明晰夢工房

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似鳥鶏『きみのために青く光る』と銃社会

必要は発明の母というが、実は逆で、発明は必要の母ではないかと思うことがある。

つまり、ある便利な技術が開発されることで、ついその技術を人は使ってしまい、使っているうちにそれが必要不可欠ななものだと錯覚するのではないかということだ。

 

異能を授かった人間なんてのもそうかもしれない。人にはない特殊能力を持つと、つい人はそれを使いたくなる。繰り返し使っているうちに、その能力はアイデンティティそのものとなり、それなしでは生きられなくなっていく。人間が主体で能力が従であるはずなのに、いつしかその関係性が逆転してしまう。人が能力に振り回されるのだ。

 

チート的な能力を授かっても、それで本当に幸せに生きられるのか?似鳥鶏『きみのために青く光る』は「青藍病」と呼ばれる能力に目覚めた四人の主人公を通じて、超能力と人間のあるべき関係性について考えさせてくれる。

 

きみのために青く光る (角川文庫)

きみのために青く光る (角川文庫)

 

 

本作に出てくる四人の主人公の能力はそれぞれ「動物を凶暴化させ自分を襲わせる」「一定の範囲内にいる人間を殺す」「他人の年収が見える」「もうすぐ死ぬ人間を判別できる(と見えるが本当はそうでない)」だ。

本作の主人公たちは、皆これらの超能力を持ってしまったがゆえに苦しんでいる。人を殺せる能力を持ってしまった空途は、同じ能力を持ち、それを乱用して実際に人を殺しているアヤメの暴走を止めるため能力を使わなくてはいけない、と苦悩する。もうすぐ死ぬ人間の胸に青く光る虫を見いだせる修は、不慮の事故で死ぬ人間が出ないよう学内のパトロールをはじめる。いずれにせよ、皆が能力を持たなければ悩まなくていいことに悩まなくてはならない。

 

アヤメが能力を使って人を殺すようになったのも、最初はほんの出来心からのようだ。人間生きていれば、あんな奴など死んでしまえ、と思うことくらいはある。しかしそれを実現化する能力を持ってしまうと、人は狂う。他人の命をこの手に握っているという万能感を持ちはじめ、人を殺すことに抵抗がなくなる。人間が能力の主人であるはずだが、使う人間のほうが未熟だと、能力が人間の方を振り回す。人の死が見える修などはそれがあまりに苦しいため、自分の目を突こうとすらしてしまう。結局、過ぎたる力を持つと人は不幸になるのだ。だからこそ、本作における超能力は「青藍病」と呼ばれ、治療対象となっている。

 

翻って、人は果たして銃器のような武器の主人だと本当に言えるだろうか、と考えたりする。誰かと口論をしたとき、頭に血が上ってもそばに凶器がなければつかみ合いに発展するくらいだ。しかし、そばにナイフがあれば刺してしまうかも知れないし、銃があれば撃って人を殺してしまうかもしれない。社会に対して強いストレスを感じれば、銃社会では学校の中で銃を乱射したりする事件も起こる。そして、こういう事件が起こるからこそこちらも銃で武装する必要があるのだ、というロジックが展開されたりする。銃社会埒外にいる人間から見れば、人が銃に使われているのではないかと思ったりもする。

 

本作では超能力をもっている者はカウンセリングの対象となり、能力をうまくコントロールしつつ生きていけるようケアをしてもらえる。人にはない能力を持ってしまったものは、その能力に振り回されないよう生きることが求められるのだ。本作における主人公たちはそれぞれの能力をうまく使ったため、最後には幸せな結末が待っている。しかし人類が手にした銃器が人に幸せをもたらしているのか、ということには、そう簡単に結論を出せそうにない。人間にとっての銃はまだ、本作における「コントロールの効かない超能力」のようなものであるかもしれないからだ。

 

「普通の人間にはない特殊な力がもし自分にあったなら」という空想は、誰でもしたことがあるだろう。もし空が飛べたなら、姿を消すことができたなら。口から火を吐くとか目からビームを出すとか、冷静に考えれば使い道などありそうもない能力だって、もしあったなら面白いと思うだろう。だが、僕は思い知っている。そういうのはすべて、能力を自由に制御できたら、の話なのだ。油断すると空を飛んでしまう人だの興奮すると目からビームが出てしまう人だの、そんなものは本人にとって不幸以外の何物でもないし社会の迷惑にもなる。