明晰夢工房

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【書評】『世界の辺境とハードボイルド室町時代』文庫版の「近未来日本に中学氏族が出現する」という話が面白い

 

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)

 

 

 この本の面白さはもうあちこちで語られ尽くしている気もするし、実際一度手に取ったが最後巻を措く能わず、という本なんですが、私にとっては読んでいてとても「気持ちがいい」本でした。

なにが気持ちいいって、高野秀行さんと清水克行さんの互いの仕事へのリスペクトぶりが気持ちいい。二人ともお互いの書いた本をよく読みこんでいて、特に高野さんの清水さんの著書への傾倒ぶりが尋常でない。学者である清水さんは当然として、対談相手の高野さんも相当に知的な人で、二人の対談はあたかも知の異種格闘技戦といった趣があります。辺境の探検家と中世日本の研究者という別々のフィールドで培われた知見が、互いを引き立て合い、思わぬ相乗効果を生んでいる。およそ知的好奇心というものを持つ人なら、本書を楽しめることは間違いないでしょう。

 

一読して、やはりこの本の白眉と感じるのは1章の「かぶりすぎている室町社会とソマリ社会」です。この章では、ふたりの対談を通じて室町時代とソマリ社会の共通点と相違点を浮き彫りにしていきます。

まず共通点としては、室町時代もソマリ社会も公権力とは別次元の、地域社会の法慣習がある、ということです。中世日本では盗みの現行犯は殺していい、というルールが存在しましたが、高野さんはアフリカで市場で盗みを働いた人がリンチされる現場を何度も目撃しているのです。いずれも現代日本に比べてかなり荒々しく、危険な世界です。

 

saavedra.hatenablog.com

 

ですが、どちらの世界にもそれなりの秩序というものがあり、北斗の拳のような無法地帯ではありません。むしろ、一度盗みを働くとシャレにならない報復を受けるからこそ、治安が保たれているという現実があるのです。清水さんが言うとおり、こういう社会では「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いはナンセンスです。人を殺せば自分もまた殺されるだけのことだからです。こうした地域社会での秩序は辺境に行くほど強いと高野さんは語っていて、それに比べてヨハネスブルグラゴスなどの都会ほど危険なのだそうです。

室町時代も危険は危険なのですが、この時代にくらべてもある意味現代の都市の方が危険だ、と清水さんは語っています。室町時代の人は暴力の怖さを知っていたので、これを制御するすべも知っています。それに比べ、東京で起きる暴力のほうがよほど脈絡がなくて怖い、というのです。しかも都会では喧嘩が起きても仲裁する人がいない。こういう点から考えると、現代社会特有の危険というものも見えてくる気がします。

 

一方、室町社会とソマリ社会でははっきり異なる点もあります。それは、中世日本には「賠償」という発想がないことです。ソマリランドでは男性一人が殺されたらラクダ100頭で賠償するという決まりがあり、当事者が所属する氏族集団がこれを支払います。中世日本にこういう習慣がないことは法制史上の大問題だそうですが、これは肉親の命はお金に変えられないという感覚のせいではないか、と清水さんは推測しています。仇討の風習は江戸時代まで存在していたし、今だってお金で人の命は償えない、という感覚は根強くあると思いますが、やはり古くから培われた価値観はそう簡単に変わらないのかもしれません。

 

「刀狩り」に関する二人の見解も実に興味深いものがあります。刀狩りとはいわば「百姓の武装解除」なわけですが、高野さんの本にもソマリランドの内戦終結の過程で、すべての武装集団が氏族の長老に武器を差し出したことが書かれています。これもある意味「刀狩り」のようなものです。

ところで、高野さんが語っているとおり、日本史において刀はあまり主要な武器ではありません。戦国時代なら、主要な武器は槍や弓です。刀は「武士の魂」であり、シンボルとしての意味合いが大きいのです。この槍と刀の関係が、ソマリランドでは自動小銃とピストルに相当する、と高野さんは語ります。殺傷力では自動小銃はピストルにはるかにまさっていますが、ピストルは将校以上しか持てないもので、名誉の象徴になります。ピストルにただの武器以上の価値があるなら、これを取り上げて武装解除することはむずかしくなります。所持することに意味があるという点で、刀とピストルはとても良く似ているのです。

 

内戦が終わり、平和になった徳川日本とソマリランドにもやはり共通点があります。江戸時代では元禄期にもまだ戦国の気風にあこがれる空気があり、試し斬りなどをするかぶき者の存在が社会問題になっていましたが、ソマリランドにもわざと着崩した格好をしたり、女物のスカーフを頭に巻いている民兵が存在しています。こういう人たちを高野さんは「かぶき者」と表現しているのですが、国も時代も違うのに、状況が似ていれば同じような人々が出現する、ということは確かにあるようです。ソマリランドの現在が中世日本を照らし、中世研究の知見がソマリランドの理解を深める、という好循環がここに生まれています。

 

刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965))

刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965))

 

 

刀狩りといえば、岩波新書の名著『刀狩り─武器を封印した民衆』の著者、藤木久志さんのエピソードもこの本では紹介されています。実は清水さんは藤木久志さんの授業を受けて「百姓と領主の関係は契約関係とはいえないのではないか」と大胆な質問をぶつけたことがあるのだそうです。藤木久志さんはもう著名な先生だったにもかかわらず、立教大学のキャンパスの中庭を3周しながら質問に答えてくれたそうです。藤木久志先生の真摯さに感動した清水さんが研究者に憧れるようになったというのだから、藤木さんはある意味この本の生みの親でもあるのです。

 

と、ここまでは単行本の『世界の辺境とハードボイルド室町時代』にも書かれていることですが、文庫版の魅力は巻末に収録された特別対談にあります。この対談で、二人は「この先日本が中世化するかもしれない」という問題意識を共有しています。

 老後に備えて2000万円の貯蓄が必要だ、という金融庁の報告書が話題になったように、もう国は国民を守ってくれないのかもしれない、という認識は、少しづつ私たちの間にも浸透しつつあります。国を頼ることができないのなら、この先日本人が頼りにするものとは何なのか。高野さんは、それは「中学氏族」ではないかと推測します。 東日本大震災のあと、ある地域を取材するときにはまず地元の中学の元番長にあいさつをする必要があった、というある新聞記者から聞いた話を高野さんは紹介しているのですが、「同中」の結束力は地域によってはとても強いものだったりするのです。

 

一時期は日本の企業は機能集団ではなく共同体になった、と言われたことがありましたが、終身雇用制が崩壊していく中、もはや企業に共同体としての機能は期待しにくいのが現実です。だとすれば、その後を担うのは「中学氏族」なのか。この話は半分笑い話のような雰囲気で進んでいるのですが、現代日本において共同体の母体になりうるものがあるとすれば、それは同じ中学で学んだ仲間、くらいしかないのかもしれません。だとすると、地元の中学校になじめなかった人にはなかなか生きづらい社会が到来しそうな気がします。

 もっとも、この話は中学校同士が抗争をくり広げていたような時代を生きてきた二人の対談だから出てきた話であって、『今日から俺は!!』を異文化として楽しんでいる現代の若い人が年を取るころには、ヤンキー文化を基礎とする「中学氏族」も廃れているかもしれません。清水さんは、「中世の抗争もツッパリの抗争にたとえればわかりやすいかもしれない」と言っていますが、高野さんは「今の学生にとってはそれは異文化だ」と突っ込んでいます。室町本もヤンキー漫画同様「異文化」として消費されているとするなら、この『世界の辺境とハードボイルド室町時代』もその延長線上で売れているのかもしれません。動機はどうあれ、このエキサイティングな対談が多くの人の目に触れるのが喜ばしいことは確かです。

 

saavedra.hatenablog.com

 

清水克行さんの本では『戦国大名と分国法』も大変面白いので強くおすすめします。

 

【感想】『鹿の王』の最大の魅力は「あたりまえを活写する力」

 

鹿の王 (上) ‐‐生き残った者‐‐
 

 

鹿の王 (下) ‐‐還って行く者‐‐
 

 

一読し、100万部以上売れる本にはやはりそれだけの理由があるのだ、と強く感じた。

良い作品が必ずしも売れるわけではないが、たくさん売れる作品には売れるだけの力がある。

ベストセラー本のなかにはただ時流に乗っただけのものや、売る側がうまく仕掛けたものも少なくないだろうが、『鹿の王』はこの物語の地力の高さ、そして普遍性の高さが多くの人に支持されている理由だろう。

物語の設定が細部にいたるまで作りこまれているので、読者はあたかもこういう世界がどこかに存在しているかのように、物語のなかに没入できる。守り人シリーズもそうだったが、これはもはやフィクションというよりも、ひとつの独立した別世界を小説という形で再現してみせているかのようだ。たとえばジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』シリーズ(ゲームオブスローンズ原作)がそうであるように、どこかにこのような世界が存在していて、そこに作者がアクセスして見聞きしたことをそのまま書いているようにすら思えてくる。作者の上橋菜穂子は、『炎路を行く者』のあとがきで「私はもともと寡作な作家ですが、それは、物語を紡ぎたいと思う衝動がやってくるのを待つという、実に非効率的な方法でしか執筆ができないからです」と書いているのだが、これほどの物語を技術ではなく「物語を降ろす」ような形で書いているのなら、驚くべきことだ。

 

(少なくとも上巻においては)派手なバトルも、国同士の大規模な戦争も起こっておらず、メインに据えられているのは伝染病という地味なテーマであるのにこれだけ読まれているのは、それだけ異世界の構築がうまくいっているからだ。この『鹿の王』は、途中から大河ドラマ化して世界が広がっていった守り人シリーズとはちがい、最初から基盤となる世界観がかなり詳しく説明されている。

序盤で出てくる国や地方、氏族や国ごとの習慣の違いなどの情報量はかなり多いが、ここをクリアできれば誰でもこの世界にのめりこめることだろう。私みたいな設定厨からすると、この情報量の多さはむしろありがたい。はるか東方より興り、下層民を遠方に入植させている東乎瑠帝国。そして東乎瑠に服属しているアカファ王国。東乎瑠の入植民によりユカタ平原を追われた<火馬の民>、そしてアカファ最西端に住み飛鹿の部隊を自在に操るガンサ氏族の「独角」……これらの設定が心に響く人なら、誰でもこの長大な物語を読む資格がある。

 

本作には冒険小説の要素もあるので、中にはおもしろい設定がある。かつて「アカファ王の網」と呼ばれていた「跡追い」の術を持つ者が本作には登場する。見かけはごく普通だが凄腕の「狩人」であるサエは「跡追い」の技を用い、ホッサルの意を受けてアカファ岩塩鉱から逃亡したヴァンを追跡することになる。

追跡といっても、サエはウィッチャーのように足跡や匂いが見える異能を持っているわけではない。サエはあくまで現場の椅子や残された体毛などから本作の主人公・ヴァンのプロファイリングを行い、どのように逃げたかを探っていく。その推理の過程は現実的で、地に足のついたものだ。ファンタジー作品とはいえ、その内容が決して現実から遊離しないところに上橋作品の魅力がある。

 

『鹿の王』の一方の主人公は、かつて飛鹿の部隊を率いていた「欠け角のヴァン」と呼ばれていた男だ。物語は、アカファの岩塩鉱で奴隷として働かされていたヴァンが、突然侵入してきた獣に噛まれるところからはじまる。獣に噛まれた他の奴隷は皆死んでしまったが、なぜかヴァンだけは生き残る。噛まれたことで体内に奇妙な力を宿したヴァンは岩塩鉱を脱出し、第二の人生をスタートさせることになる。

この岩塩鉱に蔓延した「黒狼熱」の調査と治療にあたることになった若き天才医師・ホッサルが、この物語のもう一人の主人公だ。ホッサルは古オタワル王国の始祖の血を引く人物という設定になっているが、オタワルの人々は高い医療技術を持っており、ホッサルは免疫系の知識すら持っている。ホッサルの助手ミラルなどは黒狼熱に対処するため、黒狼熱で死んだ者の死体から病素を取り出し、病の発症を予防するための「弱毒薬」を作ろうとさえする。このようにかなり現代医学に近いオタワルの医学は、やがて呪術的要素の強い東乎瑠医学と軋轢を生じるようにもなるのだが、こうした医学の設定までも詳細に作りこまれているのも『鹿の王』の魅力だ。

 

アカファ岩塩鉱山を無事脱出したヴァンは、旅の道中でトマという若者を助けたことをきっかけに、アカファ北部のオキ地方へと導かれる。オキ地方はさまざまな地から流れてきた遊牧民が集まる土地で、トナカイとともに移動しつつ生きているが、山地と森が広がる地域ではトナカイを飼いつつ猟をするものもいる。この地方はよそ者を受け入れる土地で、ヴァンはすぐれた狩猟能力を持っていることもあり、トマの氏族では歓迎された。

このオキ地方での生活は3章の「トナカイの郷で」でくわしく描かれることになるが、この章の雰囲気がすばらしい。岩塩鉱から連れてきた幼子ユナとトマの氏族とともに暮らす歳月は、物語として見ればやや起伏に乏しいかもしれない。しかし、静かな森に抱かれて暮らすトナカイ遊牧民の暮らしの描写は、あたかも実在する人々の民俗誌を読んでいるかのように鮮やかに目に浮かんでくる。この暮らしがあまりに平和で牧歌的なため、いつまでもこの世界に浸っていたいような気分にもなってくる。

もともと飛鹿乗りだったヴァンはこの地で飛鹿の繁殖のさせ方も教えているが、鹿が囲いを超えないように「モホキ」という苔でつくった縄を柵に結び付ける様子や、飛鹿の出産の描写などを読んでいると、架空の動物である飛鹿が本当に存在するかのように思えてくるから不思議だ。飛鹿を育てると税が軽くなるが、飛鹿が育てた者にしかなつかない習性を東乎瑠が知ったら飼育者が徴兵されそうだという世知辛い事情も見えてくるあたりなど、むしろノンフィクションを読んでいる気分にすらさせられる。幸村誠が『流れ行く者』のあとがきで書いているとおり、上橋菜穂子作品の魅力である「架空世界における日常生活の描出力の見事さ」が、本作でも遺憾なく発揮されているのだ。

 

これだけていねいに生活の細部を描いているのは、この後の展開に説得力を持たせるためだろう。オキでの静かな生活は長続きせず、やがてヴァンは「谺主」というワタリガラスに魂を乗せることのできる人物に呼び出されることになる。このあたりはかなりファンタジー色が強めで、ここだけ取り出せば現実味はない。しかし、オタワル医学の免疫系の知識や、オキでのトナカイ放牧など現実的な部分の描写をみっちりとやっているおかげで、不思議とこのファンタジー描写もこの世界ではあり得るものとすんなり受け入れることができる。

「錯覚資産」という概念がある。人はある能力が優れていると、その他の部分も優れていると錯覚されてしまうそうだ。これと同じように、フィクションにおいても生活や風習などの現実的な描写を丁寧に行うことで、ファンタジー色の強い部分も現実であるかのように錯覚できるのかもしれない。本業が文化人類学者である上橋菜穂子は、その職能を活かして作品内での人々の生活を見てきたように描いているが、それが作品全般に強い説得力を生む効果をもたらしている。ふたたび幸村誠の言葉を借りると、『鹿の王』は日常生活=あたりまえを描いているからこそ、非日常の世界の魅力もまた際立つ。

 

流れ行く者: 守り人短編集 (新潮文庫)

流れ行く者: 守り人短編集 (新潮文庫)

 

 

上橋菜穂子作品の大きな魅力のひとつに「架空世界における日常生活の描出力の見事さ」が挙げられると思います。

日常生活、つまり「あたりまえ」です。人々があたりまえの家に暮らし、あたりまえの仕事をし、あたりまえの物を食べる。囲炉裏の炎、カチの実の殻割り、鳥追い縄、父や兄の大きな背中。

ファンタジー小説においては省略されがちなそれら日常生活風景を、上橋菜穂子は丹念に描いてゆく。豊富な知識とアイデアが惜しみなく世界観の描写に投入されてゆく。例えるなら、城の土台の石垣作りです。土台がしっかりしていればこそ、その上にストーリーという立派な城を築くことができる。槍騎兵団が大地を駆け、密偵が跋扈し、精霊の大いなる力が様々な現象を引き起こすのも、この堅固な土台があったればこそです。

すでに多くのファンに認識されている上橋菜穂子作品の特徴です。しかしここでもう一度その日常描写力について述べさせていただくのは、この「あたりまえ」を活写する力が、取りも直さず「あたりまえから逸脱した者」を浮き彫りにする力でもあるからです。

(『流れ行く者』p294-295)

 

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「暴力が嫌い」いという価値観を描くには暴力に満ちた世界を描くべきだ、としてヴィンランド・サガを戦争の描写からはじめた幸村誠は、コントラストの効果をよく理解している。守り人シリーズバルサも、『鹿の王』のヴァンも、「あたりまえから逸脱した者」だ。逸脱のつらさ、過酷さを描くには、まず「あたりまえ」をきちんと描いておく必要がある。トマの一族とともにトナカイと飛鹿を育てる「あたりまえ」の生活を送っていたヴァンは、しかし獣に噛まれて「魂が裏返る」奇妙な力を身につけた逸脱者だ。ヴァンは宿命的に、「あたりまえ」に生きることができない。

 

黒狼熱の被害をふせぐため、獣に噛まれてなお生き残ったヴァンをホッサルは探している。下巻においてこの二人はついに出会い、会話を重ねることになるが、ここで二人は黒狼熱の秘密の核心にかなり迫ることになる。しだいに明かされる黒狼熱の発生する理由や、ヴァンの「魂が裏返る」現象の正体などは知的好奇心を強く呼び起こすものであり、しかも黒狼熱の発生にはそれぞれの民俗の風習が強くかかわっていることもわかってくる。ここにも、「あたりまえの生活」の描写が活きてくる。オキの民や火馬の民、そして東乎瑠国民などの「あたりまえの生活」が、黒狼熱の謎を解くカギとして一気に立ち上がってくるのだ。ここにおいて物語が立体的になり、読者はていねいに張られた伏線が回収される快感を味わえる。『鹿の王』は一種の医療ミステリとしても読むことができるのだ。

 

『鹿の王』は病気をテーマとしているだけに、死が身近な世界だ。黒熱病だけでなく、戦で命を落とすものも多い。この世界は現代社会よりもはるかに危険なのだ。それでも、やはり死は多くの人にとり非日常の出来事でもある。黒狼熱のように死に至る病に罹患することもまた、「あたりまえからの逸脱」だ。病と死を浮き彫りにするためには、対極にある「あたりまえの生活」をまず描いておかなくてはならない。3章の「トナカイの郷で」で描かれている静かで豊かな生活は、素朴な生命賛歌でもある。地に足の着いた生活を描くこの章はファンタジックな描写を際立たせるための章であると同時に、そうした平和な生活を根こそぎ破壊していく病の恐ろしさを心に刻みつけるためのものでもあるだろう。命の尊さを描くなら、その対極にある病と死も描かなくてはならない。それは、上橋菜穂子幸村誠のようなすぐれた創作者なら皆理解していることだ。

【感想】柳広司『二度読んだ本を三度読む』と「司馬史観」という枷

 

二度読んだ本を三度読む (岩波新書)

二度読んだ本を三度読む (岩波新書)

 

 

アニメ化もされた『ジョーカー・ゲーム』などが有名な柳広司さんの書評集。取り上げられている作品は『山月記』『カラマーゾフの兄弟』『夜間飛行』『竜馬がゆく』など有名作が多いので、柳さんをよく知らない人でも楽しく読めるはず。

 

この本、なにが面白いかというと、プロ作家ならではの視点が随所に盛り込まれているという点です。たとえば『山月記』についてのこうした見解などは、あまり他では見ないものです。

 

中島敦にとって、「山月記」は所謂”デビュー前(に書いた)作品”であり、感じが多く並ぶ本作が代表作と見なされているせいか、中島敦漢籍の素養を特別視する評論をよく見かける。が、小説家としてデビューするためには先行の作家たちとは異なる新機軸が必要なのは当たり前の話なので、その点をことさらに持ち上げ、賛嘆してみせる風潮はどうかと思う。取り上げるべきはむしろ、近代小説の流れに反して敢えて音読に向いた作品で勝負を挑んだ彼の心意気だろう。(p57)

 

プロの職業作家の目から見れば、漢文の素養を前面に出してくる中島敦の作風も、まずは「売るため」だというのです。柳さんはこの本の中で何度も「読まれない小説は紙くずでしかない」と書いているのですが、作家とはまず小説が売れなければ食べていけない商売であって、そのために作者がどう自分を売り出していったのか、という視点も作品を分析するうえでは欠かせないものだと気づかされます。

 

谷崎潤一郎の『細雪』の書評でも、柳さんは「どう売るか」という視点からこの作品について切り込んでいます。 

 

細雪』発表以前、谷崎は一部の読書人・好事家に熱狂的なファンを持ちつつも、批判者も多い、いわゆる「読者を選ぶ作家」だった。初期の作品は発表当時は「悪魔主義的」等と称され、いま読むとなるとなるほど”いかにも”な感じが鼻につく。尤も谷崎自身は「職業作家たるもの売り絵(読者に阿る作品)の一つや二つ、腹を括って書けなくてどうする」とどこかで嘯いていたはずなので、どぎつい作風は世に打って出るための戦略だったのだろう。新人作家が世に出るためにはまだ誰も試みていない作品を書き、かつそのことを声高に主張する必要がある。(p78) 

 

初期の谷崎作品の「悪魔的」な作風も、中島敦の中国古典を生かした作風同様に、これから新人作家が世に出ていくための戦略だった、というのです。この戦略は見事に成功しましたが、この作風を貫いている限り読者が限定されてしまうのも確かなので、『細雪』という格調高い作品を書くことで、谷崎は海外にまで広くファンを獲得することに成功したのです。

 

個人的に一番面白かったのが、柳さんの「司馬史観」についての見方です。この本では、『竜馬がゆく』が驚異的なベストセラーになったために、司馬遼太郎が流行作家から一気に国民的作家としての地位を獲得するに至った、と書かれているのですが、柳さんに言わせれば、「国民的作家」となったことがかえって司馬遼太郎に枷をはめることになってしまった、というのです。

 

小説家に歴史観・世界観があるのは当然なのだが、作品が世の中であまりに売れた・読まれたために、司馬遼太郎が作品内で提示する歴史観・世界観があたかも何か特別なことのように見做されるようになった。作者司馬遼太郎の思惑とは別なところでだ。(中略)

初期の司馬遼太郎は移ろいやすい流行を積極的に取り入れている。だが、「司馬史観」などと読者、マスコミ、果ては学者連中までが 言い出したことで、彼の作品や発言が必要以上に大真面目に取り上げられるようになった。

 

こうなっては、自由な執筆活動はむずかしくなってしまいます。柳さんが言うとおり、「小説とはバカにならなければ書けない」ものなのに、その一挙手一投足を「司馬史観」などと持ち上げられていては、下手に荒唐無稽な話など書けなくなる。

 

ペルシャの幻術師 (文春文庫)

ペルシャの幻術師 (文春文庫)

 

 

この本で書かれているように、実は司馬遼太郎という人はサブカルへの理解も深く、宮崎駿のアニメもいち早く評価していたのです。『ペルシャの幻術師』のような初期作品を読むとわかるとおり、一時は伝奇的な作品も書いていた司馬遼太郎ですが、巨大な名声の副産物としての「司馬史観」という枷がなければ、奔放な想像力を生かしてもっと自由に作品を書けていたのかもしれません。歴史学者が講演をすると「貴方のお話は司馬先生が言っていたことと違う」と年配の人から言われたりすることがあるそうですが、司馬遼太郎が権威に祭り上げられなければ、こんなことも起きなかったかもしれないのです。

 

いかに作家の歴史観が優れていようと、時代考証が正確であろうと、小説は中身が面白くなければ価値などありません。本書では、『竜馬がゆく』のことを「インテリ講談」と評しています。歴史観や史眼などよりも、まず「不世出の講談師」としての司馬遼太郎の力量をこそ、再評価しなくてはいけないのかもしれません。司馬遼太郎はまるで見てきたように歴史を描く魔性の筆を持っていたからこそ、時にかれの作品が史実と混同される事態を生むに至ったのです。

【感想】『ゼロから始める魔法の書 ゼロの傭兵(上)(下)』

 

  

 

『魔法使い黎明期』を読みはじめたので、先にこちらも読んでおくことにした。

10巻にわたって続いたゼロと傭兵の旅も、10巻にしてようやく終わった。

終戦の決着はわりとあっさりとついたし、ここでは派手なバトルも魔法戦も展開されることはなかったが、このシリーズはそういうものを見せるためのものではないのだろう。

今ふりかえれば、『ゼロから始める魔法の書』は、ずっと「属性や集団に対する偏見・憎悪をどう乗りこえるか」を書き続けてきたように思う。8巻から続いていたジェマとレイラントの確執が やがて和解へと至ったように、魔女や獣落ち、教会などが集団ごとに対立していた世界が、少しづつ変わっていっている。

共通の敵に立ち向かうためにゼロと騎士団は一時的に手を組み、騎士団のなかには魔法を覚えるものも出始める。生活を少しだけ便利にするために魔法を使うのは、本来ゼロが望んでいた在り方だ。しかしこの状況すらも、実は意図的につくり出されたものだった。魔女と教会の宿命的な対立を乗り越えるために払われた犠牲の大きさにくらべれば、得られた成果はまだごくささやかなものにすぎない。

 

9巻で語られているとおり、もともと魔女は教会と一体であって、魔女のなかにも正義の魔女と悪の魔女がいたに過ぎない。教会もそうであるように、結局ある特定の集団や属性が悪なのでなく、悪である特定の個人がいるだけだ。

しかし、魔女は強大な力を持ち、悪の魔女が白魔女を騙るため、教会側は魔女そのものを教会から切り離さなければならなくなった。良い魔女と悪い魔女の見分けがつかないので、魔女を皆まとめて狩り殺すという教会のやり方には一定の合理性がある。そして、それは魔女の側からみた人間も同じことだ。誰が魔女を迫害し、誰がしないのかを見分けることは容易ではない。だから、アルバスも最初は、魔女を殺された報復に村ひとつをまるごと焼き払うことを正当化していた。

 

「つまり──やったんだろ?報復だろうが何だろうが、村を一つ潰して村人全員を虐殺したんだろうが。だったら、何も悪いことなんかしてないって話にゃならねぇやな。大規模な魔女狩りが起こる原因を、この国の魔女達は確かに作ったわけだ」

「それは……!けど……じゃあ、殺されても黙ってればよかったって言うのかよ!」

「別にそうは言わねぇさ。だが、魔女を殺した報復に、村を一つ焼いたんだろ?たった一人の魔女に対して村一つ──なるほど、そいつぁ随分対等な報復だ」

「それは……だって……!」

「聞くがよ、坊主。死んだ村人全員が、赤ん坊にいたるまで魔女狩りに加担したのか?ただその村に住んでたってだけで報復の対象か。無実の村人はどうなる?たまたまいただけの村人は?それとも、ちゃんと選んで殺したのか?違うだろうよ」

「それは……!」

「無差別に村人を殺したお前らの報復が正当なんだってんなら、その報復に無差別に魔女を狩るのだって正当だろうよ。結果、はじまるのは報復のの報復で、つまり正当な戦争だ。魔女と、それ以外のな。発端が人間だろうと、魔女だろうと──小競り合いを戦争にした原因は<報復の狂宴>だ。お前ら魔女が戦争を起こしたんだよ。その事実は間違いねぇ」

ゼロから始める魔法の書1巻p84)

 

個人に対する憎悪を集団にまで拡大させることで戦争が起きる、と1巻の時点で傭兵は正確に認識している。魔女であれ獣落ちであれ教会の人間であれ、良いものもいれば悪いものもいるという当たり前の認識に立ち返らなければ、この状況を変えることはできない。

ある特定の集団への偏見の多くは、相手とじかに接することがないために起きる。つまり、対立している両者に無理やりにでも接点をつくれば、状況を改善できるかもしれないということである。ゼロの師匠は卓越した知性でその状況をつくり出し、その状況にゼロも傭兵も乗った。自分の意志でしたことではあるが、それでも二人は釈迦の掌の上で遊んでいた孫悟空のような存在だったかもしれない。

 

傭兵が一度人間に戻るものの、最終的にはまた獣落ちの身体を取りもどすことも、この作品全体からすれば大きな意味があるように思う。傭兵が人間に戻れば、偏見や悪意に悩まされることなく、堂々と料理人の仕事につくことができる。しかし、本来この世界のあるべき姿は、魔女や獣落ちや教会の人間、そしてただの庶民が共存できるようになることだ。

傭兵は必ずしも善人というわけではないし、時には暴力をふるうこともある。しかし、傭兵は特定の集団を敵とみなしているわけではなく、あくまで敵とみなした個人と戦うだけだ。この世界は善意に満ち溢れているわけではなく、個人間のいさかいも暴力もなくなりはしない。だが、それを魔女狩りのようなレベルにまで拡大させてはいけない、という共通了解がまずは必要なのだ。まだまだ課題は多く残っているものの、10巻を費やしてこの物語はようやくそこにまでたどり着いた。

 

すべてが仕組まれていたことだったからには、ゼロの師匠も本当のラスボスとはいえない。本当の敵はもっと身近にいる凡庸な存在だ。たとえばオルルクスのように、魔女と教会側の相互理解をはばもうとする者こそが、この世界の本当の敵なのだ。魔女は恐ろしく獣落ちは汚らわしい、そういうステロタイプな他者理解に、人は簡単に落ち込む。そういう安易な見方に流されないからこそ、傭兵はこの物語の主人公になる資格があった。これは、獣落ちでも普通の子同様に扱ってくれた両親の影響も大きいだろう。そして、ゼロや神父やリーリもまたそのような偏見からは自由だった。頑迷なレイラントですら、最終的には魔女を認めるに至った。多くの集団や属性のものが、少しづつ融和の方向性へと向かっている。何しろこの世界には、悪魔である禁書館の館長すら存在を許されているのだから。

 

10巻にして、故郷の村で酒屋を営むという傭兵の長年の夢が、ようやく実現した。本来当たり前のようにあるべきだった世界が、ようやく小さな村のなかにあらわれた。この当たり前の光景の中にゼロや神父までもが存在するということがどれほど奇跡的なことか、今まで読み継いできた人にはよくわかるはずだ。『魔法使い黎明期』でも書かれているとおり、まだウェニアスでは多くの対立の火種がくすぶっているのだが、それでもかりそめの平和がここで実現したことの意味は大きい。平凡であたりまえな生活こそが、傭兵が望んでも得られなかったものだからだ。獣落ちが獣落ちのままこの生活を送れてこそ、この平和の意味も大きなものになるのだろう。

 

【感想】虎走かける『魔法使い黎明期 劣等生と杖の魔女』

 

 

ゼロから始める魔法の書』と世界観を同じくする新作……というよりは続編ですね、これは。

これから読んでも普通に読めると思いますが、獣落ちだとか「女神の浄化」だとかゼロの書の扱いだとか、この世界独特の魔法の在り方だとか、なにかと設定が多い作品なので、ゼロ書を先に読んでいたほうがこの世界に入りやすいだろうとは思います。

主人公は傭兵&ゼロのコンビから魔法学校の落ちこぼれのセービル君に代わってますが、ゼロ書のキャラもかなりたくさん出てくるので、そう言う点でも前作を先に読んでおいたほうが楽しみが増すはず。

何しろ序盤からアルバスがウェニアス王立魔法学校の学長として登場するので。

というかアルバス、いつの間にか巨乳になっているのが何気に衝撃だ。これはあれか、ソーレナの血なのか。

ホルデムがあいかわらず小物扱いなのは前作と変わってませんが。

 

今回の物語の鍵となる人物は、セービルの引率役を引き受ける御年300歳オーバーの魔女ロー・クリスタス(ロス)。

世間知らずで超然とした態度を崩さなかったゼロに対し、わがままで旅慣れていて、それでいて「娯楽のために」良心的な指導者役を果たすこともある、いわばメンター的な存在であるわけですが、その魅力の半分くらいはロスがのじゃロリである点にあります。

見た目は幼女、中身は老婆、でもって面倒見はよい。

退屈が嫌いで楽しむことが生きがいで、ときどき本当に子供っぽいふるまいをすることがあるものの、要所要所では長年生きている貫録をみせつけつつちゃんと助けてくれる、そのギャップが魅力的。

ドラクエ11のベロニカの中身をさらにずっと年上にしたような感じでしょうか。これはロリババア好きな人にとってはたまらないキャラでしょうね。

長く生きている分だけ経験豊富だし、まだまだ未熟なセービル一にとり、これ以上の指導者はいないわけです。

ゼロとの共通点は、平気で人前で裸になることくらいか……やはり魔女はいろいろと常識が壊れている。

 

脇を固めるキャラクターも魅力的で、セービルと一緒に特別実習に挑むことになる元気少女のホルトとトカゲの獣落ちのクドーは二人とも有能な魔法使いですが、このシリーズらしくかなりダークな過去を抱えていて、そのあたりをどう克服し乗り越えていくのかもこの巻の見どころ。

ゼロ書シリーズでは傭兵がある程度成熟したキャラでしたが、今回主人公と仲間がかなり若くなったので、魔法学校の生徒たちの成長も物語の構成要素のひとつになると思われます。

 

ゼロ書における「北の災厄」も終わり、落ち着きを取りもどしつつあるウェニアス王国ですが、それでも南部にはまだ魔女に偏見を持つ住民も少なくなく、平穏には程遠い状況なわけで、そんな世界でセービルとロス一行は魔法学校の「特別実習」が行われる村まで旅をすることになります。

なので、やはり敵役も出てくるわけで、それが今回は「女神の浄化」の裁定官。

ゼロ書の神父とは違って殺戮が大好きなタイプですね。

この裁定官との戦いでホルトやクドーの能力が明らかになってきますが、注目すべきはトカゲの獣落ちであるクドーの高い再生能力。

手足を潰されてもまた生えてくる上に、クドーは守護の章の魔法が得意なので、この能力が将来的に実習の行われる村で生かされることになりそうです。

ホルトの抱える闇もこの辺りから見えてきて、やはりこれはゼロ書の続編なんだなぁ、と思うところ。ただ能天気で明るいだけのキャラはこの作品にはいない。

 

そして、この戦いではやはりセービルがただのただの劣等生ではなかったこともわかってきます。彼の抱える秘密は完全にチート級の能力で、ただし扱いが難しい。暴走させたら魔女及び魔法使いへの偏見が偏見でなくなる。やはり魔法は危険だということになってしまう。ほんとこれ、下手すると世界を滅ぼしかねないのよね……

この能力も2巻以降で生きてくるでしょうが、制御するには魔法の技術と精神の両方が

成長することが必要なので、そのあたりもいずれ描かれることになるかと思います。

 

物語後半ではゼロや傭兵、神父が出てきた時点である程度結末は読めるかもしれませんが、それでもやっぱり懐かしい面子に会えるのは嬉しさがあるんですよねえ。

「敵」として対峙した場合のゼロの怖さ、新鮮味があっていい。

ゼロや傭兵が決定的に残酷なことをするはずがない、とわかってはいても。

 

しかしまぁ、最後に明かされるセブ君の出生の秘密は衝撃的ですよ。

あの人がまさか、子供を持つことになるとはねぇ。

さすがにそこに至る経緯は普通の人間とは全然違いますが。

 

全体としてダークな話も多かったゼロ書にくらべ、この『魔法使い黎明期』はこれから魔法の存在する世界を育てていく、という、どちらかというと先に希望が見える感じのストーリーなので、ゼロ書シリーズほど重い気分になることなく読めました。

とはいえ、今後の展開がどうなるかはまだ未知数なのですが。

コミカライズも決定したし、ぜひこのまま巻数を重ねてアニメ化まで行ってほしいものです。

 

【感想】宮西真冬『友達未遂』の圧倒的な「負の人間描写」の上手さに震えた

 

友達未遂

友達未遂

 

 

一読し、「人間が書けているとはこういうことだ」と強く思った。

全寮制の星華高等学校を舞台に四人の少女たちが織り成す人間模様には、圧倒的なリアリティがある。

彼女たちの存在がリアルに感じられるのは、この年頃の人間の抱えがちな執着や葛藤、コンプレックスなどの負の部分がていねいに書かれているからだ。

 

3年生が1年生とペアを組み、先輩が後輩の面倒を見る「マザー制度」が存在する星華高等学校を舞台にストーリーは展開するが、この小説では『マリア様がみてる』のような百合っぽい関係性はまったく描かれない。代わりに力が入っているのは競争意識や嫉妬、劣等感などの描写だ。といって、どろどろした話というわけではない。この4人は互いにいがみ合っているわけではなく、もっと複雑で微妙な関係性にある。それぞれの抱える負の感情がこの関係性を作り上げているのだが、四人の抱えている事情が事情なだけに、読者はいやおうなくこの物語に引き込まれることになる。

 

母に捨てられ孤独を抱える一ノ瀬茜、学校一の優等生の仮面を捨てられず苦しむ緑川桜子、さばさばしているように見えるが絵に自信を失いつつある大島千尋、そしてある人物への復讐のために星華へ入学してきた星野真琴。この4人の抱える事情はどれも読者が共感しやすいもので、ときに正しくない行動に出たり、暴走したりする彼女たちの心中が手に取るようにわかるように書かれている。

4章まではこの4人の視点が次々と入れかわり、それぞれを主人公とした連作短編のような構成になっているが、5章に入るとこの4人の関係性は意外な化学反応を起こす。物語は急展開し、緊迫する事態に読者は息を呑むだろう。そして最後に待っているのは、光景が目に浮かぶほどの美しいラストシーンだ。一人一人の抱える痛みの描写が生々しいので、読んでいる途中は感情移入して少々つらくなるかもしれないが、最後まで読めばきっとすがすがしい読後感が得られるだろう。

 

「人間がよく書けている」と最初に書いたが、どうすれば人間がよく書けていることになるだろうか、とこの作品を読んでいる間、ずっと考えていた。

リアルな人間を書くには、まず人間の負の部分をきちんと書く必要があるのだ、とこの作品を読んでいて感じた。正の部分だけを書いていると、人格に奥行きが出ない。しかし、ただ悪い人間を出せばいい、という話でもない。ある人間が正しくない行為をするのはその人が悪人だからだ、では人間描写としては薄っぺらい。これではただ正しい人間を裏返しただけだ。

 

つまり、マイナスなことを考えたり、悪い行為をする人間が出てくる必要があるが、なぜそうするのかという動機の部分に納得感がなければいけない。その点、『友達未遂』は実に巧みだ。たとえば一章の主人公である一ノ瀬茜は(表向きは)天使のようにやさしい緑川桜子に憎しみにも近い感情を抱くが、それは彼女が両親に恵まれていないからだ。

不幸な自分に比べ、桜子は優しい両親も、容姿も経済力も何もかも持っているように思える。他人に優しくできるのも、そうした余裕のあらわれだ、と見えてしまう。自分に良くしてくれる先輩をねたむのは正しくないが、その「正しくなさ」は読者にも十分納得できるものだ。

茜の自己評価の低さを示すエピソードも上手い。ある日、茜は机の引き出しに「死ね」と書かれた手紙を見つけてしまうのだが、彼女はここで怒ったり悲しんだりするのでなく、むしろ安心してしまう。桜子のような学園のアイドルが自分なんかに優しくしてくれるほうが異常事態だ、と彼女は思っているからだ。茜からすれば、ストレートな悪意を受け取るほうが、むしろ普通なのだ。

 

二章に入ると、今度は茜には完璧な美少女と思われていた緑川桜子の仮面が剥がされていくことになる。桜子の母親は「星華のマドンナ」と言われていた伝説の先輩で、それだけに娘の桜子にも完璧な星華生であることを強いる。

この過干渉な母親の負のパワーも相当なもので、母校を卒業してずいぶん経つのにかつてのチャイルド(マザーとペアになる一年生)だった親友の交友関係にまで口を出し、星華出身の人間としか付きあうなと言うほどに支配欲が強い。そのくせ茜の血筋がよくないことを知ると、彼女の前では「純血(代々星華を卒業している家系)でなくても優しくしてあげないと」と心にもないことを言ってのける偽善者でもある。こんな人物が母親ではたまらないだろう。主人公四人のなかでは、桜子の闇が一番深いかもしれない。

桜子は母親を嫌いつつも、いつしか母と同じように優等生の仮面をまとって生きてしまっている。学校では星華のマドンナの娘として見られ、皆が期待する自分を演じてしまっているのだ。家庭でも母の理想像を押し付けられるから、桜子が素の自分に戻れる場所はどこにもない。やがて過大なストレスから、彼女はあるショッキングな行動に出てしまう。これなども、その行動だけを取り上げてみれば皆から非難される行為だ。しかし桜子の受けている抑圧のひどさを読者はわかっているので、これを責める気にはなれないだろう。負の人間描写をきっちりすることで、読者は作中人物と同じ視点に立つことができ、その「正しくなさ」を受け入れられるようになる。

 

常に優等生を演じている桜子からすると、友人の大島千尋はいつも堂々として、素の自分で生きているように見える。しかし三章に入ると、彼女にもまた彼女なりに葛藤を抱えていることがわかってくる。この章は他の章ほど重くはなく、わりとストレートな青春小説の趣があるが、それでも田舎町独特の閉鎖性や外見と内面のギャップ、そして自分をはるかに凌駕する本物の天才、すなわち星野真琴に出会ってしまったことの苦しさなど、やはりここでも負の一面はきちんと描かれている。心の底から澄み切った人物は、この小説には一人も出てこない。

 

四章に入ると、今度は千尋には天才に見えていた星野真琴の新たな一面が描かれることになる。真琴の抱える闇もなかなかに深い。いや、真琴がというより彼女の姉の事情が重い。もともと星華に通っていたが、不登校になってしまった姉の「復讐」のため、真琴は絵画の腕を一身に磨き、星華の美術工芸コースに入学してくる。

真琴は正義感が強いのだが、10代らしくその正義は狭いものだ。志は正しいとしても、やっていることは間違っている。だが、姉の事情を知ってしまうと彼女の行動にもまた納得してしまう。真琴はこの物語のキーマンでもあり、最終章に至るまでストーリーをけん引していくのは彼女の正義感なのだが、この「正義」のゆきつくところがどこなのか、ぜひこの小説を手に取って確かめてみてほしい。結末はここでは言えないが、これが四人の挫折と成長を真正面から描く、きわめてまっとうな青春小説であることがよくわかるだろう。

 

digital.asahi.com

 

この記事によると、『友達未遂』はメフィスト賞への初投稿作で、受賞は逃したが編集者の勧めで改稿を重ねていたそうだ。著者の宮西真冬がメフィスト賞を受賞したのは『誰かが見ている』だったが、『友達未遂』が最初からこの完成度だったらこちらが受賞していたかもしれない。

【書評】岩波シリーズアメリカ合衆国史1『植民地から建国へ』

 

植民地から建国へ 19世紀初頭まで (岩波新書)

植民地から建国へ 19世紀初頭まで (岩波新書)

 

 

岩波新書から「シリーズアメリカ合衆国史」シリーズの刊行が始まりましたが、これはその1冊目になります。シリーズは全4巻で構成され、次巻以降は『南北戦争の時代』『20世紀アメリカニズムの夢』『グローバル時代のアメリカ冷戦時代から21世紀』と続く予定。

次巻の『南北戦争の時代』は今月発売されます。

 

 2巻の著者は『移民国家アメリカの歴史』の貴堂嘉之氏なので内容にはかなり期待できそうです。

南北戦争の時代 19世紀

南北戦争の時代 19世紀

 

 

シリーズ1巻目となる『植民地から建国へ』では先史時代からアメリカ先住民の歴史と文化をひととおり解説したのち、イギリス人の入植と13植民地の建設、そして独立戦争をへてアメリカ合衆国が建国される19世紀初頭までを描いています。

この巻は著者が『砂糖の世界史』を書いた川北稔氏の指導を受けているだけあって、初期のアメリカ史を大西洋史の中に位置づけ、植民地とイギリス本国の間でのヒト・モノ・カネの移動にかなりの紙幅を割いています。先住民の文化や黒人奴隷への言及は少なめですが、ページ数の関係上仕方ないところでしょうか。

 

まず1章「近世大西洋世界の形成」では先住民の歴史と文化について簡単にふれられていますが、ミシシッピ川流域では「マウンド(墳丘)」が数多く建設され、やがて神殿マウンドを中心とした都市が形成されたことが書かれています。この都市は数万人を擁する大規模なもので、タバコやトウモロコシの交易で一時期かなり繁栄したそうですが、個人的にはここはもう少し詳しく知りたかったところ。とはいえこれは英米関係を主軸にアメリカ史を書く本なので、先住民文化については別の本で補うしかないでしょう。

 

第2章では、ヒト・モノ・カネの移動についてやや詳しく書かれています。ヒトの移動についてみてみると、アメリカ植民地に移り住んだのは自由移民と年季奉公人、そして流刑囚の3種類に分かれます。自由移民は宗教的要因や経済的要因で、年季奉公人は都市で職にあぶれた下層の若者が職を求めてアメリカにわたっています。独身の年季契約奉公人が多かった南部植民地と家族単位での移住が多かったニューイングランド植民地、その中間の中部植民地など植民地のありようも一様ではないものの、おおむねどの地域でも順調な人口増が起きていて、これが植民地の発展を支えています。

黒人はもともと年季奉公契約人の減少を補うために用いられていましたが、しだいに終身の年季を規定された奴隷身分へと固定されていきます。そしてアメリカ先住民は白人の持ちこんだ火器により部族対立が助長され、先住民が酒を好んだためにこれと交換するため先住民同士での奴隷狩りがおこなわれたことにもふれられています。白人の持ちこんだ文化は先住民の社会を大きく変えてしまいました。

 

モノについては植民地の商品として砂糖やタバコ、とくにタバコは国際競争力を持つ商品だったことが解説されています。また史料としての財産目録から、18世紀までに「消費革命」が進行して喫茶の習慣や砂糖の消費、ジョージ王朝式建築の導入など、植民地の生活がイギリス化していたことも強調されています。イギリス本国と植民地は消費活動を通じて緊密な関係を保っており、経済的には植民地はイギリス帝国を支える一大市場でした。

 

こうした社会の変化をへてアメリカ植民地は独立戦争へと至りますが、実はアメリカ人は同時にイギリス人としてのアイデンティティも強く持っていました。七年戦争アメリカに飛び火して起きたフレンチ・インディアン戦争ではワシントンの活躍もあり、最終的にはイギリスがフランスに勝利しましたが、この時点ではむしろ植民地のイギリス人意識が高まっています。ベンジャミン・フランクリンなどは一時は植民地にイギリスの首都を移すべきと論じるほど、骨の髄までイギリス人でした。

しかし、皮肉にもイギリスと植民地の共通の敵だったフランスの脅威がのぞかれたことで、イギリスが植民地への規制を強めることができるようになりました。植民地人はアパラチア山脈を越えて移動することを制限され、砂糖法や通貨法が制定されて経済的負担も増えてしまったのです。これらの政策が植民地人の不満を高め、アメリカ独立革命への下地を作っていくことになります。

しかし、独立戦争がはじまっても最初は植民地も一枚岩ではなく、独立を支持する愛国派とイギリス王に忠誠を誓う忠誠派、 そしてどちらとも決めかねている人々の三者にわかれていました。ここで、かつては一致していた「アメリカ人」と「イギリス人」のアイデンティティは引き裂かれることになり、植民地人はこのどちらか一方を選ばなくてはいけないことになりました。

 

アメリカとイギリスの間で揺れていた人々に大きな影響力を与えたのがトマス・ペインの著書『コモン・センス』だったことはよく知られていますが、本書によると大陸会議が独立へ踏み切ったのはイギリスが軍事的攻勢を強めたから、という要因も大きいようです。情勢が緊迫するなか、トマス・ジェファソンの独立宣言文が出されていますが、この宣言の草案には「捕まえて、別の半球に運んで奴隷とし、また運ぶ途中、悲惨な死をもたらした」などイギリスの奴隷貿易を非難する文言が含まれていることが注目されます。しかしこの文言は、南部諸州への配慮のため最終的に削除されてしまいました。アメリカの奴隷解放は、次巻のタイトルでもある南北戦争終結を待たなくてはいけません。

 

独立戦争が終わり、この戦争が神話化されていくエピソードも興味深いものがあります。星条旗をデザインし、これをワシントンの前で織り上げてみせたベッツィ・ロスは政治家や軍人を除けば、南北戦争以前のアメリカ史ではもっとも有名な人物です。しかし、実はこの伝説が初めて登場するのはアメリカ独立から100年後のフィラデルフィアにおいてであり、後世につくられた物語であることが指摘されています。ベッツィは国旗の聖化により生みだされた政治的団結の象徴であり、ワシントンが父なる神であるとすれば聖母マリアにも等しい存在だと説かれています。事実、ワイスガーバーの描いた「我らが国旗の誕生」という絵にはベッツィを囲む三人の男性が聖画における東方三博士のように描かれていて、ベッツィが胸に抱く星条旗は幼いキリストを象徴しているのです。ベッツィの伝説はウィルソン大統領にもその信憑性を否定されているにもかかわらず、文化的アイコンとして存在し続けているのです。歴史の神話化を物語る一例として記憶しておきたい話です。