明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

『食い意地クン』に久住昌之の凄さを見る

食い意地クン (新潮文庫)

食い意地クン (新潮文庫)

 

一見なんてことない食い物エッセイのようにみえるし、そのように読むこともできる。でもじっくり読んでみると、 やはり久住昌之という人はただ者ではないことがわかってくる。やはり食ネタでずっと飯を食っている人は違う。

 

久住昌之が語る食べ物はだいたいいつも大衆食堂的な店のカレーだとか、おにぎりだとか、庶民的なものばかりだ。こういうネタで読ませるには薀蓄を語るのではなく、いかに読者の共感を引き出せるかが重要だ。久住昌之の読者は知らない世界をのぞき込みたいのではなく、いつも食べているものを同じ目線で語ってくれることを望んでいる。つまり「わかる」と思わせてほしいのだ。

 

そしてその「わかる」というのは、「昔ながらの普通のラーメンってたまに食べたくなりますよね」程度の「わかる」であってはいけない。その程度の文章に人はお金を払わない。じゃあどんなレベルだったらいいのか。久住昌之はとんかつを食べながらこんなことを考えている。

 

とんかつと比べたら、同じ肉でもステーキなんてギャングみたいだ。見るからに悪役面をしてる。黒い革の手袋をはめていそうだ。その下に、でっかい金の指輪もしていそう。とんかつは、真っ白な軍手の似合いそうないい人だと思う。

 

この人のこういう表現力には関心する。私なんてとんかつを食べているときには、ごはんが余らないようにするにはとんかつひと口でごはんをどれくらい食べればいいのか、くらいのことしか考えていないのに、久住昌之はわざわざとんかつを擬人化までしているのだ。今は戦艦から細胞に至るまでなんでも擬人化する時代になっているけれども、このとんかつの擬人化は納得感が高いし、「わかる」感じがする。とんかつを擬人化するなら端正な人でなくてはいけない。

 

このエッセイで一番「わかる」感が高かったエピソードは、完全菜食主義の合宿を一週間体験したあと、何を食べたいか?という話だった。久住昌之の答えは駅前の喫茶店ナポリタン。これは本当に「わかる」。身も心も清めた人間が俗世に戻ってきて一番食べたいのは、ラードと焦げたケチャップにまみれたあのスパゲティだろう。パスタではなくスパゲティだ。粉チーズとタバスコをたっぷりかけて食べるやつだ。菜食主義の対極にあるハイカロリーなあのスパゲティこそ、禁欲生活から開放された人間が最初に食べたいものだろう。これを読んだあとではそう信じたくなる。

 

孤独のグルメ』には「ソースの味って男の子だよな」とか「焼肉と言ったら白い飯だろうが」みたいな「わかる」フレーズがたくさん出てくる。ただおじさんが飯を食っているだけの漫画をつい読んでしまうのは、五郎の言っていることがいちいち「わかる」からだ。ドラマ版の「こういう普通のラーメンがいいんだよ。『どうだどうだ』という押し付けがましさが微塵もない」といった台詞も本当に「わかる」のだが、これも久住昌之が添削しているらしい。久住昌之はエッセイの中では自分はいつもガツガツ飯を食っていてバカみたいだと言っているが、本当はとても繊細な人なのだろう。

 

こういうものを読んでいると、人の才能とはなんだろうかということを考えさせられる。とんかつを擬人化してみせたり、 昔懐かしいナポリタンを目の前に浮かび上がらせるような描写をしてみせる能力がなぜ生まれるのか。結局、それはいつも食べるということについて考えつくしているから、という気がする。四六時中何かについて考え続けられるというのは、立派な才能だ。並大抵の「好き」のレベルでは、「好きなことで、生きていく」ことはできない。人生のリソースをほとんどそれにつぎ込んで構わないというレベルになってようやく、こういうものが書けるようになる。

村上春樹『職業としての小説家』を読んで考えた、創作で病む人・病まない人の違い

 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

村上春樹の文章には、ある際立った特徴がある。それはとにかく読みやすいということだ。これは小説でもエッセイでも変わらない。村上春樹の書くものはかなり好き嫌いが別れることが多いが、彼の作品に文句を言う人もその時点ですでに読んでしまっている。この『職業としての小説家』でもリーダビリティの高さはやはり変わらず、読者は気がつけばするすると最後の一ページまで導かれている。読書をしているというより、心地よい音楽に身をゆだねているような感覚だ。もちろん文章が心地よいだけでなく、内容も相当に濃い。作家・村上春樹が「書く」という行為についてどう考えているか、作家としての「村上春樹」を作り上げるまでどのように格闘してきたか、ということが余すところなく語られているので、およそものを書く人、何かを創ろうという人にとっては一度は手に取る価値のある一冊ではないかと思う。

 

私は村上春樹の作品は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『国境の南、太陽の西 』くらいしか読んだことがないので、彼の作品についてはあまり語る資格がない。ただ本書を読んでいて、村上春樹という人の創作姿勢にはとても好感を持った。それは、村上春樹が文壇政治のようなものからは距離を置いていて、文学賞も特に欲しがらず、かなり権威に対し恬淡としているように思えるからだ。そういった外付けの権威を求めることよりも、読者に対して真摯に向き合うことが大事、ということを、村上春樹は一貫して語っている。特に大事なことは自分がまず楽しむことだ、と彼はいう。

 

全員を喜ばせようとしたって、そんなことは現実的に不可能ですし、こっちが空回りして消耗するだけです。それなら開き直って、自分が一番楽しめることを、自分が「こうしたい」と思うことを、自分がやりたいようにやっていればいいわけです。そうすればもし評判が悪くても、「まあ、いいじゃん。少なくとも自分は楽しめたんだからさ」と思えます。それなりに納得できます。

 

これはひとつの徹底した態度であると思う。しかし創作者の立場に立ってみるとわかるが、普通はなかなかこのように覚悟を決められない。やはりせっかく頑張って書いたのだから、その努力に見合うだけの称賛がほしい、と思うほうが普通なのだ。プロアマを問わず、多くの作家は常に不安を抱えている。実は自分の書くものはつまらないのではないか、自分には大した才能なんてないんじゃないか──といった不安を解消できるだけの評価を求めているのだ。そこまで不安が強くない人でも、誰だって自分は価値ある人間だと感じていたい。自分の価値を保証するために、文学賞というものは大きな支えになる。しかし村上春樹はそういうものは別に求めていないらしい。

  

 

ではなぜ、村上春樹がそうした権威を欲しがらないでいられるのか。これは、彼の「精神の自給率」がとても高いからではないかと思う。「精神の自給率」という言葉は小池龍之介が『"ありのまま”の自分に気づく』のなかで使っている言葉だが、これは「自分のことをこれでよし、大丈夫だと思えているパーセンテージ」のことだ。これが足りなければ、足りないぶんを外からの評価で補わなければいけなくなる。つまり、精神の自給率が低い人ほど承認欲求が強い。作家なら文学賞や世間からの評判など、外部からの評価が欲しくなるということだ。自分で自分を評価できないなら周りに評価してもらうしかない。

 

 作家志望者が「ワナビ」と呼ばれることがある。私はこの言葉があまり好きではない。この言葉は作家志望者に対する揶揄や見下しのニュアンスを含んでいるように感じるからだ。しかし、「ワナビ」の側にも揶揄されてしまう原因がないわけではない。作家として世に出たい、このまま何者にもなれない自分として生きていたくない──という強烈な飢餓感や焦燥感は、時に痛々しい言動となって噴出することがあるからだ。しかし本書を読む限り、村上春樹の若い頃にはこうした「ワナビっぽさ」が、ほとんど感じられない。村上春樹はある日突然「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」という心に浮かんだメッセージに従い、そのまま作家になった人だ。彼の言うことを真に受けるなら、村上春樹は作家になるべくしてなった人であって、作家になることで人から仰ぎ見られたいとか、目立ちたいといった欲求で自分を駆動させてきたわけではない。精神の自給率が高ければ、評価されるためではなくあくまで内的欲求に従って小説を書くことになる。

 

なぜ、村上春樹はこのように精神の自給率を高く保っていられるのか。村上春樹が若い頃ジャズ喫茶を経営していたことはよく知られているが、憶測ではこの経験が、彼の自我に大きな影響を与えているように思える。本書で村上春樹は過20代の生活が苦しかったころを振り返りつつ、このように書いている。

 

でもそういう苦しい歳月を無我夢中でくぐり抜け、大怪我することもなくなんとか無事に生き延び、すこしばかり開けた平らな場所に出ることができました。一息ついてあたりをあたりをぐるりと見回してみると、そこには以前は目にしたことのなかった新しい風景が広がり、その風景の中に新しい自分が立っていた──ごく簡単に言えばそういうことになります。気がつくと、僕は前よりいくぶんタフになり、前よりはいくぶん(ほんの少しだけですが)知恵がついているようでした。

 

ここには、小さいながらも一国一城の主として世知辛い世間を生き抜いてきた、というささやかな自負が感じられる。村上春樹は人生できるだけ苦労をすればいいという話がしたいわけではない、と断っているけれども、こうして苦労しながらもどうにかジャズ喫茶の経営を軌道に乗せてきたという経験が、自我を支える確かな芯として存在しているように思える。地道に日々培ってきた成功体験が自分だってそう捨てたものではないという自信をつくり、内側から自分を支えてくれる。こういう人は、創作をしていてもあまり病まない。自分に自信があるので精神の自給率が高く、足りない部分を創作で評価されることで補おうとしないからだ。だから、自分が楽しめる小説を書けばいいのだ、と言える。

 

しかし、創作を志す人、作家志望者の中には、今の自分に不満があるから創作で何者かになりたいと思っている人もいる。つまり、精神の自給率の低さを創作の評価で埋め合わせるということである。それが悪いことだというわけではない。ただその場合、創作で評価されなければ自分を支えるものが何もなくなってしまうため、常に評価を気にしていなければいけなくなってしまう。これでは自分が楽しめればそれでいい、というわけにはいかない。外需頼みの経済が不安定なのと同じように、他人からの評価で自分を支えるのは危うい。ましてや創作物の評価は水物なので、そこにアイデンティティを置くと心はひどく壊れやすくなる。

 

こう書くと、創作以外の分野で自信を培っていないといけないのかという話になりそうだが、必ずしもそうではない。創作物の評価が高い=偉いという価値観を相対化できればいいのだから、創作以外の居場所を持つ、ということも大事かもしれない。

togetter.com

実際、世間の人を見てみると、小説を読んでいる人なんてそんなにいない。ノーベル賞を獲ったカズオ・イシグロですら、名前を聞いたことがあるという程度の人のほうが多いのだ。創作物の評価は今自分が所属している(世間からすれば)かなり狭いコミュニティ内での問題であって、一歩外に出ればそれは全く関係なくなるし、いろいろな居場所を渡り歩いているうちに創作よりも楽しいことが見つかるかもしれない。今いる場所が全てだと思う必要はどこにもない。創作に打ち込むことと、それ以外の選択肢を捨ててしまうことは違う。

 

人間、一つのことに集中するとどうしても視野が狭くなりやすい。だからこそ結果を出せるという一面もあるのだが、今いる場所が生きづらいならその中で頑張るだけでなく、もっと生きやすい場所を探すという選択肢も考慮に入れておいたほうがいいのではないだろうか。

BSプレミアム「風雲!大歴史実験」の一ノ谷の戦いに関するメモ

義経と言えば鵯越えの逆落とし。というわけで、昨日の風雲!大歴史実験では、ほんとうにこの「逆落とし」が実現可能なのか、という実験を行っていた。

 

実験に使ったのは在来馬の木曽馬。見た感じでは足が短く小柄だが、その分安定感もあるようだった。騎手がこの馬に乗って一の谷の合戦で下ったのと同じ勾配の坂を下っていたが、一度目の実験では勾配が20°から30°にかわるところでギブアップ。それまでもかなりスピードは遅かったが、馬がおびえてそれ以上進めなくなってしまった。

 

では「逆落とし」などしょせん創作でしかないのか。ここで番組では、義経が予め坂の下に馬を降ろしていたという平家物語の記述に着目する。馬は群れで行動する性質があるので、坂の下に仲間がいれば、勾配の急な坂でも降りられるのではないか、というわけである。実際、現代の馬でも短い坂なら急でも仲間のいるところへ降りていくこともある、ということを番組中で確認している。

 

ましてや、源平合戦の時代の馬は現代の馬とは違う。番組中では三浦半島では平地が少なく坂の上り下りに慣れている馬がたくさんいたことにも触れていたが、こうした馬を使っていたなら「逆落とし」も可能かもしれない。たくさんの合戦に参加している馬ならそれだけ勇気もあるだろうし、戦いのなかの興奮状態や高揚感が馬にも伝わっていた可能性もある。

 

仲間のいるところへ行きたがる馬の性質を利用し、二度めの実験では木曽馬は30°の勾配の坂を途中まで降りることができた。このときは平家物語の記述のとおり、周囲から掛け声をかけて応援するということも行っている。坂を最後まで降りきることはできなかったが、現代の馬でもその性質を利用すれば、旧勾配の坂を降りる勇気を出すことができた。戦に慣れ、現代の馬よりもはるかに鍛えられている鎌倉時代の馬なら、逆落しも可能だったかもしれない。

 

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

 

 

近年、「戦国時代の馬はポニー程度の大きさだった」ということが盛んに言われるようになった。鎌倉時代の馬の体格もそんなものだろう。この言葉には、「だから騎馬武者なんて大したことはないのだ」というニュアンスが感じられる。しかし体格が小柄であるからといって、騎馬の機動力や突撃力を軽く見ていいことにはならない。平山優氏(真田丸時代考証役の一人)は『検証長篠合戦』の中でこう書いている。

 

 では体高が小さいことは、貧弱であることの証明になるだろうか。中世日本馬の体格が優れていたことは、近藤好和氏によって絵巻物などをもとに詳細な論証がなされている。近藤氏も指摘するように、日本在来馬が貧弱であると強調する論者は、ポニーと子馬を混同しているのではないかとみられ、ポニーはあくまで小型馬という品種そのものを指し、子馬ではない。また、馬体を規定するのは体高ではなく骨格と筋肉であるから、体高の数値だけで貧弱と決めつけるのは非科学的である。絵巻物にみえる馬は、筋骨も逞しく、武者などを乗せて疾駆している様子がありありと窺われる。

 

番組中で使っていた木曽馬は、胸の筋肉がすこし足りなくて坂を降りきれなかったのではないかと騎手の方は推測していた。重い鎧兜を着た武士を乗せていた源平時代の馬は、現代の馬よりずっと筋肉も多かっただろうし、旧勾配の坂道も難なく降りられた可能性もある。

 

本郷和人氏はこの番組のなかで、一ノ谷の戦い関ヶ原の合戦のようなもの、と語っていた。平家物語の記述が史実に近いものであるとするなら、義経が馬の力を有効利用できたために鎌倉幕府成立への道が開かれたことになるが、義経が若い日々を過ごした奥州もまた古代から馬産で知られた土地だ。平泉の風土と義経馬術にどれほど関係があるかわからないが、東北に生まれた者としてはこのあたりのことを誰かが研究してくれないものか、と思うこともある。

半藤一利『昭和史 1926-1945』と近衛文麿の評価について

 

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

 

 

語りおろしなので読みやすいが、それでも読み終えるまでに1週間かかった。一読して印象に残ったのは、いかにこの時代のマスコミが戦争を煽っていたか、ということだ。これは満州事変の時点からすでにそうで、毎日新聞の政治部記者・前芝確三は「事変の起こったあと、社内で口の悪いのが自嘲的に毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争”などといっていましたよ」と語っている。

満州事変の報道には朝日も毎日も臨時費100万円を使い、朝日では自社制作映画を1500箇所で公開し、号外を数百回も発行している。戦争は、新聞社が儲けるための最大のネタだったのだ。新聞社の幹部は陸軍の機密費でごちそうを食べさせてもらい、朝日新聞では出征軍人への義捐金として十万円を陸軍に寄付している。こうしたマスコミの動きが日本に軍国主義的な空気を根付かせるのに一役買っていた、と半藤氏は語る。

 

だいたいこの昭和六年、七年、八年くらいに日本人の生活に軍国体制がすっかり根付いてきて、軍歌が盛んに歌われ、子供たちのあいだでは「戦争ごっこ」がやたらに流行ります。そういえば私も、物心ついた頃には毎日やっていました。それから水雷艦長といって、帽子のツバを前にすると艦長で、後ろにすると水雷艇で、横にすると駆逐艦という遊びをずいぶんやりましたから、確かにそういう風潮だったんですね。

 

ウォール街の株価大暴落が引き起こした世界恐慌により日本も不景気だったため、戦争景気を国民が待ち望んでいたことも、戦争への期待を高めた。国民の期待に応えているからこそ新聞の戦争報道が歓迎されていたのだし、軍部もそれをわかっていてマスコミを利用していた。日本が戦争に勝ち続けている限り、この空気は容易には変わらない。

 

半藤氏は本書の最後に「国民的熱狂に流されてしまってはいけない」と語っている。日本が戦争を待ち望む空気に満ちていたとしても、その空気に従えばいいというものではない。では、昭和の日本の指導者で、一番国民的熱狂に流されてしまった人物とは誰か。それは近衛文麿であるように思われる。福田和也氏は『総理の値打ち』のなかで、近衛文麿をこう評している。

 

総理の値打ち (文春文庫)

総理の値打ち (文春文庫)

 

 

 組閣直後、盧溝橋事件が起こると、現地で和平の工作が進んでいるにもかかわらず、わざわざ官邸に記者を招いて会見を開き、中国にたいして断固とした措置をとる、と発表して事態を混乱させた。南京占領後には「国民政府を相手にせず」声明を出して和平の道を閉ざした。つまりは世論受けする攻撃的な姿勢を打ち出すことで人気を取るばかりで、自体の収集には一切責任をもたなかった。

 

日中戦争を長引かせ、日本を疲弊させたのは近衛の責任であるということだ。現場の軍人が和平したがっているのに中央政府が強硬であるのは奇妙にも感じるが、それは福田氏が評するとおり、近衛が「元祖ポピュリスト」であったかららしい。このような人物であるため、近衛文麿の評価は『総理の値打ち』では全56人の総理のなかでも17点という最低の評価となっている。

 

戦前の昭和史の中でなにが決定的な誤りだったか、を言うことはむずかしい。ただ、蒋介石政権を見放し、米英との協調路線を捨て日本を世界から孤立化させた近衛の責任は重い。半藤氏もこの近衛の失策を「愚の骨頂」と書いている。近衛ではなく、「反軍演説」において日中戦争を正面から批判した斎藤隆夫のような人物が総理だったならこの後の昭和史もずいぶん違ったものになっていたのではないか、と思ってしまう。

 

日中戦争以降もひたすらに重苦しい話の続く『昭和史 1926-1945』だったが、最後に戦争を終結させた老宰相・鈴木貫太郎が登場したことでようやく一息つくことができた。鈴木は近衛とは逆に、国民的熱狂などとは無縁の人物だった。半藤氏はこの人に思い入れが深いようで、『幕末史』では鈴木が「賊軍」出身であることを強調している。『総理の値打ち』でも鈴木貫太郎の評価は71点と、この時期の総理としては高い。2.26事件以降軍国主義への道を突き進んだ日本だったが、この事件で鈴木が九死に一生を得たことが唯一の救いであったと言うべきか。半藤氏は『日本のいちばん長い日』において、この老宰相をこう評している。

 

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)

 

 

たしかに国民的熱狂というクレージーになっていたあの時代に、並の政治的手腕なんか役に立たなかった。政治性という点だけから見れば、もっと人材はいたことであろう。岡田啓介近衛文麿若槻礼次郎木戸幸一。その人びとに鈴木さんはとても及ばなかった。むしろ政治性ゼロ。しかし、その政治性ゼロの政治力を発揮できた源は何か、といえば、無私無我ということにつきる。”私”がないから事の軽重本末を見誤ることがなかったし、いまからでは想像もつかぬ狂気の時代に、たえず醒めた態度で悠々としていられたのである。

 

 

松沢裕作『自由民権運動』が描き出す自由民権運動のカオスな実態

自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)

自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)

 

 

これは大変面白い本だった。字面だけを見れば民主主義を日本に根付かせるための運動と思える自由民権運動も、その実態を見てみると相当にカオスで、ときに時代錯誤的ですらある。たとえば本書の冒頭で取り上げられている秋田立志会は、なんと封建制社会の復活や徴兵制の廃止を唱え、会員へ永世禄を与え、士族とすることをアピールしている。これのどこが「自由民権運動」なのかと驚くような事例だ。

 

しかし、自由民権運動の担い手の来歴を見ていくと、運動がこのようなものになっていく理由もみえてくる。民権運動家として著名な板垣退助河野広中は、それぞれ土佐藩三春藩の出身で戊辰戦争で活躍した人物だが、かれらは明治維新後の社会において、満足する地位を獲得できなかった。なにしろ明治維新というもの自体が身分制をなくしてしまうものなので、戊辰戦争の勝利による家格の上昇も戦後は無意味なものとなってしまうからだ。高知藩では「人民平均」と称して士族の特権を次々と廃止し、等級制もなくしているが、この時点では板垣はまだ等級制の廃止に反対していたことが知られている。

 

しかし、こうした板垣の態度は、単に旧来の家格制度への執着とのみ評価することはできない。士族等級の廃止が高知藩内にもたらす困難の原因について、谷干城は次のように回想している。戊辰戦争の功績によって家格を上昇させたものが多数おり、板垣その人も抜群の功績によって過労角の地位を与えられた人物である。そのように軍事的功績によってせっかく獲得した家格が、等級制廃止によって一挙に失われてしまうことになるところに困難がある、と。

 

身分制をなくすことで、戊辰戦争で獲得した既得権を失ってしまう人びとが多数出てくる。それは板垣や河野のような藩の幹部だけではなく、戊辰戦争に参加した名もなき兵士にしても同じことだ。戊辰戦争には都市の下層労働者や博徒なども多数参加していたが、かれらは自分たちの活躍にふさわしい処遇を求め、自由民権運動に参加していくことになる。

 

このような自由民権運動の動きを、著者は「戊辰戦後デモクラシー」と呼ぶ。この見方は慧眼であると思う。本書にも書かれているとおり、近代日本におけるデモクラシーという現象は、大きな戦争の終結後に起きている。戦争は国民に大きな負担をかけるため、そこでつのった不満が戦争指導者に対して吹き出すからだ。日露戦争第一次大戦終結後に大正デモクラシーの流れがあり、太平洋戦争終結後に戦後民主主義が興ったのと同様に、戊辰戦争後に自由民権運動が起こったのだ、ということだ。江戸時代の身分秩序が解体していくなかで、「ポスト身分制社会」を作り出そうという時代のうねりが自由民権運動を生んだということである。

 

征韓論という主張もまた、この「ポスト身分制社会」を求める動きのなかで出てきたものだと本書では解釈される。板垣退助西郷隆盛とともに征韓論を唱えていたことはよく知られているが、西郷が危惧していたのは徴兵制の実施で存在意義を失いつつあった士族が反乱を起こすことだった。かれらの不満を国外へ向けることが必要だ、というわけである。征韓論は本質的には外交問題ではなく、内政の問題だった。明治六年の政変に破れ征韓論を実現できなかった板垣は西郷とともに下野し、以降自由民権運動をスタートさせることになる。

 

このように、自由民権運動というものが戊辰戦争における「勝ち組のなかの負け組」とでも言うべき層に率いられていたことが、この運動の性質を規定している。自由民権運動はやがて激化し武装蜂起へと向かっていくが、冒頭に取り上げた秋田立志社も富裕者の家に押し入り強盗殺人の罪を犯している。立志会が資金難に陥ったことがこの「秋田事件」の原因とされるが、会員を集める手段として士族の待遇が得られることや封建制の復活を唱えたりするあたりにこの運動の限界を感じる。インテリの指導者層はともかく、会員の多くは士族になって良い暮らしをすることを夢見ていたのだろう。「ポスト身分制社会」を求める側の頭の中が、江戸時代とあまり変わっていないのだ。

 

本書を読んでいると、月並みな言い方だが結局人は急には変われないのだ、ということを痛感させられる。撃剣に力を入れ、飲むたびに刀を振り回す民権運動家の実態を見ていると、かれらは結局武士になりたかったのではないか、という気がしてくる。多くの人は、過去の延長線上に未来を思い描く。だとすれば民権運動が理想とする未来が禄をもらい、武士として生きることになったとしても仕方がないということになるだろうか。ポスト身分制社会で生きづらくなった人びとがかえって過去の身分制社会を求めてしまうのは、明治という急ごしらえの近代国家を作ることがいかに困難だったか、ということのひとつの証左でもある。

 

彼らのイメージする苦痛からの開放のなかには、身分制社会を前提とした「武士になる」というイメージが含まれている。新しい社会の像を描くにあたって、「禄が支給される」という武士のイメージを用いることがおこなわれた。過去に経験したことのある手持ちのイメージが、誰も経験したことのない未来のユートピアを描くために使われるのである。

 

万人敵・震天雷・流星錘……バラエティ豊かな中国史上の兵器を網羅した『Truth in FantasyⅧ 武器と防具 中国編』

 

武器と防具〈中国編〉 (Truth In Fantasy)

武器と防具〈中国編〉 (Truth In Fantasy)

 

 

表意文字である漢字の強みは、字面だけで雰囲気を出せることだ。中国史には実にバラエティ豊かな武器が存在し、「震天雷」「迅雷銃」「神火飛鴉」などなど、本書にはどこかファンタジーめいた名称の武器がたくさん登場しているが、これらはすべて実在したものばかりだ。この『武器と防具 中国編』では前近代の中国史上の武器と防具についての簡単な解説と、それらが用いられた歴史的経緯について知ることができるので、すこしでも中国史に興味のある読者にとっては楽しく読める一冊に仕上がっている。

 

技術者としての諸葛亮の役割

本書では射撃兵器について一章が設けられているが、なかでもとりわけ興味を惹かれるのが連弩だ。同時に多数の矢を発射する連弩は戦国時代から存在しているが、これを個人で使用できるよう改良を加え、連弩を装備した部隊を編成したのが諸葛亮だ。かれの開発した連弩は「元戎」とよばれているが、元戎は魏の騎兵に対抗するために開発されたと解説されている。魏の軍事力にに対抗するためのハードウェアが元戎であり、ソフトウェアが八陣とよばれる軍隊の運用方法だった。

明代には諸葛弩とよばれる連弩も存在しており、10本の矢を連続発射できる兵器なのだが、元戎を推定して作ったため考案者である諸葛亮の名前を借りたとされている。

 

倭刀と鳥銃と戚継光

本書を読むと、日本の武器が中国史に与えた影響力の大きさに驚く。まず倭刀の項目では、もともと美術品として輸入されていた日本刀の切れ味のよさが倭寇との戦いで知られるようになり、戚継光などの明の将軍が自分の部隊へ装備させるようになったと書かれている。日本刀は明代末期から清の軍隊にも取り入れられ、中国でも日本刀が生産されるようになっている。それだけ日本刀が武器として優秀だったとうことであり、明が倭寇に苦しめられていたということでもある。戚継光は倭寇に対抗するために狼筅という枝葉のついた槍も開発しているが、この兵器もちゃんと解説されている。

 

中国武将列伝〈下〉 (中公文庫)

中国武将列伝〈下〉 (中公文庫)

 

 

戚継光は田中芳樹が『中国武将列伝』の中で名将のひとりに数えている人物だが、戚継光は鳥銃(火縄銃の一種)も導入しており、彼の考えた編成では歩兵部隊の鳥銃の装備率は40%となっている。ほぼ同時代の信長の軍隊での鉄砲の装備率が8%に満たなかったことと比較すると、こちらのほうが断然多い。しかし鳥銃は騎兵に対抗する決定打とはなり得なかったようで、サルフの戦いにおいて朝鮮の鳥銃隊が後金の騎兵隊に対抗できなかったことも解説されている。よく銃の発達が騎士を時代遅れなものにしたといわれるが、事実はそう単純ではない。

 

「火薬帝国」としての明王朝

 本書を読めば、中国における火器の発展もひととおり学ぶことができる。火薬はもともと神仙道の実験の副産物として発見されたものだが、五代の時代にすでに火槍という火炎放射器が出現している。宋代には火器を専門に制作する部署が存在し、モンゴルが西アジアを制覇すると火器の技術はイスラム世界へと伝わった。本来、中国は火器の先進国だった。

明の永楽帝の時代になると、神機営という砲兵部隊が登場する。火器の威力を早くから評価していた明帝国だが、使用法が国家機密であったため兵士がその使い方をよく知らず、土木堡の戦いでは火器が役に立たなかった、などという史実もある。

 

末期の明を支えていた兵器は大砲、とくに紅夷砲だ。後金を興したヌルハチも寧遠城攻略の際にこの大砲に味方を打ち崩され、ヌルハチ自身も負傷したと言われている。この痛手に懲りた後金が大砲の生産を開始し、また明軍の降参兵も砲兵隊に組織したことが、清の中国征服に大いに貢献している。明は火器によって守られ、火器によって滅びた。ウィリアム・マクニールはオスマン帝国ムガル帝国モスクワ大公国などを大砲の運用によって栄えた「火薬帝国」と名付けているが、これらの帝国ほどではないにせよ、明もまた火器の力に依存している帝国だった。

 

水滸伝に出てくる武器も調べられる

世の中にはこんなものが本当に存在するのか、と思うようなものも案外実在している。水滸伝を読んだ人なら「鉄笛仙」の馬麟を知っていると思うが、暗器の項には本当に鉄笛という武器が出てくる。これは実際に楽器としても使えるので武器だとは見抜かれにくい。水滸伝で有名な武器といえば呼延灼の「双鞭」だが、これは鞭ではなく金属製の棒のことなので、打撃武器の項に書かれている。知っている人は知っているのだろうが、昔横山光輝のマンガで読んだ呼延灼は二本のムチを使っていたので、ああいうものなのだろうと思っていた。ほんとうの双鞭は三國無双太史慈が使っているようなものだということである。

 

創作の資料としても有効

このように、本書では中国史上の兵器を幅広く扱っているので読み物としておもしろいだけでなく、歴史ものの創作をする上でも参考になる。今まで挙げたようにこれらの兵器の名前はインパクトがあるため、中華風ファンタジーを書くときも役に立つだろう。ここに挙げられているものを参考に、独自の兵器を考案してみるのも面白いかもしれない。センスは知識の集積から生まれるので、こういう知識を持っておいて損はない。

 

大英帝国の中でハイランダーはどう生きたか──井野瀬久実恵『大英帝国という経験』

 

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

 

 

これは興亡の世界シリーズの中でも注目されるべき一冊であるように思う。というのは、本書ではスコットランドアイルランド奴隷解放、移民やレディ・トラベラーなど、大英帝国の中の周縁やマイノリティについてまんべんなく記述されており、最盛期のイギリスを多角的な視点から捉えることができるからだ。イギリスの政治史について一から学べる本ではないが、基本的な政治史を知っているなら本書で大英帝国の社会や文化についてより深い理解を得ることができる。

 

本書を読んでいてとりわけ興味を惹かれたのは、第2章「連合王国と帝国再編」で書かれているスコットランドアイルランドの境遇だ。ここでは近世のスコットランド史について簡潔に触れられているが、普通は「無血革命」といわれる名誉革命スコットランドにおいてはグレンコー事件という凄惨な虐殺を生じていたことがわかる。この事件はスコットランドハイランダー(ハイランド住民)に激しい憎悪を引き起こし、のちにカロデンの戦いにおいてイギリス軍とハイランダーが戦う事態にまで発展した。この戦いを指揮し、ハイランダー掃討を展開したカンバーランド公BBCが2005年に「最悪のイギリス人」18世紀部門に選んでいる。

 

このカロデンの戦いの後、スコットランド人は5つの「M」ではじまる職業で活躍したといわれる。中でもハイランダーが活躍したのはmilitary、つまり兵士だ。連合王国政府がハイランドの氏族を解体し、土地から追放してしまったためである。イギリス人にとり陸軍兵士はどんなに貧しくともなりたくない職業だったが、そういう食に就かなければいけないほどハイランド人は苦しい境遇にあった。ハイランド部隊の男たちは七年戦争アメリカ独立戦争の最前線で活躍し、死んでいった。ハイランダーの勇敢さはイングランド人の将校も感動させたといわれる。

 

このようなハイランダーの活躍は、第9章「準備された衰退」でもふたたび描かれている。ボーア戦争南アフリカ戦争)の捕虜収容所に居合わせたアリス・グリーンは、ボーア軍のドイツ人の証言として、このような発言を記録している。

 

イングランド人は財産保全を約束しながら、将校たちまで略奪に加わった。ほしくないものまで彼らは略奪した。それに比べて、スコットランド・ハイランド連隊の兵士たちがどれほど勇敢に戦ったことか!彼ら以外の兵士は、戦闘など気にもせず、略奪に夢中だった。

 

大英帝国の都合につき合わされているハイランド人が敵にまで称賛されるほど勇敢であり、イングランド人は野蛮であった。この捕虜収容所では、アイルランド人兵士に対しても多くの好意的な証言が得られている。大英帝国の周縁で苦しめられた人びとのほうが立派であったというこの事実は、何を意味するのか。イングランド人のほうが狡猾であったからこそ、彼らを支配することができたということだろうか。いずれにせよ、こうしたスコットランド人やアイルランド人の姿はもっと知られていいのではないかと思う。

 

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 近世のスコットランドが背負った労苦については岩波新書の『スコットランド 歴史を歩く』が詳しい。グレンコー事件についてはこれを読めばより深く知ることができる。