明晰夢工房

主に自分語りです。

創作者は批評するだけの人よりも「偉い」のか?

これは多くの人の心に刺さる言葉?

去年のまとめなんですが、こういうものを読みまして。

togetter.com

まとめてある英訳の文章を文字起こしすると、こうなります。

「否定的な批評を行うことは容易である。なぜならば、どんなものでも、じっくりとよく見れば欠点を見るけることは常に可能だからである。もっぱら欠点に注意を向け、価値あることを無視することは至極容易なことである。しかし批評の主たる魅力は、批評されているものよりも批評しているもののほうが偉くみえることである。批評することは極めて容易なので、それがしばしば、他のいかなる方法によっても人の興味を引くことができない凡庸な輩の避難所となる」

 

まあ、確かにいろいろな人に刺さりそうな文章ではありますよね。

人の作品にネガティブなことばっかり言う人に「貴方否定的なことばっかり言ってるけど、そうやって自分を偉く見せたいだけじゃないの?」という切り返しはそれなりに有効そうだし、実際そういう場合は多々あるとは思います。

 

この文章が本当に真実を突いているのか?については疑問なしとはし得ないところですが、自分自身を振り返る限り、確かにこういう指摘を見るたびに痛い部分を突かれていたような感覚があったように思います。

ある種の罪悪感から逃れたくて創作を始めた

僕が創作を始めた理由というのは少し変わっていて、こういう「お前は観客席という安全地帯から人の作品にあれこれ言っているだけなのだ」という批判に対して、どうしようもない居心地の悪さを感じるようになったから、というのが理由のひとつなのです。

 

それまでだって別に否定的なことばっかり言っていたわけではないのですが、「自分では何も生み出さずに人の作品をあれこれ批評できる立場って楽だよね」と言われてしまうと、どうにも心の奥がざわついてくる。

「オレは、自分が批評される立場になるというリスクを犯さずに、ただ無責任な外野から適当な思いつきを並べているだけじゃないのか?」

「結局、自作があれこれ言われて傷つくのが怖いから批評する側になってるだけじゃないの?」

こういう心の声に、どうしても耳をふさぐことができなかったのです。

 

人の作品にあれこれ言いたくなるのは、そこに「自分だったらこうするのに」という思いがあるからです。

 でも、他人の作品は他人のもので、好きにカスタマイズすることはできません。

それなら、自分で創作すればいい。自作なら全部思い通りに作れるんだから。

名試合をいくら見たって、名プレイヤーにはなれない

結果、やはり面白い作品を作るのは傍から見るほど簡単ではない、ということが身に沁みてわかりました。

当然のことですが、観客席からプロ野球の試合にあれこれ文句を言う人も、いざ自分がバッターボックスに立ったら思い通りにバットを振れないし、監督になっても好きに采配を振るうことなんてできないのです。

 

著名な映画批評家が脚本を担当した実写版『進撃の巨人』は、多くの批判を浴びました。

数多くの名作や駄作を知っている批評家なら、どういうシナリオが良くてどういうシナリオが駄目なのか、ということを知識としてはよく知っていたはずです。

 

そういう人でも、いざ実際に作る側に回ってみると、やはり上手く行かないこともある。

批評家はあくまで批評のプロであって、脚本のプロではないのです。

他人の試合をたくさん見て、「オレならこう戦うのに」というシミュレーションをいくら積み重ねても、実際に打席に立たない限りはプレイヤーとしてのレベルは上がりません。

 

 だから、実際に客席から野次を飛ばされつつも第一線のプロとして活躍しているクリエイターはやはり凄いものだなと思います。

興行収入が230億円を超える映画を作っても、「貴方は高校時代に楽しい思い出がないんでしょう?」なんて雑なコメントをされて、それでも受け入れないといけないし。

最もこのコメントは、自分もプロ作家である石田衣良氏のコメントであるというあたりがなんともアレな話ではあるのですが……

「批評家の銅像は立たない」という言葉がある

時折、「クリエイターはただの消費者より偉いのか?」といったことが話題になります。

クリエイターだってその作品を買ってくれる消費者がいて生活が成り立ってるんだから、両者の関係性は対等ではないのかと。

作品を世に問うている以上、それをどんなに酷評しようが表現の自由だ、それの何が悪いのか、と言うことだって可能です。

 

人の作品のあら捜しばかりするのも、それはその人の自由です。

酷評されても仕方のないような作品も、世の中にはいくらでもあります。

しかし人の作品に文句ばかり言っている人が、作家より尊敬を受けることがないというのも確かです。

blog.livedoor.jp

これまで評論家の銅像が立てられたことがあったのか、とシベリウスは問いました。

上記のスレを見ている限り、批評家の銅像というのもあるところにはあるようですが、それでも作家や作曲家などの銅像のほうがはるかに多いことは間違いありません。

 

 作家も批評家も名もない一消費者も、この世界における役割が違うだけで、人間的な価値まで差がつくわけではありません。

人の作品に文句ばかり言う人だって、いていいんです。

ただし、どの役割を選ぶかによって世間から受ける評価は大いに異なるし、そこは自分で引き受けなければいけないことだと思います。

 

「作品を世に出した以上、どれだけ酷評しようが俺の勝手じゃないか」

という人は、そういう態度もまた他人から「貴方はそうやって自分を偉く見せたいだけだ」と「酷評」される覚悟をしなければいけないし、それを拒否するのなら、それは単に安全な立場から好き放題に文句を言いたいだけなのだということになります。

そのような態度の人を、リスクを負っているクリエイターと同列に評価することはできません。

少なくとも作家の側は、自作が酷評される覚悟を背負っているのだから。

 

 作家の久美沙織さんは、自著の中で「一度表に出した作品は死体だと思え」と書いています。

世に問うた作品はいくら死体蹴りされても文句は言えないのだ、と言っているのです。

それが本当に正しいのか?とは思いますが、少なくともプロとはこれくらいの覚悟を持っている人達なのです。

 

翻って、自分が作品に対して書いた感想にこれほどの覚悟を持てる人がどれだけいるのか?

「俺は人の作品は酷評するが、その代わりに俺はいくら悪く言われても構わない」

そこまで肝の座っている人はあまりいないように思います。

「自作をいくら酷評されてもかまわない」という人と、「俺は他人の酷評はするが、俺が酷評されるのは許さん」という人がいるのだとすれば、これは前者のほうが高く評価されるのは当然のことです。

 

「クリエイターは文句を言うだけの人よりも偉いのだ」と言える状況があるとすれば、そういう状況のことではないかと思います。