明晰夢工房

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創作とマッチョな価値観

創作らしきことをしていると、価値観が次第にマッチョ寄り、自己啓発寄りになっていくのがわかる。話を読んでもらえないのも、良い評価がつかないのも全て自分の問題だと考えなければ成長できないし、事実その通りだからだ。他人のせい、社会のせいという考え方はとにかく創作とは相性が悪い。


現実を見渡せば、創作が続けられるかどうかだって社会的な環境に大きく左右される。資料を集めるのにだってお金があったほうがいいに決まっているし、精神的な余裕がなければ創作どころではない。まとまった文章を書けるかどうかだって、ある程度親から受け継いだ文化資本に依存しているだろう。社会的格差と創作が無関係であるはずがないのだ。


しかしここで社会の矛盾に目をむけてしまうと、俺がいい文章が書けないのも社会的問題ということになってしまい、筆が進まなくなる。この世界は理不尽だが、それをいくら嘆いても少しでも文章が上達するわけでもない。結局、とにかく自分がコントロール可能なことに集中しなさいという自己啓発的メッセージに落ち着くことになる。創作という行為自体が個人の力で成り上がろうという方向性なのだから、土台がマッチョでなければやっていかれないのだ。


少し視点を変えてみる。小説の主人公として、自分が不幸なのは社会のせいだと考える主人公は魅力的だろうか。苦しい環境にあっても強い意志を持ち、知恵を絞ってそこから脱出するような強さが主人公には求められている。望まれる人物像がマッチョなのだ。困難から逃げるような人物は主人公としてふさわしくない。秀吉が人気があるのも、貧困から身を起こし関白にまで上り詰めるプロセスに多くの人が感動と興奮を覚えるからである。秀吉の成功は極めて例外的であるし、その背後には足軽として戦争に駆り出され死んでいく無名の百姓の存在があるのだが、そういう社会的矛盾を考えていると秀吉のサクセスストーリーは楽しめなくなる。


もちろん、社会を改革するために戦った人物が小説の主人公に据えられることはある。しかしそうした人物は人一倍意志が強く、勇気や知力に優れているからこそ社会的矛盾に立ち向かっていくことができるのであり、その志が弱者救済にあったとしても本人の資質は極めてマッチョだ。弱く自分の境遇を嘆くだけの人間が物語を動かすことができない以上、物語は必然的に主人公に強さを求める。そうした人物を中心に据えた物語を書いていると、書く側もやはりある程度影響を受ける。主人公のように強くなれなくとも、そうであろうと努力するべきだという規範意識のようなものができてくる。


自分自身、創作を始めてから社会はどうあるべきかとか、格差をなくすために何をすればいいか、といった視点が確実に失われているのを感じる。皆がそうではないかもしれないし、単に興味が創作に移ったのでそういうことを考えなくなっただけかもしれないが、創作にふさわしいマインドのあり方とはそういうものなのかもしれない。社会を変えたい人は創作などやっている場合ではないだろう。