明晰夢工房

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その昔、「100の質問」が苦手だった

先日、ツイッターのTLを「物書きさんに20の質問」と書かれたツイートが流れていくのを目にした。ずいぶん懐かしいものを見せられたような気がしたのと同時に、当時感じていたある種の苦さのようなものも思い出した。

 

意味がわからない人のために説明すると、まだブログなどというものが普及する前の時代、サイトを持っている人が自己紹介のテンプレとして「○○さんに100の質問」というものを活用していることがよくあったのだ。

d.hatena.ne.jpこのリンク先を見ると、「はてなダイアリー利用者に100の質問」の最初のバージョンは2003年のものだった。

 

質問が100ではさすがに多すぎるということで今は20個になったのだろうが、当時あちこちでこの「100の質問」に答えている人を見るたびに、当時はhtmlで日記を書いていた自分はこう考えていたことを覚えている。

 

「この人達は、他人が自分に聞きたいことが100個もあるとなぜ思えるのだろう?」

 

つまり僕には、この「100の質問」に喜々として答えている(ように見える)人達が、ものすごく自己評価の高い人たちのように写っていたのだ。

考えても見て欲しい。客が一人も入っていない公演会場で、「私はこういう趣味があって、こんな映画が好きで、こんな食べ物が苦手で……」という話を延々とし続ける場面を想定したら、これはとても惨めだ。聞き手のいない一方的な自己紹介ほど虚しいものはない。

だから、この「100の質問」に答えている人達は、「自分にはこういう話を聞いてくれる人がたくさんいる」と意識できる人達だけなのだ、と当時は思っていた。

 

今にして思えば、この質問に答えている人達は単にテンプレを活用しているだけで、別に「自分はこの長い自己紹介を最後まで読んでもらえるほどの人気者だ」なんて思ってはいなかったのだろうが、当時はなぜかそう思えなかった。

この質問に答えられるような人は自分からはずいぶん遠い人達のように思っていたし、自分は話を聞いてもらえる側の人間だ、と何のてらいもなく思える人達なのだ、と距離感を感じていたものだった。

 

おそらく多くの人は、「他人がこの話を聞いてくれるか」ということを、そもそもあまり意識などしていないのではないかと思う。意識していたら、この手の質問には人気者しか答えられなくなる。

聞き手がいようがいまいが、自分は自分語りがしたいのでそれでいい。そうした欲求の発露が、この「100の質問」を普及させたのではないかと思う。どうせこんなの誰も読んでないから、とか考え始めると、そもそも無名の素人はウェブでは何も書けなくなってしまう。

 

しかし、こうしたものを書く人達が「他人が聞いているかどうかなどそもそもどうでもいい」のだとすれば、そういう心境になれるのは、やはりある程度の自己肯定感が備わっているから、なのではないだろうか。

自分はすでに「足りている」と思っているから、人に話を聞いて貰う必要はない。だから語りたいことを語れればそれでいい。そういう心境になれるのだと思う。対して自己評価が低く、その分をウェブ上で何か表現することで埋め合わせようとしている人にとっては、自己紹介を読んでもらえるかどうかは切実な問題なのではないだろうか。

 

「人はブログを書くことで何者かになれる」という主張を読んだことがある。別にブログを書こうが書くまいがその人はその人であって、その価値に変わりはないと思うが、そう言いたくなる気持ちがわからないわけではない。

この「ブログ」は、絵や小説や音楽などにも置換可能だ。自分には何もない、と思っている人がウェブで何らかの表現行為を行い、それが受け入れられれば、その時点で初めて自分は「何者か」になった、という実感を得られる。そういう心理状態というのはあり得る。

 

 人に認めてもらえるかどうかが重大事項になる人とならない人との決定的な差が、そこにはある。自己肯定感をすでに持っている人はそれ以上肯定される必要がないため、ウェブ上の表現はいわばひとつの趣味にすぎない。しかし、自己肯定感を欠いている人にとって、ウェブ上の表現はそれを供給するための重要な手段になる。

 

創作をする上で、本当は「人が読んでいようがいまいがこれが好きだから書く」という姿勢が望ましいと思っている。作品のpvと自分の価値をリンクさせるのは精神を病む元だ。しかし、これをどうしても読んでもらいたい、という切実な気持ちが技術を向上させる要因になりうることもまた事実だ。

もし、聞き手がいるかどうかもわからないような自己紹介を延々とし続けられるほどの自己肯定感を皆が手に入れたら、それでも創作意欲が残っている人というのはどれくらいいるだろうか。この自分を認めて欲しい、という切実な欲求が消え去ったら人類が幸福になることと引き換えに、これから生み出されるはずの貴重な芸術作品のいくつかが生まれてこなくなるのかもしれない。