明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなど

誰とも共有できない趣味を見つけたい

特に外向的な人にとって、趣味というのは多くの場合、人間関係の触媒なのではないでしょうか。なにか趣味を探そうとした場合、「それがどれだけ楽しいか」も大事だけれど、「それを通じてどれくらい交友関係が広がるか」を大事にする人達というのがいます。もちろん何も間違っていません。新しい楽しみが増えて人間関係も増えるのは基本的には良いことでしょう。

 

しかしここ最近、ウェブ上での軋轢をたくさん見すぎたせいなのか、「これは自分しかのめり込んでいる人間がいない」と言える趣味は何かないだろうか、と考えるようになってきました。同好の士がいない趣味ならばそこで人間関係のトラブルが生まれようがないし、自分より知識の豊富な人からマウントを食らったり、レベルの高い人を見て劣等感に悩まされることもない。仲間がいない代わり、人間関係の面倒さから一切解放される。趣味というのは自分の楽しみにやるのだから、そうした面倒な要素を一切排除した楽しみ方もアリなのではないか。むしろ仲間が誰もいないのにそれを楽しめるのなら、それこそ純粋な「趣味」と言えるのではないか。最近よくそんな事を思うのです。

 趣味の世界でまで競争はしたくはない

結局のところ、そこに人間がいる限り、人は周りと比較したり競争したりすることをやめられません。あまり比較しないようにしようと意識を保つことはできても、優れた人というのはどうしても目に入るものです。こちらが競争する気がなくても、否応なく自分の実力不足を見せられる場面というものは多いものです。僕のように小説を書いたりしていると特に。ただ自分の書きたいものを書いていればいいのだと言い聞かせていても、自作よりも話題を集める人や作品を完全に意識の外に追い出すことはできません。創作は楽しいことも多いですが、比較による苦しさも必然的に付きまとうのです。

趣味は「道」ではない

以前、ある動画界隈のことを知りたいと思って色々と見て回っていたことがあるのですが、どうもその界隈では作品の歴史を知らなければいけないらしく、「まず新参が見ておかなければいけない作品」といったまとめがあり、「この作品は○○Pのこの作風に影響を受けている」ということを押さえなければ十分には楽しめないジャンルのようでした。そこで知らなければいけな過去作というのがかなり多くて結局僕は挫折してしまいました。そこまで思い入れがなかったというだけのことかもしれませんが、楽しむために高いハードルを課されると、よほど強いモチベーションがない限り入っていけません。

 

日本人は労働を「労道」だと思っているという指摘がありますが、ある種の趣味においても「趣味道」のようなストイックさを求められているのではないか、と思うことがあります。今はそうではないかもしれませんが、かつてSFでは「まずSFを千冊読め」と言われていた時代があるそうです。千冊も読まなければ語ることもできない。これでは趣味というよりも修行です。本当にSFが好きな人は読めと言われなくても千冊読んでしまうのかもしれませんが、そこまでSF一筋な人はかなり限られるでしょう。

人の多いジャンルだと……

例えば歴史というジャンルだと三国志や戦国時代なんていうのはかなり巨大なジャンルなのですが、人口が多いだけにあまりいい加減なことを言えない緊張感というのがあります。別に人口が少ないからいい加減でもいいというわけではないのですが、人口が多いほど○○警察も多い。間違った知識が正されなければいけないのは仕方がないことなのですが、先日はあるtogetterまとめで予備校の講師らしい方がローマ史の偉い人らしい方に詳細なツッコミを入れられているのを見て戦慄しました。内容自体はとても勉強になるのですが、予備校の講師ですらそんなに間違うのなら、自分はどれくらい間違った事を言っているのか?と不安になったものです。 もちろん突っ込まれたのは予備校で歴史を教えている方だからこそで、ただの一素人が多少おかしな事を言おうが大した問題でもないでしょうが、自分でも歴史物の小説を書いたりするのでいつ突っ込まれるのかと思ったりします。と言っても、有名人に見つかるほど作品が話題になったことなんて一度もないのですが。

自分だけの砂場で遊びたい

要はこれがやりたいだけなのです。別に誰にも注目されなくていいし、誰かを追い出して広い砂場を独占しなくてもいい。ただ世界の片隅に小さな砂場を確保して、そこで一日中ひたすら砂をこねていたい。そんな心境になることがあります。これをやりたければ、とにかく人の少ないジャンルを探すしかありません。しかしこれは簡単ではありません。人が多いジャンルというのは面白いから人が多く集まってくるのだし、まだ注目されていないのに面白いジャンルというのがどれくらいあるのか。そんなものを見つけられるほどの嗅覚が自分にあるのか、あまり自信がありません。しかし注意深く探していくと、とても面白いジャンルがあることにも気づきます。

最近こんなことに注目しています

去年買った本なのですが、この本は大変興味深く何度も読み返しています。

オホーツクの古代史 (平凡社新書)

オホーツクの古代史 (平凡社新書)

 

帯には、「北海道以北に存在した、誰も知らない古代文化」とあります。内容はタイトル通りオホーツク文化についての本なのですが、かつて北海道のオホーツク沿岸やサハリンなどに存在していたというこのオホーツク文化については未だに謎が多く、強く興味を引かれるものがあります。こういう本が出版できるくらいなのだから「誰も知らない」は言いすぎですが、おそらくこの本の内容について詳しい人はそんなにいないだろうと思います。

 

何しろこの本の中で展開されているのは、かつて一度だけ唐に朝貢したという「流鬼国」と、さらにその北方に存在したという「夜叉国」 は一体どこに存在したのかという論争なのです。この名前だけでもそそられるものがありませんか?この論争はかなり古くから存在していて、流鬼国はサハリンかカムチャツカなのかということを文献史料と考古遺物を駆使して探求していくのですが、この推理の過程がなかなかにスリリングで、個人的には邪馬台国論争よりもずっと面白いと思いました。凄い話ですよね、もし流鬼国がカムチャツカだったら、そんな遠くにまで唐の威光が及んでいたということになるのですから。

 

この流鬼国というのはオホーツク文化圏に属していると本書では考えられているのですが、先にも述べたようにオホーツク文化圏は北海道にも存在しています。北海道のオホーツク文化の遺跡では豚を食べた痕跡があり、女真の遺物も出土しています。これは遼や勃海などが勃興したため、これに押された周辺の民族が北海道北岸にまで移動してきたのだという説もあります。この説は本書では支持されていませんが、北方でそんな「民族大移動」が起きていた可能性があるというだけでもロマンがあるのではないでしょうか?実際、中世にはモンゴルと争っていたサハリンのアイヌが海峡を渡り、大陸にまで攻め込んでいた記録も残っています。北の大地の民族の動きは想像以上にダイナミックなものだったのです。

 仄暗い愉しみ

 この北方史に関してはアイヌやモンゴル、明などとも絡んでまだまだ面白い話がたくさんあるのですが、今回はここまでにしておきます。趣味を通した交流もいいものですが、こういうマイナーな分野を見つけてこっそり楽しむような楽しみ方もなかなか良いものです。あまり光が当たっていないがゆえに「こういうことをしているのは自分くらいだろうな」という仄暗い愉悦に浸れるし、マイナーであるがゆえに書籍も少なく、あまりお金をかけずに全体を俯瞰できるメリットもあります(それだけ調べるのが大変ということでもありますが)。良いターゲットを見つけたら時には人間関係を離れ、ひたすらに興味関心の赴くままに掘り進めていくのも悪くありません。