※このエントリは『純潔のマリア』のネタバレを含みます
魔女と聖母の特徴を併せ持つマリア
最近の漫画はとにかく長い。
面白くても全巻負うのは大変だ。
その点、この漫画のように3巻程度で終わってくれると読者の労力的にはたいへん助かる。
作者にとってはどうかわからないが、読む側としてはこれくらいの長さが一番収まりが良いような気もする。
さて、この『純潔のマリア』という作品。
しばらく積んでいたが、読んでみるとたしかに面白い。
マリアを始めとして脇を固めるアルテミスやビブ、エゼキエルなどのキャラクターも魅力的だ。
百年戦争当時の中世の風俗がきちんと描写されているのもいい。
兵士は占領した村で略奪をし、女を犯し、村人を迫害する。
そんな民衆を救うはずの聖職者も堕落しきっていて、妾を囲ったりしている。
聖職者がそんな体たらくだからこそ、マリアのような魔女が民を救わなくてはならなくなるのだ。
大天使であるミカエルすら戦争に苦しむ民には何もしてくれない。
本来神の敵であるはずの魔女の方が民衆の力になってくれるという、どこか善悪が逆転しているかのような世界が『純潔のマリア』の世界だ。
この作品の中で、マリアはやたらと処女であることを強調されていて、使い魔にもそのことをからかわれたりしている。
魔女なら本来男をたぶらかすくらいのことをやっていても良さそうなのに、マリアはなぜか純潔を保っているのだ。
マリアが処女なのは、処女のまま神の子を産んだとされる聖母マリアの存在を主人公に重ねているからだろう。
魔女なのに聖母のキャラクター性を合わせ持っている主人公、というわけだ。
そんなマリアが大嫌いなのが戦争。
大天使ミカエルが何もしてくれないものだから、マリアは魔術を駆使して少しでも戦争の被害を減らそうとする。
作品中ではバジリスクを出したりドラゴンを呼び出したりしてイングランド兵を脅す場面が何度も描かれる。
しかし目立ちすぎたため、マリアはミカエルに目をつけられてしまう。
そしてマリアはミカエルに、処女を失ったら魔女としての力も失うという制限を課されてしまう。
マリアが最後に下した選択とは?
実はマリアのもとには、彼女を慕うジョセフという少年兵が足繁く通ってくる。
しかしマリアは(処女だから?)彼の気持ちに気付いていない。
鈍感なマリアは、ラスト付近で戦場でジョセフの告白を受けて、ようやく彼の思いを受け入れ、戦場を埋め尽くす兵たちに対してこう叫ぶ。
「あたしネッ 彼氏が出来ましたー!」
「というわけであたしとジョセフは幸せに暮らします!皆も戦争なんかより幸せさがした方がいいわよ!」
イングランド兵の剣を魔法で花に変えてしまったマリアは、この後ミカエルの前でこう述べる。
「結局一人ひとりが自分の幸せを見つければ、世界は皆幸せになるもんね!」
……いやいやいやいや。
なんか強引にいい話ぽくまとめられてる気がするけど、本当にそれでいいのか。
もしこれが劇場アニメなら、ここでエモい曲の一つも流せば、僕も結構感動していたのかもしれない。
しかし、劇場を出た瞬間に「ん?なんか騙されてない?」と思っただろう。
それぐらい、このラストには僕は違和感を覚える。
実際、エゼキエルがこの後にマリアに突っ込んでいるように、「そんなに単純に行くならば誰も最初から苦労しないでしょう?」という話なのだ。
マクロの問題をミクロで解決しようとする人達
一人ひとりが幸せになれば、世界は皆幸せになる。
それは確かにそうかもしれない。
しかし、『純潔のマリア』の世界でそれが難しいのは、フランスとイングランドがずっと戦争をしているからなのだ。
戦争というマクロな不幸がある限り、一人ひとりが幸せになることは難しい。
男が戦争に駆り出され、兵士があちこちで女を犯し略奪をしているような世界では、個人がそれぞれの幸せを探す余裕などない。
だからこそマリアは戦争を嫌っていたはずだ。
もちろん、マリアにだって個人の幸せを選ぶ権利くらいはある。
魔力を失ってジョセフと静かに生きていくのだって、全然アリだろう。
しかし、それこそが世界を救う方法なのだと言われれば、そうじゃないだろう、と言わざるをえない。
現実の世界でも、こういうどこかずれたアドバイスをする人というのはいる。
貧困や格差の解消を訴える青年に向かって、「君がそういうことを気にするのは自分が貧乏だからなんだよ。自力で稼ぐ力を身に着けないと」とか言ってしまう経営者のようだ。
貧困をなくそうと訴えている青年は自分だけが成功すればいいなんて思っているのではないのだから、「自分が金持ちになればいいのだ」なんてアドバイスは全く噛み合っていない。
マリアの言っていることは、「一人ひとりが金持ちになれば、貧困という問題なんて世界から消滅する」と言っているようなものなのだ。
貧困とは、政治や経済政策の失敗によって引き起こされるマクロな問題だ。
それを「自分が成功すればいい」というミクロな話で乗り越えようとしたところで、成功できるのは一握りの人間だけだ。
マクロな問題は、マクロに対処するしか解決法がない。
もちろん、百年戦争というマクロな問題を解決する義務なんてマリアにはない。
それはイングランドとフランスの為政者がどうにかするべき問題だ。
ただ、「一人ひとりが幸せになれば世界も幸せになる」と言うのはやはり単純に過ぎるだろう。
そう簡単には行かないからこそ、マリアもせめて目の前の人間だけでも戦争の苦しみから救おうとしていたはずだ。
ミカエルに「そんなことをしたところで兵達は他の村で略奪をするだけだ」と言われても、マリアは目の前の村一つを守るくらいがせいぜいだし、それでよかったはずだ。
自分なりに力のない民の支えになろうとしていた頃のマリアに比べれば、「一人ひとりが幸せになればいい」と言ってのけるマリアは個人の小さな幸せの中に引きこもることで、かえって主人公としての魅力を失ったように思えてしまう。
個人の幸せと世界を救うことは対立項ではないかもしれない、が……
僕個人の希望を言えば、マリアには魔力を使って戦争の惨禍から人々を救い続けてほしかった。
だがそれはこちらの事情にすぎない。
別に世界のことなんてどうでもいいから私はジョセフとの愛に生きるのだ、でも良かったのだ。
しかしこの作品は、その個人の幸せを「それが世界を救う道でもあるのだ」と繋げてしまった。
個人の幸せが積み重なれば世界も幸せになる、というのは事実ではなく、マリアの願望にすぎない。
その考えは戦争という人々に不幸をもたらすマクロな問題に目を背けているからだ。
ジョセフと結ばれたマリアはいずれは純潔を失い、魔力を使えなくなるだろう。
それはつまり、魔力を使って人々を戦争から守ることができなくなるということだ。
それが悪いと言いたいわけではない。
マリアが世界を救うことなど投げ捨てて個人の幸せを選び取ったって全然問題はないのだ。
ただ、その結果として救えなくなる人達もいるかもしれないという現実は見据えなくてはいけないのではないかと思う。
このラストは世界を救うか自分を救うかという矛盾を、「自分が幸せになれば世界も救われる」とすることで止揚したかったのかもしれないが、その試みは成功しているようには思えない。
マリアによって剣を花に変えられた兵士たちは、これで戦争を止めるのだろうか。
おそらくそんなことはないだろう。
戦争というマクロな不幸の問題は残されたままだ。
本作はそうした問題を、ジョセフとマリアのカップル誕生というエモいエピソードで覆い隠してしまっているように思える。
戦争の絶えない世界で、マリアとジョセフは幸せに暮らし続けることができるのだろうか。
それまでが良い作品だっただけに、そこがどうしても気になってしまうのだった。