明晰夢工房

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『岩波講座世界歴史12 遭遇と発見』に見るギリシア人のスキタイ観の変化

 

岩波講座 世界歴史〈12〉遭遇と発見―異文化への視野
 

 

この巻では『古代ギリシア人のスキュタイ観』が特におもしろい。遊牧騎馬民族は野蛮で農耕民族は文明的、というステロタイプはすでに克服されつつあるが、古代ギリシア人は遊牧騎馬民族であるスキュタイをどう見ていたか。この小論を読むと、意外なことに古代ギリシア人はスキュタイ人を理想化していた時期があることがわかる。

 

ヘシオドスの作とされている『カタロゴイ』は史上初めてスキュタイ人に言及した文学作品だが、この著者は「思慮が饒舌に勝っている」民族としてエチオピア人やリビア人に続き、スキュタイ人を挙げている。また、前6世紀にはスキュタイ人の賢者アナカルシスの名もギリシア中に広く知られていた。前6世紀の段階では、交易や植民活動を通じてスキュタイ人の実態が知られるようになってきたものの、まだ遠方の民族を理想化しよとする願望も強く存在していた。

 

前5世紀にはいると、「野蛮で恐ろしい」スキュタイ人のイメージが登場する。『縛られたプロメテウス』において、詩人アイスキュロスはゼウスがプロメテウスを罰するための場所としてスキュティアの荒野の崖の岩山を選んだ。「まず初めに、ここより日の昇るほうへ向かって未開の荒野をたどってゆくのだ。するとスキュティアーの遊牧民のもとに至るであろう」という描写からは、スキュタイ人を理想化する傾向は読み取れない。

 

ヘロドトスはスキュティア人について公平に記述しているとされているが、『歴史』にもスキュタイ人の慣習を野蛮とみなしている箇所がある。スパルタ王クレオメネスがスキュタイ人と交際した結果、生酒を飲むことを覚えて気が狂ったという記述は、スキュタイ人がギリシア的規範から逸脱しているというという価値観の表れだ。ギリシア人にとり、葡萄酒は水で割って飲むものだが、水で割らずに生酒で飲むのは「スキュティア式」とよばれ、野蛮人の特徴とされていた。

 

ヒポクラステス全集に収められている『空気、水、場所について』においては、スキュタイ人蔑視がさらにひどくなる。この論考では、スキュタイ人は牛車で座って生活するので体つきはたるんでくるのだとか、男性にはあまり性欲が起こらず女性の子宮も精液を受け入れ保っておくことができないのだとか、本当かどうかわからないことが書いてある。スキュタイ人は自然環境と生活慣習によって肉体も精神も柔弱になるというのだが、これが遊牧騎馬民族の実態とは思われない。医学論文の名のもとに偏見の寄せ集めのような文章が書かれてしまうのも、それだけギリシア人を中心としたバルバロイ観が定着してきたからでもある。ポリスこそが唯一人間が生きるに値する社会という排他的なギリシア人の自己認識が、無知蒙昧な野蛮人というスキュタイ人のイメージを生み出した。

 

不思議なことに、ヘレニズム時代とローマ時代には、スキュタイ人を理想化する傾向がギリシア知識人の間で見られたという。この志向は文明から逃避し、より自然に近い生活を賛美するキュニコス学派の価値観から出てきたものだそうだが、蔑視もゆき過ぎれば揺り戻しがくるということなのだろうか。「無知蒙昧な蛮族」であれ、「高貴な野蛮人」であれ、どちらもギリシア人の側から一方的に押しつけられたイメージであり、スキュタイの実像そのものではないという点には歯がゆさを感じる。スキュタイ人がみずから自民族のことを語っていない以上、その実像に迫るには考古学によるしかないのだろうか。

 

 

【感想】青山文平『白樫の樹の下で』

 

白樫の樹の下で (文春文庫)

白樫の樹の下で (文春文庫)

  • 作者:青山 文平
  • 発売日: 2013/12/04
  • メディア: 文庫
 

 

貧乏御家人の主人公村上登と冷静で温厚な青木昇平、少々ひねくれたところのある仁志兵輔という二人の友がくりひろげる江戸青春活劇──とまとめてしまうには、この作品はあまりに苦い。この『白樫の樹の下で』は、たとえば青春時代小説の金字塔『蝉しぐれ』のように、清涼感あふれる読後感を読者にもたらさない。そのかわり、ずっしりと重みのある現実が迫ってくる。

 

藤沢周平作品に限らず、通常この手の若者を主人公とした時代小説では、戦うべき敵ははっきりしている。それは藩内で悪政をなす家老であったり、それに協力する大商人であったり、あるいは藩主の縁者であったりする。主人公は友と手をたずさえ、これらの難敵に立ち向かい、いずれ大団円をむかえる。もちろん細かい筋書きの違いはあれ、ある程度先行きが予想できるからこそ、この手の小説は安心して読んでいけるところがある。

 

ところが、この作品では登と二人の友は、必ずしも協力して事に当たるわけではない。むしろ逆だ。この二人の友との訣別こそが、ストーリーを前に進める。藤沢周平作品なら良きアドバイザーとなりそうな昇平も、悪友として気散じの手伝いをしてくれそうな兵輔も、残酷な運命の犠牲になってしまう。ここで描かれているのは爽やかな友情物語ではなく、青春の蹉跌である。人は必ずしもまっすぐ大人になれるわけではない。昇平も兵輔も侍ではあり、剣の道に打ち込む若者であれば、挫折はそのまま命にかかわる事態になる。太平の江戸の世でも、侍は挫折すれば無事大人になれないこともあるのだ。

 

この作品のあとがきで、『この小説には、歴史時代小説につきものの成長プログラムが用意されていない』と評されている。確かにこの作品はビルドゥングスロマンの色彩を欠いている。『白樫の樹の下で』にも、立ちはだかる敵はいる。倒すべき剣客もいる。登は町人を残酷に切り刻む「大膾」の正体を探るうち、最後には最大の難敵と戦うことにもなる。だがここで対決する相手は、悪徳商人と手を組み藩政を牛耳る家老などではない。詳細は書かないが、青春の総仕上げがこのような事情を背負った相手との戦いとは、あまりに切ない。米澤穂信作品にも匹敵するビターな味わいが、ここにはある。かつて純文学を志していたという青山文平の強みが存分に生かされた時代小説というべきだろう。

 

【感想】映画『感染列島』はコロナ禍前後で評価が変わる

 

感染列島

感染列島

  • 発売日: 2017/06/16
  • メディア: Prime Video
 

 

感染列島 [Blu-ray]

感染列島 [Blu-ray]

  • 発売日: 2009/07/24
  • メディア: Blu-ray
 

  

最近ビフォーコロナ、アフターコロナという言葉をよく耳にする。コロナ禍前後では世界のありようが一変するとあちこちで言われる。となると、創作物の評価もコロナ禍前後で変わらざるをえない。日本における大規模なパンデミックを描いた『感染列島』は2009年に公開された作品だが、今観ると当時とはこちら側の受け止め方も変わりそうだ。

 

アマゾンのレビューを見てみると、この映画には批判的なレビューが少なくない。リアリティがない、設定に突っ込みどころが多い、という声が批判の多くを占める。確かにこの『感染列島』は世界観の作り込みに少々甘いところは感じられる。日本で100万人以上の死者が出ていて、物流も麻痺しかけているのになぜ病院はちゃんと機能しているのか、どうして東南アジアの感染者だけゾンビみたいな動きをするのか、などの疑問がすぐに浮かんでくる。感染源を突き止めるため、主人公に同行した学者はマスクもせずに手で口をふさぎながら感染者としゃべっている。それでいいのか、と素人でも一言いいたくなってくる。

 

だが、新型コロナウイルスの流行が始まってからは、この映画には肯定的な評価も多いようだ。現実が映画に追いついてきたせいだろうか。この映画のなかでも、スーパーでの買い占めや都市の封鎖、医療崩壊の様子などは描かれている。ただし、この作品内で流行しているウイルスは致死率60%以上というすさまじく毒性の高いものなので、日本は現実よりもはるかに悲惨なことになっている。都市は完全に封鎖され、内部では治安崩壊が起き、食料は自衛隊のヘリで届けられる。未知のウイルスがもたらす症状は目からの出血など見た目もグロテスクで、はっきり言ってホラー映画に近い。

今の日本の状況はこの『感染列島』を100倍くらい水で薄めたようなものだ。ロックダウンも行われていないし、封鎖された都市を自動車で強行突破する市民なども出てこない。この映画を観た後だと、コロナの流行などまだまだぬるいものだと思えてしまう。もちろん、本当はそうではないのだが。

 

コロナ禍にみまわれている今の日本から見ても、『感染列島』の世界はまだ現実からはかなり遠い。今の日本とは感染者数も死者数も比較にならないからだ。にもかかわらず、この映画にはある種のリアリティを感じられる部分もある。ひとつは現場の医師が疲弊する様子だ。この世界でも人工呼吸器は不足していて、多臓器不全に陥っていてもう助からない子供から人工呼吸器を外さなくてはいけない場面が出てくる。少しでも助かる可能性のある患者に用いるためだ。そうまでして助けようとした患者も、やはり助からない。努力を水の泡にされ、精神を壊された医師たちが、次々と現場を放棄していく。この場面には、恐ろしいほどの切迫感がある。院内感染が起き、命を落とす医師が出てくる描写もあるが、これも現実の世界でも起きていることだ。

 

もうひとつは、最初に鳥インフルエンザを出した養鶏場の経営者が世間から責められ、自殺してしまうところだ。日本の「空気」の犠牲者になった経営者の姿には、今現実にあちこちで起こっている感染者叩きが重なる。世間から「ケガレ」と扱われた人が居場所を失われていくこの描写は、今なら身近な問題として受け止めることができるだろう。この作品には、今の日本とシンクロしている部分が確かにある。

 

この『感染列島』は3月30日に、日本医師会の横倉会長が「この映画を通じて感染症の恐ろしさを国民の皆様に知っていただきたい」と推薦していた作品だ。この映画で知ることのできる感染症の恐ろしさとは何だろうか。新型コロナウイルスは、この映画の新型ウイルスに比べると致死率ははるかに低い。だが、ウイルスがもたらす医療崩壊の危険性、人々の絆を破壊する効果などは映画でも現実でも変わらない。そうした部分に着目するなら、この映画にも現実を先取りしていた部分は確かにあるのかもしれない。

【書評】一坂太郎『吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち』

 

吉田松陰とその家族-兄を信じた妹たち (中公新書)
 

 

大河ドラマ『花燃ゆ』の前半は、ほぼ伊勢谷友介演じる吉田松陰の魅力でもっていた。主人公の兄である松陰が処刑され、夫の久坂玄瑞もまた刑死したため、このドラマはしだいに失速していった印象がある。群馬の生糸産業の発展を描いたドラマ後半も必ずしも悪くはなかったが、松陰や高杉晋作などの強烈な個性を持つ人物が出てこないため、どうしても地味なものにならざるを得なかった。

 

『花燃ゆ』のドラマ中で、松陰は松下村塾に集う生徒たちに「ともに学びませんか」と語りかける。上から正しい教えを授けるのではなく、生徒と対等な立場に立とうとする松陰の姿は魅力的だ。だが、史実の松陰の姿はどんなものだっただろうか。本書『吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち』を読めば、大河ドラマとは違うものの、独特の魅力を持っていた松陰の実像が浮かびあがってくる。

 

松陰の生涯を知るうえで忘れてはいけないことがある。それは、幼少期の松陰は学友をもったことがない、ということだ。松陰は長州藩の藩校である明倫館に通った形跡はなく、寺子屋で学んだこともない。松陰の学問の師匠は、父百合之助や叔父の玉木文之進だ。玉木文之進の指導は厳しく、書物を暗唱しているときに蚊を払いのけようとした松陰を殴って失神させたことまである。このようなスパルタ式教育の成果のためか、松陰はわずか9歳で教授見習いとして明倫館に出勤している。

松陰の家系は代々学問好きであり、その血は松陰にも受けつがれていたようだ。とはいうものの、今なら小学生の年齢の子供に教師をさせてしまうのは、重荷を背負わせすぎのような気もする。著者も松陰のこの境遇を「無理やり大人にされてしまった子供が持つ不健康な感は拭いがたい」と評している。11歳で藩主毛利慶親に山鹿流兵学を講義した史実は、松陰のずば抜けた秀才ぶりを示すエピソードとしてよく知られているが、この年で学者という枠に人格を押し込められる痛々しさも感じてしまう。

 

松陰は成長すると、教育好きの青年になる。野山獄に入れられていたころ、囚人たちの心がすさんでいることを知った松陰は、この牢獄を「福堂」に変えようと決意する。獄を更正の場と考え、志と学のある囚人を獄長として獄の運営を任せる。他の囚人を俳諧や書道の師として扱い、みずからも孟子を講義する。松陰のこの牢獄改革は大いに成果をあげ、松陰自身「3、5年を過ぎれば大いに見るべきものがあるだろう」と手紙に記すほどになった。

こういう話を知ると、松陰はやはり天性の教師だったのか、と考えたくなる。だが、これほどに松陰が熱心にものを教えたがるのは、単に生まれもった資質のせいなのだろうか。本当のところはわからないが、幼馴染と机を並べることもなく、大人たちから一対一の指導を受けつつ育った松陰が求めてやまなかったのは、学友ではなかったか。松陰にとっては野山獄に入れられたことも、ともに学ぶ仲間を得るまたとない機会だったかもしれない。

 

松陰はともに語らうことが好きな人だった。妹千代は「松陰は又好んで客を遇せり。御飯時には必ず御飯を出し、客をして空腹を忍んで談話をつづけしむることは決して為さざりき」と松下村塾の会食の様子を回顧している。松下村塾には寄宿生として泊まり込む者もいたが、松陰は寄宿生の食事にも加わっている。幼少期の松陰が望んでも得られなかった学友との交流が、ついに叶えられたようにも思える。松陰の母杉は講義の間に煎り豆やかき餅を焼き、塾生の面倒をみた。幕末の大河ドラマは一種の青春群像劇の雰囲気を持つことが多いが、本書に見る松下村塾の様子からも、志を立て学問にはげむ若者たちの熱気が伝わってくる。松陰がこれらの若者に学問を教えただけであったなら、彼こそが『花燃ゆ』の主人公にふさわしかったかもしれない。

 

だが、松陰には青春群像劇にふさわしからぬ一面がある。松陰は暗殺が時流を作ると考え、安政の大獄を指揮する老中間部詮勝の暗殺をたくらんだ。松陰は実行の人であり、ただの学者になってはいけないと塾生に言い聞かせていた。だからこその暗殺計画なのだが、テロで事を運ぼうとしたことはどうしても松陰の印象を暗くしてしまう。『花燃ゆ』の主人公が松陰の妹の文だったのは、「狂」を崇高な境地とする松陰の価値観を相対化する必要があったからだろう。テロリストを大河の主人公にするわけにはいかない。

一度志を立てるとひたすら突き進む「狂」の資質があればこそ、松陰に影響される人が多かったのは確かだ。高杉晋作が「東行狂生」、桂小五郎が「松菊狂生」を名乗っていたことからも、幕末長州を覆う「狂」の影響力の大きさが見てとれる。この「狂」は爆発的なエネルギーを生むとともに、時に人を無謀な行動に駆り立てる。松陰が黒船に乗り込んだことも「狂」のひとつの表れだ。『花燃ゆ』ではこのような松陰の行動を冷ややかに見つめる人物として、妹の寿が登場する。松陰の猪突猛進についていけない視聴者は寿に感情移入する仕掛けだ。『花燃ゆ』にこの視点があったことはもっと評価されていい。「狂」の資質が強すぎて多くの人を巻き込み、時に不幸にしてしまう松陰への醒めた視点も、この人物を語るうえでは欠かせないはずだ。

 

【書評】オスマン帝国600年の歴史が新書一冊でわかる『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』

 

オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史 (中公新書)

オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史 (中公新書)

 

 

大変読みごたえのある一冊だった。オスマン帝国600年の歴史の概略を、この一冊で知ることができる。この本ではオスマン帝国歴代スルタン全員の事績を追いつつ、その興隆から滅亡までの流れをたどっていくが、こうした本はともすれば退屈な史実の羅列になりがちだ。だがこの本では各スルタンのエピソードもできるだけ拾いあげつつ、「封建的公国の時代」「集権的帝国の時代」「分権的帝国の時代」「近代帝国の時代」それぞれの時代の特色を描き出しているので、最後まで飽きずに読み進めることができる。オスマン帝国だけでなく、およそ世界史に少しでも関心のある読者なら読んで損はない。

 

かつてオスマン帝国は「オスマン・トルコ」と呼ばれていたことを知る人も少なくないだろう。私も世界史の授業ではこの名称で習った。では、なぜこの国の名称から「トルコ」が外れたのか。序章を読むとその理由がわかる。この国は「トルコ」を自称しておらず、オスマン帝国の歴史上、トルコ系の人々がマジョリティだった時期は極めて短かったからだ。この国の臣民はアルバニア人セルビア人、チェルケス人、ギリシャ人、クルド人アルメニア人など多様だ。支配される側だけでなく、支配する側もトルコ系が少なく、36代の君主のうちトルコ系の生母を持った君主が初期の数人しかいない。このような国を「トルコ」と呼ぶのはふさわしくないということになる。

 

オスマン帝国は何となく「トルコ系遊牧民がつくった国」というイメージがあるが、一章「辺境の信仰戦士」を読むとこれが幻想でしかないことがわかる。実のところ、遊牧民的なふるまいが見られるのは、せいぜい始祖オスマンの時代の初期くらいだそうだ。この国をまとめあげていたのは、遊牧民としての結束力ではなく、「信仰戦士」としての共同体意識だった。信仰戦士と書くとストイックなイメージになるが、その実態は略奪をこととする野盗の集団といったところのようだ。とはいえ、イスラムの「聖戦」という概念が略奪行為に正当性を与えた。北西アナトリアの食い詰め浪人たちがつくったこの国は、2代君主オルハンの時代にアッバース朝セルジューク朝の統治技術を取り入れ、次第に国家としての体裁を整えていくことになる。

 

オスマン帝国を語るうえで欠かせないのが、火器で武装した常備軍イェニチェリだ。イェニチェリ軍団へ人材をリクルートする制度をデヴシルメと呼んでいるが、この制度では近隣のキリスト教徒国の子弟を徴収している。彼らの身分は奴隷だが、実はイスラーム法ではキリスト教徒臣民を奴隷にすることは認められていない。キプチャク平原出身の奴隷を購入し続けていたマムルーク朝とは違い、オスマン帝国は「脱法行為」を行っていたのだ。イスラム法を杓子定規には適用せず、柔軟に運用するのがオスマン帝国の強みのひとつでもある。

 

このオスマン帝国の柔軟性についてはは、2章でも言及されている。コーランでは本来利子を固く禁じているが、ハナフィー学派の学者エビュッスウードはイスラム法を大胆に読み替え、現金ワクフを認めた。ワクフとはイスラムの宗教寄進制度だが、現金ワクフを認めることでオスマン帝国では実質的な金融制度が営まれていた。このように、オスマン帝国ではコーランの文言より現実が優先される。「柔らかいイスラム法」によって支配されているのが、オスマン帝国という国家だった。

 

オスマン帝国が強大化した一因として、兄弟殺しの慣行があげられる。後継者争いを未然に防ぐことで、国家の弱体化をまぬがれることができるからだ。だが、この慣行もいつまでも続いたわけではない。第三章「組織と党派のなかのスルタン」を読むと、アフメト1世が幼くして即位したときは、その弟ムスタファが処刑されることはなかった。これ以前、メフメト3世が即位するときに19人もの王子が処刑されたことも、兄弟殺しが避けられた原因となっている。以後兄弟殺しの慣行は廃止され、かわって「鳥籠制度」がつくられた。これは、現スルタンの兄弟は宮殿の奥深くに隔離され、外界との接触を断たれるというものだ。オスマン帝国は柔軟性に富む一方で、このような残酷な一面も持つ国家だった。

 

第4章「専制と憲政下のスルタン=カリフ」では、「大王」とよばれたマフムト2世の事績が印象に残る。軍隊の近代化のためイェニチェリの反乱を鎮圧し、ムハンマド常勝軍を設立。内務省財務省を設置して行政改革も行い、印刷所や検疫所、郵便局も設けるなどあらゆる面で近代化を進めた君主だった。西洋風の楽団が音楽を奏でるなか、礼拝に赴く姿は「異教徒の帝王」と揶揄されることもあった。軍事改革のためプロイセンからモルトケを招いたこの近代君主の名がなぜあまり知られていないのか、不思議になるくらいだ。

このような開明君主が国を率いていても、オスマン帝国の衰亡が避けられなかったのはなぜか。本書では非ムスリム臣民がナショナリズムに目覚め、帝国から独立していったことを原因の一つに数えているが、この国がより強大なヨーロッパ諸国の隣に位置していたから、ということも無視できないだろう。もっと孤立した地域にこの国が存在していたらどうなっていたか。歴史研究家も、ついそう考えたくなるようだ。

 

 研究者バーキー・テズジャンは、もしオスマン帝国アメリカ大陸のような相対的に孤立した地域に位置し、列強の干渉がなければどうなっていたであろうか、と仮想する──ムスリムと非ムスリムの差別は、アメリカの公民権運動のような形で、徐々に是正されていったのではないか、と。歴史に「もし」は禁句だといわれるが、そのような可能性がありえたと想像することも、無駄ではないだろう。(p293)

 

【感想】『ビジュアルパンデミック・マップ 伝染病の起源・拡大・根絶の歴史』

 

 

ジフテリア天然痘コレラマラリア・ペスト・梅毒など、人間を苦しめてきた数々の伝染病の歴史を図解で解説している本。見開き2ページの地図で、それぞれの伝染病がどの時代、どの地域で流行していたかが一目でわかる。

 

どの伝染病も患者に肉体的ダメージを与えるが、同時に差別という社会的ダメージも与えてしまう。とりわけ患者が差別的に扱われてきた伝染病といえばハンセン病だ。だがハンセン病の解説をみてみると意外なことがわかる。もちろんハンセン病患者の多くは差別を受けているのだが、いつでもそうだったわけではない。

たとえば、12世紀のイングランドでは、ほとんどのハンセン病患者が修道会や療養所で手厚い看護を受けることができたと指摘されている。だが、のちにイギリスでもこの風潮が変わり、14世紀にはロンドンから患者を追放するという法令が出された。この背景には、人々がある程度の免疫を獲得してハンセン病が下火になったことがあげられている。感染症が「他人事」になると、感染症の患者は差別されやすくなる。

 

一方、社会的なイメージは悪化しない伝染病もある。結核がそうだ。日本では「文士の病」みたいなイメージがある結核だが、19世紀前半でのヨーロッパでもこれは変わらない。本書によれば、ヨーロッパではこの時代の結核は「ファッションや好みにこだわる粋人がかかる死病」であり、一種のステイタスになっていたという。

結核は容貌を醜く変えることがないので、結核患者はむしろ高貴で悲劇的なイメージをまとうことになる。バイロン結核で死にたいものだとつぶやいたことがあるという。だが、実際にはロマンチストの詩人よりも肉体労働者や洗濯女たちがより多くかかる病気だった。

 

取り上げられている感染症の中でも古くから流行しているのはペストだ。記録に残っている最初のペスト流行は東ローマ帝国時代のもので、「ユスティニアヌスのペスト」と名付けられている。紀元541年にコンスタンティノープルではじまったペストの流行は、ペルシャから南ヨーロッパにまで広がり、世界の全人口の33~40%もの人々の命を奪ったといわれている。

14世紀に「黒死病」とよばれたペストが大流行を起こしたことはあまりにも有名だが、本書を読むとその後も何度も流行を引き起こしていることがわかる。17世紀のロンドンのペスト大流行では、1週間で7165人が亡くなっている。このときロンドン市長は市内にとどまり、患者に食事を与える代わり外出を禁じているが、自粛と補償をセットにした前例といえるだろうか。結果、ロンドンでは多くの犠牲者が出たものの、ペストをロンドン市内に封じ込めることにはほぼ成功した。このとき富裕層の多くはロンドンから逃げ出しているが、これは感染症が社会格差を浮き彫りにする一例でもある。

 

新型コロナウイルス武漢ウイルスと呼ぶべきだ、という声があるように、感染症の名称には政治が絡んでくる。インフルエンザの項をみてみると、1918年に流行したスペイン風邪は、実は最初にスペインで起こったわけでも、スペインで猛威を振るったわけでもないことがわかる。なのにスペイン風邪と呼ばれているのは、このような理由だ。

 

こう呼ばれた背景には第一次世界大戦がある。参戦国それぞれで厳しい情報統制が敷かれ、士気の低下につながるような情報や、国としての弱みをさらす報道は封じられた。中立の立場を保っていたスペインは、こうした情報統制はなかったのだ。(p28) 

 

世界大戦が起こっているさなかに疫病が大流行するのは悲劇以外の何物でもない。情報が隠蔽され、各国が協力してウイルスに立ち向かうことができなくなる。新型コロナウイルスの流行は人命にも経済にも大きな打撃を与えているが、いま世界戦争が起こっておらず、世界中でウイルス対策の情報が共有されていることは数少ない希望のひとつでもある。

糸井重里氏のツイートと「他人は変えられないから自分を変えよ」という自己啓発的メッセージの限界

先日、糸井重里氏のこんなツイートが話題になっていた。

 

  

このツイートへの反応の多くは批判的なものだ。なぜ政府の対応がおかしいことを責めてはいけないのか、という意見が批判の多くを占めている。糸井氏のツイートに政府を擁護する意図があるかはわからない。ただ、「誰かを責める声」の中には政府を批判する声も確実に含まれる。「責めるな」というメッセージは、政府への不満の声を封じることにもつながりかねない。だから反発を受けているのだろう。

 

これは糸井氏個人というよりも、この発言の背後にある価値観の問題だと思う。自己啓発書などでは「過去と他人は変えられない、未来と自分は変えられる」というカナダの精神科医エリック・バーンの言葉が紹介されることがある。これは、糸井氏の「責めるな、自分の事をしろ」というメッセージとほぼ符合する。自己啓発の源流といわれるアドラー心理学でも、「自分の課題」と「他人の課題」を分離せよ、といわれる。変わってくれない他者に文句を言うより自分がどうすればよりよく生きられるかを考え行動するほうが生産的だ、という主張には一定の説得力がある。

 

だが、この主張がいつも正しいとは限らない。時と場合によっては、他者に働きかけ、変わるよう求めていかなくてはならないこともある。

 

mainichi.jp

 

一部の業種が新型コロナウイルス対策の休業補償の対象外になったことは、多くの批判にさらされた。このような批判も「誰かを責める声」だ。だが、こうして声をあげる人がいたからこそ、これらの業種も休業補償の対象になった。「他人は変えられないのだから自分ごとに徹すべき」と悟りすましたことを言って不適切な政策を批判しなければ、状況が動くことはなかっただろう。

 

自己啓発では一般に、批判したり怒ったりすることはよくないとされる。この世界ではポジティブであることが推奨されるからだ。一個人がポジティブであろうと自分を律することはもちろん自由だ。だが、今は多くの人が不安や怒りを抱えて当然の状況になっている。今生活が苦しい人がそうした不満を国にぶつけるのも大事なことだ。単にガス抜きになるからというだけでなく、それは結局回りまわって社会をよくすることにもなる。

 

 

こういう社会的な視点が、自己啓発には欠けている。自己啓発は今の状況を所与のものとして、その中でどうサバイバルしていくか、を考えるものであり、状況自体を改善するという発想がないからだ。「他人は変えられないから自分事に徹せよ」では、自分自身は救えたとしても社会は変えられない。そもそも今は自分自身が生きのびるためにこそ、給付や補償を求めざるを得ない人がたくさんいる。他人(この場合は政府)を変えなくてはいけないのは、それが自分事だからだ。この局面において、他者を批判したり不平不満を言うことを良しとしない自己啓発の在り方は、結局自分自身の手足を縛ることにもなる。自分自身のみを律することを求める自己啓発の考え方には、最初から限界があったのかもしれない。

 

saavedra.hatenablog.com