽しいのでお子様にもオススメ、というかそもそも子供向けなのですが、内容の濃さから文句なしに大人にも進められる絵本だと思います。

 

創作という点から見ると、これはファンタジーの設定作りのためにも大いに役立つ一冊となります。例えば、本書では竹馬が中世のイギリスでは「長脛王遊び」と言われていたと書かれています。長脛王(ロング・シャンクス)とは『ブレイブハート』でも有名なエドワード1世のことですが、ただ竹馬と書くよりもこういう独自の言葉で表現したほうが雰囲気が出ると思いませんか?

 

個人的にお気に入りなのが豚を殺してベーコンを作る場面。豚の飼育係は、ドングリが一杯に入ったバケツに豚が顔を突っ込んでいるうちに、脳天にハンマーを一発ぶちかます。ひっくり返った豚の喉を素早く切り裂き、吹き出した血をバケツに入れる。この血はソーセージ作りに利用されます。

いつも優しく豚をなでてやっているのにどうしてそんなに残酷になれるのか、と訊くトビアスに対する豚係の回答はこれ。

 

豚は死んで俺たちを食わせてやれる日まで生きているだけのこった。それにな、なでてやるのは何も優しい気持ちからじゃないんだ。豚が幸せな気持ちでいてくれたほうが、うまいベーコンができるのさ!

 

こういうディテールもしっかり書き込むことによって、その世界に確かな生活臭を出すことができます。上橋菜穂子作品の質の高さはその世界の風俗や生活習慣まで作り込んでいるからですが、ああいうものを書くにはまずは下調べが肝心でしょうね。

 

基本は子供向けの絵本なので、城の政治的役割だとか荘園支配のしくみ、騎士の役割などといったところまでは本書ではわかりません。もっと踏み込んだところまで知りたい方には『中世ヨーロッパの城の生活』がおすすめです。

 

中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)

中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)

 

 

「貴方のこと、ここの常連にしてあげようか?」

気分が優れないので保健室を訪れ、しばらく養護教諭と話し込むうちに、彼女は突然そんなことを言い出した。少し戸惑いつつ私が周りを見回すと、素行が悪いことで知られていた生徒が壁際のベッドからのっそりと身を起こしたところだった。その様子を見て、私にもなんとなく今起きている事態が呑み込めてきた。

 

つまり、彼女は私があの生徒のように授業を抜け出してきて、一時の安らぎをこの場に求めてきたと思ったのだろう。ベッドに横たわっていた女子生徒はよく授業をさぼっている子だったが、彼女が足繁くこの場に通っていたことは容易に想像できる。私も彼女のようにしばしばここに通うようになると、私の顔色を見て判断したに違いない。

 

私は別にそういうつもりで来たわけではない、と言おうと口を開きかけたが、彼女が一方的に自分語りを始めたので、私は押し黙ってしまった。この人は、自分は私の仲間なのだと見せかけようとしている。顔の色艶もあまりよくないし、目元もどこか暗く、尖った顎のラインが神経質そうで養護教諭という言葉から連想される温かみからは程遠い人だったが、それでも馴れ馴れしく私に語りかける彼女は、どうやら生徒思いのいい先生のつもりらしかった。

 

「貴方は石川達三って知ってる?私が高校時代、その人の小説をよく読んでたのね」

 

そう話を振られても私は困ってしまう。そんな昔の作家の小説なんて私は読んだことがないし、仮に読んでいたとしても彼女と文学の話なんてする気はさらさらないのだ。私はちょっと具合が悪かっただけで、この場の常連などになるつもりはなかったのだから。

 

その後、彼女が何を話したのかはよく覚えていない。彼女に大した興味もなかったので、言葉が全て意識を上滑りしてしまったのだろう。保健室を去る時には、妙な徒労感だけが肩に降り積もっていた。養護教諭が私を「救いを求めに来た生徒」という枠に押し込めて得々と自分語りを続け、自分は優しく生徒を包み込む良い先生だと思い込みたかっただけなのだと思うと、なんだか利用されたようで妙に腹立たしかった。もう二度とあの保健室の扉をくぐることはないだろう、とその時は思った。

 

月日は流れて、私は国立大学に進学し、やがて就職活動の時期を迎えた。面接対策のマニュアルを読み、数多くの企業を訪問するうち、社会人になるとは社会人という器に自分を嵌め込むことなのだ、と次第に悟るようになった。またいつものように面接に落ち、肩を落としてアパートに帰ったある日、テレビをつけるとこんな寓話が放映されていた。

 

「昔々、あるところにとても顔の怖い王様がいました。王様は美しい王妃をめとることになりましたが、彼女を怖がらせないよう、優しい顔の仮面をかぶることにしました。二人はしばらく幸せに暮らしましたが、王様は王妃様をだましていることに耐えられなくなり、ある日思い切って仮面を外すことにしました。するとどういうことでしょう、仮面の下から現れた素顔も、すっかり優しい顔に変わっていたのです」

 

この話を聞いたとき、私の頭の中を電光が貫くような感覚を味わった。あの養護教諭の顔が、ありありと脳内に蘇ってきた。彼女は優しい先生という自己像に酔いたかったのではなく、養護教諭にふさわしい、優しい顔の仮面をかぶろうとしていたのではないのか。若く未熟な私は、それを見抜けなかった。彼女はどこまでも自己の職務に忠実であろうとしていただけだったのだ。

高校生との会話に石川達三を持ち出すような彼女は不器用な人に決まっている。彼女はただ不器用で、上手く優しい先生を演じきれていなかっただけだ。でも、演じようとしていただけで十分なはずだ。王妃のために優しい仮面をかぶろうとしていた王様は、その時点で優しい人だったのだから。

 

ようやく就職が決まり、卒業を間近に控えて時間に余裕のできた私は、ふと石川達三の『青春の蹉跌』を手にとってみた。とても生真面目な小説だった。こういうものを好んでいた彼女もまた、生真面目な人だったのだろう。生真面目で不器用な彼女は、生真面目に生徒の望む養護教諭であり続けようとしていた。あの顔色の悪さも目元の暗さも、そのストレスの現れだったのかもしれない。

 

日々保健室を訪れる生徒たちは彼女の前で悩みを吐露できても、養護教諭である彼女はどこにも苦しみを吐き出す場所がない。であるなら、私もあの時、もう少し真剣に彼女の自分語りを聞くべきだっただろうか。石川達三をあの頃読んでいればもう少し話も弾み、彼女の気も晴れていたかもしれないが、こういう洞察はいつだって遅れてやってくるものなのだ。

 

青春の蹉跌 (新潮文庫)

青春の蹉跌 (新潮文庫)