明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【書評】パニコス・パナイー『フィッシュ・アンド・チップスの歴史』

 

 

イギリス料理といえばフィッシュ・アンド・チップスをまず思い浮かべる人は多い。イギリスを代表する国民食であるこの料理にも、ヴィクトリア朝以来積み重ねられた歴史がある。本書『フィッシュ・アンド・チップスの歴史』はこの料理の発展と衰退の流れを追いつつ、ユダヤ人や移民などフィッシュ・アンド・チップス販売をになった人々にも光を当て、イギリス社会における民族のありようも照らし出してくれる一冊だ。

 

本書によれば、フィッシュ・アンド・チップスの初期の歴史はあいまいだ。フライドフィッシュもフライドポテトも19世紀前半にはすでにイギリスで好まれていたが、両者がどの時点で合体したかははっきりとはわからない。いずれにせよ、1870年代以降にはフィッシュ・アンド・チップスは労働者階級の日常食になっていた。本来高級品だった魚が労働者階級の食べ物になったのは鉄道の普及と氷利用、蒸気船によるトロール漁のおかげだから、フィッシュ・アンド・チップスは産業革命を象徴する料理ともいえる。

 

初期のフィッシュ・アンド・チップスの印象はネガティブなものだ。ジョン・ウォルトンはこの料理と労働者階級との結びつきを強調し、スラムとその住人、不快なにおい、怪しげな衛生状態、未熟な主婦の無分別なやりくりによる二次的貧困の助長などといったイメージがジャーナリストや社会評論家などのあいだで共有されていたと述べている。19世紀の終わりから20世紀にかけて、フィッシュ・アンド・チップスは貧困を想起させる食べ物だった。安価で食欲を満たせるため、貧しい労働者にとってはフィッシュ・アンド・チップスは重宝する食べ物だった。わずか6ペンスで6人分の腹を満たすことができ、調理の手間がいらない料理はほかにない。貧困とフィッシュ・アンド・チップスのイメージが結びつくのは必然だった。

 

もともとは労働者階級の食べ物だったフィッシュ・アンド・チップスがイギリスの「国民食」の地位を獲得したのはいつからなのか。本書によれば、1953年、フィリップ・ハーベンが『イギリスの伝統料理』でフィッシュ・アンド・チップスを「これぞイギリスの国民食といえるもの」と位置付けたことが重要な転換点になった。ハーベンによればフィッシュ・アンド・チップスはアジアにおける米と同じ役割を果たすものであり、「我々国民の栄養と経済にとって本当に重要な役割を果たしてきた」という。著者はハーベンの見方を「かなりの単純化と一般化が見られる」としているが、ハーベンはテレビに出演する有名シェフだったため、その影響力は大きなものだった。1950年代以降、フィッシュ・アンド・チップスと「イギリスらしさ」との結びつきは強調されるようになり、多くの料理本屋や出版物はハーベンの見解をそのまま受けついでいる。

 

ハーベンの見解が受けいられた背景には、1950年代から60年代にかけて、イギリスに異国の料理が増えたことがある。イタリア料理や中国料理、インド料理などがイギリスに入ってきたことで、イギリス人は「自分たち」の食べものを意識するようになり、フィッシュ・アンド・チップスを「イギリスらしさ」の象徴と考えるようになった。食の世界がグローバル化の波に洗われたために、イギリス人としてのアイデンティティがフィッシュ・アンド・チップスに求められたことになる。1931年にはイギリスで水揚げされた魚の60%をフィッシュ・アンド・チップスの店が買い取るほどこの料理はイギリスで好まれていたため、「イギリスらしさ」と結びつけるには好都合だった。

 

だが、フィッシュ・アンド・チップスが純粋にイギリスらしい料理かというと、そう単純ではない。まずフライドフィッシュについてみていくと、実はこれは19世紀の大半の期間、ユダヤ人の料理として知られていた。あげた魚の匂いを反ユダヤ主義者がユダヤ人を攻撃するときの武器にするくらい、ユダヤ移民とフライドフィッシュの結びつきは密接だった。逆に、19世紀末にはユダヤ人の聡明さを大量に魚を食べるせいだと肯定する言説も出てきている。その起源からして、フィッシュ・アンド・チップスは純粋な「英国産」とはいえないようだ。

 

そして、フィッシュ・アンド・チップス業界をになった人々にも移民が多い。4章で紹介されているジェラルド・プリーストランドによれば揚げ物の仕事は社会の最底辺に置かれていたため、一番最近イギリスに来たもっとも身分の低い人々に受けつがれる。19世紀後半におけるユダヤ人もそうだし、その後はイタリア人がこの仕事に就いた。第二次世界大戦後はキプロス人が参入し、さらにその後は中国人、インド人やパキスタン人もフィッシュ・アンド・チップス業界に参入している。移民にとってイギリス社会の主流を占める仕事に就くのは難しいことだったが、フィッシュ・アンド・チップス店はこの夢をかなえられる道のひとつだった。この意味で、フィッシュ・アンド・チップスは「異文化間接触の拠点」でもある。典型的なイギリス料理のような顔をしていながら、その実さまざまな民族文化の交わる場所にもなっているのが、フィッシュ・アンド・チップスという料理の興味深い点のひとつといえる。

 

gendai.ismedia.jp

現在、イギリスでは日本のカツカレーが大人気だという。「和食」のカツカレーがイギリスに定着しつつあるのは、かつてフィッシュ・アンド・チップスがユダヤ人の食べ物から労働者の食べ物、そして「国民食」へと変わっていった歴史がこの国にあるせいかもしれない。食欲は結局、国籍も民族文化の壁も乗りこえ、世界中の味を取りこんでいく。

 

 また(イギリスの)カレーは、植民地インドにいたイギリス人が食べていたものがもとになっており、帝国の終焉後、帰国してきた在印イギリス人たちや新米のインド移民たちとともに、本国にもたらされたものだった。フライドフィッシュは、このような流れをつくったさきがけだったのである。フィッシュ・アンド・チップスはかつて反ユダヤ主義的なステレオタイプを体現したかもしれない。しかし、それはユダヤ人の食べものから貧民の食べものに、最後にはイギリス人の食べものへと変化したのだった。それゆえフィッシュ・アンド・チップスは、そうしたステレオタイプを解体する道筋を示してもいるのである。(p193)

 

【朗報】講談社『中国の歴史』シリーズが講談社学術文庫に来る!

 

 日本だけでなく中国でもずいぶん売れた講談社の中国の歴史シリーズですが、いよいよ講談社学術文庫で文庫化が決まりました。

新品が手に入りにくく、中古価格も結構高くなってしまっている巻もあるのでこれは嬉しいところ。

 

 

現在1巻から3巻の『ファーストエンペラーの遺産』まで予約できるようになっています。

 

 『ファーストエンペラーの遺産』の著者は映画『キングダム』の監修も務めている鶴間和幸氏で内容については安心できます。全464ページとこのシリーズの中でも分量が多めですが、これは記述がそれだけ詳しいからです。秦漢時代を扱った本は往々にして史記漢書の内容紹介に終わりがちですが、この本では木簡や帛書など出土品の紹介も比較的多く、これらで史書の隙間を埋めようとする工夫も見られます。物語的な面白みを求めると外れるかもしれませんが、この時代を扱った概説書としては信用できるものと思います。

 

中国の歴史04 三国志の世界(後漢 三国時代)

中国の歴史04 三国志の世界(後漢 三国時代)

  • 作者:金文京
  • 発売日: 2005/01/15
  • メディア: 単行本
 

 

国史の概説書は三国時代魏晋南北朝時代が一緒に扱われているものが多いですが、講談社のシリーズでは三国時代が独立した巻になっています。4巻の『三国志の時代』がここですが、この巻は三国志のフィクションと史実の違いについて詳しく解説しているので、史実としての三国志入門としてはかなりおすすめできる内容になっています。邪馬台国についても一章を割いていて、「卑弥呼の使者は魏ではなく公孫氏に派遣された」など著者独自の見解もあるので、古代日本史に興味のある人にとっても面白いのではないかと思います。 

 

中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)

  • 作者:川本 芳昭
  • 発売日: 2005/02/16
  • メディア: 単行本
 

 三国志の「その後」の時代でもある魏晋南北朝時代を扱う『中華の崩壊と拡大』は、五胡が中華世界に侵入し、この世界の秩序が大いにかき混ぜられ再構築される過程を詳しく書いています。北朝については孝文帝の改革について一章が設けられ、鮮卑の旧習を捨て「中華」の皇帝を目指す帝の生涯を知ることができます。

南朝の政治史は比較的シンプルな感じですが、江南社会の描写について一章が割かれており、「山越」の住む領域だった江南世界が開発され次第に中華世界に組み込まれていく様子や、逆に漢人が「蛮」 化していく過程にもふれています。政治史と社会史のバランスがよく、この時代を知るうえで間違いのない一冊だと思います。

 

三国志の巻と5,6,7巻はかなり良い巻だと思いますが、8巻『疾駆する草原の征服者』は良くないわけではないですが、少々癖があります。遼と五代についての記述がかなり多く、そのぶん金や西夏についての記述がかなり少なめですが、日本では遼にくわしい本があまりないのでこれはこれで貴重ではあります。遼についての書きぶりもわりと情緒的というか、著者の思い入れが伝わってくる感じではありますが、無味乾燥な歴史書よりもいいといえばいいのかもしれません。

 

草原の制覇: 大モンゴルまで (岩波新書)

草原の制覇: 大モンゴルまで (岩波新書)

 

 遼から元にいたるまでのコンパクトな通史なら岩波新書『草原の制覇』もおすすめです。こちらは金や西夏についても他の遊牧王朝と均等に取り上げています。

 

海と帝国 (全集 中国の歴史)

海と帝国 (全集 中国の歴史)

  • 作者:上田 信
  • 発売日: 2005/08/26
  • メディア: 単行本
 

明・清時代を扱う『海と帝国』については読んでいないので語れませんが、タイトル通り中国史を海洋ネットワークの中で語る本のようで、これは同じ明清を扱う『紫禁城の栄光』ではあまり取り上げられていない一面なのでこちらを読む意義は大きいかと思います。

saavedra.hatenablog.com

なお、『紫禁城の栄光』は海よりも内陸のモンゴル・チベット史について詳しい本です。 

 

saavedra.hatenablog.com

国史の概説書はいろいろ読んでいますが、新しさとコンパクトさ、従来の断代史とは異なるなどの理由で今のところこのブログでは岩波新書の中国の歴史シリーズを一番推しています。とはいえ、新書はコンパクトなため各時代について詳しく知ることができないので、それぞれの時代の入門書としては講談社のシリーズのほうが使える面もあります。

 

saavedra.hatenablog.com

読みやすさや物語的な面白さといった点から見れば陳舜臣『中国の歴史』はかなりおすすめですが、内容的には古びている部分もあります。モンゴルに対する見方なども中華よりであるため、杉山正明氏の本などを読んだ後では違和感を感じる部分はあるかもしれません。

 

古代中国 (講談社学術文庫)

古代中国 (講談社学術文庫)

 

 

 なお、講談社学術文庫ではすでに旧『中国の歴史』シリーズが文庫化されています。発行年月日をみると1998~2004年とけっこう間が空いていますが、新シリーズの文庫化も数年はかかるのでしょうか?興亡の世界史シリーズも文庫化が2016年から2018年くらいまでかかっていますが、できれば来年中には全巻を文庫化してもらいたいところです。

森山至貴『10代から知っておきたいあなたを閉じ込める「ずるい言葉」』に見る「社会学者が嫌われる理由」

 

 

togetter.com

この本は少し前に「裏表紙がクソリプ大集合みたいな本」としてツイッターで話題になった。「あなたのためを思って言っているんだよ」「どちらの側にも問題あるんじゃないの?」「悪気はないんだから許してあげなよ」などなど、この本で取り上げられている「ずるい言葉」は相手の気持ちを解きほぐすことは一切なく、ただ口をふさぐ効果しかないという意味において、確かに「クソリプ」だ。言われる側はたまったものではない。

本書『10代から知っておきたいあなたを閉じ込める「ずるい言葉」』では、こうした29の「ずるい言葉」を取りあげ、これらの言葉にどんなおかしな考え方が隠れているかをあぶり出す。ここの解説はていねいで、特に専門用語も使われていないので10代でも理解できる内容になっている。さらに「ずるい言葉」の背景にある価値観や考え方から抜け出すための処方箋まで示されている。それぞれのトピックについてもっと深く知りたい読者のために、関連用語の解説もついている。親切設計だ。これならついてこれない人は少ないだろう。

 

それぞれの「ずるい言葉」についての解説はわかりやすい。たとえば、「どちらの側にも問題あるんじゃないの?」については、「どちらが正しいのかを考えず、何もせずに正しい人になりたい」という動機から出てくると説明される。「人命救助は正しい」と考える人は溺れている人に浮き輪を投げるように、正しい人になりたいなら正しさを実現するため行動しなくてはならない。だが、何もせずに正しい人になる方法がひとつだけある。それが、正しくない人を批判することである。「どちら側にも問題がある」なんて言い方も、「あなたは正しくない」と指摘するための安易な物言いなのだ、というわけだ。そうやって思考を放棄し、「何もしない、特に正しくもない人」にならないためにもどちらが正しいのかをちゃんと考えましょう、と著者は提案する。

 

この本での29の「ずるい言葉」についての解説はおおむね納得できるものであり、こうした言葉で反論を封じられがちな人にとっては有益な内容になっていると思う。また、これらの「ずるい言葉」にはついこちら側が言ってしまいそうなものもあり、安易な物言いで誰かを黙らせないためにも、この本を読んでおく意味はある。最近ネットの一部では社会学が嫌われがちで、社会学無用論を唱える人までいるくらいだが、少なくともこの本の内容は有意義なものだと感じた。著者は社会学者だが、学問の成果がこうした書籍として結実するなら、やはり社会学は世の中に必要な学問といえる。

 

以上見てきたとおり、この『10代から知っておきたいあなたを閉じ込める「ずるい言葉」』が良書であることは間違いない。だが、正直この本を読んでいて、少々押しつけがましさを感じる部分もあった。それは「心の中で思ってるだけならいいんでしょ?」について解説している箇所だ。著者はこの「ずるい言葉」について、以下のようなやりとりを例に挙げている。

 

 「落合、地下鉄の乗りかえに関する自由研究で賞をもらったんってね」

「やっぱりオタクはやることが細かいね。正直気持ち悪いと思うけど」

「そういう考え方はよくないと思う」

「建前としてはね。でも心の中で思ってるだけならいいんでしょ?

 

この例では「思ってるだけならいいんでしょ」と言いつつ実際に「気持ち悪い」と口に出してしまっている。著者が指摘するとおり、これは確かに問題だ。失礼だとわかっているなら言わなければいい。だがこの話の本題はそこではない。著者の森山至貴氏が問題視しているのは、「思っているだけならいいんだろ」と開き直るその態度だ。この態度には、隠しておくべきその本音を本当は言ってやりたい、という気持ちが隠れている。言ってはいけないことをわざわざ言ってやりたくなるのは、多くの人が実は本音が間違っているなんて思っていないからだ、とこの本では解説されている。

 

口にすれば人を傷つける本音を、人はただ心の中に秘しておくだけではいけないのだろうか。著者は「言ってはいけない本音」について、このように考える。

 

建前はいつも大事で、建前に反するような本音はやはりよくない、でよいのではないでしょうか。 プリンをこの場で食べたいと思うことは、実際にしなければ建前と共存可能な本音でしょうが、なにかにくわしい人を気持ち悪いと思うべきでないという建前は、気持ち悪いと思う本音と共存できません。だとすれば、この本音を自ら疑ったり、正したりする以外に取る道はありません。

「心の中で思っているだけ」を厳格に守って人を傷つけないのももちろん大事ですが、「心の中でしか思ってはいけない」ことをそもそも思わずにすむように自分をつくり変えていくことも大事だと、私は思います。

(p158)

 

太字の個所について、私は正直「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」レベルの厳しさではないか、と感じた。確かに本音レベルから変えるほうが望ましいことはある。特定の民族やマイノリティに対する偏見は持たないほうがいいに決まっているし、「産後うつは甘え」といった言説にしても「言わなければいい」という問題でもない。本音レベルでひどい考えを持っているからこそつい口に出てしまうということもあるし、言葉にしなくても失礼な考えが顔や態度に現れそれが相手を傷つけることもある。差別や抑圧につながる本音は、変えられるなら変えるのがベストではあるだろう。

 

だが、上記の例でよくないとされている本音は「細かいオタクはなんか気持ち悪い」というものだ。これは言えば失礼に当たるのは当然だが、なにかにやたらと詳しい人を「気持ち悪い」と感じる本音までも変えなくてはいけないだろうか。そこを変えるべきだ、というのは、私にはかなり強めの介入だと感じられる。そこまで人の内心に介入していいのだろうか。私は、人は正しくないことを考える自由もある、と思っている。だから正しくない本音を変えるべきだ、という主張には抵抗を感じる。人の心の正しくない部分、闇の部分をすくいとって表現するのが文学の役割のひとつだと思っているので、私にとって文学というジャンルは大事だ。

それに、そもそも本音とは変えられるのだろうか。特定の民族や集団に対する偏見は、相手をよく知ることに努めれば変えられるかもしれない。だが、「細かいオタクはなんか気持ち悪い」みたいなものは、生理的感覚に近いのではないか。反差別を掲げている人ですら、アニメ愛好者への侮蔑を恥ずかしげもなく公言したりすることがある。表向きの言動だってなかなか変えられないのに、「なんか気持ち悪い」という内心まで変えることは困難ではないだろうか。そういう嫌悪感も、「これを気持ち悪いなどと思ってはいけない」と自分に言い聞かせ続ければ変えられるのだろうか?そこまでストイックに自分と向き合える人は、ごく少数ではないかと思う。「なんか気持ち悪い」という感覚に対しては、「言わなければいい」以上のことを求めるのは難しいのではないだろうか。「言わなければいい」ですら、守れない人がいくらでもいるのだから。

 

「望ましい社会を作るために、(「ずるい言葉」に見られるような)言動や表現、内心を改めるべきだ」と、著者はこの本を通じて訴えているのだと思う。社会学者が皆こうではないだろうが、これを読んでいると社会学は他の学問ジャンルに比べてこちらへの介入の度合いが強い、と感じるのも確かだ。もちろん社会学だけが人々の生活に介入するわけではない。コロナ禍の現在において、もっとも生活に深く介入しているのは医学だろう。私達は外出時にマスクをつけ、三密を避け、つねに手指を消毒していないといけない。こうした生活を煩わしいと思っている人は多いだろう。だが少なくとも医学は「マスクをつけるなんて面倒だという本音を変えるべきだ」とは求めてこない。こっちがどんな気持ちだろうと、マスクをつければそれでいいのだ。だが社会学、少なくともこの本は「醜い本音は言わなければいい」ではすませてくれない。醜い本音をきれいなものに変えるよう求めてくる。変えたほうがいい本音もあると思うが、発言だけでなく心の中まで変えていくのはかなりハードルが高いとも思う。

 

togetter.com

先日、社会学の研究者が「銀河英雄伝説をリメイクするなら男女役割分業の描き方は変更せざるを得ない気がする」と発言したことで話題になった。これなども、社会学者が表現を変えるよう求める一例だ。ヤン夫婦の描き方が現代の視点から見て違和感がある、という問題提起自体がおかしなものだとは思わないが、「変更せざるを得ない」はかなり強い言い方だ。男女役割分担といえば、社会学者の千田由紀氏が「キズナアイが頷き役という女性の性役割を割り振られている」と批判したことも記憶に新しい。このように、社会学者は望ましい社会(この場合は男女平等社会)にふさわしくない表現を批判し、時には変えるよう求める。社会学者が皆こうではないだろうが、他ジャンルの学者に比べ、人々の言動や表現、価値観への注文が多い人もいると感じられる。社会学者が嫌われる原因があるとすれば、このあたりに一因があるように思う。社会を変えようと他者に働きかけるなら、時に軋轢が生まれるのは必然ということだろうか。

 

もちろん、嫌われること自体が悪いわけではない。世の中には嫌われることを覚悟で言わなければいけないこともあるし、社会学者が社会をよくするためにした発言を嫌う方が器が小さいのかもしれない。ただ、私を含めて多くの人は、それが社会のためであれ、内心を変えるよう求められることを煩わしく感じる。この煩わしい、という本音も望ましくないものなので変えるべきだろうか。そこまで求められると、私のように怠惰な人間は別に言わなければいいんでしょ、と「ずるい言葉」を発したくなる。だからこそ、なかなかこうした物言いがなくならないのだろう。私の場合、今のところは本音の部分はほっておいて、「ずるい言葉」で人の口を封じる側に回らないようにするくらいがせいぜいのようだ。

【感想】ヤマザキマリ・中野信子『パンデミックの文明論』

 

パンデミックの文明論 (文春新書)

パンデミックの文明論 (文春新書)

 

 

人類は何度もパンデミックの危機に直面しているが、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス帝の時代にも大規模なペストの流行があったことはあまり知られていない。「アントニヌスのペスト」ともよばれたこの悪疫により、一千万人もの命が奪われたともいわれる。この本の第二章では、この「アントニヌスのペスト」がローマ社会に及ぼした影響について論じられている。

この時期以降、ローマ帝国では急速にキリスト教の信者が増えている。キリスト教徒が道端で倒れている病人を助けたためだ。ペスト流行により生活インフラを担う商人が倒れ、経済危機が訪れローマ帝国が衰亡へと向かうのとは逆に、キリスト教は勢力を拡大することになった。

 

ヤマザキマリに言わせれば「カルト宗教的な存在」だったキリスト教が、この時代、奴隷だけでなく一般人にまで信者を幅広く獲得するようになったのはなぜなのか。危機に瀕すると人間は善なるものを求めるからだろうか?とヤマザキマリは問う。だが、どうやらそんな理由で人々がキリストを信じるようになったわけではないらしい。中野信子の答えはこうだ。

 

危機に際しては、善なるものであるかどうかを吟味する前に、理性で判断するのを放棄するようになる、という傾向が強くなりますよね。理性の代わりに、勘だとか、情報の分かりやすさだとかに頼ってしまうようになる。というのも、正しいかどうかの検証には、時間と労力というコストがかかるからです。危機に際しては、それにコストをかける余裕がなくなるため、平時の余裕のある冷静な状態における判断とは異なる、極端に言えばあり得ない選択をしてしまったりすることも十分起こり得ます。

実は「真・前・美」という三つの価値は、脳のほぼ同じところで処理されているんです。その領域は進化の過程ではかなり遅い時期にできてきたところなので、あまり効率的には働かない──例えば、酸素や栄養、睡眠の不足、アルコールの摂取などで、容易に働きが落ちてしまう。

そういうときは、いつにもまして対象を冷静に吟味することなく、直感でわかりやすいリーダーを選んだり、難しいことを四の五の言わずに手っ取り早く道を示してくれそうな宗教家に頼ったり、ということが起こりやすくなるのではないでしょうか。(p68)

 

脳は大食らいの臓器で、身体全体のカロリー消費量の四分の一から五分の一を占める。危機の時は逃げたり戦ったりするために体にリソースを分けないといけないから、脳に回すカロリーはカットされる。この状況下ではとくに前頭葉の働きが抑えられ、理性的な判断が下しにくくなってしまうのだ。脳が思考を節約するため、よく考えずに頼りがいのありそうなリーダーに従ってしまうことになる。

このように、この本ではヤマザキマリが歴史上から取り上げた事象に中野信子脳科学の見地から解説する箇所が多い。パンデミックの状況下において人気の出るリーダー像について、さらに二人は対話を重ねている。

 

ヤマザキ 結局、危機的状況で求めるのは、ひとときの安心ってことなんですかね。それこそメルケル首相の「レジに座ってる方、ご苦労さま」っていうカメラ目線の発言に大勢の人がコロッといっちゃうわけですから。

中野 人間って、二千年たってもあまり変わらないんですね。そういうのに弱いんだなと改めて思います。 今回のコロナ禍では、地方自治体の若手の首長の奮闘ぶりがマスメディアでしばしば取り上げられましたが、言葉の使い方やアピールの仕方など、人々に安心感をもたらすことができるようにそれぞれ工夫されてましたね。即断即決のイメージを強調するなどの方法は見事で、ああ、この人についていこうと思った人たちも少なくないだろうと思いましたね。

そういえば、科学哲学者の村上陽一郎さんが、たしかこんな意味のことを書いていらっしゃいます。四十年近く前の岩波新書『ペスト大流行』なんですけれど、「ありとあらゆる人生の悪行を重ねてきた人々も、そのペストのときに突然慈善を行うようになった。それは自省の精神を取り戻して善行の愛好者に変身したからからではなく、多くの場合、目の当たりにする災禍に恐れおののいて、なんとか破局から身を逃れようとしたからであった」──。

人々がキリスト教に惹かれたのも、そうすれば自分は救われるかもしれないという虫のいい期待があったのかもしれません。

 

そういえば私も、最近は仏教書をよく読むようになった。『反応しない練習』を読んで原始仏教に興味を持ったからだが、コロナ禍で疲れた心を宗教が救ってくれるかもしれないという淡い期待もあっただろうか。だが生憎というか、原始仏教は安易な救いをもたらしてくれるものではない。話題になっていた『なぜ今、仏教なのか』も少々私には難しかった。もっと楽な救済を求めれば、その先はカルトへと続いているのかもしれない。そういえば『復活の日』でも、パンデミック下の日本ではカルト宗教が熱烈な支持を集めていた。

 

復活の日

復活の日

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

なぜ清朝の中国では産業革命が起きなかったのか?岡本隆司『「中国」の形成』

 

「中国」の形成 現代への展望 (シリーズ 中国の歴史)
 

 

岩波新書のシリーズ中国の歴史の最終巻になるこの本のまえがきでは、アジアと西洋の「大分岐」についてふれている。18世紀の終わりころからイギリスなど西欧では産業革命がはじまり、以降西欧諸国の覇権が決定的となったが、この分岐が起こる前の東アジアもヨーロッパと経済水準は同じだったというのだ。では「大分岐」はなぜ起こったのか、が問われることになる。本書の三章「盛世」は乾隆帝の時代を扱っているが、この章では部分的にではあるが、この時代の清朝産業革命が起こらなかった理由について解説している。

 

18世紀後半の清は乾隆帝の時代にあたり、人口は増加していて景気も良い時代だった。康熙帝の時代は「康熙デフレ」といわれるほどの緊縮財政の時代であり、鄭成功に対抗するため貿易が制限されていたこともあり、景気はよくなかった。一方、乾隆帝は贅沢の権化のような存在である。美術工芸品の収集や離宮の建設など、浪費のエピソードに事欠かない乾隆帝の個性は、「乾隆インフレ」とよばれるゆるやかなインフレが続き、好況に沸いた世相の反映でもある。

 

清朝の時代の中国の景気は、おもに海外からの銀の流入量に左右されている。本書の三章では「貯水池連鎖モデル」で中国市場の構造を分析しているが、これは各地域の市場ユニットを貯水池にたとえたものだ。海外との貿易で銀が市場に入ってくれば、商品への需要が高まり、モノが売れてその地域が潤う。結果余裕を持った地域が他の地域の商品を買うことで、別の貯水池に水(=銀)が流れ込む。この連鎖により好景気が生まれる。中国経済の体質としてひとつひとつの「貯水池」の底は浅く、外からしか水が流入しないため、西洋からの商人がおびただしく中国にやってきた18世紀後半は自然、好況になった。

 

経済全体は好調であったにもかかわらず、中国では同時代のイギリスのように資本は蓄積されず、産業資本は育たなかった。これはなぜだろうか。著者はこのように分析する。

 

大きな事業資本をそろえるには、いかに裕福でも自己資金だけでは足らない。なるべく多くの人から、遊休の資金を集めるのが捷軽である。その場合、何より重要なのは信用であり、見ず知らずの人に資金を貸しても、確実に返済してもらえる保証が欠かせない。不特定多数の人からそうした貸与・投資を促すような、リスク回避のしくみが必要なのである。

それには、ヒックスのいう公権力・国家による「規則」、具体的にいえば、権力による広域的、統一的な金融の管理・市場の規制・背任への制裁を可能とするようなしくみを構築しなくてはならない。また現代の感覚でいえば、それぞれの民間企業に会計監査や破産手続きなどを義務づけたほうがよい、ということにもなる。

ともあれ世界史上、そうした制度を創出できたのは、イギリスのいわゆる「財政=軍事国家」であり、私見ではイギリス・西欧にしか、そうしたシステムは発祥、ひいては発達、完成することがかなわなかった。イギリスを嚆矢とする株式会社や銀行・公債がその典型であり、上下・官民いずれにも適用される共通の法則が、政治・経済・社会を組み合わせて一体的にコントロールする、という制度構築がその根幹にある。

私法・民法・商法の領域・民間の社会経済に、権力が介入できたかどうか。西は是であり、東は非だった。そこに「分岐」の核心がある。

貸借の保証はそのため、東では個々人間の信頼関係でなりたたせざるをえない。信用はその範囲にしか及ばないから、金銭を貸借できる対象も、自ずから限られる。投資したところで回収できないので、余剰・遊休の資金は奢侈に費やされるのでなければ、市場に出ずに退蔵されてしまう。

これでは、いかに富民でも、大きな資本がもてない。そのため「盛世」の事業資本は、われわれが想像するよりも、はるかに小さかった。たとえ富裕な大商人であっても、たえず運転資金の欠乏に苦しんでいたのである。貧民はもとより、富民も限られた資本を奪い合い、決して安穏を約束されてはいなかった。

 

 中国はイギリスと異なり、資金を資本家に集め、産業を育成する社会システムを作れていなかった。この時期、中国の人口は爆発的に増えていたが、これを吸収できる産業が育っていなかったため、労働の対価は限りなく低く抑えられ、民衆の貧困化は進む一方だった。華人が「苦力」とよばれ過酷な労働に耐えると評価されたのには、このような時代背景がある。

 

人口が増えても耕せる土地が急に増えるわけではないから、農村からあぶれた人々は都市へ流入するか、未開地へ移住するしかない。だが移住民に対して既存の社会は冷たく、時に迫害も加える。不満をつのらせた移民は反体制に傾きがちで、秘密結社や宗教団体がこれら移民の受け皿になった。湖北や広西・四川などの辺境に移住した民の間に広がったのが白蓮教信仰であり、白蓮教徒は1796年には蜂起するにいたる。産業革命なき人口爆発は多くの場合、民衆の貧困化を招き、不穏な社会情勢を生む。産業革命の起きた西欧と起きなかった東アジアの違いについては、マクニールが『世界史』で以下のように簡潔にまとめている。

 

西欧でも人口は急速に増加した。だが大部分の西欧諸国にとっては、産業革命によって新しい雇用機会が作り出され、増えつづける植民地への移住が利用できたことから、人口の着実な増加はむしろ力の源泉となった。人口増加にこのように対応することは、日本をのぞく東アジアの国々にとっては不可能であった。アジアの場合、都市全体が経済的に破綻していた。都市部に拠点を置いた伝統的な熟練手工業、ことに織物を中心とした産業が、西欧の機械製品と競争できなくなっていたのである。都市は仕事を失った職人集団という重荷を抱えこみ、農村部の過剰人口を吸収するだけの生産的活動の機会を提供できなかった。それでも依然農村からは、都市部にむかって人口が流出していった。故郷では生活することのできない南百万人もの貧しい農民たちが、都市に流れこんだ。彼らを待っていた運命は飢えて死ぬか、あるいは臨時のはした仕事をみつけて最低生活をするしかなかった。このようにしてアジアでは、膨大な数の都市貧困層全体が不満と挫折をくすぶらせたまま、政治暴動への火種を抱える集団を構成した。

 

世界史 下 (中公文庫 マ 10-4)

世界史 下 (中公文庫 マ 10-4)

 

 

 

 

【感想】平山優『戦国の忍び』で「忍者」の最新研究に触れられる

 

戦国の忍び (角川新書)

戦国の忍び (角川新書)

 

 

この本の著者の平山優氏は『真田丸』の時代考証を務めていたことで知られている。大河ドラマにかかわって以来、氏はテレビ局や出版社から忍者についての問い合わせを受けていたが、「忍び」の実像について答えられるほどの知識を持っていなかったそうだ。真田氏に関する講演会でも忍びについての質問を受けていたため、一般人の持つ「忍者」と、戦国時代に実在した「忍び」のイメージの食い違いを調べる必要があった。そして史料を探した結果、思いのほか忍びに関する史料は豊富に残されていた。本書を読めば、これらの史料からみえてきた「忍び」の実態についてくわしく知ることができる。

 

「忍び」はどれくらい重要だったのか

本書の一章において、徳川家康が称賛した軍学書『軍法侍用集』の内容が紹介されている。これは軍学者・小笠原昨雲が著わしたものだが、この本の全12巻のうち、忍びについての記述は6巻から8巻までの3巻分にも及んでいる。戦国時代の軍事において、忍びの存在がきわめて重要なものであったことがうかがい知れる。そのことは、『軍法侍用集』の以下の記述からも明らかだ。

 

大名の下には、窃盗の者なくては、かなはざる儀なり、大将いかほど軍の上手なりとも、敵と足場とをしらずば、いかでか謀などもなるべきぞや、其上、番所目付用心のためには、しのびを心がけたる人然るべし

 

どれほど戦上手であろうと、忍びを使いこなして敵の情報を知らなければ謀略を仕掛けることもできない。大将にとって軍の運用と忍びを使いこなすことが車の両輪であり、いずれが欠けても戦には勝てない、と認識されていた。敵も忍びを使ってくるのだから、こちらも忍びを雇わなければこれに対抗できない。軍学書でその必要性を強調されるほど、忍びは戦国大名にとり必要不可欠な存在だった。

 

実在していた?伊達家の黒脛巾組

武田信玄三ツ者上杉謙信軒猿北条氏康の風魔一党など、創作物には多くの忍びの集団が登場する。これらのほとんどは同時代史料には登場しないものだ。だが、伊達政宗が抱えていたという「黒脛巾組」については、本書に興味深い記述がある。

 

黒脛巾組は江戸時代の史料にしか出てこないため、平山氏も創作上の存在と考えていたようだ。だが研究を進めるうち、黒脛巾組については「木村宇右衛門覚書」が最古の史料であることが明らかになった。木村宇右衛門は伊達政宗の奥小姓を務めた人物だが、木村の覚書の中には黒脛巾組についての記述が二箇所ある。郡山合戦についての記述では、片倉景綱が黒脛巾組を引き連れて活動する姿もみられる。

 

小雨の降るある日のこと、片倉景綱は、松川与助と、黒脛巾の者二、三人を引き連れ、七つ頭(午後四時頃)、笹蓑を着て、菅笠をかぶり、いかにも里人のなりをして、佐竹の陣所に馬で向かった。敵陣の近所で、彼らは馬を隠し、佐竹の陣小屋に近付いた。様子を窺っていると、陣所の搦手脇に、水汲み口の木戸があり、そこを開けて雑人たちが盛んに水汲みのために往復していた。片倉は、松川だけを連れ、黒脛巾らには待機させ、佐竹の雑人に紛れて陣所に潜入することに成功した。

中を見回っていると、佐竹義宣の陣小屋には、家臣らが集まり、何事か細工をしている音が聞こえたという。彼らは、義宣の陣小屋を通り過ぎ、馬小屋を見つけたので、馬の繋ぎを解き、陣所に放った。これを見つけた中間や若党たちが、慌てふためき、馬を追いかけていった。

その隙に、片倉は小屋の前に立てかけてあった立派な十文字鑓の穂先を打ち折り、土産物だといって藁に包み、分捕った。負けじと、松川も小屋の中に吊るしてあった鍋を確保し、片倉も馬の鐙を分捕ったという。これで土産物は十分だと満足した二人は、小屋から出て、水汲み口から難なく脱出した。

 

このあと、松川は佐竹の陣所に火をつけている。ここでは黒脛巾組は待機させられ活動していないが、陣所への潜入や放火などは本来は黒脛巾組の仕事だったことがわかる。信頼性の高い史料に黒脛巾組の活動が記録されているのも驚きだが、みずから敵の陣所に忍び込む片倉景綱の大胆さも驚きだ。これが本当なら、彼は政治や戦のみならず、は攪乱工作という面でも有能な人物だったことになる。

どんな者が「忍び」になるのか?

このように戦国の戦には欠かせない忍びだが、こうした人材をどこから見つけてくるのだろうか。本書では、忍びの由来は悪党にあると推測している。たとえば、武田家においては「悪い子にしていると透波になってしまうぞ」という言い方がある。乱波や透波は素行の悪いものが多く、まともな武士がなるものとはみなされていなかった。

 

忍びとアウトローとの親和性の高さは、北条家における風魔一党の活動を見ていてもわかる。風魔は確実な史料においては「風間」と書かれているが、風間たちは戦場では嗅ぎ(=偵察)などの任務を帯び活躍しているものの、配置されていた村では狼藉を働く恐れがあると警戒されている。風間は素行が悪く、味方の村々での評判は散々だった。

 

そんな者たちでも雇わなくてはいけないのは、頼りになるからである。多くの戦国大名は、領内で悪事を働く悪党に手を焼いていたが、これらの悪党の取り締まりにあたったのも忍びだったのである。北条家の風間一党なども、そのネットワークを駆使して盗賊の摘発や処刑を行っていたようだ。忍びは自分たちがアウトロー出身であるだけに、悪党の手口を熟知している。なら悪党の摘発には忍びが最も適していることになる。忍びは厄介者でもあったが、これを抱え込むことは戦国大名にとり必要悪だったのだろう。

 

忍びは夜の世界の住人

本書の第五章「戦国大名と忍び」では、中世法と「夜の世界」についての記述がある。中世法が取り締まるのはおもに昼の世界であって、夜の時間帯には中世法の保護が及ばないことが多い。戦国期に入ると、夜間に提灯を持たず通行しているものは殺害しても構わないという法もつくられる。忍びの多くは夜の闇にまぎれて働く者たちであり、昼とは別の秩序の中で生きる者たちということになる。ここにもまた、忍びのアウトロー性を見て取ることができる。

 

そのためか、忍びは戦国大名にとり必要不可欠な存在であるにもかかわらず、その扱いは軽い。彼らの多くは非正規雇用であり、使い捨ての労働力である。敵地への潜入や放火、城の乗っ取りなどの活動はきわめて危険で死傷率も高い。戦場で命を落としても、彼らは気になどかけてもらえない。本書によれば、戦死したり傷ついた忍びのその後を語る史料は存在しないそうだ。武士なら戦死すれば子孫に配慮してその様子が史料に残るが、忍びは死ねばそのまま闇の中へ消える。生きていても死んでも忍びは名誉などとは無縁の存在だ。このように歴史の影に埋もれがちな忍びに光を当て、膨大な史料の中からその姿を浮き彫りにしたところに、本書の意義があるといえるだろう。

 

『講談社学習まんが日本の歴史』が本当に最新学説を取り入れているか確認してみた

 

rekishimanga.jp 

日本史の学習マンガとしては一番新しいシリーズになる『講談社学習まんが日本の歴史』シリーズなのですが、監修者を見てみると6巻から9巻までは『応仁の乱』著者の呉座勇一氏の監修になっていました。

「古代から令和まで最新研究を網羅」と特設サイトには書かれていますが、試しに8巻を読んで本当に最新学説が取り入れられているか確認してみました。ちなみに8巻のマンガ担当は咲香里先生です。『春よ、来い』からもう21年……あの頃は将来これ描いてるとは想像もできなかった。

 

講談社 学習まんが 日本の歴史(8) ふたつの朝廷

講談社 学習まんが 日本の歴史(8) ふたつの朝廷

  • 作者:咲 香里
  • 発売日: 2020/07/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

8巻の内容は鎌倉末期から南北朝時代足利義満の時代までになります。

 

正中の変についての描写

 

陰謀の日本中世史 (角川新書)

陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

 

通説では後醍醐天皇は二度討幕を計画したことになっています。いわゆる「正中の変」と「元弘の変」です。ですが、呉座勇一氏は『陰謀の日本中世史』で、後醍醐天皇の討幕計画は一度だけだったと説いています。元弘の変では後醍醐は隠岐に流されていますが、正中の変では罪に問われていません。罪に問えなかったのは討幕計画など存在せず、後醍醐が罠にはめられたからだという河内祥輔氏の説をこの本では紹介しています。

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マンガにもこの説は反映されています。マンガ内では後醍醐天皇皇位継承者を鎌倉幕府に決められることに不満をつのらせる様子が描かれていますが、討幕計画などは立てていません。後醍醐天皇は何者かの陰謀により、討幕の首謀者とされてしまったという描写になっています。(ちなみに、『陰謀の日本中世史』では後醍醐を陥れたのは持明院統だと推理しています)

 

後醍醐に逆らう気などなかった尊氏

中先代の乱を起こした北条時行を討つため、足利尊氏征夷大将軍の任官を求めたことは尊氏が武家政権を樹立する布石とみられることがありますが、この本ではあくまで時行に対抗するために征夷大将軍の権威が必要だったとしています。

 

この点も、『陰謀の日本中世史』で指摘されています。

 

しかし近年の研究では、尊氏の征夷大将軍任官要求は、武家政権樹立への布石ではないと考えられている。鎌倉鎌倉幕府再建を大義名分に掲げる北条時行に対抗するには、征夷大将軍の権威が必要と判断したにすぎないというのである。結果を知る私たちから見れば、北条時行など物の数ではないが、当時の尊氏は直義に勝利した時行を恐れたとみるのが自然だろう。

 

また、時行征討が終わったのちに尊氏が後醍醐の帰郷命令を無視して鎌倉に滞在し、武士たちに勝手に恩賞を与えたことも尊氏の野心の表れのように見えますが、漫画ではあくまで御家人の不満を抑えるためという描き方です。

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しかし、後醍醐は帰京しようとしない尊氏を謀反人とみなして新田義貞に尊氏討伐を命じます。ここで尊氏は出家して後醍醐に恭順の意を示します。尊氏に後醍醐から独立する野心があるという前提ならこれは不可解な行動です。このため、以前は尊氏は躁鬱病だったのではないという説もあったくらいですが、尊氏が現状に満足していたのならこれはきわめて自然な行動になります。再び『陰謀の日本中世史』から引用します。

 

最近、亀田俊和氏は「尊氏の行動は不可解でも謎でもない。尊氏は、本当に心底から後醍醐と戦う気がなかったのである」と主張した。実は尊氏は妾腹の子であった。尊氏の父である貞氏の正室は北条氏出身の女性で、彼女が生んだ高義こそが足利家を継ぐはずだった。兄高義の早世という幸運=偶然によって尊氏は足利家の当主になれたのであり、本来ならば彼は部屋住みで終わる人生だったのである。

そんな尊氏が後醍醐天皇から莫大な恩賞を与えられ、北条得宗家に匹敵あるいはそれ以上の強大な権力を手にした。未曽有の大成功といって良い。後醍醐に対する恩義の気持ちはきわめて強かったであろう。尊氏は現状に満足して、天下取りの野望など持っていなかったと亀田氏は推定している。

 

結局、尊氏は先に出兵して敗れた直義を救うため新田義貞と戦うことになりますが、あくまで自衛的行動であり、恩義のある後醍醐と積極的に争う気はなかったというのがこの本での見方です。

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傍からどう見えるかはともかく、尊氏当人は後醍醐の忠臣のつもりだったため、このように苦悩することになってしまいます。

尊氏の気前のよさの悪影響

 

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この漫画では足利尊氏は野心もなく、家族思いで部下には気前が良いかなりの好人物に描かれています。たぶんマンガ史上一番爽やかな尊氏だと思いますが、気前の良さに関しては後世に禍根を残す理由にもなってしまいます。

 

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マンガに描かれている通り、尊氏が国中の諸将に惜しみなく土地や権利を与えてしまったために足利家の財政に余裕がなく、これを立て直すために足利義満細川頼之の提案を受けて明との交易を考えるという流れになっています。ですが、将軍は天皇ではないため明が国書の受け取りを拒否し、屈辱を感じた義満が権力志向を強めていく描写も見られます。

後に義満の国書を明が受け取り、明の使いが京にやってきますが、義満は使者に3回しか礼をしなかったので(明の規定では5回礼をしないといけません)、臣下の礼は取っていません。ぎりぎりのところで明の家臣になることを拒否した義満の外交感覚の鋭さも知ることができます。

 

以上みてきた通り、この間に関しては確かに新説はちゃんと反映されていました。鎌倉幕府の滅亡から建武の新生が始まり、南北朝時代が幕を開け観応の擾乱にいたるまでの流れもかなりわかりやすかったので、この時代について知りたい人にはかなりおすすめです。

 

講談社 学習まんが 日本の歴史(全20巻セット) +特典:歴史人物データカード120枚

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  • 発売日: 2020/07/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)