明晰夢工房

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青年の怒りが天元突破してる『幸せになる勇気』

『嫌われる勇気』から二年を経て、あの男が帰ってきました。そう、哲人の対談相手であるあの「青年」です。本の中では三年の時間が経ったことになっているのですが、前著では大学図書館で司書を勤めていた青年は教師になっていました。そして教育現場で再び芽生えたアドラーへの疑問をぶつけるために、青年は再び哲人のもとを訪れるのです。そう、今度こそ哲人を論破するために。

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

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 この「青年」、前著である『嫌われる勇気』でもなかなかにキャラが立っておりまして、とにかく激しやすく、ネガティブで自分が嫌いで芝居がかったセリフを吐く痛々しい人物となっていましたが、今回さらにキャラ立ちに磨きがかかっています。何しろ冒頭からこんな具合です。

青年 はっはっはっ、これはお笑いだ!言うに事欠いて、愛ですって?ほんとうのアドラーを知りたければ、愛を知れと?

哲人 この言葉を笑えるあなたは、まだ愛を理解されていない。アドラーの語る愛ほど厳しく、勇気を試される課題はありません。

青年 ぺっ!!どうせ説教じみた隣人愛を語るのでしょう。聞きたくもありませんね!

 青年、怒りのあまり冒頭からいきなり唾まで吐いてしまいました。これは特別青年が怒っている場面を抜き出しているのではなく、全般に渡ってこんな調子です。『嫌われる勇気』の青年の怒りを80とすると、今回は120くらいです。完全に限界突破しています。

 

本書は終始このような青年のオーバーヒート気味のテンションの高さに引きずられ、僕は最後まで割と楽しく読むことができました。心理学の本として読むと相変わらず色々と気になる点はあるのですが、この青年を細面のメガネ男子で想像するとかなりの萌え本として読むことが可能になるかもしれません。穏やかな哲人に口角泡を飛ばしつつ食ってかかる熱い青年、いいじゃないですか。このノリは嫌いじゃないですよ。

アドラー心理学反証可能性はない

多くの人が疑問に思っているであろうことを代弁させたのか、青年は哲人に「アドラー心理学は科学なのか」という問いを突きつけます。これにたいして哲人は反証可能性を持つ科学なのかと言われれば、それは違う」と答えています。アドラー自身は自分の個人心理学を科学だと言っていたそうですが、「共同体感覚」について語ったとき、多くの人がこれは科学ではないとしてアドラーのもとを去って行ったそうです。

 

では、アドラーの個人心理学とは何なのか。哲人は、「ギリシア哲学と同一線上にある思想であり、哲学である」と答えています。この時点で僕がこの本に求めている答えは得られました。アドラー心理学が人の心理を客観的な科学として記述したものなのであれば、それは逆らいようのない真実だということになります。でも思想や哲学の類いなのであれば、これに従うかどうかはその人の趣味の問題です。僕はアドラーの「思想」には賛同できない点が多いので従う気はありません。好きな人だけ読めばいい。

 

……で終わっては当然面白くないので、もうしばらく青年の怒りに付き合うことにします。この本では青年が教師に転職したため、必然的に話題は教育論に及びます。青年はなかなか言うことを聞かない子供たちを叱ったり褒めたりしてどうにかいい方向へ導こうとするのですが、なかなか上手くいきません。ここでまた哲人のアドラー心理学が快刀乱麻を断つごとく問題を腑分けしてみせるのです。

賞罰で人を動かしてはいけない?

アドラーは教育論の根幹として賞罰を否定しています。褒める叱るは教育の基本だと思われているのに、なぜこれをしてはいけないのか?それは哲人に言わせると、問題行動を起こす原因となってしまうからです。子供を思いとおりに動かすために褒めようとすると、その子は褒められなければ良い行動をしなくなるし、叱られなければ悪い行動をするようになってしまう。 このようなライフスタイルがアドラー的には望ましくないものなのだそうです。韓非が助走つけて殴りに来そうな世界観ですね。

 

言いたいことはわかるのですが、人を褒めることがそこまで否定される行為だろうか、という疑問がわいてきます。褒められなければ良い行動を取れない人は「称賛の欲求」をしているのだといい、これは問題行動の第一段階だということになっているのですが、褒められることを望む子供は果たして「問題行動」をしているのでしょうか?アドラー心理学では承認欲求を否定する立場に立つのでこう考えるのも当然なのでしょうが、一方で褒めることは強く人を奮起させる行為でもあります。その効用を全否定できるのでしょうか。

 

褒められるのを望んでいるのは大人だって同じことです。「称賛の欲求」が問題行動であるならば、ろくに給与も払わず褒めもしないのにうちの社員はモチベーションが低い、甘えているというブラック企業の言い分が正しいことになってしまいそうなのですが、これは考え過ぎというものでしょうか。

一日を50円で売るブロガーは「注目換気」をしているのか

アドラーの考える「問題行動」には五段階があり、「称賛の欲求」が満たされなければ、次に子どもは「注目換気」をするようになります。これはいいことをしても褒められなかったり、そもそも褒められるようなことをする意欲や能力に欠けている場合、「褒められないならせめて目立ってやろう」とすることです。ブログ空間にもそういうことをする人、確かに多いですね。まともに人を呼べるコンテンツが作れないからと奇行に走るブロガーは今も後を断ちません。彼らは褒められなかったゆえにそうした行動に走ってしまうのでしょうか。ならなおさら褒められることは大事だし、奇行に走る前に承認欲求が適切な形で満たされることが必要なのではないかと思うのですが……

 

なおさらに問題行動の上の段階として、「権力争い」「復讐」「無能の証明」といったものもあります。これらいずれもブログ界でもよく見かけるものです。荒れたインターネットは学級崩壊の教室のようなものなのかもしれません。

褒められると競争が苛烈になる?

なぜ、褒めてはいけないのか。それは結局、褒めることで人を動かそうとすると人は賞賛を求めて行動するようになってしまい、それが競争を苛烈にすると哲人は説きます。つまり、いかにリーダーの寵愛を得るかに必死になってしまうということです。確かにどうやってゴルスタ運営に好かれるかに必死だった中高生を見ていると、賞罰によっていびつな空間を作り上げてしまうこともできることを思い知らされます。特にウェブ小説の投稿サイトなどではフォロー数やポイントなどによって「褒められた数」が可視化されてしまうので、それによって競争が苛烈になっている一面は否定できません。

 

僕は一年間創作活動を続けてきて、自作が期待していたほどの評価を得られなかったために人格が歪んでいったり、人気作家への嫉妬がひどくなっていく人を何人も目の当たりにして来ました。そういう意味では、確かに褒められることを目的に行動するのは不健全であると言えるのかもしれません。でもこれもやはり程度問題で、人に褒められたいという欲求が作品のクオリティを上げたり、執筆する強力なモチベーションとなるのも一面の事実です。この点から、やはり承認欲求を全否定することは僕にはできません。

「与えよ、されば与えられん」って結局承認欲求では?

アドラー心理学では、幸せになるには他者への貢献が重要です。前著『嫌われる勇気』でもこの点が何度も強調されました。人は自分が役に立たない人間だと思い込むと幸福感が下がるので、確かにこれは大事な点だと思います。ですが、本書では哲人は青年に対して「与えよ、されば与えれらん」と言っています。これは他者が先に自分を尊敬するべきだ、それなら自分も他者を尊敬できるという青年の言葉に対して哲人の持ち出した言葉です。

 

多くの自己啓発書が「成功するためには、まず自分から与えること」を説いています。これ自体は全く正しいと思います。アドラー自己啓発の源流と言われるだけに、やはり同じことを言っているのです。ですがこの「与えよ、されば与えられん」とは、「まず他者を承認すれば、あなたも承認してもらえますよ」と読み替えることもできます。実際にそういうことは多々あると思いますが、それならば結局承認欲求自体は否定できていないことになります。

 

繰り返しますが、他者から承認を求めること自体は何らおかしなことではないと僕は考えています。でもアドラー的には、そこは「与えよ、でも一切見返りは求めるな」でなくてはいけないのでしょうか?与えれば返してもらえるよ、ということをモットーに掲げるのなら、それは結局承認を与えて欲しいという「目的」のために行動していることになるのですから。

トラウマ否定は相変わらず

 この点は前回も指摘しましたが、本書でも相変わらずトラウマは全否定されています。哲人によれば、カウンセリングにくるほとんどの人は「悪いあの人」「かわいそうな私」の話しかしないそうです。アドラーの目的論の立場ではこれは「不幸な私に注目して欲しい」という「目的」のためにとる行動だと解釈されますが、これはいまトラウマに苦しんでいるをさらに苦しめかねない考え方です。全ての人が「悲劇という安酒」に酔うためにトラウマを思い出しているわけではないでしょう。

saavedra.hatenablog.com

しかし、東日本大震災やアフガン戦争などでも実際にPTSDの症状が出ている人が実在するわけですし、「トラウマは存在しない」と決めるけることはできないのではないかと思います。目的論の立場に立つなら、震災で不安症状が出るようになった人も周囲に心配して欲しくてそういう症状を出しているのだ、という話になりそうですが、このような事を言っては今トラウマに苦しんでいる人に対する二次加害になりかねないのではないでしょうか。

やはり、この思想は乗り越えられたほうがいい

哲人は青年と一晩に及ぶ議論を終え、「そしてできれば、アドラーの思想をそのままに継承するのではなく、あなた方の手で更新していってください」と言います。アドラー原理主義者になってはいけない、というのが哲人の望みなのです。であれば、やはりアドラーの言うことといえども鵜呑みにはせず、時には批判を加えていくことも大事なことでしょう。

 

『嫌われる理由』は200万部を越える大ベストセラーとなり、その後もアドラーに関する書籍は多数出版されています。この本の感想を検索してみても肯定的なものがほとんどで、もはやアドラーは一つの権威として確立してしまったかのような印象すらあります。むしろこの状況下では、アドラーを批判する方が『嫌われる勇気』が必要な気がします。アドラーを褒めている人は、本当に心底良いと思って賞賛しているのでしょうか。それなら良いですが、もし周りのアドラー礼賛の空気に逆らえずにいるのなら、それは結局「嫌われる勇気」がなく、「他人の人生を生きている」ということになってしまいます。

 

冒頭で哲人が述べているように、アドラー心理学エビデンスのある科学ではなく、思想・哲学というジャンルに該当するものです。もし本書を読んでアドラーの思想に納得できなかったら、アドラー「抵抗する勇気」も、自分の人生を生きるには大事なことではないでしょうか?