読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

明晰夢工房

主に自分語りです。

91歳まで引退できなかった苦労人の生涯『真田信之 父の知略に勝った決断力』

 『真田丸時代考証担当の一人・平山優さんの『真田信之 父の知略に勝った決断力』が発売されたのでさっそく読んでみました。

 

真田信之 父の知略に勝った決断力 (PHP新書)

真田信之 父の知略に勝った決断力 (PHP新書)

 

 一読した印象ではとにかく信之は苦労人。信繁と比べると地味な印象のあるお兄さんですが真田家を存続させたのはこの人の功績で、信繁のような派手な戦功はありませんが、昌幸から受け継いだ荒廃した上田の復興のために力を尽くし、ひたむきに努力し続ける姿は堅実な政治家としての魅力を放っています。大河ドラマでは描かれない信之の苦労を追体験するのには最適の一冊です。

 

本書では信之の生い立ちから93歳で大往生を遂げるまでの信之の生涯を丁寧にたどってゆきます。武田家の滅亡から天正壬午の乱、第一次上田合戦から第二次上田合戦に至るまでの流れは平山さんの他の著書とも重なる点も多かったのですが、本書で最も注目すべきは第5章です。関ヶ原で西軍についたため九度山に配流となった昌幸から信之は上田領を受け継ぐことになるのですが、この時上田は極めて深刻な事態を迎えていたのです。この真田領の内政についての描写がかなり詳しく、政治家としての信之の真価を知ることのできる一冊になっています。

 

意外と血気盛んな一面も

大河ドラマでは大胆不敵で行動的な信繁に対して慎重で生真面目な信之というキャラ付けになっていますが、本書を読むと信之にも若い頃は意外と果敢な行動が見らることがわかります。忍城攻めでは父や家臣の制止も聞かずに久宮大和守という大剛の武者の守る出丸に攻めかかり、多数の損害を受けつつも出丸を乗っ取り久宮を討ち取るという武功も上げています。若い日の信之は「武闘派」の一面もあったようです。

 

実は実態がよくわからない「犬伏の別れ」

犬伏堂という宿所で昌幸と信之・信繁兄弟が密談を行い、伸行は徳川方につくことを主張したということになっています。俗に言う「犬伏の別れ」です。ですがこれは後世の軍記物にしか書かれていないことで、実態はほとんどわからないようです。とにかく信之は徳川方に付いたため、結果として昌幸が没収された領地を引き継ぐことになります。勝ち組となった信之は真田領の統治に力を入れますが、実はここからが信之の苦難の始まりでした。

「徳政令」を実施した信之

 信之が昌幸から受け継いだ領地は、戦乱と相次ぐ浅間山の噴火で極めて荒廃していました。百姓の逃散は絶えることがなく、人口は減少の一途をたどっていたのです。この状況を立て直すために、信之は一種の「徳政令」を実行せざるを得ませんでした。その内容は以下のようなものです。

 

・逃散した百姓が戻ってきたら三年間は役儀(賦課)を免除

・現在村に居る百姓には役儀を半分免除する

・誰の被官であっても村の荒地を耕作すれば百姓として迎え入れる

 

信之はこうして何とか人口の流出を止めようとしていたのです。この時期どれくらい上田から逃げ去った百姓が多かったかというと、佐渡の金山に人夫としてやってくる上田の者が多かったため、「上田箸」という道具が佐渡に存在していたくらいです。村の復興のために牢人も募集しており、実際に募集に応じてやってきた牢人もいます。

 

信之の町作り

この他にも、信之は領内の整備のため数々の政策を実行しています。新町を創設して用水路の開削も行い、伝馬制度を改善し鉱山の開発も行うなど、細かく内政に意を用いています。この箇所はなかなか専門的なのですが、近世の大名がどのように領国を統治していたのかを知ることが出来るため非常に興味深いものがあります。真田家の家臣が百姓を勝手にこき使って(これは戦国時代にはよくあることだったそうです)田畑の荒廃を招いたことに信之が激怒する場面もあり、信之が真摯な政治家であったことをうかがわせるとともに、中世的な大名から脱皮するのに苦労していたことがよくわかります。

 昌幸への仕送りが年貢の28%も!

信之は身売りした百姓を買い戻すため身銭を切っていたので真田領の財政状況は厳しいものでした。しかも信之は九度山に蟄居している昌幸・信繁父子の生活も支えなくてはなりません。慶長一五年には真田家の御料所である年貢の28%が九度山への仕送りとなっていました。このように経済的に苦しかったため、大坂の陣では小身の家臣は遠征の費用を出すこともできず、臨時に加増を行ったり、金子を貸し付けなければいけない状態でした。

息子達が散々な目にあった上、内通まで疑われる

 信之は病身のため、大坂の陣には参加していません。代わりに息子である信吉・信政兄弟が本多忠朝麾下として参加していますが、二人ともこれが初陣であるため信之は大変心配して何事も忠朝の指示を受けるようにと書状を送っています。冬の陣では戦わなかった兄弟ですが、夏の陣では天王寺の戦いに参加し、この戦いは毛利勝永とぶつかった本多忠朝が戦死するほどの激戦となりました。真田兄弟の部隊も散々に破られて重臣も討ち死にするほどの惨状となっています。

 

戦いは結局徳川方の勝利に終わりましたが、安堵した兄弟を待っていたのは内通の疑いでした。真田家中に、信吉・信政兄弟が信繁と密かに協力していたと暴露した者がいたのです。訴えたのは元武田の忍びの馬場主水でした。結局この疑いは事実無根であることが明らかとなり、馬場は放免されましたが真田家では3年かけて馬場を探し出し、殺害したそうです。ここに至ってもやはり信之の気苦労は絶えません。

松代に移されたのは秀忠の嫌がらせではない

信之は1622年、秀忠の命により松代へと移されることになります。従来信之が松代に移されたことは徳川による嫌がらせであると言われており、真田家ではこれを大いに不服としていたと言われているのですが、本書によるとこれは当時の史料では明らかにできないそうです。信之は転封を不満に思ったため、上田藩の行政書類を全て焼き払ってしまったために後から上田藩に入ってきた仙石氏が大変苦労したというのですが、実際には引き継ぎ書類は渡されているし、そのような書類は一度幕府に渡されてから引き継ぐものなので焼き捨てるなどというのはありえないことのようです。このような話は後世の捏造であると平山さんは断じています。

 

そもそも松代というのは北国第一の要害であり、松代城主を務めたのは森忠政や松平忠輝結城秀康など、徳川家にとっての重要人物ばかりです。この松代を任されるというのは、信之の秀忠からの評価が極めて高かったからなのです。つまりこれは決して「左遷」などではないのですが、そう思われているのは信之自身が上田を去ることを寂しいと思っていたからではないか、と平山さんは推測しています。

 

これが本当の「兵農分離

信之が上田から松代に移るにあたって、上田に残って百姓になる家臣も存在しました。戦国時代が終焉を迎えたため、村から兵を動員する必要が無くなったので、結果的に「兵農分離」が達成されたのです。これについては平山さんと同じく真田丸時代考証を務める丸島和洋さんも『真田四代と信繁』の中で同じ見解を示しています。

 

真田四代と信繁 (平凡社新書)

真田四代と信繁 (平凡社新書)

 

 江戸幕府が成立した結果、「非正規雇用」であった村落の「傭兵」は解雇され、 「正規雇用」である武士が城下町に集住することになった。つまり兵農分離とは、政策ではなく、平和の達成に伴う結果論と評価できる。

 「兵農分離」を達成していたと言われる信長や秀吉の軍隊も実は他の戦国大名の軍隊と何も変わりはなく、そんな政策傾向すらなかったというのが実態のようです。それは真田家も同様で、戦争のない世界では堀田作兵衛のように普段は畑を耕していて戦のある時は刀を取るような武士はいなくなったということでしょう。

 

91歳まで引退を認めてもらえない信之

信之は長命だったので、松代に移って以降、戦国を生き抜いた仲間が次々と逝ってしまいます。真田丸の登場人物だと出浦昌相矢沢頼幸小山田茂誠など。それどころか、信之の実子すら信之より先に亡くなってしまうのです。信之の長男である信吉は沼田藩を継いでいましたが、42歳で幼い孫を残して逝ってしまいます。この孫もわずか7歳にして夭逝してしまい、結局沼田藩は次男である信政が継ぐことになります。この時点ですでに信之は73歳になっており、何度も幕府に隠居を願い出ていましたが、まだ将軍である家綱が幼いという理由で認めてもらえませんでした。戦国の世を生き抜き、すでに徳川3代に仕えている信之は大いに尊敬を集めていたのです。ようやく信之が家綱に隠居を認められた時、信之は91歳になっていました。信之は幕府に願い出て真田領を松代と沼田に分割し、松代を次男である信政に、沼田を孫の信直に継がせます。

 

最後の意地を見せた信之

 すでに90歳を超え、ようやく隠居することができた信之ですが、その信之をさらなる苦難が待ち受けていました。真田家中に御家騒動が持ち上がったのです。信之は隠居した後、松代藩を次男である信政に継がせていましたが、この信政が62歳にして急死してしまいます。信之は二人の息子の死を見送ることになってしまいました。信政にはわずか2歳の幼い息子(幸道)が残されているだけです。

 

ここで幕府が跡目争いに介入してきます。当時沼田藩は24歳の真田信直が継いでいましたが、老中酒井忠清の威勢を背景に松代相続のために動き出します。酒井忠清はまだ幼い幸道では心もとないので信直を当主にするのが良いのではないかという書状を送ってきますが、幕府の介入を恐れた信之は断固として信政の遺言である幸道支持で家中をまとめ、酒井忠清の介入を退けました。これが信之の最後の仕事となりました。

 

その後の松代藩

実はこのあと、松代藩主になりそこねた信直は松代藩に対抗するために三万石では支えきれない過大な家臣団を抱え込み、領民に重税を強いるなど多くの問題を起こしているのですが信之死後のことですのでここでは詳しく書きません。松代藩は幕末まで存続し、やがて佐久間象山を輩出し維新史へ大きな影響を与えていくことになります。

マクロに見ると、信之が真田家を存続させたことが最終的に徳川幕府を滅ぼすことにつながっています。信之が犬伏で徳川方に付くことを決断した意義は、本人すら自覚できないほど大きいものだったのかもしれません。

 

意外と多い信之ファン

本書のあとがきで、平山さんは2011年に一度信之伝を書く事を思い立ったものの、その企画は実現しなかったと書いています。しかしそのことを酒宴の席で告白すると残念がる人が多かったそうです。信繁に比べて派手な合戦での活躍があるわけでなく、どうしても昌幸や信繁の影に埋もれがちな信之ですが、その堅実な統治手腕や苦境に置かれても決して諦めない意志の強さなどに惹かれている人は少なくなかったのかもしれません。なぜ信之の存在がそれほど多くの人を惹きつけているのか、本書を紐解いてみればその理由がよくわかります。