明晰夢工房

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読者を新たなクトゥルフ沼に誘う一冊──『邪神任侠 家出JCを一晩泊めたら俺の正気度がガリガリ削れた』

世の中にはたくさんの「沼」がある。

鉄道やミリタリー、歴史、哲学、廃墟やSFなどなど、一度はまり込んだら抜け出せないジャンルは枚挙にいとまがない。

そして、中でもとりわけ深い沼のひとつにクトゥルフ神話がある。

 

それだけに、クトゥルフを題材とした創作も数多い。

有名どころは、やはり『這い寄れ!ニャル子さん』だろうか。

核となる邪神の設定を共有していれば、クトゥルフ神話は各自が独自にそれぞれの神話を作り出すことができる。

それだけに、クトゥルフ創作の世界はバラエティ豊かだ。

今回紹介するのは、北海道を舞台に邪神と任侠という、一見奇妙なコンビの活躍する『邪神任侠 家出JCを一晩泊めたら俺の正気度がガリガリ削れた』だ。

 

邪神任侠 家出JCを一晩泊めたら俺の正気度がガリガリ削れた (Novel 0)

邪神任侠 家出JCを一晩泊めたら俺の正気度がガリガリ削れた (Novel 0)

 

 この小説は、カクヨムで行われた第1回ノベルゼロコンテストで特別賞を受賞している。

異世界転生が禁止されたことが話題になったコンテストだが、なるほどノベルゼロ側はこういうものを望んでいたのか、と思うほど独特の味わいのある作品に仕上がっている。

 

作者の海野しぃるさんによると、クトゥルフ神話はなぜか北海道出身の作家が好んで書くらしい。

そういう海野さんも北海道出身で、本作も北海道を舞台としている。

北海道といえば、我々本州の人間は見渡す限りの雪原だとか、アイヌやキタキツネを連想するが、本作を読んでいると意外と北海道とクトゥルフは相性が良いことがわかる。

北海道は本州人からするとどこか異国情緒が漂っているように感じられるが、この北の大地になら邪神だっているだろう、と思えてくるのだ。

 

そんな試される大地、北海道で展開される本作なのだが、サブタイトル通り冒頭から読者のSAN値(正気度)をどんどん削ってくれる。ヒロインのクチナシは帯に描かれている通りチャーミングな容姿と健気な性格の持ち主なのだが、主人公の禮次郎をいきなり○○てしまうのだ。私はクトゥルフ物は初体験だが、クトゥルフとはこういうものなのだろうか。いや、一口にクトゥルフ神話と言ってもかなりバラエティ豊かなもののようなので、これはその数多ある神話体系のひとつのあり方だということなのだろう。

 

 クトゥルフをよく知らない身からしても、本作に登場する邪神は実に蠱惑的で、おぞましく、それでいて魅力的な存在だ。特に物語の鍵となるシュブ=ニグラス。あんな女に出会ってしまったら、自分なら抵抗できないかもしれない。こんな存在にトラウマを与えられてしまうのだから、禮次郎の人生は本当に災難だ。いや、それがきっかけでクチナシのような魅力的なヒロインに出会えるのなら、それも悪くないのだろうか。こんな事を考えてしまうあたり、すでに自分もクトゥルフ沼に引きずり込まれつつあるらしい。

 

というわけで、本作はクトゥルフを特に知らなくても風変わりなファンタジーとして楽しめるが、知っていればより楽しめるのも確かだ。まずクトゥルフについて知っておきたい、という方のために、作者の海野さんがカクヨム初めてでもよくわかるクトゥルフ講座を連載している。私はこれを読んでシュブ=ニグラスが何なのかを学んだ。これを読めば、本作の内容を一層楽しめるようになるだろう。

kakuyomu.jp

クトゥルフ創作の裾野は実に広い。本作は主人公の禮次郎とクチナシのバディものとしても楽しめるし、物語を彩る不気味な邪神たちはホラー好きの読者の飢えも存分に満たしてくれる。そして、本作はクトゥルフを知らない読者をもクトゥルフ沼に誘う、格好の入門書ともなっている。一度ページを手繰れば、読者の前に豊穣な神話の世界が開けているだろう。クトゥルフ神話の新たな地平を切り開く一冊が、ここに誕生した。