明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなど

新涼の季節にブログを書くということ

久々にブログを書くので、リハビリ用に「ブログを書くということ」について書くというメタなことから始めてみる。


ブログを書くとはどういうことか、について考えるたびにいつも思い出す出来事がある。学生時代、帰省するために乗っていた電車の中で、ひたすら独り言をしゃべり続けるおじさんがいたのだ。ノッポさんのような帽子をかぶり、どのような職業についているのかもわからない風体の男性はどうにかか聞こえる程度の小声でひたすら「この路線は2つ次の駅に行くと降りる人が多くてすき始める、僕は経験的に知ってるんだ…」と近隣の交通事情について話し続ける。車内はとても混雑している。皆がいつになったら座れるのかと思っているから、断片的におじさんと会話が成立したりする。しかしおじさんはすぐに独り言モードに戻り、また延々と周辺の駅の特徴やら乗り換えの情報について話し始める。自己完結のループだ。


はっきり言って怪しい人だ。怪しいとまでは言わずとも、変わった人ではある。恐らくおじさんは内気で話下手なので、独り言という体裁で電車内では誰もが興味を持っているであろう交通事情についてしゃべり続け、誰かが話しかけてきてくれるのを待っていたのだろう。しかし実際に話しかけてくれる人がいても、口下手なので会話が続かない。結局おじさんはまた独り言を続けることになる。会話にならなくても「これは独り言だから」と自分に言い聞かせていればみじめにはならない。


しかしブログを書いている我々に彼を笑えるだろうか。我々だって独り言という体裁で文章を書いていたりする。実際、「~のひとりごと」といったタイトルのブログは多い。twitterだって表向きは「つぶやき」だ。しかし本当にただの独り言なら人に見せる必要はない。公開している以上、そこには他者に評価して欲しい、誰かと繋がりたいという欲求があるに決まっている。しかしそんな欲求をオープンにして、全然相手にされなかったらこれほどみじめなことはない。だから我々はこれは「独り言」であり「つぶやき」なのだ、という言い訳を必要としている。


皆に受けるようなネタを探し、それを撒き餌としてブログに書くことで誰かが食いついてくれるのを待っているという姿勢もまた交通おじさんと同じだ。積極的に人に話しかける勇気はないが話は聞いて欲しくて、どうにか人の興味を引こうと躍起になる。注目を集めるためならわざと他人を怒らせて炎上も厭わない人すらいる。我々はそこまでしてでも話を聞いて欲しいし、承認されたい生き物なのだ。これはブロガーの宿痾のようなものだろう。


しかしそのような渇望がまた、良い文章を生み出さないとも限らない。注目されたければ注目されるような話題を選び、文章力を磨く必要がある。交通おじさんは電車内では誰もが知りたがっている混雑情報を提供する、というネタの選定までは正しかった。孤独が生み出した彼なりのコミュニケーション方法だっただろう。しかし話術の乏しさからそこから会話を発展させることができなかった。そのような人であっても、ブログで鉄道知識を披瀝すれば彼の知識が鉄道マニアに必要とされ、そのコミュニティ内では十分に承認されていたかもしれない。


法家の大家である韓非は吃音だった。うまく話す事ができないので、韓非は思うところを書物にしたためるしかなかった。韓非は吃音を兄弟からも笑われていたと言われるが、その孤独と屈辱は韓非の思考力と文章力を大いに鍛えたことだろう。韓非の文章はやがて始皇帝の目にとまることとなり、秦で登用されることになったが、ライバルである李斯の讒言により命を奪われてしまった。李斯は韓非の才能を恐れていたのだが、韓非が吃音で孤独でなければ李斯を恐れさせ始皇帝を感動させる文章を書けるようになっていたかはわからない。


そんな高みに達しなくとも、何かが欠けていることが別の能力を育てることは珍しくない。交通おじさんも今では少数の鉄道ファンの注目を集めるくらいになっているかもしれない。ではネットの大海から承認をかき集めれば心の隙間を埋められるのか。おそらくは埋まらないし、埋まらないからこそ皆ブログを書き続けるのだ。むしろ書くほどに他者との断絶を意識し、寂しさは増してしまうかもしれない。その寂しさを埋めるために、また我々は多くの言葉を尽くして理解してもらおうとする。ならばブログを書く行為はむしろ喉が渇いた時に塩水を飲む行為に等しい。それでも飢え渇いた者達の言葉が時に人の心を動かすなら、飢えも決して無駄ではない。