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ヤマザキマリ『男性論』を読んで、才能とは何かを考えた

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男性論 ECCE HOMO (文春新書 934)

男性論 ECCE HOMO (文春新書 934)

 

 本の内容は、ヤマザキマリさんが古代ローマルネサンスの気になる男性について語るエッセイ。ジョブスや花森安治など現代人への言及も結構多い。

 

著者の人間観を知るために読んでも面白いのだが、個人的に一番心に残ったのはヤマザキさんが自分の過去について語っている箇所だった。

 

ヤマザキマリさんは画家を志してイタリアに渡り、フィレンツェで知り合った詩人と結婚したが、この詩人というのがあまり働かない人で、彼女の仕送りとバイト料を当てにして生きている人だった。文芸の素養もあり、その意味では魅力的な人だったのだろうが、働かないのに浪費家で、ヤマザキさんが妊娠しているときも素性の分からない人達と飲み歩き、喧嘩して重症を負い入院したことまであった。

 

夫がこのような人であったことに加え、妊娠うつとつわりに苦しんでいたヤマザキさんは、この時すでに夫と別れることを決意していたという。ファンは周知のことなのだろうが、ヤマザキさんにこいう過去があることを僕は初めて知った。文章は割とからりとしているのですんなりと読めてしまうが、なかなかに重い過去だ。

 

この詩人については今では感謝していると書かれているので、このことはすでに彼女の中では決着のついたことなのではないかと思う。

とにかく、ヤマザキさんがフィレンツェで詩人と過ごした十年はこのような困難の連続だった。普通ならこの時点で絵を描くことは諦めているかもしれない。実際にヨーロッパ美術史を勉強し、教育機関に就職することも考えたという。

 

しかし、彼女の下した結論はこうだった。

 でも、やっぱりだめだった。何をしても結局、絵を描いてしまう。時間に支配される感覚から開放されるのは、絵に向き合ったときだけでした。それで食べていけるかはわからない、評価されるかもわからない。だけど、私はやはり絵を描く人間なのだと悟った時、腹をくくった気がします。もう『フランダースの犬』のネロ少年になっても仕方がない、絵描きとしてのたれ死んだとしても構わないや、と。

 この箇所を読んで、「絵の才能がある」というのは、まさにこういうことなのではないか、と思った。普通に考えれば、「才能がある」というのは「生まれつきある能力に秀でている」ということだ。

しかし、ある潜在能力があったところで、「これをどうにか形にしたい」という強力な渇望がなければ、それは外に現れることはない。外に現れない才能はないのと同じだ。才能を語るなら、それを形として残したいという当人の欲求とセットにして語らなければいけない。

 

僕は大学時代、男声合唱をやっていた。三年上の先輩にものすごく才能のある人がいて、ボイストレーナーの先生にもプロになったほうがいいのではないかと言われるほどの人だった。

しかし、彼は研究者を志していて、歌で食べていく気はまったくなかった。彼は迷うことなく化学の研究者の道へ進み、歌の道への執着は全く持たなかった。彼にとって歌とはあくまで趣味として楽しむものだったからだ。

 

こういう人には、「生まれつきの能力」という意味での「才能」はあっても、表現への執着という意味での「才能」はない。それがなければ世に知られることはないし、知られなくても当人は全く問題がない。アイデンティティを表現することに置いていないからだ。

 

ヤマザキマリさんのような人は、意志が強いとか、逆境に強いだとか、そういうレベルで語れる人ではないように思う。

彼女のような人は、当人が語っているように、「何をしても結局、絵を描いてしまう」のだ。尽きることのない表現欲求に、自分自身が突き動かされている。

表現すること自体が生き方になってしまう、これが「才能がある」ということではないか、とこの本を読んで強く感じた。

 

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強烈に執着できる対象があることが、当人に幸せをもたらすとは限らない。その対象が社会的な需要とマッチしていなければ、それは「呪い」としか言えないような状況になってしまうこともある。

それでもなおその道に人生を賭けることしかできないのが「才能」のある人なのだろうし、それはその人の「業」と言い換えてもいいものなのかもしれない。