明晰夢工房

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【世界遺産推薦候補】伊勢堂岱遺跡と資料館に行ってきた

「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、国の文化審議会で2021年の世界文化遺産登録に向け、ユネスコへの推薦候補とする方針になっています。
去年は奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島の自然遺産が推薦されることが決定し、縄文遺跡群の推薦は見送られましたが今年はどうなることか……

今年も強力なライバルが出現するかもしれないので、正直なんともわかりません。

 

今年こそは推薦される期待を込めて、北海道・北東北の縄文遺跡群のひとつ「伊勢堂岱遺跡」の写真を紹介しておくことにします。

 

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行ったのは3月半ばですがこの時はまだ雪が積もっていました。

縄文館のなかには伊勢堂岱遺跡から出土した土偶・土器などが300点ほど展示されています。

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資料館は2019年4月以降は有料になりますがこのときはまだ無料でした。

写真はSNSでの拡散歓迎という方針なので、積極的に撮っていきます。

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正面から出迎えるのは板状土偶

伊勢堂岱遺跡から唯一完全な形で出土した土偶で、この遺跡のシンボルともなっています。実物は19㎝くらいでそれほど大きくはない。

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伊勢堂岱遺跡は縄文時代後期の遺跡ですが、土器は思っていたほど荒々しい感じというわけでもなく、弥生土器に近い繊細さも感じられます。とはいえデザインはしっかり縄文ですが。

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装身具の数々。

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猿や猪のミニフィギュア?もあります。

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祭祀などに使ったと思われる石棒。

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皿はかなり大きく、中に入れた食べ物を家族全員で食べる用に見えます。

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こちらも装身具。ヒスイや琥珀も出土しています。

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出土した土偶は番号が割り振られていて人気投票も行われていますが、いつも遮光器土偶が上位に入っています。


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遺跡の写真は去年撮ったものですが、今年の公開は4月下旬からの予定です。

史跡のほうはストーンサークルが4つ並んでいます。
伊勢堂岱遺跡のストーンサークルは200年以上にわたって作り続けられているものだそうです。

4つのストーンサークルは、それぞれ別の村のものと考えられています。

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我ながら写真が下手だ。もう少しいいアングルで撮れなかったのか

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史跡のほうはストーンサークル掘立柱がメインなので少々地味かなというのはありますが、縄文館に展示されているものはかなり充実しているので、一度訪れてみる価値はあると思います。

「北海道・北東北の縄文遺跡群」は北海道と青森県の遺跡が大部分を占めていて、秋田県の遺跡はここ伊勢堂岱遺跡と大湯環状列石ストーンサークル)だけです。
なかでもやはりメインとなりそうなのは大規模な集会場があり、物見櫓も作られている三内丸山遺跡で、このあたりの遺跡はあまり目立ちませんが、それでも世界遺産候補にでもなればもう少し注目も集まりそうです。

正直、縄文というテーマ自体が世界遺産にするには地味かな……と思うところもありますが、今までは推薦候補にもならなかったわけなのでできればがんばってほしいところ。

東北出身の人間としては、北海道・北東北の縄文遺跡群も平泉に続いてほしいところです。
 


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ローマの敵側の視点から歴史を描くドラマ『バーバリアンズ・ライジング~ローマ帝国に反逆した戦士たち~』の観応えがすごい

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huluで『バーバリアンズ・ライジング』という歴史ドラマを観ているのですが、これが実にクオリティが高くて見ごたえがあります。1話1時間ほどのドラマが8話にわたって続くのですが、それぞれのストーリーの主人公はすべてハンニバルやブーディカ、アッティラなどローマの敵となった側の人物で、ローマ側の蛮行が詳しく描かれるので観ているうちにどんどんローマにヘイトが溜まっていくようになっています。『ローマ人の物語』では描かれない、ローマの負の側面をこのドラマで知ることができます。

 

カルタゴはどう見ても「バーバリアン」じゃないだろう、とは思いますが、ローマの敵側からはローマはこう見えている、ということを映像で知るのは新鮮なもので、歴史の専門家だけでなくアメリカの元陸軍大佐など軍人の解説がしょっちゅう入るのも面白いところ。登場人物の台詞はすべて吹替なので感情移入度も高く、かなり楽しめる内容になっています。以下、全8話のなかでも面白かったアルミニウスとブーディカの回について紹介します。

 

ドラマの4話の主人公は、ドイツでは「ゲルマーニアの解放者」として知られているアルミニウスです。ケルスキ族の族長の息子であるアルミニウスは少年のころに和平と引き換えにローマに連れ去られますが、去り際に叔父から言われた「お前がケルスキ族であることを忘れるな」という言葉を胸に刻みつつ成長します。

長じてローマの軍人となり、騎士階級にまで出世するほど優れた才能を示したアルミニウスですが、ゲルマン人を軽蔑しきっている将軍ヴァルスのもとでゲルマニアに赴任することにになり、ローマとゲルマンのはざまで葛藤することになります。

結局ローマに反乱を起こすことになるアルミニウスですが、アルミニウスはローマ軍の弱点を知りつくしているという強みがありました。ローマ軍が陣形を保てなくするため、トイトブルク森に誘い込んで戦いを挑むまでの様子がこのドラマでは詳しく描かれていますが、完全にローマ人になりきっている弟フラウスとの対決の場面などドラマチックな場面もあり、全体として荘重な史劇といった趣の重厚なドラマに仕上がっています。

アルミニウスがどんな最期を迎えるかはドラマを観てのお楽しみですが、有名なトイトブルク森の戦いを詳しく知ることのできる映像は珍しいので、ローマ史に興味のある方なら観ても損はないのではないかと思います。

 

アルミニウスの話に続く「復讐の女王ブーディカ」はブリタニアのイケニ族の戦いが描かれますが、このストーリーは冒頭からすさまじい。

イケニ族の王が死んだためその土地は二人の娘に受け継がれますが、ローマ人は「女とは交渉しない」と言い放ち、王の火葬も終わらないうちにブーディカを吊るして鞭打ち、二人の娘をイケニ族の目の前で凌辱するという信じがたい行動に出ます。アルミニウスの物語同様、「バーバリアン」たちを主人公にしているもののどう見てもローマ人のほうが野蛮に見えるようにドラマが作られているようです。

 

復讐の鬼と化したブーディカは反撃の機会をうかがいます。ローマの将軍パウリヌスがドルイドを攻撃するためモナ島へと向かった隙を突いて、ブーディカはローマ人の拠点を狙うことにしました。神託を用いてうまくケルト人をまとめたブーディカはブリタニア属州の首都カムロドゥヌムを制圧し、住民を虐殺しています。この行為についても「ブーディカはローマ人と同じことをした」とローマの残虐さのほうが強調されています。

ブーディカはその後いくつかのローマの都市を占領し、なかなか善戦していますが、結局モナ島から戻ってきたパウリヌスに敗北してしまいます。地の利を生かして戦ったアルミニウスとは逆に、ローマ軍はケルト人を谷間に追い込んで戦い、ケルト人のほうが不利な戦いを強いられたからです。

アルミニウスのように解放者にはなれなかったブーディカですが、彼女がローマに与えた衝撃はとても大きなものでした。カムロドゥヌムを発掘するとたくさんの灰が出土するそうですが、この都市を焼き尽くしたブーディカの怒りの大きさが考古学からも裏付けられるのです。

 

この二人に続くストーリーも東ゴート王で皇帝を戦死させたフリティゲルン、その息子でローマを略奪したアラリック、知略に長けたヴァンダル王ガイセリック、そして「神の鞭」アッティラなど多彩な面子が登場し飽きさせません。ブルガリアの自然を背景とした映像も美しく、俳優の演技もかなり力が入っているので単に面白いドラマを期待して観たとしてものめりこんでしまうのではないかと思います。テーマがテーマだけに少し残酷なシーンもありますが、そこに耐性のある方には強くおすすめします。

 

『バーバリアンズ・ライジング』はhuluで観ることができます。huluは入会から2週間までは無料です。

hulu( 2週間無料トライアル)

 

槙田雄司『一億総ツッコミ時代』と「超メタ人間」李徴の悲劇

 

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

 

  

決定版 一億総ツッコミ時代 (講談社文庫)
 

 

 現代日本はなにかというと人を評価したがる「ツッコミ」の人ばかりが多い「ツッコミ高ボケ低」の状況にあり、それが息苦しい社会を生んでいる──と2012年の時代相を鋭くえぐった名著『一億総ツッコミ時代』の発売から、もう7年が経とうとしている。

去年の暮れには文庫化された「決定版」も発売されているが、2019年の現代の世相を眺めてみても、この「ツッコミ高ボケ低」の状況はあまり変わっていないように思う。今でもSNSで失態を犯した人は多くの批判を浴び、穴のある主張をした人はツイッターやブックマークで叩かれる。この状況を逆に利用して炎上で自分をアピールしようとする人もあいかわらず多い。

このブログだってどちらかというとツッコミ側だ。別に落ち度を探してやろうと思って書評を書いているわけではないけれども、本の内容にふれようと思えばどうしたって批評する側の視点に自分を置くことになる。

 

ツッコミそれ自体が悪しきものだというわけではない。SNSにはデマもフェイクニュースニセ科学の情報もあふれかえっているのだから、これらに適切に突っ込む人は必要だ。しかし社会があまりにツッコミ側に傾き、人のあら捜しモードにはいるとベタに行動することが難しくなり、リラックスできなくなる。この状況を打開するために、もう少し肩の力を抜いて、ボケ志向で生きてみませんか、というのが『一億総ツッコミ時代』でマキタスポーツこと槙田雄司氏の主張するところだった。

 

www.aozora.gr.jp

 

いつもツッコミ側に立ち、メタに分析ばかりしている人生は疲れる。なにしろツッコミ好きな人は 、時に自分自身をもツッコミの対象にしてしまうからだ。最近、『山月記』を読み返していて、主人公の李徴はまさにこの「ツッコミ高ボケ低」な性格のために獣になってしまった人物なのではないか、と思えてきた。

 

この小説のなかで、李徴の友である袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は、李徴には「自嘲癖」があったと言っている。事実、李徴は進んで詩の師匠を求めず、仲間と切磋琢磨することもなかった己の性格を「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」の持ち主なのだと容赦なく斬っている。

若くして科挙に合格するほどの才能の持ち主だった李徴は当然、頭脳明晰で、感受性も優れていただろう。その頭脳と感性とで自分自身を批評するのだからたまらない。李徴は人との交際を嫌っているが、その理由が詩の才能がないことが暴露されるのを恐れるためだ、ということを十分すぎるほど自覚できている。

そういう気持ちは本来誰にでもあるものだし、それを受け入れつつ少しづつ前に進めばいいのだが、李徴はさらにメタレベルからこの心情を「卑怯な危惧」などと言って貶めようとする。まさに李徴とは「超メタ人間」なのだ。自己を省みることも時に必要なことではあるのだが、それがゆきすぎると今度は自己評価が下がり、ベタに行動することができなくなる。

 

李徴が批評家であることに満足できるような性格だったなら、これでもよかっただろう。しかし、李徴は詩人になりたいのだ。そのためには、李徴自身が分析しているように、詩の師匠のもとで修業したり、仲間と切磋琢磨したりする努力が必要だったはずだ。

その過程でプライドをへし折られるようなこともあるかもしれないし、大いに恥をかくかもしれないが、結局恥をかくことを恐れていたら創作などできないのだ。そもそも詩を書くなどという行為自体が恥ずかしいものなのだから、李徴はどこかでメタからベタへ、ツッコミからボケ側へ転身しなくてはいけなかった。

もし、李徴が自分自身への過剰なまでのツッコミの手をもう少しゆるめ、ボケ側に回ることができていたなら、彼の人生はもっと違ったものになっていただろう。仮に李徴が詩友と交わり、師匠について修行を重ねたところで一流の詩人になれるとは限らない。だが、一通りやれるだけのことをやってみて、それでも文名を高めることができなかったのなら、それはそれで諦めがつくだろう。身を焼かれるほどの後悔にさいなまれ、虎になるようなことはなかったに違いない。

 

だが、李徴は過剰な自意識にとらわれたまま、ついにベタな行動に出ることはなかった。自分自身を見つめる「自分カメラ」が機能しすぎていたせいだ。そんな彼がメタ視点の牢獄から抜け出るには、もはや獣になるしかない。欲望のままに生きている獣にはメタ視点など存在しないからだ。

己が何者であるかを思考できるのは人間の特権ではあるが、それゆえに苦しむのなら人であることを捨てるしかない。李徴が獣になりきることでようやくベタな自分として生きていくことができたのなら、これほどの悲劇はない。 李徴が『一億総ツッコミ時代』の以下のくだりを読んでいたなら、彼の運命も少しは変わっていただろうか。

 

 私は「メタ」にとらわれている人も、もう一周まわって「ベタ」に転換するべきだと常に言っています。少なくとも、自分カメラを気にしすぎて身動きがとれなくなっているよりずっといい。

「自分自身を見つめろ」とは自己啓発の決まり文句ですが、自分より外の世界を見ていたほうが新しい発見もたくさんありますし、絶対に楽しいと思います。なによりそんな人のほうが魅力的に映ると思うのですが、どうでしょうか?(p99)

 

【書評】岩波新書シリーズ日本中世史3『室町幕府と地方の社会』

 

室町幕府と地方の社会〈シリーズ日本中世史 3〉 (岩波新書)
 

 このコンパクトな分量で複雑な室町時代をカバーできるのだろうか?と思いつつ読んでみたらこれが非常にわかりやすい。前提として高校日本史くらいの知識は必要かもしれませんが、それさえあれば読み進められる内容だと思います。室町幕府の誕生から南北朝時代をへて応仁の乱にいたるまで政治史の流れを一通りおさえつつ、村の生活の様子、茶道や花道、和式の住宅様式などの「伝統文化」の誕生など民衆史や文化史までカバーする内容なので、室町時代の入門書として最適な一冊と思います。

 

なかでも注目したいのは、本書では鎌倉時代なかばから南北朝時代には農村の土地開発が飽和点に達していると何度も指摘されている点です。この「飽和状態」が、室町時代を理解するためのひとつのキーワードとなっています。

たとえば、新田義貞が箱根で足利尊氏に敗北すると京へ逃げ帰らなくてはいけなかったり、一度は都落ちした足利尊氏が九州で勢力を盛り返して京を取り返すなど、この時代はめまぐるしく勢力図が塗り替えられます。これは、武士が新たに土地を切り開くことができないため、とにかく勝ち馬に乗って所領を増やそうとするからだと考えられるのです。

 

また、守護の権限の拡大もこの「飽和状態」が原因です。室町時代には武士が限られたパイをめぐって土地争いを繰り広げていたので、紛争を収めるために刈田狼藉の取り締まりの権限や使節遵行権が守護に与えられます。室町初期には観応の擾乱で戦乱が長期化し、敗者側の土地を恩賞として配分する権限も守護に与えられることになったため、守護と武士の主従関係が強まり、守護は大名と化していくことになります。

さらに、農村同士のかかわりにもこの「飽和状態」が関係しています。室町時代には限られた土地をめぐって村同士が抗争をくり広げていましたが、中には5年にわたって戦い続けている農村も存在します。たとえば菅浦と大浦庄の住民の抗争はこのようなものです。

このときの抗争は二つの村の間にある山林の利用をめぐるいざこざに端を発した。琵琶湖岸の多くの村々が双方の応援に駆け付け、村に火を放つ、船を奪い合う、山で弓矢を打ち合うなどの衝突が繰り返された。菅浦の住人数人が犠牲になったが、それ以上の数の大浦住人も命を落とした。

このように、わずかな土地をめぐって命がけで戦っていたのが室町時代の農民です。室町時代の人たちが武士から庶民にいたるまでバーサーカー状態だったのは、この「飽和状態」が原因の一つとしてあげられそうです。

 

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本書ではここ20年ほどでめざましく進展している中世史の研究成果が反映されているので、ほかにも足利義満の公家化は天皇の位を簒奪する気があったからではなく、武家の力を借りて天皇の権威を復活させたい朝廷側と、足利家の権威を確立させたい義満の利害が一致しただけ、という興味深い見解も示されています。室町時代は戦乱が多いので政治史の流れは少し駆け足気味ではありますが、室町初期については『観応の擾乱』『後醍醐天皇』などを読むとより理解しやすくなると思います。

 

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精霊の守り人外伝『風と行く者』感想:今回はロタ王国を中心とする過去編

 

守り人シリーズはしばらく短編集の刊行が続いていたが、今度は長編。冒頭でバルサとタンダのやり取りが書かれているので、いよいよタルシュ帝国との戦いが終わり平和になった新ヨゴ王国での物語が始まるのか、と思っているとやはりというか、話は過去へ飛ぶ。ジグロの出番が多いので『闇の守り人』好きなファンは必読だろう。

 

今回の物語の舞台の中心はロタ王国で、「風の楽人」であるサダン・タラムの護衛を引き受けたバルサとジグロの数奇な運命が描かれる。表向きは旅芸人として暮らしているサダン・タラムは戦没者の鎮魂の使命を帯びており、ロタ王国北部の「森の王の谷間」をめざして旅をしているが、道中で一座は何者かに命を狙われる。襲い来る暗殺者の襲撃から一座を守りつつ旅を続けるうち、ジグロとバルサはロタ王国の歴史に隠された苦い真実にたどりつくことになる。ターサ氏族とロタ氏族の争いのなかで起きたこの事件は、ファンタジーとはいえ現実的にも起こり得るものだ。優れたファンタジーは架空の世界のなかにも現実を描く。

 

重いストーリーでありながら、苦境にあえぎつつも前を向こうとするサダン・タラムの人々の姿や氏族の誇りを守りつつ未来を切り開いていこうとするターサ氏族とロタ氏族の知恵と勇気、何よりジグロの不器用な優しさが物語にぬくもりを与えている。そして今回もいつも通り、食べ物の描写が秀逸。果実のジャムをつけて食べる羊の炙り肉を自慢するターサの農婦の台詞を読むだけで、ほんとうにこの世界が実在しているように思えてくるから不思議なものだ。こうした細部まで作りこまれた設定が、作品に確かな質感を与える。そして今回は意外にもジグロの身の上に艶めいた話があったりするのだが、過酷な用心棒稼業の合間に潤いを与えてやりたいと作者も思ったのだろうか。ジグロに嫉妬めいた感情を覚えるバルサの姿も今まであまり描かれなかったものだ。

 

ジグロが出てくると物語が引き締まるのはいつものことだが、もう世界は平和になったのだからそろそろ過去の呪縛からバルサを解放してやってもよくはないか、なんて思ってしまう。しかし上橋菜穂子は『炎路を行く者』のあとがきで自分は物語を描きたいという衝動がやってきたが降ってきた時しか書かないと書いていたので、これは何者かに書かされているストーリーということなのだろう。作者だからといってすべて自分で物語をコントロールすることはできない。

この物語が終わったことで、ジグロの出番も終わったのだろうか。そろそろバルサとタンダの未来の話が読みたい気もするが、それが実現するには作者の頭にそのようなストーリーが降りてくるのを待たなくてはならない。

映画『グレイテストショーマン』と「バーナム効果」

 

 

あっという間の一時間40分だった。小人症の「親指トム」やひげの生えた女性で圧倒的な歌唱力を誇るレティ、顔中に毛の生えた「犬少年」、シャム双生児アルビノの双子など多彩な「フリークス」を率いて活躍したバーナムの栄光と挫折、そして復活の物語は観るものすべてを魅了し、虜にするだろう。ミュージカル映画の楽しさがここに凝縮されている。

 

政治的正しさというものが映画製作において無視できないものとなっている現代においては、この『グレイテスト・ショーマン』も実はけっこう危うい要素を抱えている。バーナムのしていることはマイノリティを見世物にし、金儲けの道具にしているのだとも取れるからだ。

実際、バーナムはこの映画の中でも沈んだ船を担保にして銀行から資金を借りるなど、かなり危ない橋を渡っている。一言でいえば山師だ。彼は「フリークス」たちには敬意をもって接しているものの、それは興行を成功させるためには団員の機嫌を取らなくてはいけないからではないかとも思える。少なくとも最初は、バーナムの頭のなかには多様性の尊重だとか、マイノリティの権利擁護などという考えはなかっただろう。

 

しかし、それがこの映画のよいところでもある。バーナムが善人とはいえない人物だからこそ、さまざまなマイノリティに居場所を与える彼のやり方も観る側は嫌味なく受け取れるし、そこに過剰な説教臭さを嗅ぎ取ることもない。バーナムが道徳など一切説いてこないからこ、この作品は純粋なエンターテイメントとして成立している。

そして、そんなバーナムの限界も作品中でははっきり示されている。それはオペラ歌手ジェニーの公演が成功した後、彼女の歌声に感動した「フリークス」たちが彼女に会うことをバーナムが拒絶するシーンだ。ここにおいて、バーナムは「上流」の世界とフリークスたちの間に一線を引いてしまっている。ここに反発したレティが仲間を率いて「This is me」を歌うシーンがこの映画の最大の見せ場のひとつとなっている。

 

 

バーナムが結局自分のために「地上最大のショー」をやっていることはジェニーや妻のチャリティにも見透かされていて、そのために彼女たちはバーナムのもとを去ってしまう。結局、彼のもとに残ったのは盟友のカーライルとフリークスたちだけだった。すべてを失ってから本当に大切なものの価値に気づく、というこのストーリーはベタすぎるくらいにベタなものなのだが、それだけにやはり普遍性があり、多くの人の心に響く。

誰にでも当てはまる性格記述を、さも自分のことをいっているように思えることを「バーナム効果」と呼ぶことはよく知られている。この映画が普遍的なエンターテイメントでありつつ、それでいて観る者個人に向けられたメッセージであるように思えるのは、フリークスならずとも人前に出すなと言われる個性を多くの人が持っているがゆえに、この稀代の興行師の名を冠した心理効果が働くせいかもしれない。

映画『キングダム・オブ・ヘブン』感想:史劇ファン必見の超大作!

 

 まさしく重量級。村の鍛冶屋バリアンが騎士になりサラディンからのエルサレム防衛を任される、という王道の成長物語を軸に一騎打ちや道中の冒険や貴顕の女性とのロマンスなど、史劇に求められる要素全部乗せで展開される3時間超のこの作品はまさに空前の大作と言える。リドリー・スコット作品なので映像の美しさも折り紙付きで、ラスト付近のエルサレム攻城戦の迫力は圧巻だ。時代背景など何もわからなくてもエルサレムに押し寄せる津波のような大軍とトレビュシェットの投石、これを迎え撃つバリアンの奮闘を観るだけで元が取れるだろう。

 

作中で特に印象に残ったのは、塩野七生が『十字軍物語』で激賞しているエルサレム王・ボードワン4世の存在だ。らい病を患い顔を仮面で覆っている年若いこの賢王は、イスラムの隊商まで襲う狂犬のようなルノー・ド・シャティヨンとはまったく対照的な思慮深い人物だ。この人がもう少し長生きしていたならエルサレム王国ももう少し長持ちしていたかもしれない。

しかし、サラディンと対峙することになったのは好戦的で小物臭溢れるギー・ド・リュジニャンだった。主人公バリアンはこの王のもとでエルサレムサラディンから防衛すべく奮闘することになる。その結末はここには書かないが、悲惨な戦いの中においてサラディンの寛容さだけが唯一の救いとなっている、とだけ記しておく。なぜこの人物がキリスト教側からも尊敬を集めているのかがよくわかる。(逆に言えば、そのサラディンですらも許さなかったシャティヨンがいかにひどい人物だったかということでもある)

 

この作品の通奏低音は、異文化との共生なのだろう。バリアンはエルサレムで築きたかった「天の王国」の理想は必ずしも奇麗ごととはいえない。もともとエルサレムにはイスラム教徒が多数住んでいるのであって、 彼らも含めた王国づくりを考えるのはむしろ当然のことと言える。しかしボードワン4世が若くして逝ったことでエルサレム王国とサラディン軍との危うい均衡は破られてしまった。こうなっては結局、バリアンが言う通り「天の王国」は人々の心の中にある、と言うしかない。バリアンの理想が今なお実現していない現代においてこそ、この言葉は重く響く。