明晰夢工房

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「物語を書く」というこの不思議な感覚

小説らしいものを始めて書いたとき、何も考えずに書き始めたが、それでもどうにか最後まで書く事はできた。よくできたという自信は無いものの、その時ある不思議な感覚が残った。それは、物語とは「作る」のではなく「できる」ものなのではないか、ということである。

世の書店にはシナリオ作りのノウハウや小説の技法の本はたくさん売られているし、自分でもそういう本はいくつか読んではいる。小説のストーリー作りに関しては、ハリウッドの脚本で用いられる三幕構成を小説に応用したものが多い。実際、こういうことは知っておくと大いに役に立つ。

「物語」のつくり方入門 7つのレッスン

「物語」のつくり方入門 7つのレッスン

 

 しかし、小説を書いていて思うのは、そうした技法的な話とは別に、自分はどこかに存在する物語にアクセスし、それをダウンロードしてきているのではないか、ということである。それであの出来なのかと言われれば面目ないが、例えば氷と炎の歌シリーズのようなよくできたハイ・ファンタジーを読んでいると、果たしてこれが作者が1から作り上げたものなのか、こういう世界が本当にどこかに存在するのではないか、という感覚にとらわれることがある。

七王国の玉座〔改訂新版〕 (上) (氷と炎の歌1)

七王国の玉座〔改訂新版〕 (上) (氷と炎の歌1)

 

 小説にも小説を書くための技術が存在するのなら、小説とは「作る」ものであるはずだ。脚本術とはいわば「小説工学」である。小説を書くというどこかとらえどころのない行為をできるだけ再現性のあるノウハウに仕立て、ロジカルに組み上げなければ小説を書く方法を人に教えることはできないはずだ。

しかし、物語を脳にダウンロードしてくるという考え方は、「小説工学」には反する。理屈で物語を組み上げるのではなく、なんとなくできるのだと言っているのだから。しかしその場合でも実は頭の中では物語を書くためのロジックが作動していて、それを意識していないだけだとも考えられる。どこかからダウンロードするように物語ができるということは、浮かんだアイデアがベルトコンベアを流れるように小説技法の工程を流れ、完成品として脳内に出力される、ということかもしれない。

今のところはやはり物語作りの基礎を学ぶ必要は感じているし、個性は型に嵌めることで生きるのだという考え方にはかなりの説得力を感じるので、主人公には必ず葛藤させることにしているし、それが最終的に解決されるようにストーリーを作ることにしている。でも考えてみると、誰にも教えられないうちからそんな風に話を作っていた。ということは、我々には物語の原型のようなものがある程度頭に入っているということなのだろうか。

おそらくこんな話を書きたいという衝動やインスピレーションの部分は、ロジックでは説明できない。その衝動のままに書き進めても、ちゃんと読める話になる人はいる。好きに書いても結果的に盛り上がる小説のロジックに従ってしまっている人である。しかしそうならない人は、着想を一旦脚本術などのロジックに嵌める必要があるのかもしれない。物語の存在する異界には誰でもアクセスできるが、物語の原型を完成品に仕立てるにはいくつもの工程が必要で、恐らくはそれが技術だ。感性がロジックと合体することで、初めて作品が命を得る。今はそんなふうに考えている。