明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

読めば又吉直樹が好きになる一冊。又吉直樹『夜を乗り越える』

 

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

 

 

昔から、「辛口批評」のたぐいがどうも苦手だ。手厳しく批判するのが悪いと言いたいわけではない。それも時には必要だ。だが多くの場合、辛口レビューというのは「自分はこの作品の価値を正しく判定できるのだ」という自信を持つ人が、レビュー対象の作品に審判を下してやる、という色合いを帯びる。このレビュワーの揺らぎのなさが、なんとなく居心地の悪いもののように感じられるのだ。

 

又吉直樹の読書の姿勢は、これとは正反対のものだ。

ある本を読んで楽しめなければ、それは自分の方に問題があるのだ、と彼は言う。

 

僕は本を楽しみたいという気持ちで、わくわくしながら開きます。少なくとも、「この本、全然おもしろくなかった」と僕が誇らしげに言うことはありません。 自分がおもしろさをわからなかっただけじゃないかと思うんです。自分が楽しみ方を間違えたのではないかと。

 

この箇所以前に、又吉は『それから』を最初読んだときには良さがよくわからず、百冊以上文学を読んでから再挑戦したらものすごく面白かった経験がある、と過去を振り返っている。

 

これは、自分が正しいと思っている人には取れない態度だ。彼のこういうところに僕は好感を持つ。歳月を経ても淘汰されずに残っている文学には、それなりの価値というものがあるはずなのだから、それを理解できないのなら自分の方に問題があるのだ、という謙虚さを彼は持っている。

 

 もちろん、これがどんな作品に対しても当てはまるわけではない。作品の側に問題があって楽しめないということはあるだろう。だが、まずは楽しめるように努力する姿勢を持たなければ、その作品の楽しさに近づけないのだ。だから「最初から批判的に読もうとする人間には虫唾が走ります」とまで又吉は言っている。

 

「辛口批評」を書く人の中には、刀を構えて藁束に斬りつけるような感覚で本に臨んでいる人もいるのではないかと思う。この自分の鋭い論理と感性でどれだけこの作品に切り込めるか、舌鋒鋭くこの作品の欠陥を暴き立てることができるか、そういうところで勝負をしている人もいるはずだ。もちろん、それも全くの自由だ。ただ、又吉はそういう姿勢を取らない。人は先入観に弱いので、批判的な批評に接してしまうと少なからず影響を受けてしまうからだ。

 

美食家が「これを食べている間、ずっと吐瀉物を食べているような感覚だった」といった場合、そう評価されたものを食べるときには全力で忘れる努力をしますよね。飯が不味くなりますから。ただ、読書の場合は「吐瀉物みたいな本とはどういうものだろう?という読み方もできてしまう。そして、「なるほど、この辺が吐瀉物だ」というように情報によって不味い読書に引っ張られてしまうことがあります。

 

このあたりを読んでいると、この人は本当に読書というものを大切にしているんだな、ということがよくわかる。厳しい批評に読者が引きずられ、まず批判から入ってしまうということは十分起こり得る。そういうことは望ましくない、もっと読書を楽しんで欲しいと又吉は願っているのだと思う。

 

職業としての批評家ならスタイルとして辛口であることが求められることもあるだろう。そういう姿勢は、有名人を落として溜飲を下げたいという大衆のニーズに答えてくれるからだ。しかしこれとは別に、素人が厳しいレビューを書くのは「自分が楽しめなかったのはこの本に問題があるからだ」という、消費者目線の態度からではないかと思う。

自分は今の位置から一歩も動かず、本の方から自分に近寄ってこなかったからダメなのだ、というサービス待ちの姿勢だ。もちろん、本は一個の商品であって、対価を払った側にはそういう自由もある。しかし、本当に読書を楽しみたいなら自分から本に近寄っていかなくてはいけないのだ、受け身では楽しめない本もあるのだ、という又吉直樹の訴えを読んだ後では、こういう態度は取りにくくなるような気もする。もっとこの私を楽しませろ!と言うのはRPGで2番目くらいに強いボスの台詞にしておけばいいのかもしれない。

 

amazonのレビュー欄を見ていると、多くの高評価に混じって一人だけ☆一点をつけている人がいたりする。そういう人は、他の作品もたいてい酷評している。当人はダメなものをダメと言って何が悪い、くらいの気持ちかもしれないが、そこまで次々といろいろな作品に斬りかかるのは、又吉直樹に言わせれば作品を楽しむ能力を持っていないからかもしれないのだ。

どんな能力も、鍛えなければ伸びない。どうせ少なくない時間を費やして本を読むのなら、楽しむ能力を鍛えたほうがお得だ。