明晰夢工房

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小説を書く「才能」とは何か?

普通に考えれば、才能とは少ない努力で結果を出すことのできる能力のことです。ボイストレーニングもレッスンも受けたこともないのに人並み以上に歌が歌えるならそれは才能だし、それは生まれ持った能力以外の何者でもありません。

ですが、小説に関してはまた違った考え方も存在しているようです。面白かったのがこちらの文章。

小説の才能があるかチェックする方法

この文章の中で、小説を書く才能が3つの要素に分けて紹介されています。その3要素とは、

・欲求
 小説を書いている時間が一番楽しい。また書きたいと思う。
 どうしてもこれが書きたいんだ! というテーマがある。

・成長
 どうすれば、よりおもしろい小説が作れるか、創意工夫することに喜びを感じる。
 うまく行くとさらに創意工夫を重ねたくなる。そのための労力をめんどうだと思わない。

・実績
 長編小説を何作品も書き上げている。

というもので、中でも最初の「欲求」が最も大事なのだ、と指摘されています。

これは普通に考える「才能」とは異なります。どんな能力でも「一万時間の法則」があって能力を開花させるには時間をかけて磨かないといけないわけですが、強制でもされない限り、何かを1万時間も続けるのは、それがよほど好きでなければ不可能です。だから「欲求」が最も重要、ということなのでしょう。

本来の意味での「才能」がある人は同じ時間をかけても上達が早いでしょうが、そういう「才能」が欠けていたとしても時間をかければ能力は向上し得るわけで、やはり「欲求」が重要だとなります。欲求がなければ成長も感じられず、実績も積めないですから。何かに没頭できるほどそのことが好きであるなら、それは生まれつき才能を持っているのと同じことなのかもしれません。

これは小説以外の分野でも言えることだと思います。絵師の人などを見ると暇さえあれば落書きしている人というのは多いようですし、気が付けばやってしまうことだからこそ技術が向上するようです。寺田克也もそんな人だったようです。

 

寺田克也ラクガキング

寺田克也ラクガキング

 

 じゃあ、下手の横好きってなんなのか。意欲があるのに下手な人だっているんじゃないの?という疑問が当然出てくるわけですが、このことについても同サイトに回答がありました。

下手の横好きに陥るのはなぜ?・才能を開花させる方法

つまり、好きだけど下手だというのは、「好きのレベルが低い」ということなんですね。私はシヴィライゼーションというゲームが好きですが、せいぜい貴族レベルで勝てればいいか、という程度の「欲求」しかないので、全然上達しません。天帝レベルで勝ちたい人なら上手い人の動画も一生懸命研究するだろうし、日々攻略法の開発に余念がないでしょう。生まれつきの「才能」が同程度であっても、そういう人と私とでは「欲求」のレベルが違いすぎるので、差がついてしまうのは当然というわけです。

こう書いてくると、やはり努力が大事なのだ、というごく当たり前の結論になりそうですが、それはちょっと違います。 才能の2番目の「成長」について「どうすれば、よりおもしろい小説が作れるか、創意工夫することに喜びを感じる」と書かれていますが、これは書く事を楽しめるかどうか、ということです。楽しんでやっていることならそれは努力ではありません。孔子の言葉を借りるなら、

 ということです。楽しんでいる人には誰も勝てません。

……とここまで書いてきて思ったのは、「いや、その欲求が強いだとか、成長を楽しめるだとかいう能力だって先天的なものじゃないの?」ということなんですが、そこまでは私にもわかりません。「欲求」は能力が伸びるに従って強くなりそうだし、「成長」に関しては工夫次第では楽しめそう、といった感じでしょうか。ここまで先天的だと本当に何もかも生まれつきということになってしまうので、ここはもう少し希望を残すような解釈をしておきたいところです。

ノベルゲームに感じる「怖さ」

NHKBSプレミアムの「英雄たちの選択」が好きでよく見ています。

後世の人間が歴史上の人物の心中を想像して「あの時こうしていれば、時代はどう変わっていたのか」を想像するのは楽しいものです。ただそれはあくまで他人事だから楽しい、というのはあるわけで、自分自身の行動について「あの時こういう選択ができなかったの?」と問い詰められたら、心中穏やかではいられないでしょう。

 

Steins;Gate(通常版)

Steins;Gate(通常版)

 

 ノベルゲームをプレイしていると、時々怖くなることがあります。例えばシュタインズ・ゲートにはショッキングな場面が結構あるわけですけど、ここでいう怖さとは物語上のものではなくて、「今の人生はもしかして、バッドルートに入っているのではないか?」という怖さ。

ノベルゲームの主人公はゲームを進める上で、いくつかの選択を迫られます。そしてその選択によって物語の結末が変わり、別のエンディングを迎える。自分の選択しだいで未来を変えることができるのがこの種のゲームの醍醐味です。

これを自分の人生に置き換えると、今の自分の人生が過去の選択の結果であって、過去にどこかで分岐する箇所があったはずだ、ということになります。そして過去に別の選択肢を選んでいれば、今よりもいい人生を歩んでいる可能性もある。そしてそちら実はがトゥルーエンドだったりするかもしれない。

シュタインズゲートならタイムリープして過去をやり直せば良くても、この人生はやり直しが効かない。というか、そもそもどこで間違ったのかも明らかではない。別のルートに入ったところで、それが今よりいい人生であるとも限らない。

2拓でも3拓でもいいですが、ものすごく重大な選択を迫られて、あああの時点でルートが分岐したんだな、とはっきりわかるような場面が過去にある人って、どれくらいいるんでしょうか。私は進学する大学で迷ったことがないし、最初の就職もそこしか入れるところがなかったから入っただけで、あまり「ルート分岐」を意識できるようなポイントが過去の人生にありません。今思えばもっといろいろなことができたはずだとは思うけれどもそれはただの後知恵で、過去のその時点で選択肢がいくつか脳内に浮かんだ、という経験があまりない。だから実感としてはこれ一本道RPGだよな、と思ってるわけですが、ノベルゲームをプレイしていると「いやそれはお前さんの思い込みで、本当はもっと他の選択肢もあったんだよ」みたいに思えてくる。お前の人生は本当にベストだったのか?と問われているような怖さがあるわけです。

とはいえ、現実の人生はやはりゲームではないし、仮に過去のどこかでルートが分岐しているのだとしても、それでも自分なりに今のルートを受け入れつつ生きていくしかないわけです。あんまりモヤモヤしながら終わるのはよろしくないので、好きな言葉をいくつか引用しておきます。

「あぶないあぶない。自分がこうしていれば事態を変えることができた、と思いこむのは自己過信というべきではないか 」(ヤン・ウェンリー

「人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。」(小林秀雄