明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

陳舜臣『中国の歴史』は中国史入門としておすすめの本

 

中国の歴史(一) (講談社文庫)

中国の歴史(一) (講談社文庫)

 

 

ある国の歴史を知ろうとしたとき、入り口としては概説書と小説があります。

概説書の場合、多くはプロの歴史研究者が書いているので内容の正確さは問題がありません。一方、学者の書く文章は学問としての信憑性を最優先するため、読者からすれば必ずしも面白いものではなく、ときに無味乾燥なものになってしまう、ということもあります。

そして小説の場合、読み物としての面白さはあるものの、フィクションなので内容がどこまで本当かわからないという問題点があります。エンターテイメント性と学問としての正確さ、この両者は両立することもありますし、たとえば宮崎市定の一連の著作などはまさにこのふたつの要素が同居しているものです。しかし、そのような著作を書くのはなかなか困難なものです。

 

その点、この陳舜臣『中国の歴史』は、歴史作家である作者が書いているために文章は読みやすく、登場する人物についても読者の興味を引くようなエピソードを多く取り上げているため、自然と中国史に入り込めるようになっています。人物中心に書かれているため、終わることのない歴史絵巻を延々と眺めているような気分にひたることができます。それでいて内容のレベルも高く、要所要所できちんと史書から漢文を引用し、当時の空気や時代背景、人物の特徴などをできるだけ再現するよう工夫されています。歴史研究においては史料を自分で読むことができ、かつ解釈することができることが大事ですが、中国人の血を引き東洋史を学んでいる著者は漢文の文献資料を読みこなせるため歴史家としても十分な資質があます。それでいて作家らしい情感あふれる文章も随所に差し挟むので、この『中国の歴史』は概説書としての高いレベルを保ちつつ、かつ読み物としての面白さも抜群という、稀有な中国史の本になっています。

 

そして、何よりこの『中国の歴史』を特徴づけているものは、著者の中国史に対する深い愛です。記録というものに熱心で、特に人間を追求することに力を注いできたのが伝統的な中国の歴史叙述ですが、本書もまた人物を中心とした歴史叙述で、時おり各人物への陳舜臣の個人的な好悪が書き込まれることもあります。たとえば、4巻では漢の武帝、唐の太宗などと比べ、宋の太祖趙匡胤は残酷さが少ないため友人に選ぶならこの人だ、と書かれています。このように、作家である陳舜臣の筆は、ときに情緒的になることがあります。しかし、これこそがこの『中国の歴史』の良さであると私は思います。これは学者の書く冷静な歴史書にはないもので、こういう点が本シリーズを読者にとって身近なものにしています。

 

以下、各巻ごとの魅力について紹介します。

 

中国の歴史(二) (講談社文庫)

中国の歴史(二) (講談社文庫)

 

 

中国古代史のハイライトともいえる戦国時代から秦による天下統一、そして項羽と劉邦の楚漢戦争から前漢の時代までを書いています。日本でもよく知られた史実の多い時代ですが、中でも漢と匈奴の争いは有名です。匈奴はもともと月氏よりも弱体でしたが、のちに月氏を破って漠北の覇者となっています。武帝サマルカンド付近に定着した月氏に同盟を呼びかけていますが、月氏はこれを断っています。著者は想像力を働かせ、月氏が同盟を断った理由を、この地域に伝わっていた仏教の影響ではないかと推測しています。もともとミステリ作家として出発した陳舜臣は、ときおりこのシリーズの中でこうした大胆な推理を展開することがあります。こういうところもこの『中国の歴史』の読みどころのひとつです。 

少し時代をさかのぼると、始皇帝が長男の扶蘇焚書坑儒について諫言したことで北方に送られたことについて、これは懲罰ではなく扶蘇の才能に期待していたからではないかとも推理しています。北方を守る蒙恬匈奴に対抗するための30万の兵を持っており、これを監督させるのは秦にとってはきわめて重要な役目です。著者が言う通り、始皇帝扶蘇に大きな期待を寄せていたのかもしれません。扶蘇が趙高の陰謀により自殺に追い込まれなければ秦はもっと長続きしたのではないか、と考えたくなります。

  

中国の歴史(三) (講談社文庫)

中国の歴史(三) (講談社文庫)

 

 

多くの読者が親しんでいる三国志の時代から南北朝時代のはじまりまでを書いています。三国時代は多くの武将が活躍し、曹操曹植が詩人であったように文学も盛んな時代でしたが、陳舜臣は庶民の生活への目配りも欠かしていません。この時代の史書からは庶民の生活は直接うかがえないものの、陳舜臣三国時代を「光のとぼしい時代」と書いています。戦乱が続いていたのだから当然ですが、こうした視点も歴史を見る上で忘れてほしくないと思っていたのでしょう。

三国時代が終わり、普の短い統一期間を経て五胡十六国時代がはじまりますが、五胡のひとつである匈奴の容姿について、この巻では興味深い考察が加えられています。この時代においてはじめて匈奴の容姿が史書に記されるようになったことを指摘したうえで、それまで匈奴の容貌が書かれなかった理由は匈奴が種族名ではなく政治団体の名だからだ、という説を肯定的に紹介しています。多くの種族を配下に抱える匈奴の容貌はばらばらであるから、書けるはずがないというのです。

この匈奴を含む五胡をまとめあげ、華北をほぼ統一した前秦の皇帝・符堅を、陳舜臣は諸民族の融和を目ざした理想主義者として高く評価しています。中華を統一するという符堅の夢は淝水の戦いでの敗北で挫折してしまいますが、このあたりが五胡十六国時代のハイライトといえるでしょう。この時代には彼のような魅力的な人物が多く登場しているので、三国志の「その後」を知りたい方にもぜひ手にとって欲しい巻です。

 

中国の歴史(四) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

中国の歴史(四) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

 

 

唐から五代を経て北宋にいたるまで、ある意味中国史の最も輝かしい時代を書いているのがこの巻です。宋の開祖である趙匡胤が士大夫を優遇した人物であるためか、著者は全体として宋王朝にはかなり好意的であるように思います。酔っ払って寝ている間に天子の服を着せられて皇帝になった趙匡胤にはなんとも言えない愛嬌のようなものが感じられますが、それだけでなく、言論を理由として士大夫を処刑してはならないことを決めた趙匡胤を、陳舜臣はきわめて高く評価しています。

しかし、趙匡胤がそれほど残酷なことをしなくても中華を統一できたのは、すでに後周の世宗が八割型その地固めをしていたからです。この宋の前段階としての五代の時代についてもこの巻ではきちんと書かれています。五代十国時代について扱った本は日本では少ないため、その意味でもこの間は貴重です。この時代は三国時代に匹敵する乱世ですが、唐の滅亡から殺伐とした乱世を経て宋の太平の世が訪れる流れは、読んでいてもどこかほっとするものがあります。宋は契丹や金など北方の民族には常に圧迫されていたものの高い経済力を誇っていたため、この王朝を創った趙匡胤が高評価されるのも当然のことなのでしょう。

 

中国の歴史(五) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

中国の歴史(五) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

 

 

いよいよ草原の風雲児であるチンギス・カンの登場する巻です。モンゴルと南宋との戦いが内容のかなりの部分を締めていますが、陳舜臣はこの時代を代表する二人の詩人として南宋陸游と金の元好問を登場させています。このように文人の目を通して歴史を書くのも、自身が作家であり「文人」でもある陳舜臣ならではの視点です。女真族は中国に入ると急速に中華文明に染まったため、元好問も極めて高い水準の漢詩を作っているのですが、元好問は金末期の詩人であったためにモンゴルの侵入を経験し、金の滅亡をその目で見ています。この巻には金滅亡の半年後に元好問の書いた詩が載っていますが、著者のモンゴルに対する気持ちをこの激しい詩に代弁させているかのようにも思えます。

一方、南宋最後の忠臣である文天祥にも、著者は十分な思い入れを込めて書いています。モンゴルへのゲリラ活動を続け、最後まで決して屈しなかった文天祥陳舜臣は「一個の見事なもののふ」と表現しています。陳舜臣は決してモンゴルをただの野蛮人として書いているわけではなく、フビライの寛容さや開明性にも一定の評価は与えていますが、やはり心情としては中国側をよりよく評価する傾向はあります。対して、モンゴル史家である杉山正明氏はこの文天祥を「あさましい人物」とまで酷評しています。フビライは生きて自分に仕えるよう文天祥に勧めたのに死んで歴史に名を残そうとしたからですが、モンゴルの立場から見ればそうなるのかもしれません。当シリーズの人物評価は中国側に視点を置いたものだということを念頭に置きたいところです。

 

中国の歴史(六) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

中国の歴史(六) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

 

 

この巻では、靖難の変で明の永楽帝が帝位についた頃から清の乾隆帝の頃までを扱っています。中国史とは言っても扱う内容は時に西域にまで及んでいますが、それは永楽帝のライバルとなり得たティムールについて記すためです。この巻の「ティムールの西域」はティムールの生涯を比較的詳しく書いていますが、ティムールの著書が少ない日本においてはこの章は彼の生涯を知るうえで今なお有益です。ティムールはその生涯の最後に明遠征の途上にありましたが、もしティムールと永楽帝が戦っていたらどうなったか?について、陳舜臣はこう予想しています。

 

仮にこの老皇帝の率いる軍隊が、明と戦うことになっても、おそらく勝利は望めないでしょう。即位したばかりの永楽帝は、気力充実した壮年の将軍皇帝でした。その後の5回に渡る親征でもわかるようにきわめて積極的でした。長途の遠征に疲れたティムール軍は、漠北の地に壊滅したにちがいありません。

 

中国びいきと言われればそれまでですが、この推測には一定の説得力があります。このように、学者とちがって歴史のイフを自由に考え、大胆な予測を交えることができるのが作家の書く歴史の面白さです。ティムールのことをわざわざ書いたのは、天才的な武人だったティムールすら破っていたであろう巨大な存在として永楽帝を評価していたからかもしれません。実際、永楽帝鄭和を海外に派遣し、中国における「大航海時代」を演出したスケールの大きな人物でもあったわけです。陳舜臣大航海時代を語る時に鄭和の遠征がオミットされていると指摘していますが、ここに永楽帝の偉業が軽視されていることに対する静かな怒りを読み取ることもできるかもしれません。

  

小説十八史略(一) (講談社文庫)

小説十八史略(一) (講談社文庫)

 

 

以上、すべての巻ではありませんが陳舜臣『中国の歴史』シリーズの魅力について紹介してきました。しかしなにぶん中国史の本なので、これでもまだ固いと感じる読者もいるかもしれません。そういう方には同じ著者の『小説十八史略』があります。こちらは南宋が滅亡した時点でストーリーは終わりますが、オリキャラも交えつつ小説として中国史を読める内容になっています。

 

saavedra.hatenablog.com

なお、三国時代に関しては以前 こちらのエントリを書いていましたが、この中で紹介している『三国志の世界』は講談社の中国の歴史シリーズの中の1巻で、こちらも中国史を学ぶ上ではおすすめのシリーズです。

超高速!参勤交代リターンズ(感想)

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参勤交代の帰りの話なので前作と似たようなストーリーになってしまうのでは……?と思っていたが、前作のような強行軍は話半ばで終わり、途中からは松平信祝陣内孝則)の手先である尾張柳生との戦いになっていた。湯長谷藩を乗っ取る尾張柳生との戦いが後半の見せ所で、むしろ湯長谷藩に戻ってからが本番。とはいえ、中間を雇って大名行列を立派に見せたり、前作同様人数を水増しする苦労も描かれている。湯長谷藩は実在の藩だが、一万国を少し上回る程度の藩でも大名行列には100人くらいは必要らしい。江戸の中間には大名行列のアルバイトを収入源にしている者がいたので、島津久光が参勤交代を3年に1回に伸ばした改革は彼らには不評だった。

 

ストーリーのテンポの良さや内藤政醇と家臣との掛け合いの面白さは相変わらずで、前作の参勤交代の苦労話が楽しめた人ならこちらも楽しめる。政醇の死体の化粧は一体いつしたのかとか、不眠不休で走り続けたのに尾張柳生と互角以上に戦える湯長谷藩士強すぎないかとか、そういうツッコミどころも込みで楽しむのがこの映画。あと、猿が可愛い。

 

湯長谷藩に戻ってからはわりと普通の時代劇になっていたが、参勤交代の話だけしていると前作の繰り返しになってしまうから仕方がないか。政醇の征伐にやってきた松平信祝は信長が着ているような南蛮鎧を着ていたが、江戸時代でもああいうものを着る武士というのはいたのだろうか。井伊の赤備えらしき武士団まで出てきていたが、信祝を守る武士団の盾の使い方などはけっこう本格的。あれをやられたら少人数では絶対に勝てない。では、湯長谷藩側はそこをどう切り崩すのか、それは観てのお楽しみだ。

 

前作同様、構えずに気楽に観られる映画。吉宗が善玉なので必然的に徳川宗春が悪役になってしまっていたが、そこは目をつぶろう。大岡忠相の意外な活躍も見られる。

塩野七生『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』におけるアレクサンドロス大王の評価について

 

ギリシア人の物語III 新しき力

ギリシア人の物語III 新しき力

 

 

ギリシア人の物語の最終巻となるこの巻では、ペロポネソス戦争が終わり、ペルシアに翻弄されて混迷を深めるギリシアに突如として出現した天才・アレクサンドロス3世の活躍を中心に描いている。塩野氏はこの好戦的で決断力に富む若者がかなり好きなようで、全体としてかなりアレクサンドロス大王には好意的だ。アレクサンドロスを知らない読者にとってはこの稀代の「英雄」の生涯をくわしく知る楽しみが味わえるだろうし、アレクサンドロスの業績を肯定的に捉えたい読者にとっても好著といえるだろう。

 

アレクサンドロス大王という人物を考えるとき、父であるマケドニア王・フィリッポス2世について語ることは避けられない。それは、このフィリッポスこそが徹底した軍事改革を行ってマケドニアを強国の地位に押し上げ、アレクサンドロスの東征の下地を作った人物だからである。フィリッポスが創設した有名な長槍部隊であるマケドニアファランクスはアレクサンドロスの時代にその真価を発揮しているが、5.5メートルもの長さの槍を携えたこの部隊のアイデア自体はフィリッポスの頭脳から出たものだ。フィリッポスの功績はこれだけにとどまらない。開墾を奨励し、パンガイオン山の金鉱をおさえ財政基盤を確立し、ギリシアの内紛に介入して油断なく勢力を拡大している。即位した時点では滅亡の危機に瀕していたマケドニアを、フィリッポスは一代で覇権国家に作り変えた。フィリッポスこそは、ギリシア世界における一代の梟雄だった。

 

このフィリッポスを、この『ギリシア人の物語』ではどう評価しているか。塩野氏はこのように記す。

 

「鳶が鷹を生む」と、日本では言う。フィリッポスは、並の鳶ではなかった。だが、月並の鳶ではなかったからこそ、飛び始めたばかりでまだ荒けずりの、タカの威力を見抜いたのではないだろうか。

 

これは、カイロネイアの戦いでアレクサンドロスが命令を無視し、二千の騎兵を率いてテーベの神聖部隊を全滅させたことに対する評価だ。わずか18歳、しかも初陣にしてテーベ軍の隙を正確に見抜き、戦いを勝利に導いたアレクサンドロスは「鷹」だが、それに比べればフィリッポスも有能であることは認めているものの、「並の鳶ではない」というくらいの評価だ。天才そのものであるアレクサンドロスに比べて、その評価は相対的に低くなっている。

  

 

だが、人物評価というものは時代によって異なる。世界史リブレットの『アレクサンドロス大王 今に生き続ける「偉大な王」』によれば、欧米では1970年代以降フィリッポスの評価が急速に高まっていて、むしろフィリッポスの方こそ「大王」の名にふさわしいのだ、という論調もあるという。マケドニア本国を放置して果てしのない征服戦争を続けたアレクサンドロスより、マケドニアを亡国の危機から救い、富み栄えさせたフィリッポスのほうが偉大な王だというのだ。この見方からすれば、フィリッポスのほうが「鷹」になる。

 

このフィリッポスの高評価は、アレクサンドロスの評価の低下とセットになっている。アレクサンドロスの征服行における残虐さや、跡継ぎを残さなかった政治的失点をあげつらうほど、逆にフィリッポスの隙のないマケドニア統治の良さが浮かび上がるというわけである。古代ローマ時代からすでにアレクサンドロスの評価は戦争と破壊を続けた「暴君」と、広大な地域を征服した「英雄」との評価で二分されているが、『ギリシア人の物語』におけるアレクサンドロス像は、基本的に後者の見方を受け継いでいる。本書におけるアレクサンドロスは戦場の天才であり、有能な専制君主として描かれているので、ネガティブな面はあまり出てこない。イッソスガウガメラにおけるアレクサンドロスの戦術の巧みさと、対するダリウスの無能ぶりの対比も、アレクサンドロスに颯爽とした武人像を期待する読者にとっては小気味よいものだろう。もっとも、これはおおむね事実でもあるし、どの研究者でもアレクサンドロスの軍事的才能については高く評価している。

 

アレクサンドロスの評価について考えるときに避けて通れないのは、マケドニア将兵ペルシア人の娘との合同結婚式だ。このことは、アレクサンドロスが諸民族の融和と共存を目ざしていたことのひとつの証拠であるとされることもある。しかし、実際のところはどうだろうか。塩野氏はこの合同結婚式については「敗者同化と、それによる民族融和が、彼にとっての最大政略であった」と記している。ペルシアにおいては圧倒的な少数派であるマケドニア人が、ある程度ペルシア人とも協調しなければとうていこの地を治めていくことはできなかっただろう。アレクサンドロスが諸民族の平和共存などという高い理想を持っていたのではなく、あくまで現実的な政略として民族融和を選んだというのはそのとおりではないかと思う。

 

興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話 (講談社学術文庫)
 

 

この集団結婚式において、アレクサンドロスはペルシア王のものを模した豪華な天幕を用意し、ペルシア流の儀礼を採用した。このことについて、『アレクサンドロスの征服と神話』のなかで森谷公俊氏はこう書いている。

 

ペルシア王を軽蔑したはずのアレクサンドロス自身が、今やペルシア王を模倣し、それをしのぐほど豪華な天幕を作らせた。一体なぜなのか。それは、東方諸民族の王として君臨するためである。彼の王権はすでにマケドニア人やギリシア人の枠をはるかに超えていた。目の前にいたのは、これまでアカイメネス朝を支えてきたペルシア人貴族であり、ペルシア人に支配されてきた諸民族である。自分を新しい王として受け入れさせるには、彼自身がペルシア流の豪華絢爛たる儀礼を採用しなければならなかったのだ。

 

ペルシアの地では、ペルシア人にもわかるように王権を視覚化する必要がある。アレクサンドロスは王権の偉大さを表現するための現実的な手段として東方風の儀礼を取り入れる柔軟性はたしかにあった。塩野氏はこのようなリアリストとしてのアレクサンドロスの一面を評価しているのだろう。アレクサンドロスを英雄として書いているからといって、過度に理想化しているわけでもない。

 

このように優れた資質を持つアレクサンドロスではあるが、その一生を追うとき、どうしても彼の負の側面に触れなければならない出来事がある。王の側近であるクレイトスの刺殺事件だ。大王の東方協調路線に不満をつのらせるクレイトスは宴会の場でアレクサンドロスを公然と非難し、これに怒った大王がその場で彼を槍で刺し殺してしまった、というものである。澤田典子氏は、先に挙げた『アレクサンドロス大王 今に生き続ける「偉大な王」』のなかで、この事件の核心はアレクサンドロスの父フィリッポスに対するコンプレックスであると説く。クレイトスはアレクサンドロスを非難するとき、父フィリッポスの功績はすべてアレクサンドロスにまさるものだと言った。アレクサンドロスはクレイトスにフィリッポスの影を見たというのである。

澤田氏は、アレクサンドロスの東征そのものも、偉大だった父を超えたいという思いに支えられていたと書いている。彼が父へのコンプレックスに突き動かされてあの大帝国を作り上げたとするなら、アレクサンドロスとは成功した武田勝頼のような存在だったのかもしれない。だが、こうした生々しい大王の一面は『ギリシア人の物語』では描かれることはない。クレイトスとアレクサンドロスの対立は、あくまでペルシア人との融和政策をめぐる争いとして書かれている。どちらがほんとうの大王の姿か、想像してみるのも面白いだろう。

 

このアレクサンドロスの東征は、インド王ポロスとの戦いに勝利してなお進軍をやめようとしなかった王への兵士たちの従軍拒否で終わった。多くの犠牲を強いつつ続けられた東征への兵士たちの不満が、ついにここで爆発したことになる。アレクサンドロスがどこまで征服する気だったかはわからないが、より慎重な支配者だった父フィリッポスが生きていて東征を行っていたならインドまで足を伸ばすことはなかっただろう、と言われることがある。彼ならペルセポリスを占領した時点で征服行を止めていたかもしれない。しかしその場合、後世への影響力はアレクサンドロスほど大きなものにはならなかっただろう。

塩野氏はこの『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』の二章を「なぜアレクサンドロスは、二千三百年が過ぎた今でも、こうも人々から愛され続けているのか」という問いで締めくくっている。その答えは、彼が多くの部下に反発され、ときに暗殺の危機すら迎えてもなお東征をやめようとしなかったほど一途で頑固な性質の持ち主だったから、という気がする。地の果てまでも征服しようとし、時に無謀とすらいえる冒険行に乗り出したアレクサンドロスだからこそ、そこに後世の人々が自分の夢を投影できるのだ。冷静で現実的だったフィリッポスでは、もし彼がもっと長生きしていれば、と想像をかき立てることはむずかしい。あくまで結果論であるとはいえ、ギリシア人の活動範囲が大きく広がり、バクトリアの地にアイ・ハヌム遺跡を残すほど広範囲にギリシア文化が拡散したことも、アレクサンドロスの活動範囲が極めて巨大だったことによる。そうでなければ、後世の人間が憧れ続ける存在にはなれない。

 

以上見てきたように、基本的に『ギリシア人の物語』におけるアレクサンドロス大王像は「偉大な王」だ。先にも書いたとおり、近年アレクサンドロスの研究者はかなり彼のネガティブな側面にも光を当てているのだが、なぜ本書ではアレクサンドロス大王は古典的ともいえる英雄として書かれているのか。もちろんその方がエンターテイメントとして楽しめるからというのはあるだろうが、より大きな理由として、塩野氏の愛してやまないユリウス・カエサルの言葉がここには関係しているかもしれない。

 

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

 

 

ユリウス・カエサルはスペイン属州に赴任したとき、アレクサンドロスの伝記を読んで「今の私の年齢で、アレクサンドロスはすでにあれほど多くの民族の王となっていたのに、自分はまだ何一つ華々しいことを成し遂げていない。これを悲しむのは当然ではないか」と嘆いたという。塩野氏は『ローマ人の物語』で上下二巻もカエサルに費やすほどのカエサルびいきだ。塩野氏がローマ一の傑物と評価するカエサルが称揚するアレクサンドロス大王は、やはり偉大な人物であって欲しい、ということではないだろうか。そして実際、アレクサンドロスカエサルが憧れるほどの巨人ではあった。

 

アレクサンドロス大王東征記〈上〉―付インド誌 (岩波文庫)

アレクサンドロス大王東征記〈上〉―付インド誌 (岩波文庫)

 

 

ローマ人の物語の「前史」ともいえる『ギリシア人の物語』は、アレクサンドロスの退場によって幕を閉じた。アレクサンドロスの死後、その大帝国はすぐさま分裂し、マケドニアはヘレニズム国家のひとつとしてしばらく生きながらえる。フィリッポス2世が作り上げ、アレクサンドロスが発展させたファランクス部隊は紀元前197年、キュノスケファライの戦いにおいてローマのレギオンに敗れ去った。アレクサンドロスの後継国家のひとつとしてのマケドニアは程なくして滅亡するが、稀代の英雄としてのアレクサンドロス大王の存在は長くローマ人を魅了し続け、ローマの武人アッリアノスに彼の伝記を書かせることになる。我々が現在大王の東征について知ることができるのは、アッリアノスが『アレクサンドロス大王東征記』にその詳細を記してくれたからである。プルタルコスもまた『英雄伝』においてアレクサンドロスについて記している。ギリシアが生んだ英雄の人生は、ローマ人によって後世に語り継がれ、ローマ人にとっての英雄であり続けた。ローマ史を学んだ塩野氏がアレクサンドロス伝を書くことになるのは、必然だったのかもしれない。

骨無しチキンの楽園

はてなブックマークをなくすべきだとかなくすべきでないだとかいう議論を目にしましたが、まあ、1ユーザーがどうこう言ったところで結局なくなりはしないだろうし、多少仕様に変更が見られたとしても、1年後も大して代わり映えのしない光景が繰り広げられてるんでしょうね。あいかわらずネガコメがあちこちで見られるだろうし、政治やジェンダーの話題では皆が喧々諤々やってるんだろうし、クラスタの人たちはお互いにブクマ付けあって心にもないおべんちゃらを並べてるんでしょう。

 

で、こちらとしてはそういう場所からはなるべく距離を取りたいって思うだけですね。はてなブックマークは攻撃的な人も少なくないけれど、趣味で好きな本のことを書いている分にはそうそう変な人も来ないし、己の領分を越えて旬の話題にひとつ噛んでやろうと思いさえしなければこれと言ってひどい目にも合わないし、感情の地雷原みたいなところを避けて通ればネガコメなんて他人事。こっちにはなんにも関係ない。

 

……っていいたいところなんですけど、こんな泡沫ブログにすら、たまに暴言吐いてくる人っているんだよね。普通に本の感想を書いてるだけでも「誰にでも書けるようなことばっかり書きやがって」だとか、ついでに人間のクズだのと罵倒していったりとか。ちょっと興味が出たんで、その人にidコールしてわざわざ1エントリ立てて反論したんですけど、なにも返事がなかったですね。そしたらその人、次の日からターゲットを変えて別の人に粘着してんの。しょせん反撃してくる相手にはなにも言えない骨無しチキンなんだよね、こういう手合ってのは。そいつは数ヶ月したらアカウント消えてましたけど、罵倒ばっかしてたから誰かが通報したんだろうね。

 

こういう手合の特徴として、とにかく覚悟ってものがない。殴ったら殴り返されるかもしれないという計算すらしてない。覚悟があったら暴言を吐いていいというわけではないけれど、なんで暴言を吐かれた相手がやり返してくる可能性すら考えてないのか。ちょっと人間ってもんを舐めすぎてやしませんか、って話なんですよ。別に私のこのブログだって、加害性が皆無とは言わない。基本取り上げる本は褒めてますけど、『嫌われる勇気』はかなり批判しましたからね。ただ、そういうときはこっちはあの本が好きな人から叩かれるだろうなと覚悟くらいはしている。でも、この手のブクマカって、クソコメをつけたらその時点でもうリングに上ってしまってるって自覚すらない。もうそこは外野じゃないんだよ。人に文句垂れた時点で当事者になってるの。

 

今のはてなブックマークについて思うのは、こういう安全圏から罵倒だけ投げつけて去っていきたい骨無しチキンが生息するのにはずいぶん都合のいい場所になってるんだろうな、ってことですね。変なコメントがひとつくらいならidコールして反論するのも大した手間ではないけれど、数が集まるといちいち相手するのも面倒だし、多数で叩くブックマーカーと叩かれる側の間に大きな非対称性があることは確かです。そこまで大勢に叩かれるような経験をしたら、私もはてなブックマーク廃止論を唱えたりするかもしれませんね。これはポジショントークそのものですけど、別にポジショントークしたっていいんですよ。世の中私はなんのポジションもとってない中立地点から話をしてます、というスタンスを取る人ほど信用できない人はいないから。

 

いや、私にしても炎上というか、大勢のブックマーカーに批判を受けた経験がないでもないですけどね。もうだいぶ前の話ですけど、はてなダイアリーで日記を書いていた頃にははてなの有名論客にこっちが言ってないことを言ったことにされ、その人に影響されたブックマーカーがいろいろ言ってきましたね。それでもブクマなんて無くしちまえ、と思わなかったのは、私が扇動したブロガーの方に問題があると思ってたからでしょうね。まんまと誘導されて突っ込んでくるファンネルみたいなブクマカは鬱陶しいけどしょせんは小物で、どうでもいい存在だと思ってましたから。ところで、そのブロガーは某掲示板で誹謗中傷の限りを尽くしていたことが暴露されて表舞台から消えました。私を攻撃してくる人は失脚する運命にでもあるんですかね。や、人の中傷ばっかりしてる輩は遅かれ早かれそうなるというだけのことだろうけれど。

 

私ははてなブックマークをなくすべきだとは思わないし、そもそも改善できる見込みもないだろうと思ってはいるけれど、これって結局サービスを使う側だからなんですよね。はてなの中ではてなブックマークは必要か?って聞くのは全米ライフル協会に銃って必要なんですか?と聞くようなものだし、大多数の人は必要だって答えるでしょう。でも、はてな外の人からだったらまた別の答えが聞けるかもしれませんね。あるプログラマの人が、はてなブックマークで辛辣なコメントを書かれて傷ついたとツイッターで書いてるのを見かけましたけど、その人を慰めてる人が「あそこは変な人が多いから気をつけたほうがいい」と言ってましたよ。外から見た印象なんてそんなものかもしれませんね。ネガコメを書くのも表現の自由だというならば、それに対する批判もまた受け入れなければフェアではありません。

直木賞候補作家・上田早夕里の『夢みる葦笛』はSF初心者にもおすすめできる短編集

 

夢みる葦笛

夢みる葦笛

 

 

上田早夕里『破滅の王』が第159回直木賞の候補に選ばれた。こちらは歴史小説だが、最近SFが読みたい気分だったので同じ作者の『夢みる葦笛』を先に読んでみた。これはSF短編集だが、『破滅の王』に出てくる上海自然科学研究所を取り上げている作品もあるので、こちらを先に読んだ人も興味深く読めるのではないかと思う。

 

私はSFに関しては「雰囲気だけかじりたい」という読者で、自然科学には暗い。ある程度その方面に興味は持っていても、科学の素養が必要とされるようなハードSFを読んだりしてもよくわからない。この『夢みる葦笛』は、そういう読者でもすんなりと読め、かつ文学的な味わいも楽しめる短編集に仕上がっている。かといってSF色が薄いわけではなく、取り上げられているネタはメタンを餌にする地球外生物人工知能を搭載した猫、滅びつつある地上の文明……などなど、SF心をくすぐるものばかりだ。前半の作品は伝奇色の強いものもあるので、ホラー好きな読者も楽しめる。

 

以下はそれぞれの作品についての短評。

 

『夢みる葦笛』:人間よりはるかに優れた歌唱能力を持つ生物「イソア」が繁殖する未来。主人公の友人はイソアの能力に惹かれていき、やがてある決定的な選択をするが、これもミュージシャンとしては「幸せな結末」といえるだろうか。ストーリーはまったく違うが、芥川龍之介地獄変』を思い出した。

 

『眼神』:SF風伝記といった趣の作品。主人公の幼馴染は「マナガミ様」の託宣を伝える能力を持っているが、実はマナガミ様の正体は……という話。ぞくりとする読後感が残るので夏に読みたい。

 

『完全なる脳髄』:「シム」と呼ばれる認識機能を制限された主人公が完全な人間になることを求めるストーリー。主人公が「シム」になった背景がおぞましい。ここでは人間の暗部が強調されている。完全な心を手に入れることは、果たして幸せだろうか。

 

『石繭』:ホラー掌編。たとえ子供を残せなくても、このような形で「自分」を受け継いでもらえるなら、それもひとつの幸せの形といえるだろうか。

 

『氷波』:土星の衛星で活動する人工知性が主人公。土星の環でサーフィンをするという美しい場面がイメージとして湧き上がる。感情を持たない人工知性しか出てこないのに、全作品中もっともリリカルに感じられる。悲劇的な作品が多い中、明るく締められているのも印象に残る。

 

『滑車の地』:地下都市が地上に投棄する廃棄物がつくった「冥海」から這い上がってくる泥棲生物と戦い続ける地上の人類、という設定だけでもう100点。この絶望しかない世界に現れた獣人の少女が最後にとった行動とは何か?悲劇的状況の中でも最後まで希望を手放さない人間の奮闘ぶりが心地よい。

 

『プテロス』:地球からはるか遠い星に生息する不思議な浮遊生物プテロスの観察日誌。ノンフィクション風味でもあり、見知らぬ生き物の生態はそれを記すだけでドラマになるということを教えてくれる。

 

『楽園』:恋人一歩手前くらいまでの仲になった故人女性の電子データを仮想人格として保持し続ける主人公。彼は彼女と身も心も一つになるため、ある一つの選択をする。生物学的には生きていなくても、このような形で故人を生きていると感じられるなら、それもひとつの「楽園」か。この短編は『SF JACK』にも収録されている。

 

 

 

『上海フランス租界祁斉路320号』:『破滅の王』でも取り上げられている上海自然科学研究所の研究者が主人公。主人公は実在の人物で、史実通りであれば主人公の未来は暗いが、この世界は実は──という話。シュタインズゲートが好きな人なら特に気に入りそうなストーリーだ。

 

『アステロイド・ツリーの彼方へ』:小惑星探査機を操縦する主人公と人工知能を搭載した猫との交流を綴る。この猫にはある秘密があるが、こういうものを作るのがマッドサイエンティストの面目躍如というところ。こういう存在を果たして生物と呼びうるか、それはひとえに人間の側にかかっているという問題意識が『楽園』とも共通している。

北方謙三『チンギス紀』はモンゴル考古学者・白石典之の研究を参考にしている?

 

チンギス紀 一 火眼

チンギス紀 一 火眼

 

 

水滸伝』から『楊令伝』を経て『岳飛伝』に至る壮大なサーガを語り終えた北方謙三が次に挑むのがチンギス・カンの生涯。1巻の時点では主人公テムジンはわずか14歳でしかなく、弟を殺してしまったために故地を逃げ出し遠く金国へと赴いている。生涯のライバルとなるジャムカも早くも登場しているが、このペースだと完結はだいぶ先のことになりそうだ。

 

いつも通り、徹底的に無駄を削ぎ落とした北方謙三の独自の文体は本作でも健在で、一人砂漠をゆくテムジンに馬泥棒が襲いかかってくる場面からスタートする1巻は「ハードボイルド時代劇」としての色合いが濃い。チンギスの股肱の臣であるボオルチュはまだほんの子供で、テムジンに付き従う従者のような存在として書かれている。この巻はまだほんの序章でストーリーはあまり動いていないが、注目すべきはのちにチンギス・カンとなるテムジンが金国で漢文化の素養を身につけ、高い文化を吸収していることだ。

 

saavedra.hatenablog.com

テムジンは金国で妓楼を経営する男に気に入られ、護衛役を任されているのだが、この男に史記を読むように勧めらている。テムジンは金国では鍛冶屋の工房も見ているのだが、これはのちにチンギスが鉄製の武器をつくってモンゴルの軍事力を強化することの伏線かもしれない。モンゴル考古学者の白石典之氏はその著書『チンギス・カン "蒼き狼"の実像』のなかでモンゴルのアウラガ遺跡に鉄工房が存在したことを紹介しているが、物語上チンギスはここではじめて鉄が鍛えられる現場をみたことになる。これはもちろんフィクションなのだが、のちにチンギスが金を攻めたときに鉄資源を求めて戦っていたことは事実だ。

 

一方、ジャムカの方はといえば、モンゴル高原において素朴な遊牧民としての生活をしていて、近隣の部族との戦争に明け暮れている。金国を旅し、西夏にまで足を伸ばしているテムジンとは視野の広さが違う。この見聞の広さの差が、のちに両者の明暗を分ける原因となるのかもしれない。ジャムカはテムジンの一族とは別のモンゴル国なのだが、テムジンの一族は本書ではキャト氏と書かれている。このキャト氏という言い方は上記の『チンギス・カン "蒼き狼"の実像』で始めて見たのだが、本書はこれを踏まえて書かれているのかもしれない。白石氏の著書にはモンゴル族は遊牧だけでなく農業をおこなっていることもあったと書かれていたが、チンギス紀にも農業をする遊牧民が出てきている。

 

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モンゴル史学者の杉山正明氏は、チンギスがカンに即位するまでの人生はほとんどわからないと言っている。『元朝秘史』などの内容はほぼ創作と言っていいものらしい。つまり、現在『チンギス紀』が書いている時代のチンギスの人生は自由に創作できるということだ。本書に出てくるテムジンは漢文を読みこなし、金や西夏などの文明国の実態を知る知性的な男だ。この男が父イェスゲイを殺され、勢力を失ったキャト氏族をどう立て直し、モンゴル高原に覇権を打ち立てるのか。なにしろテムジンがチンギス・カンと称した時点で、彼はすでに40歳を過ぎている。この物語のペースだとそこにいたるまで10巻分くらい必要になる気がするが、チンギスの人生はそこからさらに21年も続いていく。完結するまでに何年かかるだろうか。上記の記事では『チンギス紀』は完結まで15巻程度を見込んでいると書かれているが、本作は取り扱う地理的なスケールにおいては、むしろ北方水滸伝を上回る大作になりそうだ。

 

以下は自分用のモンゴル高原各部族のメモ。

 

キャト氏(モンゴル族):テムジンの一族。父イェスゲイが殺されたため部族の大部分のものがタイチウトの保護下に入ったが、テムジンの母ホエルンは息子たちとともに一族を守っている。

 

タイチウト氏(モンゴル族):イェスゲイを失い勢力の衰えたキャト氏を保護下に入れるが、その内部はあまりまとまりがない。長のひとりであるタルグダイはモンゴル族をひとつにするためホエルンに求婚した過去がある。

 

ジャンダラン氏(モンゴル族):モンゴル族の中では孤高の雰囲気のある一族だが、今は大勢力のメルキトに従っている。族長カラ・カダアンの息子ジャムカはメルキトに従う父が気に入らない。ジャムカの独立不羈の気質からして、いずれテムジンとの対決も不可避か。

 

メルキト族:モンゴル高原では大勢力を持つ一族。長のひとりトクトアはジャムカの将来性を認め、一人前の男として扱う。いずれジャムカと戦う運命か?

 

バルグト族:バイカル湖付近に居住する一族で、この部族出身のホーロイが客分としてジャムカのもとにとどまっている。

中公文庫『日本の歴史』の面白い巻をおすすめしてみる

古いながらもいまだに多くの人に愛読されている中公文庫『日本の歴史』シリーズ。日本史の入門書として紹介されることも多いし、実際に内容は充実しているのだが、この詳しさが逆にこれから手に取る人をたじろがせる原因になるかもしれない。もっと簡潔な日本史の概説なら岩波新書の日本古代史や日本中世史、近世史や近現代史のシリーズが刊行されているし内容的にもこちらが新しい。それでもなお、このシリーズは手に取るだけの価値がある。以下に、今まで読んだ巻の中から魅力的な部分をピックアップしてみる。

 

日本の歴史 (7) 鎌倉幕府 (中公文庫)

日本の歴史 (7) 鎌倉幕府 (中公文庫)

 

 

中公の日本の歴史が名著と言われるのは、それぞれの巻を当代一流の学者が執筆していて内容にも偏りが少なく、各時代の政治史や経済史、文化史までひととおり押さえていて読みやすさにも配慮されているからでもある。たとえばこのシリーズ中でも名著と言われる『鎌倉幕府』の冒頭はこうだ。

 

ちょうどこのころ、国府の南方10キロほどの北条の村あたりから、突然一隊の騎馬武者たちがあらわれた。身なりもととのわぬ田舎武者の一群だが、ヨロイカブトに身を固め、完全武装でしきりとやせ馬を急がせている。まっすぐ大路を北上して国府へ駆けさせるのかとみえた一隊は、原木の村をすぎ、牛鍬から東南の山麓へと曲がる小道をえらび、山木の村の南方、小だかい丘の上に立つ山木判官兼隆の館へと殺到した。

 

このくだりなど、ほとんど小説的ですらある。おそらく編集者がかなり読者が入り込みやすい文章にするよう配慮したのだろう。もちろん本書はずっとこの調子で書かれているわけではなく、東国武士の生活や経済基盤、国府との関係などアカデミックなこともきちんと書かれている。書物としての読みやすさと学問としての水準の高さを両立させた、概説書の一つの理想の姿がここにはある。これが、いまだにこのシリーズが版を重ねている理由のひとつだろう。

 

日本の歴史〈10〉下克上の時代 (中公文庫)

日本の歴史〈10〉下克上の時代 (中公文庫)

 

 

こういう特徴があるため、最新の学説が反映されていないという弱点はあるものの、このシリーズは安心して読める。『応仁の乱』『観応の擾乱』など、なぜか中世を扱った新書が人気の昨今だが、室町時代の混乱期を知りたい方におすすめなのは『下剋上の時代』だ。本書の冒頭に書かれているとおり、この時代には英雄は登場しない。しかし足軽のような庶民が戦場の主役になるなど、次なる時代への胎動は確実に感じられる。こういう時代の面白さは庶民の生活を知ることにある。

本書で強調されているのは、とにかくこの当時の庶民の生活は悲惨なものだったということだ。寛正の大飢饉では京中の餓死者が八万人にものぼり、地獄のような有様だった。人身売買も横行し、食い詰めた農民が自ら身売りする様子も書かれている。農村共同体から弾き出された流民も多く、路傍のいたるところに物乞いがいたことも史料に現れている。こういう時代の本が売れるのはどうしてだろうか。格差が広がり、少子化の進む社会をリセットするため室町期のような混乱への期待が高まっているのだろうか。それはわからないが、この時代にはある種の奇妙な魅力があることは確かだ。

 

日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)

 

 

少し時代をさかのぼり、『南北朝の動乱』を読んでみると、戦闘方法の変化について興味深い記述がある。鎌倉時代とはちがい、この時代には歩兵が台頭している。鎌倉中期以降、畿内周辺に出現した悪党や溢者たちは多くの歩兵を抱えており、ゲリラ戦術を得意とした。足軽も戦闘員として活用されるようになるため、槍が武器として活用されるようになってくる。新田義貞が馬を射られて深田にはまりこみ最後を遂げたように、馬を射るということも普通に行われるようになってきたため、馬の動を保護する「馬甲」も登場している。戦いが射戦から接近戦に変わったため兜が深くなるなど、戦国時代の戦い方の萌芽がこの時代に見られる。このシリーズはとにかく記述量がおおいため、こういうことも余すところなく書いているのがいい。南北朝時代は政治史も面白いが、こういう社会の変化にも注目してみたい。

 

日本の歴史 (6) 武士の登場 (中公文庫)

日本の歴史 (6) 武士の登場 (中公文庫)

 

  

さらに武士の誕生までさかのぼってみると、ここには意外な武士の姿が描き出されている。江戸時代における「武士道」とは異なるものの、すでにこの時代に武士のあるべき姿というものが書物に登場していることがわかる。たとえば平維茂は藤原諸任を討ったとき、敵方の女性は辱めることなく、諸任の妻も保護したという。武士は勇敢であることが求められるだけでなく、女性に対し紳士的であることも名誉になる。このような武士の理想像を、本書では「日本の騎士道」と称している。これが理想として掲げられているからには武士の実像はこうでなかった可能性も高いが、そのような価値観が「武士道」が成立するはるか以前から存在していたということには興味を惹かれる。

 

日本の歴史〈11〉戦国大名 (中公文庫)

日本の歴史〈11〉戦国大名 (中公文庫)

 

 

戦国時代を扱ったこの巻はかなり本格的な内容といえる。武田信玄伊達政宗など各地の地方大名について一通り解説したのち、戦国大名の家臣団の構造や軍事力についても史料をあげつつ解説しているからだ。家臣団の構造は一番多く史料の残っている後北条氏のものを解説しているが、北条氏康の時代には五人の家老の旗指物が黄・赤・青・白・黒の五色に分かれていて「五色備」と呼ばれていたことも書かれている。軍記物や小説などの脚色ではなく、『小田原旧記』というきちんとした史料にこのことが書かれているというのだから面白い。この色の区別によって、氏康は遠くからでも自在に自軍を指揮することができたのだという。氏康が名将と言われる所以だ。軍役帳に明記されている上杉謙信の動員兵力が5400人程度であることなど、戦国マニアも満足できる情報も載せられている。プロが史料を駆使しつつ当時の戦争や社会を描き出す様子を読めるのが、歴史を学ぶ醍醐味だ。

  

日本の歴史12 - 天下一統 (中公文庫)

日本の歴史12 - 天下一統 (中公文庫)

 

 

地方の戦国大名を扱ったのが前巻だが、この間では織豊政権について扱う。古い時代の概説では本能寺の変はどう説明されるのかと思い読んでみれば、ここでは光秀と足利義昭との関係性について触れられていた。つまり、 義昭と信長を仲介する形で登場した光秀にとり、信長が義昭を追放してしまうと信長との関係性は微妙なものにならざるをえない、というのだ。信長は毛利を討伐する立場であり、その毛利は義昭を保護している。となると、光秀が旧主である義昭にまだ忠義を感じていたなら、信長との間に不和が生じるのも仕方がないかもしれない。光秀が天下への野心を持っていた可能性も指摘されているが、天正の武士が天下が欲しいと望むのは山があるから山に登るというのと同じようなものだ、とも書かれている。結局、光秀が本当に何を考えていたのかはわからない。呉座勇一氏によれば歴史家にとっては光秀の謀反の動機はそれほど重要ではなく、本能寺の変によって歴史がどう変わったかが重要であるそうなので、あまりこのあたりのことを突きつめて考えても仕方ないのだろうか。いずれにせよ、他の巻同様に内容は非常に詳しいので、織豊政権の流れを抑えるには使える一冊だ。

 

日本の歴史〈14〉鎖国 (中公文庫)

日本の歴史〈14〉鎖国 (中公文庫)

 

 

この巻は「世界史の中における日本」という位置づけの本で、戦国~江戸初期の日本と海外の交易やイエズス会との関わりなどが主な内容。よく、鎖国をしていなければ日本人はもっと海外へ雄飛していたといわれるが、実際のところどうだろうか。その可能性について考えるためのヒントが、本書の日本人町の章に書かれている。確かに東南アジア諸国には日本人町が存在し、山田長政のように多くの日本人が海外で活躍していたのだが、日本人の多くは故郷へ帰りたがり、また婦人を伴っていないため現地の女性と結婚していたそうだ。つまり、日本人の2世3世はすぐに現地人と同化してしまう。人口が圧倒的に多く日本移民をしのぐ勢いを持っていた中国人や、国家のバックアップを得て組織的に発展したヨーロッパ人移民のようにはいかない。当時の国際情勢を考えれば、鎖国していなくてもあまり日本人移民の将来に過大な夢を見ることはできなさそうだ。イギリス移民が北アメリカに根を張ることに成功した要因は家族ぐるみで移住したことにあるそうだから、やはりそこからして日本人とは違う。

 

日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶 (中公文庫)

日本の歴史〈18〉幕藩制の苦悶 (中公文庫)

 

 

平和な時代だが、『幕藩制の苦悶』も地味に面白い。いやむしろこのシリーズで一番面白いまであるかもしれない。天明の大飢饉から筆を起こしているのは、やはり幕府の衰退がこの出来事に起因するという見方からだろうか。菅江真澄の記録している飢饉の様子は実に悲惨なものなのだが、仙台藩のように米価が高くなるのに乗じて民を犠牲にしながら米を売って設ける藩まで出てきている。飢饉とは人災なのだ。一方、伊奈忠尊のような能吏が出て江戸の窮民を救っていた史実もあり、飢饉の害を放置して建築にうつつを抜かしていた足利義政の時代からは格段に進歩していることがわかる。

飢饉から打ちこわしが起き、世情が騒然とする中で老中の座についたのが松平定信だ。教科書的には「寛政の改革」と言われる改革の中身も、その実態を知ってみると興味深い事実がいくつも出てくる。女髪結や飯盛女までが風俗を乱すと禁止される中、民を監視するために市中に放った隠密が賄賂を取って取締をゆるめたりするため、隠密に隠密をつけることまで行われたという。性交すらも子孫を残すために必要だから行うだけ、というほどに禁欲的な定信時代の反動として化政文化の実りがあるのだとすれば、この堅苦しい人間性が江戸後期に与えた影響力は実に大きなものだったということになる。

  

日本の歴史〈19〉開国と攘夷 (中公文庫)

日本の歴史〈19〉開国と攘夷 (中公文庫)

 

 大河ドラマの影響で、やはりこの時代なら西郷の姿を探したくなる。本書では第一次長州征伐の軍賦役になった西郷にスポットを当てているが、結局西郷は長州藩とは戦わなかった。その理由として、若い頃に西郷が農政を担当していたことや、沖永良部島で島民の実情を知ったことがあげられている。戦争となれば莫大な費用が必要となり、その負担が農民にのしかかることを避けたということだ。ここで「戦わずして勝つ」ことを選んだ西郷の選択は民の立場を第一に考えた妥当な選択だったように思えるが、次巻においてはこうしたいかにも包容力に満ちた西郷とはまた別の西郷の姿が描かれることになる。

 

日本の歴史〈20〉明治維新 (中公文庫)

日本の歴史〈20〉明治維新 (中公文庫)

 

 

今年の大河ドラマ西郷どん』の時代考証を務める磯田道史氏は、ドラマ中でいずれ「ブラック西郷」が描かれることになると話していた。そんな西郷の一面が読めるのがこの巻である。「西郷の大陰謀」と題した章では西郷が徳川慶喜に対して仕掛けた策が詳述されているが、それが何かはドラマのネタバレになるのでここでは書かない(有名なことではあるが)。情に厚く、奄美大島への島津の苛政に怒っていた西郷でも敵に対してはこうも冷酷になれるのか、と思う場面だ。ドラマではまだただのお人好しを脱しきれいていない西郷がいつからこういう人物に変貌を遂げるのか、もドラマの見どころの一つになるだろう。

本書は西南戦争で幕を閉じるが、この本で紹介されている西郷の理想を見る限り、西郷と大久保の対決はほぼ不可避であったように思える。版籍奉還ののち、西郷が薩摩藩でおこなった藩政改革の結果は、下級士族による軍事独裁だった。農民の地位はなにも変わらず、かつてひどい搾取だと腹を立てた奄美大島での砂糖の専売もそのまま継続している。本書ではこのような西郷を「心情的にも政治思想的にも、下級武士の立場を基本的には脱却できなかった」と評している。西郷は薩摩の門閥の実験を奪うことには成功したが、それ以上の改革は望んでいなかった。結局、西郷にとっては郷中の仲間のような士族こそが大事だったということだろうか。士族の既得権を奪おうとする中央政府と、中央政府をも薩摩藩のように改革しようとする西郷とは、しょせんは相容れない存在だった。

余談になるが、この巻の古本に挟んであった小冊子には、著者と司馬遼太郎の対談が載っている。司馬遼太郎は当代一流の学者とも並ぶ知識人扱いされていたことがよくわかる。このことが現代の史家に「司馬作品と史実を混同しないで欲しい」と嘆かせる原因にもなっているのだが、こういうところから司馬遼太郎の影響力を知ることができるのは面白いものだ。

 

このシリーズを通して読んでいて感じるのは、日本史のスタンダードな概説を作る、という強い意志だ。一冊一冊が分厚いのは、政治史から経済史、文化史までこれさえ読めば一通り押さえられる、というものを目ざしていたからだろう。それだけに、どの巻も読みごたえがある。ここに紹介していない巻でも、興味のある時代の巻は一度手にとって見て欲しい。読んでみれば、このシリーズがいまだに読みつがれている理由がよくわかるのではないかと思う。