明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

蝦夷の領域に築かれた最北端の古代城柵・秋田城を訪ねる

秋田市の秋田城跡と資料館を訪ねてきた。写真は昨年10月に撮ったもの。

 

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秋田城の歴史は古く、733年に出羽柵が建設され、760年に秋田城と改称されている。

ここには復元された秋田城の城壁含め、当時の政庁そのものが公園の中に含まれている。

秋田城は軍事施設であり、行政機関でもあったといわれるが、この城壁は役所の外壁といった印象が強い。秋田城は蝦夷の饗応の場であったともいわれるが、蝦夷もこの門をくぐっただろうか

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壁の向こうの高清水公園は市民の憩いの場となっている

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資料館と城壁との間には、政庁のミニチュアが飾られている

 

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この場所には秋田場内を東西につらぬく大路があった。小規模であっても大路というあたり、京文化をこの地に持ち込んだという意識があったということだろうか

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 秋田城に用いられた瓦。瓦はこの時代、ごく限られた施設にしか使われていない。律令国家の威厳を示すために瓦が用いられたようだが、当時秋田城は日本最北の瓦葺き施設だった

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資料館内の展示物は自由に撮影でできる。これは周囲から出土した土器や皿。

近づいてみると細かい破片が一個の土器につなぎ合わされている。学芸員にはパズル職人の能力も必要とされる

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古代の秋田は今以上に雪深かったと思われる。スコップの形が今のものとほぼ同じなのは興味深い

 

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秋田城の兵士の鎧(非鉄製小札甲)。平安時代の防具は戦国時代のものとくらべかなりてシンプルに見える。徴兵された民が身につけるものなら、戦国武将のように自己アピールのためには用いられず没個性的なものとなる

 

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この刀は元慶の乱で用いられたものだろうか。秋田城が蝦夷に攻められたのは、飢饉に苛政が重なったせいらしい

 

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秋田城は北方の辺境の城と思われがちだが、実は北海道の蝦夷を通じてオホーツク文化とも交流があり、しかも渤海使節がここを訪れたとも考えられている。水洗トイレなど古代の最先端技術が用いられているのも、外交使節をもてなすための施設だったからかもしれない

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秋田城のトイレからは、豚を食べる人の感染する寄生虫の卵も発見されている。この時代、日本人は豚を食べないので渤海人がここで豚を食べた可能性がある。渤海ツングース系民族の国ともいわれるが、ツングースという言葉はテュルク語の「豚」に由来するという説がある。なお、オホーツク人も豚を飼育していた

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資料館側の城壁周辺は広々としていて、散策すると政庁の広さを想像できる。右手に見えるのが政庁のミニチュアの展示

 

 

秋田城跡歴史資料館は一般入館が200円。展示はかなり充実しているので、秋田城を訪れたらぜひ立ち寄ってみてほしい。



 

伊東潤『敗者烈伝』における明智光秀の評価

 

敗者烈伝 (実業之日本社文庫)

敗者烈伝 (実業之日本社文庫)

 

 

「汁二杯」のエピソードのせいでどうしても良いイメージを持たれない北条氏政だが、この本においては意外と評価が高い。上杉謙信との間に結ばれた越相同盟を解消し、再び震源と同盟を結んだため氏政は謙信を関東から撤退させ、武蔵・下総の完全領有を達成できた。氏政には大局観があったのだ。

 

城郭ネットワークを強化し、小田原城周辺に惣構を構築したことも評価されている。商人町や農地を城郭の中に取り込む建築は、領民の生活ごと城を守るという意思の表れらしい。領国統治に力を入れるという早雲以来の方針を、氏政も受けついでいる。氏康や家康のような果断さは欠いていたと書かれているが、氏政もそれなりの人物だったとみるべきだろうか。北条氏照や氏邦などに領国統治や軍事指揮権を委任し、北条家という大組織を運営していた手腕はもっと評価されていいかもしれない。

 

なお、明智光秀については「白と黒の二面性を持つ」と評価しつつも、「黒光秀」の面がまさっているという評価。「裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷」というフロイスの記述を肯定する立場だ。実際、光秀は比叡山の焼き討ちを率先して進めたという一面がある。光秀をよい人と評価する人は家臣や領民への配慮をその証拠として挙げるが、磯田道史の言葉を借りれば、光秀は「近親者利益最大化主義者」あたりが妥当な評価になるだろうか。黒と白を整合させるなら、光秀は味方には優しく敵には容赦がなかったとするしかない。 

 

saavedra.hatenablog.com

 

ちなみに、こちらは「白光秀」のエピソード。『老人雑話』の内容はどれほど信じていいものか。

【感想】鴻上尚史『「空気」を読んでも従わない』と小声で歌う"This is me"

 

 

先日、ユーチューブで『グレイテスト・ショーマン』の劇中歌"This is me"の動画を観ていた。なんど聴いてもすばらしい歌だ。バーナムの集めたフリークスたちが敵意に満ちた群衆を前に全身全霊で歌いあげるこの曲は、まさに人間賛歌というにふさわしい。長く映画史に残るであろう名曲だ。

 

グレイテスト・ショーマン』を観終えたとき、その余韻に浸りつつ、なぜ日本にはここまで高らかに人間を肯定する作品が少ないのだろう、と思っていた。いや、日本にだって人間賛歌を歌いあげる作品ならいくらもある。ただ日本人の場合、それが"This is me"という形はとらない。自分自身を強く前面には出さない。日本人の自己肯定はもっと控えめなものだ。それは鴻上尚史が本書で説いているとおり、日本人が「世間」というものを深く内面化しているからなのだろう。

 

saavedra.hatenablog.com

 

本書『「空気」を読んでも従わない』で分析されているとおり、多くの日本人は「中途半端に壊れた世間」の中に生きている。この認識が、鴻上尚史の人生相談のバックボーンになっている。鴻上尚史に寄せられる悩みには、「世間」そのものがラスボスであるものが少なくない。たとえば「うつ病の妹を精神科に通わせたいが、人目が悪いと親が反対している」「帰国子女の娘が学校に派手な服を着ていったらいじめられた」といったものである。

こうした悩みに答えるには、まず「世間」のしくみを知らなくてはならない。息苦しい「世間」を少しでも楽に生き抜くために、まずは世間がどんなルールで動いているかを知る必要がある。鴻上尚史はこの本で世間の5つのルールを解説している。それは以下の5つ。

 

1.年上がえらい

2.「同じ時間」を生きることが大切

3.贈り物が大切

4.仲間外れを作る

5.ミステリアス

 

 5.の「ミステリアス」とはなぜそのルールがあるのか理由がわからないということだが、1~4については多くの人が納得できるものではないだろうか。

3.の「贈り物が大切」について、私はブログ界の「あいさつ文化圏」を思い出した。この界隈の人たちは、ブログを読んでもらったらこちらからも読みにいかないと失礼だと考える。ブクマをもらったらブクマを、スターをもらったらスターを付け返す。そうしなければ失礼と考えているからだろう。

私の中にはそんなルールはないが、これは私がブログは「世間」の外にあるものと考えているからだ。だがおそらく「あいさつ文化圏」の人たちは、世間のルールをそのままブログ内に持ち込み、互いに贈り物を送りあっている。その様子が「互助会」だと批判されることもあるが、これはブログを世間そのものと考える人と、ブログと世間を分ける人とのあいだの文化摩擦だ。日本が日本である以上、いつしかブログの世界も「世間」に飲みこまれていく。これも避けられない流れなのか。

 

世間は人に同調圧力をかけるので、どうしても世間に生きる者は人の顔色をうかがわなくてはならず、自分を肯定する力が弱くなる。この空気の中では、私が私であるだけでかけがえのない価値があるのだ、などとは考えられないからだ。だから鴻上尚史がこの本で指摘しているとおり、日本人の自尊感情は諸外国と比べてとても低くなる。鴻上尚史の人生相談は優しいといわれるが、それは本人の人柄もあるだろうけど、それ以上に日本人の低い自尊感情に配慮している面が大きいのではないか。ただでさえ悩んでいる人は自尊感情を損なわれてしまいがちなのだから。 

世間の力はとても強力なので、鴻上尚史はこれと正面切って戦うことはすすめない。そのかわり、ささやかな抵抗をすることを提案している。たとえばこんな具合である。

 

僕は、この戦いに勝つのは簡単ではないと言いました。

そして、地味な服で登校することをアドバイスしました。

ただし、娘さんに、「今、あなたはいじめっ子ではなく、『日本』と戦っているんだ」と伝えて欲しいと言いました。

そして、「いじめに負けたから、地味な服を着るのではなく、やがて勝つために地味な服を着るんだ」とも伝えて欲しいと。

(中略)

地味な服の彼女を見て、クラスという「世間」は、やっと自分たちの仲間になったと思うでしょう。

でも、家に戻って、友達と遊ぶ時は、着たい服を着るのです。塾に行く時も、同じです。学校以外の場所では、娘さんが着たい派手な服を自由に着るのです。

彼女の親しい友達なら、文句を言うことはないでしょう。塾も、自由な雰囲気の所なら、誰も彼女を問題にしないでしょう。

やがて、一緒に遊ぶ友達が「その服、おしゃれでいいね。私もそんな格好してみたい」と思ってくれたり、言ってくれたりしたら、一歩前進です。

そうやって、クラスで負けて、他の所で勝つのです。

 

これは「帰国子女の娘が学校に派手な服を着ていったらいじめられた」という相談に対するアドバイスだ。全力で世間と戦っても潰されるから小声で"This is me"とつぶやけ、というのである。こういう小さな戦いで勝利を積み重ねることがやがてこの国の大きな「世間」を揺さぶり、変えていくのだと鴻上尚史はいっている。彼は決して無謀な精神論を説いたり、できもしない非現実的なアドバイスはしない。相談者の立場にできるだけ寄り添い、読んでいる人にも実行できそうな提案で希望を見せるからこそ、鴻上尚史の人生相談は評判になっている。

中途半端に壊れているとはいえ、こうした「世間」との付きあい方を指南する人生相談が求められている日本は、まだまだ「世間」の圧力の強い社会といえそうだ。この本で著者は、いずれ日本が帰国子女の女の子がおしゃれをしてもいじめられない国になるため、できることをしようと思っている、と書いている。世間の圧力が薄れ、日本人の自尊感情がもっと高まれば、このような本も読まれなくなるだろうか。鴻上尚史が必要とされているうちは、まだまだ日本は"This is me"といえない社会だ、ということでもある。

 

【感想】テッド・チャン『息吹』をSFに苦手意識のある私が読んでみた結果

 

息吹

息吹

 

 

テッド・チャン『息吹』は発売直後から絶賛されているが、私みたいにSFが得意とはいえない読者にもちゃんと読めるのだろうか?と気になっていた。海外SFを読んでいると何か格好がつきそうだという見栄はあるものの、私は科学に弱くて、SFには多少苦手意識がある。具体的には以下のような感じ。

 

・ふだん読む小説は歴史時代小説・ファンタジーが中心

・SF遍歴は小川一水山本弘、ケン・リュウ上田 早夕里、ダン・シモンズなどをそれぞれ数冊読んだ程度

・物理や化学は苦手

・生物学や進化論には多少興味があるが、よくわからない

・イーガン作品や三体は挫折した

伊藤計劃作品も挫折した

・『オブリビオン』『楽園追放』みたいな映画は好き

・お気に入りのSF小説は『オリンポスの郵便ポスト(ラノベ)』

 

というわけで、SF読みとしては相当浅い。こういう人でも楽しめるなら、『息吹』はかなり広い範囲の人にも楽しめるのではないかと思うので、ひととおり読んでみることにした。なお、私は『あなたの人生の物語』は読んでいない。

それでは以下、短編ごとに寸評を書いていく。

 

・商人と錬金術師の門

 

中世のバグダッドを舞台に展開する物語。主人公が錬金術師に紹介された、20年後の未来と過去を行き来できる門が物語の鍵となっている。錬金術師が主人公に教えてくれた「幸福な縄ないの物語」「自分自身から盗んだ織工の物語」「妻とその愛人の物語」はそれぞれ寓話の雰囲気を持つ話だが、どれも過去と未来が互いに影響し合う巧みなストーリーで独立した小説としても楽しめる。彼らが見聞きした未来は必ずしも今の自分が望んだ未来ではないのだが、それでも未来はそうなるべくしてなっている、という深い理解を彼らは得ることになる。3つの不思議なストーリーを味わったのち、主人公は過去に旅立つことになる。

実はこの話における「門」は過去と未来を行き来できるが、過去や未来を変えることはできない。主人公は不幸な過去を持ちトラウマを負っているが、この過去自体は変えることができないのだ。では、主人公はなんのために過去へ旅立つのか。それは、過去の受け止め方を変えるためだ。20年前に旅立った主人公が過去で行ったことは、読む者の胸に深い余韻を残す。SFというよりはすこしふしぎテイストの強い話だが、楽しんで読んでいるうちに最後は人生いかに生くべきか、後悔せずに生きるには、という深いテーマにまで導いてくれる名作だった。これならSFが苦手な人でも楽しめるだろう。

 

・息吹

 

毎日空気を満たした二個の肺を交換しつつ生きるロボットが、ある出来事をきっかけに自らの脳を解剖し、はては世界の秘密をも知ってしまうというストーリー。ロボット世界の解剖学における「銘刻仮説」(=個人の経験が金箔シートに刻まれているというもの)をおもしろく感じるものの、私が機械に弱いのでこのストーリーを十分に楽しめていない可能性はある。この世界における空気が機械に及ぼす影響が、今ひとつ飲みこめていないからだ。

とはいえ、このストーリーで明らかになる世界のしくみそのものは興味深いもので、SF好きな人はこういうところにセンスオブワンダーというのを感じるのかな、と思うところではある。こうして一つの完成された世界を作れるチャンの想像力には驚かされる。広い宇宙のどこかにはこんな文明だってあるかもしれず、いずれこの物語のように誰かに発見されるのを待っているかもしれない。表題作にふさわしい、SFらしいSFだった。

 

・予期される未来

 

「負の時間遅延」を起こす回路を搭載した「予言機」の発明により、自由意志が存在しないことがわかってしまった未来の話。この機械を前にすると、人はどうやってもライトが光る前にボタンを押すことができない。どんなに工夫しても予言機の裏をかくことができないと知った人間はどうなるのか。この作品のように、「無動無言症」を発症してしまうだろうか。最先端の脳科学では自由意志は存在せず、自由否定しかないといわれていると聞いたことがあるが、私はそんなものか、と思った程度だった。

正直、自由意志が存在しないと判明したとしても、人間のすることがそれほど変わるとは思えない。とはいえ、本作の「予言機」のようなもので自由意志を明らかに否定されてしまうと、やはりショックを受ける人も多いだろうか。私がこの作品を読んでいるのも、あらかじめ決まっていたことなのか。掌編ではあるものの、いろいろなことを考えさせられた。

 

・ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル

 

全9編中最も長いストーリー。タイトル通り、「ディジエント」という人工知能を搭載したデジタルペットのライフサイクルを語っているストーリーなのだが、ディジェンドと長くかかわっていくうち、人々がディジエントを実在の生物と同じように扱うようになっていくのがおもしろい。ディジエントの開発には元動物園トレーナーのアナもかかわっているせいか、その挙動は人間の予想をはるかに超えていて、わがままになりすぎてユーザーの手を焼くこともある。ディジエントたちは自ら学習し、成長して仮想世界に独自の生態系を築いていくのだが、読者は神の視点から進化の過程を眺めているかのような気分にさせられる。

やがて、初期のディジエントである「ニューロブラスト系ディジエント」をどうやってリアルスペースに移行させるかという問題が発生する。その資金を獲得するためにアナたちは頭を悩ませるが、ある企業がディジエントの非独占的使用権とひきかえに、ニューロブラストのリアルスペース移植の資金を負担すると申し出てくる。渡りに船と思えるが、問題はディジエントの使用目的だ。ディジエントへの思い入れが深い者ほど、この使い方には倫理的葛藤を感じるだろう。この悩みは滑稽なものとは決していえない。ユヴァル・ノア・ハラリが指摘するとおり、国家や貨幣など虚構の存在の上に人類は発展してきたのだ。アナやその友人のデレクがディジエントの未来をわが子のように心配するのは、きわめて人間的な行為だ。

苦悩した末、デレクの下した決断は果たして正しかったのかどうか。おそらく多くの読者はアナやデレク同様、ディジエントを独立した人格とみなしているだろう。人間同様にドラマを楽しみ、ダンスを踊り、ときには仲間同士で喧嘩もするディジエントであれば、その「意志」も人間同様に尊重するべきなのか。人間味を感じるAIをどう扱うべきなのか、という鋭い問いを突きつけたまま、物語は終わっている。訳者の大森望はこの作品を読んでラブプラスを思い出したと書いているが、愛花やネネさんがこの作品のようなラストを迎えたら、世のカレシ達はデレクを絶対に許さないのではないだろうか。カノジョもディジエント同様仮想の存在でしかなくとも、人がそれらに抱く愛情は間違いなく本物なのだ。

 

・デイシー式全自動ナニー

 

 ナニーとは乳母のことで、乳母ロボット(全自動ナニー)を開発し、これに理想の教育を託した数学者レジナルドと、その息子ライオネルの二代にわたる物語にが本作になる。レジナルドは今までに雇った人間のナニーが信用できないと判断し、自らが開発した全自動ナニーこそが感情に左右されず理想の育児を行えるマシンだという信念のもと、この機械を大々的に販売した。だが、やがてレジナルドは大きな挫折を経験することになる。

息子のライオネルは父の無念を晴らすため、全自動ナニーの有効性を証明しようと養子エドマンドをこのマシンで育てることになる。だが、エドマンドが二歳になり、そろそろ人間に育ててもらおうとライオネルが判断したタイミングで、エドマンドは医師にある判断を下されてしまう。やはり機械に人間を育てさせるなど間違っていたのか?読みすすめていくと、読者は意外な結末にたどりつく。正しい育児とはどういうものか、我々は先入観で勝手に判断してしまっていないか。そんなことを考えさせられる。全自動ナニーの描写はレトロSF風で、全体としてどこか懐かしさを感じる作品だった。

 

・偽りのない事実、偽りのない気持ち

 

「リメン」という生活記録(ライフログ)を映像で記録できるガジェットが、人間に与える影響力をテーマとした作品。リメンを装着していれば、言葉や思いに反応してリメンがすぐに過去の記録を動画で再生してくれる。これを使えば記憶違いは一切起こらなくなるので、とても便利だ。実際、主人公はある夫婦間のトラブルがリメンのおかげで部分的に解決するのを目撃する。

だが、主人公はリメンのもたらすマイナス面が気になる。人は主観的な記憶によってセルフイメージを成り立たせている。この自分は過去の記憶の総体ではなく、主観でゆがめられた記憶をつないでできた、いわば物語によって成り立っている。リメンがこの物語を崩壊させてしまわないか、が気になるのだ。ほかにも気になる点がある。主人公は娘の二コルと激しく言い争った過去があるが、ライフログを再生することでそういう嫌な記憶が薄れることが妨げられないか。人は過去を忘れるからこそ、人を許せるのではないのか。

この問題と向き合うため、主人公はリメンを使って過去の自分と向き合うことになる。ここで、いかに記憶があてにならないかという事実がわかってしまう。見つめたくなかった自分自身とも出会ってしまう。記憶と異なる事実と直面し、主人公はどうふるまうのか、がこの作品の読みどころの一つだが、この結末には多少の苦さも残る。だが、過去と誠実に向きあうのは無駄ではないという希望も見える。リメンは万能の利器でもないが、人の価値をおびやかす凶器でもない。月並みな言い方だが、結局テクノロジーの価値はそれを用いる人間次第なのだ。

このストーリーは、アフリカのティヴ族の物語と交差する形で進んでいく。文字を知らなかったティヴ族がヨーロッパの伝道師に文字を教えられ、部族社会がどう変化していくかが書かれているのだが、無文字社会にとっての文字は、主人公にとってのリメンと同じくらいの高度なテクノロジーだ。客観的な記録を残すことを知れば、人はもう記録のなかった時代に戻ることはできない。ごまかしのきかない過去と人はどう向き合うべきか、という問いを、この作品は投げかけている。

 

・大いなる沈黙

 

笑ってしまったのでユーモアSFなのだろうか。高度な知的生命体は人類の意外に近くに存在していた……という話なのだが、この生き物の名前の由来がまさかそんなところにあるとは。日本人にとってはある意味なじみ深い響きではあるけれども……「フェルミパラドックス」という言葉はこの作品ではじめて知った。

 

・オムファロス

 

成長輪のない木だとか臍のないミイラだとか、神が世界を創造した証拠らしきものが見つかる地球での話。考古学者の主人公は天動説を信じているが、ふとしたきっかけからエリダヌス座58番星という天体の動きについての論文を読むことになり、この世界の真実に気づいてしまう……というもの。この真実は天動説や創造論を信じるものなら膝から崩れ落ちるようなものだ。落胆する主人公には正直同情してしまうが、論文中で天文学者が人類の存在についてどうにか説明しようとあれこれ理屈をひねり出しているのには苦笑する。3番目の説を捨てたのは天文学者としての良心か。神を信じない私だから笑っていられるものの、ガチの創造論者はこれをどう読むのかと気になってしまった。

 

・ 不安は自由のめまい

 

 みんな大好き、並行世界を扱った話。別の世界線(この作品では時間線とよばれている)との通信を可能にする機器「プリズム」を多くの人が使うようになった世界での話だが、プリズムが多くの人の心にポジティブ・ネガティブ双方の影響を与える様子が事細かに描かれている。新技術が人や社会に不可逆的な変化をもたらすという意味では「偽りのない事実、偽りのない気持ち」とも共通するテーマをもっているが、リメンよりプリズムの与える影響のほうが深刻ではないだろうか。なにしろ、こちらの自分がおこなっていない悪行、ときには犯罪を、別の時間線の自分がやっている可能性を知ることになってしまうのだから。

この物語にはさまざまな人物が登場し、別の時間線で成功している自分自身に嫉妬したり、あるいはふだんならやりそうにもない大胆な行動を自分がしているのを知って驚いたりしているのだが、どんな分岐であれ「あれは自分ではない」と言い逃れできないところがプリズムの厄介なところだ。「この自分」はそれをしていないとしても、ほんの少し何かがずれればやってしまう可能性があるということを知ると、人々は不安になる。今この自分が分岐先での悪行をしていないのは、ただの偶然にすぎない。

かと思えば、パラセルフ(分岐先の自分)の多くが悪行をしていないことを知り、安心する人物もいる。粗暴な上司のタイヤをパンクさせてしまって後悔しているホルヘのように、他のパラセルフがそんなことをしていないことを知って心が安定することもある。今の自分は例外的なのだ、と考えられるのだ。このように、プリズムは多くの人の自己認識に多大な影響を与える。その影響はプラスマイナスどちらが大きいか、一概にはいえない。

ところで、本作の結末のようなことが起きたなら、人は今生きている人生を運命だと受け入れることができるだろうか。できるとすれば、それはプリズムを使うことのひとつのメリットだとはいえる。だが、私はやはりこんなものはないほうがいいのではないか、という印象を強く持つ。自分自身のありえた人生を知っても、その人生を生きることはできないのだから。

 

というわけで、『息吹』のなかの9作品についてそれぞれ紹介してきたが、理系や科学の知識に乏しい私でも意味がわからない話というのは一編もなかった。正直に言うと、『オムファロス』だけは一度読んだだけでは意味がわからず、感想を検索してから内容を把握したのだが、ていねいに読めばわかっていたはずの内容だった。なので、未来技術や仮想現実なんて考えるだけでも虫唾が走る、という人でもない限り、本作は大いに楽しめるのではないかと思う。SFアレルギーがあるという人でも、『商人と錬金術師の門』なら楽しめるはずだ。とはいえ、『息吹』は単に楽しいというだけの作品ではない。難解な作品群では決してないが、気軽に読めるエンターテイメントとも違うからだ。

 

『息吹』全体を通して、いつもは歴史時代小説を主に読んでいる私としては、「脳の違う部位を使っている」という感じがあった。歴史時代小説は、ある決まった時代状況の中でどうストーリーを作るかに著者は意を砕くので、読者は世界観について頭を悩ます必要はない。だがSFは世界そのものをつくり出すものなので、新しい作品を読むたびに「この世界はどういう世界なのか」を考える必要がある。私があまりSFを読まないせいもあるが、他ジャンルの小説を読んでいるときにくらべて何倍も頭を使って読んでいるという感覚がある。

なので、この『息吹』は、正直読んでいて少し疲れた。だがこの疲れは退屈によるものではなく、知的好奇心を刺激され、あるいは倫理・哲学上の問題を考えさせられるがゆえの心地よい疲れだ。ただのエンタメ作品は脳を気持ちよくマッサージしてくれるだけだが、テッド・チャンの作品はエンターテイメントとしての牽引力も保ちつつ、読者の脳に適度な負荷をかけてくるので、どの作品もただ面白かったで終わることはない。いや、本当におもしろい作品とは、このように読者によく考えることを求め、価値観を揺さぶってくる作品のことをいうのかもしれない。なので『息吹』はSFをあまり読んでいない人には少しだけ苦労を強いるかもしれないが、それをはるかに上まわる充実した読書体験をもたらしてくれる作品集となっている。オバマ元大統領が「最良のSF作品集」と絶賛したのも納得の出来栄えだった。

【感想】十二国記『白銀の墟 玄の月』3~4巻と「正史の隙間」の物語

 

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

  • 作者:小野 不由美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/11/09
  • メディア: 文庫
 

 

『白銀の墟 玄の月』1~2巻は、戴国がどれだけ悲惨かを書くことにほぼ費やされた。この2巻は、読者の忍耐力が試される巻だった。十二国記という確立されたブランドだからこそ、なんのカタルシスも得られないこの内容でも読者はついてくる。希望の見えない探索行の果てに、ようやく驍宗の痕跡らしきものをみつけた李斎らも、最後の最後でまたしても裏切られた。麒麟も成長はしているものの、あまり身動きも取れないままに2巻は終わった。

 

で、3巻。雪に閉ざされ、戴をとりまく状況がいよいよ切迫の度合いを増すなか、わずかながら希望が見えはじめる。まず麒麟が動く。戴麒はなんとみずから六寝へ忍び込む大胆さを見せ、その手も汚す。驚くほどの成長ぶりである。そして宮中にて、戴麒は決定的なものを見てしまう。阿選の器の小ささが、ここにおいて暴露されてししまった。

今まで曖昧模糊としていた阿選の人間像も、しだいに輪郭がはっきりとしてくる。驍宗と並び称されるすぐれた武将であった阿選は、苦悩していた。結局、自分は驍宗の影でしかないのかと悩んでいた。力量の差がわずかしかないからこそ、驍宗が王に選ばれたことの屈辱は大きい。常に互いを好敵手と意識し、切磋琢磨してきたはずの二人の命運は、どこで別れたのか。

力量そのものはあまり変わらなくとも、琅燦からすれば両者の人としての器の差は明らかだ。阿選はできるかぎり、驕王の寵を得ようとした。驍宗に負けたくなかったからだ。しかしこれをしている限り、驕王に逆らうことはできない。驍宗とはそこが違う。驍宗は阿選と寵を争うのではなく、より良き人間であろうとした。どこまでいっても驍宗のまがい物にしかなれない阿選のことを、琅燦はこう評価している。

 

「驍宗様があんたと競っていたのは、突き詰めて言えばどっちがより増しな人間か、ということだったんだ。驕王の寵や地位や名声は、それを目に見える形で明らかにするために必要だったんじゃないの?王に重用されれば、それがすなわち、よりましな人間だということだった。あんたはそのうち、何を競っていたのか忘れてしまったんだよね。何が何でも驕王の歓心が欲しかった。より重用されてより高い地位が欲しかったわけでしょ。──でも、驍宗様は、あんたと何を競っていたのか、それを忘れてなかったんだ」 

 

琅燦に正面切って言われなくとも、阿選は自分が驍宗に及ばないことは理解していただろう。だからこそ阿選は仮王となっても積極的に施政をおこなうでもなく、張運のような小物に朝廷を任せきりにしている。驍宗を生かしたままにしているのも、結局驍宗が死んだら自分が王に選ばれるはずがないと考えているからだ。阿選が驍宗を追い詰めた手法も3巻を読みすすめると明らかになってくるが、阿選はすることが悲しいまでに卑しい。まるでバーフバリの存在により闇に呑まれたバラーラデーヴァを見るかのようだ。驍宗がいなければ、阿選もここまで堕ちることはなかっただろうか。

 

李斎らの驍宗探索行にも、ようやく一筋の光がみえはじめる。旅を続けるうち驍宗麾下の武将も集まり始め、意外な人物も協力を申し出てくる。気がつけば阿選討伐に十分な兵力がそろいつつあった。各々が力を尽くして探しても驍宗の痕跡すら見つからないという現状から、李斎はある答えにたどりつく。驍宗はどこにいるのか。李斎の洞察は当たっていた。本巻の終盤にいたって、ついに読者は驍宗の姿を見いだすことになる。ここにおいて、読者はようやくわずかに飢えを満たすことができる。

 

とはいうものの、まだ李斎らは驍宗を確保できているわけではなく、状況はまだまだ厳しい。そして、いよいよ戴麒も恵棟に真意を明かす。戴の王は驍宗しかいない。今までしてきたことはすべて、驍宗を玉座へ戻すための布石であった。戴麒は瑞州にて善政を施し、朝廷内で権威を取り戻していく。いよいよ戴麒の反撃の機運が整いつつあるなか、ようやく戴国に希望の光がともる。戴麒は瑞州で荒民を保護しているが、これまで3巻にわたって戴国の寒空の下をさまよう荒民のような心持で読み続けてきた身としては、この巻でようやく一息つくことができた気分だ。

 

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

  • 作者:小野 不由美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/11/09
  • メディア: 文庫
 

 

 そして4巻に入ると、いよいよ物語は加速していく。『白銀の墟 玄の月』は3巻までは驍宗はどこにいるのか、というミステリ要素によって読者を牽引してきたが、驍宗の居場所が明らかになったからには、当然ストーリーは大きく変質することになる。ここにおいて、ついに物語は戦記となる。事の発端は、阿選軍による土匪の襲撃だ。朽桟への義理から土匪を助けることにした李斎の決断が、時勢を大きく動かすことになる。

文州の戦いは、阿選軍の敗北に終わった。この戦いにおいて、烏衡率いる部隊が残虐極まりない行為を働いたことが、阿選麾下の友尚を大いに失望させた。 友尚もその兵も、なぜ阿選が烏衡のようなものを重用しているのかわからない。ずっと理解に苦しみつつも戦い続けていた友尚の心も、一度の敗北でついに折れた。7年間孤独に耐え続け、なお志を曲げなかった驍宗と阿選とでは、しょせん器が違いすぎる。はじめはほんの少しの違いしかなかったはずの二人の間に、いつの間にか巨大な差がついていた。

 

阿選軍を撃退し勢いに乗る李斎の陣営は充実し、気がつけば阿選に対抗できるほどの兵力がそろっていた。将帥も充実している。李斎らの決起と歩調を合わせるように、戴麒の施政も軌道に乗りつつあった。戴麒の権威は上昇し、張運も失脚する。だが、ここから阿選の反撃がはじまる。小野不由美はそうかんたんに読者の不安を払ってはくれない。それどころか、さらにもう一度、読者を深い絶望の底に突き落とす。援軍を求め旅だった驍宗は捕らえられ、李斎らの軍は王師に粉砕され、また多くのものが命を落とす。阿選は戴麒の文州への恵棟派遣すら邪魔してみせる。窮鼠猫を噛むというか、才覚だけは驍宗にひけをとらない阿選の最後の見せ場である。

一度は優位を取り戻した阿選の最後の策は、実に姑息なものだ。ここはネタバレしない方がいいだろうが、阿選も堕ちるところまで堕ちた、としか言いようのない策だ。これが実行されれば、驍宗麾下は憤死しかねないほどの屈辱を味わうことになる。卑劣を絵にかいたような演出を、阿選はたくらんでいた。

 

この卑劣な策謀をどうにか食い止めるため、李斎らは続々と鴻基に集まってくる。死を覚悟した、無謀ともいえる行動である。だが、救いの手は意外なところから差しのべられた。ここにおいて、戴麒は驚くべき行動に出る。およそ麒麟としては前代未聞の行為である。耶利や琅燦の見立て通り、やはり戴麒は特別だった。彼は「魔性の子」なのだ。これほどの強さと覚悟をもった麒麟は例がない。ここから先の展開はくわしくは書かないが、戴麒の行動をきっかけに、物事はすべてあるべき方向へと進んでいく。長い冬が終わり、ようやく戴にも春がやってきた。阿選の統治下において、戴の地表下でひそかに息づいていた希望の種子が、ここにきて一気に芽吹いた。

 

この4巻の最後は、『戴史乍書』の簡潔な歴史記述で締めくくられている。こう書かれてみると、しごくあっさりと事態は好転したかに見える。だが、この記述の行間にどれほどのことがあったか。戴が復興するまでに、数多くの貴重な命が失われた。驍宗麾下の将帥も、道士も、庶民も荒民も土匪も、皆がその最後を史書に記録してもらえるわけではない。その意味では、十二国記は「正史の隙間」を描く物語ともいえる。『白銀の墟 玄の月』において小野不由美は戴麒や驍宗のような主役級の人物だけでなく、園糸や去思のような庶民や道士の心のなかにも自在に分け入り、戴国の悲惨な現実を地を這うような視線で描きつくした。大所高所から物事を論じる歴史家の目にはみえない現実を、執拗なまでにこの作品は書いている。最終的に皆が望む結末にたどりついたとはいえ、失われたものの大きさを考えれば、天とは何と無情なのかと嘆息したくなる。そんなことを考えてしまうほどに、この作品は完成された一つの世界をつくりあげている。ジョージ・R・R・マーティンが『氷と炎の詩』シリーズで描く物語は、作者の無意識が別世界にアクセスしてそこの様子をそのまま書いているかのように思えるくらいだが、『白銀の墟 玄の月』も別世界をそのまま描写しているかのようなクオリティに達している。

 

もちろん、マーティン作品と十二国記はまったく違うものだ。一番大きな違いは、十二国記が漢字の魅力を最大限用いた作品ということである。『白銀の墟 玄の月』においては、各人物の外見の描写はあまり多くない。山田章博の美麗なイラストがイメージを補完してくれてはいるものの、描かれているのはごく一握りの人物だけだ。だが、十二国記では漢字のイメージが人物像を補完してくれる。驍宗などいかにも王にふさわしい立派な容貌なのだろうと思わせる字面だし、巌趙もその名のとおり巌のような立派な体躯の持ち主であることが想像できる。琅燦など字面からして一筋縄ではいかない、癖のある人格を想起させるし、夕麗はいかにも女性らしい名前だ。騶虞や飛燕、賓満など騎獣や妖魔の名前もこの作品を豊かに彩っている。また、漢字が多用されていることで、作品全体に硬質な品格が与えられている。この大河ファンタジーの雰囲気に存分に浸れるのは、漢字文化圏に住む者ならではの特権だろう。

 

この長い長い作品を読んでいるうち、自分は阿選の悲しさについて考え続けていた。最終局面においても、阿選のために戦ったものは確かに存在する。だが、それは「是非を考えるのは兵士の職分ではない」からであって、ただシステム上阿選に従わなくてはいけないということに過ぎない。阿選に従うのは戦争職人である軍人か、案作のようにその権威を利用しようとする小物だけなのだ。阿選が驍宗の立場であったなら、李斎や霜元のように阿選につき従うものは存在しなかっただろう。いや、そもそも王朝に反抗する立場になれないのが阿選の限界なのだ。大組織の中で大出世を遂げるような生き方しか、阿選にはできない。

阿選と驍宗の差は、いったいどこでついたのか。阿選軍はもともと行儀がいいことで知られていたが、それは結局、阿選は決められた秩序にただ忠実だった、ということではないか。対して驍宗は轍囲の例でもわかるとおり、民のためならときに王命にも逆らってみせる。驍宗麾下の李斎が朽桟を助けたのも、土匪が守られないような世では民も守られない、ということをわかっていたからだ。必要なら本来は軍の敵である土匪とも協力するという柔軟性が驍宗陣営にはある。驍宗もその部下も、目的と手段を取り違えるということがない。彼らは何が本当に大切なのかを決して見失わないのだ。そして、そのようなものにしか天命は下らない。しょせん、阿選は無理やり戴麒を這いつくばらせることしかできないのだ。 

 

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それにしても、何と長い長い忍耐を読者に求める作品だったことか。上記のエントリでは、「1巻については、これが十二国記でなければ最後まで読みとおせた自信がない」と書いた。戴国の悲惨さが、きわめて詳細に描かれていたからだ。最近、年齢を重ねるとともに小説の負の要素への耐性が減っていることを自覚しているので、十二国記という絶対安心のブランドでなければ最後は必ず報われると信じきれない。もちろん、この作品を手に取るような人は訓練された読者ばかりだろうし、必ず最後は満足できるクライマックスを迎えるはずだと信じているだろうが、それでも終盤で戴麒のとった行動は完全に予想外だった。予想は裏切っても期待は裏切らない、というすぐれた作品の必要条件をこの『白銀の墟 玄の月』はみごとに満たしてくれた。『黄昏の岸 暁の天』以来、十二国記の長編シリーズは18年も刊行されていなかったため、ファンの期待値はこれ以上ないほどに高まっていた。しかし本作は、その高いハードルを軽々と越えてきた。この先の物語が読めるのは、何年先になるだろうか。気が早いとは思いつつも、さらにハイレベルな続編を待ち望んでしまう自分がいる。それほどに、これは完成度の高い作品だった。

山川出版社 歴史の転換期1『B.C.220 帝国と世界史の誕生』に見るローマ帝国のブリテン島支配の実態

 

B.C.220年 帝国と世界史の誕生 (歴史の転換期)

B.C.220年 帝国と世界史の誕生 (歴史の転換期)

 

 

2018年以降、山川出版社から順次刊行されている歴史の転換期シリーズの1巻。最初の巻となる『B.C.220 帝国と世界史の誕生』は紀元前220年前後の世界を横断的に取りあげているが、4章中3章が古代ローマを扱っていて、残り1章が古代中国と内容は古代ローマに偏っている。目次は以下のとおり。

 

総論 帝国と世界史の誕生            南川高志 

1章 変わりゆく地中海              宮嵜麻子
 1 ローマ帝国の形成とスペイン
 2 前三世紀のローマとイベリア半島
 3 ヒスパニア戦争
 4 ローマ帝国の支配と政治

2章 消滅するヘレニズム世界          藤井 崇
 1 アンティオコス三世時代のヘレニズム世界
 2 第二次マケドニア戦争終結まで
 3 アンティオコス戦争終結まで
 4 第三次マケドニア戦争とその後

3章 帝国の民となる、帝国に生きる       南川高志
 1 帝国が生み出したローマ皇帝
 2 帝国の民となる
 3 フロンティアの実態
 4 帝国に生きる

4章 「中華帝国」の誕生            宮宅 潔
 1 「中華」の形成
 2 秦の歴史
 3 同時代人の見た前二二一年の中国
 4 秦の占領政策とその限界
 5 「統一」の行方

コラム
カルタゴ滅ぼさざるべからず
中央アジアヘレニズム世界
公共浴場と円形闘技場
秦漢の戸籍制度
匈奴

 

この中では、3章の「フロンティアの実態」に特に興味を惹かれた。ここを書いている南川高志氏はブリタニア属州を扱った専門書を書いているが、ここでは帝国辺境となるブリテン島の支配の実態について書かれている。なお、南川氏の『新・ローマ帝国衰亡史』については以前このブログでも紹介した。

 

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ローマとブリテン島の本格的な交流はカエサルの侵攻によって始まるが、本格的にこの地が征服されたのは皇帝クラウディウスの時代になる。この時代、ローマ軍はカトゥウェッラウニ族の主邑カムロドゥヌムを占領し、属州ブリタンニアが設立された。

ブリタンニアの属州総督アグリコラはその統治の様子を『アグリコラ』に記録しているが、このなかでは神殿や市場の建設、酋長の子弟の教育など「ローマ化」の様子がくわしく書かれている。だが、実際のところ、ブリテン島はどれほど「ローマ化」されていたのかというと、他の属州ほどローマ文化は定着していなかったようだ。

 

ブリテン島最大の都市ロンディニウムは市壁に囲まれた面積が133.5ヘクタールで、これはガリア北部の中心地トリーアの280ヘクタールに比べずっと狭い。ブリテン島の各都市には円形闘技場が作られているものの、カムロドゥヌムにはローマ文化の象徴ともいえる公共浴場が存在しなかった。実際のところ、ブリタンニアの都市の大部分は正規軍要塞と同程度の規模だった。 

ブリタンニアの住民は五賢帝時代が終わってもあまりローマ化されておらず、200年ころの地誌には「この島の住民は古来の習慣を維持し、貨幣を使うことを拒み、ものの授受ですませている。(中略)彼らは神々の崇拝に熱心で、男も女もともに将来のことを予見する知識をもっている」と書かれている。この地から元老院議員になったものが二人しか見いだせないことも、帝国エリートを多数輩出するほどローマ文化がブリタンニアに浸透しなかったことを物語っている。

 

思うに、ロンディニウムなどの都市は、古代日本における多賀城や秋田城のようなものではなかったか。そこは中央の文化と現地の文化が交わる最前線であり、原住民の潜在的脅威に対応するための軍隊の駐屯基地でもあった。実際、本書でもブリタンニア属州における軍事的要素の濃さが強調されている。

 

この属州では、軍隊と軍事の占める要素が極めて多い。兵士が道路や町、防壁を作った。ブリテン島には三正規軍団が駐屯していたが、彼らは在勤中に行政にも駆り出された。この属州の総督は450名ほどの部下をもっていたと考えられるが、そのほとんどは退役兵であった。兵士たちは、島の北部のローマに従わぬ人々との戦闘だけでなく、内乱になれば動員されて大陸へと渡り戦った。ローマ皇帝政府やその競争者(反乱者)は、この島が見征服地をかかえて軍を多数配置していることを熟知し、内乱とあればその軍を頼ったのである。

 

ブリタンニアにおいては83パーセントの住民が田園地帯に住んでおり、これらの住民の大半がローマ人到来以前の鉄器時代の延長上にある生活を営んでいたと考えられている。ローマ風の生活がおこなわれていたのは兵士の駐屯地とローマ風の農業屋敷(ヴィッラ)、大きな都市とみられるが、いずれも属州のごく一部に過ぎない。属州総督アグリコラがローマの教養学科を学ばせようとしたのが酋長の子弟に限られ、古代終焉期にはろくろ使用の陶器が帝国中ではもっとも早くこの島から消え、手びねりの土器に回帰したという事実も、ローマ文化の定着の浅さを思わせる。

 

1905年 革命のうねりと連帯の夢 (歴史の転換期)

1905年 革命のうねりと連帯の夢 (歴史の転換期)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 単行本
 

 

「歴史の転換期」シリーズは全11巻刊行予定だが、現在10巻に当たる『1905年 革命のうねりと連帯の夢』までが刊行されている。

【感想】本郷和人『乱と変の日本史』

 

乱と変の日本史 (祥伝社新書)

乱と変の日本史 (祥伝社新書)

 

 

平将門から島原の乱にいたるまで多くの「乱」と「変」を扱った内容になっているが、序の「乱と変から何がわかるか」を読むと、意外なことに「乱」と「変」には学問上の厳密な区別はないと書かれている。

一般的には、なんとなく乱のほうが変より規模が大きいイメージがある。実際、本書によれば承久の乱は戦前は承久の変と呼ばれていたが、のちにこれは日本全体を揺るがした大規模な戦いだと指摘されたため、「乱」と呼び名が変わっている。戦前は武士という「賊軍」が天皇を打ち破ったこの戦いを大したことがない事件と扱うため、「変」にしなくてはいけなかったという事情がある。

とはいえ、乱>変という歴史学上の定義はないのだそうで、何をもって「陣」「役」「合戦」と呼ぶかという学問上のルールもないそうだ。本郷氏自身は戦争>役>乱>変>戦いの順で規模が小さくなると考えているそうだが、だとすれば前九年・後三年の役はかなり大規模な戦いということになるだろうか。

 

内容としては、とりわけ明徳の乱に興味を惹かれた。山名氏は「六分の一殿」といわれるほどの勢力をもっていたため幕府の目の敵にされていたが、山名氏がこれほどの力を蓄えることができたのは、この本によれば山名時氏が有能でうまく任国の武士を掌握できたこと、日本海交易で経済力を蓄えられたことによる。山陰地方の発達した製鉄技術も山名氏の強さの一因ではないかと著者は推測している。

この山名氏の勢力を削るべく奮闘したのが細川頼之だが、本郷氏は頼之こそがこののちの室町幕府のありようを決めた、最大のプランナーだと考えている。細川頼之室町幕府最大の脅威だった山名氏の領地を削ったほか、南北朝を合一させ、東日本を幕府から切り離し、京都からの徴税を実現している。義満の官位が太政大臣にまで達したことも著者は頼之の功績と見ているが、だとすれば義満の政治的実績はかなりの部分が細川頼之の達成したものということになりそうだ。

 

 本能寺の変の章では、近年学会の主流となりつつある「信長は他の戦国武将と特に変わらない」という説に異を唱えている。信長はやはり特別だった、という本郷氏のおなじみの主張である。信長以外の誰も天下布武を唱えて全国統一を為そうとしなかったではないか、ということなのだが、本郷氏は「天下布武」を日本統一のことと考えているようだ。最近は天下布武の「天下」は五畿内のことを指しているともいわれるが、本郷氏は従来のイメージ通りの信長像を持っているようだ。

本郷氏は(信長が普通の戦国大名に過ぎないのなら)「なぜ信長が出現するまで、誰も戦国時代を終わらせることができなかったのか」という問いに明快に答えてくれたら自説を撤回すると書いている。確かに、獲得した領土だけを見ても信長は他の戦国大名を圧倒している。その結果から逆算して信長が特別だったと考えるのは違う、というのが近年の研究者の見解のようだが、本当に信長には特別な点は何もないのだろうか。本郷氏と他の研究者のどちらが正しいかわからないが、一個人としては信長にはどこか「革命児」的なものを期待してしまうところがある。そういえば、『麒麟がくる』では近年の研究成果をとりいれ、中世的権威を重んじる保守的な信長像も描くそうだ。

 

本能寺の変の話をしているのに、本郷氏にとってはこの事件そのものにはあまり関心がないらしい。徳川家広氏の見解に賛成し、「日本史三大どうでもいい事件」と見ているくらいだ。つまり、本能寺の変が歴史に与えたインパクトはあまりないと本郷氏は考えている。だとすれば、この事件は「乱」ほどの評価を与えることはできず、やはり「変」にとどまるということになるだろうか。