明晰夢工房

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『嫌われる勇気』に対する真摯な批判

『嫌われる勇気』の最大の問題点は何か

先日、宇樹義子さんによるこちらのエントリを読んだ。

decinormal.com

このエントリでは、『嫌われる勇気』によって有名になったアドラー心理学のデメリットについて簡潔かつ丁寧に解説されている。このブログでも以前『嫌われる勇気』の気になった点について指摘したが、こちらのエントリの方がまとまっているので『嫌われる勇気』の内容に疑問を持った方はぜひ読んでみて欲しい。

saavedra.hatenablog.com

個人的に宇樹義子さんの上記のエントリでもっとも重要な点は、岸見一郎氏のような「トラウマは存在しない」という主張は、重篤なトラウマを持つ人への二次加害になりかねないという部分ではないかと思う。『嫌われる勇気』を読んでいて一番気になった点もここだ。こちらのエントリでも紹介されている通り、実際に専門家からこのような指摘が出ている。

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人の苦悩に対してどういうアプローチをするのか、<原因論を取るのか、目的論を取るのか>ということと、<トラウマがあるのか、ないのか>という考えを混同しないでほしいと思います。

自分の治療的な立場が目的論<のみ>で(実際にそれでいけるということは、素晴らしいセラピストであるか、重篤なトラウマサバイバーの治療を行なったことがないか、あるいは壮絶な被害を体験した直後の方にも出会ったことがないか、のどれかであると思われます)あったとしても、もし、その治療法のみでうまくいっていたとしても、一般的に「トラウマという現象がない」というような安易な机上の論考をしないでほしいと切に願います。

 

僕は以前、アドラーを愛読しているあるブロガーが「今不幸を訴えている人は、実は不幸に浸ることが好きなのだ」というエントリを書いているのを見たことがある。これはまさに「不幸な人は不幸でいることを選択しているのだ」という『嫌われる勇気』の主張とも重なる。

『嫌われる勇気』の中では、トラウマとは周りの注意を自分に引きつけるために出しているものだ、という目的論の解説が行われているが、これは要するに「トラウマなんて訴える人はかまってほしいだけだ」と言っているのだ。文中ではもう少しマイルドな言い方になっていたが、意味しているのはそういうことだ。

 

これを読んだ人が、「ああそうか、トラウマなんて言ってる人は単に被害者アピールをして自分に優しくしてほしいだけなんだな」と思うことはあり得る。そうした見方が、深刻なトラウマを持つ人にとり二次加害となり得るという懸念があるということだ。

 

目的論が正しいとしても

僕はそもそもアドラーの目的論自体があまり正しくないのではないかと思っているが、仮にアドラーの目的論を正しいとするとしても、岸見氏の書き方に問題があるとする立場もある。元アドラー心理学会会長で現アドラー・ギルド代表の野田俊作氏はこのように指摘している。

 たとえば、岸見氏が、「不安だから、外に出られないのではなくて、外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」という意味のことを言われるのは、理論的にはそのとおりだと思います。しかし、治療現場で患者さんに向かって、「あなたは外に出たくないから、不安という感情を作りだしているんですよ」というようなことを言うのは、ほとんどの場合に反治療的だと思います。アドラー心理学の目的は、「人間を知る」ことではなくて、「人間を援助する」ことです。「人間を知る」のは、あくまで「人間を援助する」ためです。ですから、ものの言い方にはいつも敏感でなければなりません。

 三たび野田俊作氏が口を開く 岸見氏の問題は「手術じゃなくて解剖」 : 正田佐与の 愛するこの世界

 

たとえアドラーの目的論が正しいとしても、今苦しんでいる人に「貴方は自分で不安を作っているだけだ」と直接指摘することが効果的かは別問題だ。野田氏からすると岸見氏のしていることは「手術ではなく解剖」だという。理屈自体は正しくとも、その伝え方には慎重でなければときに「それ以上いけない」という事態にもなりかねない。(『嫌われる勇気』を読んでいるときにも、これは何度も感じた)

 

 人間のために心理学がある。その逆ではない

結局のところ、心理学や自己啓発というのは人を生きやすくするために存在しているのであって、その逆ではない。あくまで主体は人間であり、心理学は道具だ。人間のほうが道具に振り回れるようではいけない。

 人はひとりひとり違う存在だし、そのひとりだって、日々どんどん変化していく存在だ。だから、ままならない自分をなんとかしようとして読んでみた心理学本や自己啓発本がいまいちしっくりこなかったり、あるいは「お前のせいだ」と言われたようで苦しくなったりしたときは、単に「自分に合わなかったのだ」と思って放り投げてしまっていいはずだ。

残念ながら、人生に対する魔法の杖も、唯一解も存在しない。でもそれは逆に言えば、私たちが世の中のあらゆる「正解」から完全に自由であっていいということなのだ。

 なので、宇樹さんのこのスタンスには全面的に賛成する。アドラーを読んで苦しくなる人にアドラーは必要ないし、これは他のすべての心理書にも言えることだ。

 

 なぜ『嫌われる勇気』はここまで売れたのか

こういうことを分析するのは「なぜけものフレンズは大ヒットしたのか」を考えるようなもので、結局後付の感は拭えない。それを承知の上で書くと、この本がヒットした理由は「色々なことを断言してくれているから」ではないかと思う。

世の中には、自分で考えるよりも他人に決めてほしい人の方がが多い。平成ももうすぐ終わろうとしているこの世の中ですらまだ朝の番組で占いコーナーがあるのも、今日着ていく服の色も誰かに決めてほしい人が多いからだ。そうした些事から人生はどう生きるべきかという問題に至るまで、人は権威ある他者の言葉に答えを求める。

 

この点、『嫌われる勇気』はとにかく明快だ。どういう過去があろうがトラウマなんてものはないのだし、全ては自分次第。他人にどう思われようが、そんなことは「他人の課題」なので関係はなし。幸福になりたければ共同体に貢献し、今ここを生きるようにすればいい。実にシンプルでわかりやすい。明快に言い切ってくれている。

 

しかしこうしたシンプルさこそが、実は危険な点ではないかと思う。『嫌われる勇気』では「世界はシンプルで、人生もまたシンプルだ」と書かれているが、それはアドラー心理学のフィルターを通じて見た世界がシンプルだということだ。重篤なトラウマで苦しんでいる人を見ないようにし、共同体に貢献すると言っても共同体そのものが狂っている時はどうすればいいのか?ということを考えないようにすれば、たしかに世界はシンプルだ。法則に合致しない人や事象を視界から外せば、世界は法則通りに運行されているようにみえる。しかしこうした態度は、寝台からはみ出た旅人の脚を切り落とすプロクルステスにも似た暴力性を容易に孕む。

 

人生はシンプルではないし、世界は複雑だ。人はどう生きるべきかということには簡単には答えられない。しかし世の中の不可解さ、わからなさの前に佇むということができなくなっている人が多いのかもしれない。安易なスピリチュアル本などに比べれば、アドラーは人生の難題に対する回答としては上質な部類ではないかとは思う。しかし合わないと感じたら従う必要もないし、捨て去ってもかまわない。