明晰夢工房

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磯田道史のおすすめ本ベスト1は『無私の日本人』では他の本はどうか

 磯田道史氏はNHKBS「英雄たちの選択」の司会であり、『西郷どん』の時代考証も担当している。現代の歴史学者としては一番名前が知れている人かもしれない。テレビで見かける巧みな比喩を用いたわかりやすい解説は著書でもそのままで、歴史書としては無類の読みやすさを誇っている。

 

何冊もベストセラーを出している磯田氏だが、無理やり一冊だけベストを選ぶとしたらやはり『無私の日本人』だ。先日『殿、利息でござる!』を観たからではないが、やはり穀田屋十三郎を中心とする吉岡宿の町人たちのストーリーは感動的だ。伝馬役を押し付けられて窮乏する一方の町人たちが藩に集めた資金を貸し付けて利息を取るという発想がやはりすごいし、彼らが吉岡宿を立て直した功績を一切誇る気がないというのも素晴らしい。これがすべて事実だというのも驚く。

 

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ストーリー自体は映画も原作もほぼ同じなのだが、『殿、利息でござる!』が面白かった方はぜひ『無私の日本人』も読んでほしい。というのは、これを読むと仙台藩の事情がよりよく理解できるからだ。吉岡宿の町人が自己犠牲の精神に富んでいたのに対し、仙台藩の方はというと自分たちのメンツのことしか考えていない。将軍の養女を藩主の正室に迎えることで莫大な費用がかかっているのだが、このような無駄な出費を抑えろと諫言する役人もおらず、敵役の萱場杢なども隠田を摘発し、民から搾り取ることしか考えていない。なるほどこういう男なら町人から借金などしたくないはずだ、と理解できる。

このような藩の腐敗と、肝煎などを代表とする町人の志の高さは対象的だ。磯田氏は本書の中で、江戸時代の民生はは肝煎や庄屋のような「わきまえた人びと」が存在したからこそ成り立っていたと書いている。この「わきまえた人びと」のもっとも優れた一面を描き出したのが『無私の日本人』だ。

 

ベスト2をあげるのは難しいが、ここでは『殿様の通信簿』を選んでみる。これは磯田氏が殿様に点数をつけるという本ではなく、実際に江戸時代の隠密による『殿様の通信簿』が実在していたという内容だ。実際に各藩に潜入した隠密の見た江戸時代初期の殿様の実像とはどんなものか、それをまとめたのがこの本だ。水戸光圀浅野内匠頭前田利家といった有名所から前田利常、池田綱政といったややマイナーな人物までが登場するが、前田利常は一番多くページを割かれているだけあって、強烈な印象を残す人物だ。

前田利常は前田利家の息子で加賀藩の藩主だが、父の血を受け継いで英雄肌の人物だった。秀忠の娘の珠姫と結婚しているが、本来徳川のスパイだった珠姫と夫婦仲が良かったため、珠姫の乳母が彼女を叱りつけている。そのことに怒った利常は、この乳母を蛇責めというすさまじい拷問にかけている。加賀藩と徳川家は一触即発の状況にあったのだ。大阪の陣でも活躍した利常はまだ戦国の気風を残していて、徳川から見ればかなりの危険人物だった。磯田氏は「英雄たちの選択」でも前田利常のことを取り上げていたが、まさにこの人は徳川政権下における不発弾のような存在だった。徳川250年の平和が保たれたのも、こういう人物が徳川と妥協したからだということを思い知らされる。

水戸光圀が当時の評判でもやはり名君だったというのは面白い。対して浅野内匠頭は……これは知ったらがっかりしてしまうかもしれない。

 

個人的ベスト3は『龍馬史』。「竜馬暗殺に謎なし」と題しているとおり、普通に考えれば黒幕はこのあたりなのだろうな、という妥当な推理が展開される。書状から龍馬という人の人物像に迫るのも面白く、どうやらこの人は根拠のない自信家だったらしいこともわかる。それゆえに危機感が足りなかったことが暗殺されてしまった原因かもしれない。龍馬には颯爽とした英雄児というイメージがあるが、紀州藩との交渉に見られるようなあくどい一面にも触れているのもよい。龍馬の人物像が立体的に浮かび上がってくる。

ただし、容保公のファンにはあまりおすすめできない。

 

『徳川がつくった先進国日本』は薄い本だが、内容は濃い。なぜ日本が今のような平和的な国になったか、ということを江戸時代をさかのぼりながら考察していく本だが、江戸初期の日本人はかなり殺伐とした戦闘民族だったことがわかる。室町時代の武士はかなりのバーサーカーだったようだし、元寇でモンゴル軍を撃退した鎌倉武士だってそうだ。海外に出れば倭寇だって暴れている。そんな日本人が今のような姿になったのは、実は飢饉が大いに関係していた。天災に着目することの多い磯田氏ならではの視点だ。島原の乱や生類憐れみの令などを通じて「愛民思想」が生まれてきたことなども興味深い。

この本の詳しいレビューはこちら。

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『日本史の内幕』も面白いが、基本的に磯田氏のファン向けの内容だろう。『おんな城主直虎』が生まれた内幕や、『殿、利息でござる!』に羽生結弦選手が出演した事情などが書かれている。エッセイ集なので他の本ほど内容は濃くないが、気楽に読めることは確か。古文書や古美術品への偏愛を語るところも楽しく、これだけ好きなことで仕事ができている磯田氏が羨ましくなってくる。こういう人がいる限り、人文系の予算を削れという話には賛成できない。

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『歴史の読み解き方』は、薩摩の郷中教育に触れている部分が特に面白い。磯田氏は「薩摩には抽象なし、具体のみ」と言っているが、郷中教育では実際にはない状況を想定し、どうするかを考えさせる一種のシミュレーションを行う。これを「詮議」というのだが、これを行っていたからこそ薩摩武士は「もしこうなったら」を考える力が高く、想定外の状況にもよく対応できたというのだ。実は「英雄たちの選択」が討論形式になったのもこの郷中教育の影響だと磯田氏はこの番組中で語っている。以前は磯田氏の番組は「BS歴史館」というタイトルで、磯田氏とゲストがあるテーマについて語るだけの内容だったが、「英雄たちの選択」では歴史上の人物のイフを考えさせ、議論させることで内容が格段に面白くなっている。「考える力」を身につける上では郷中教育にも大いに学ぶべき点があるのかもしれない。幕末の政局における薩摩の立ち回りの上手さも、ここから生まれたものかもしれないからだ。

 

『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』では、司馬遼太郎作品を読む上で必要な「司馬リテラシー」について解説した上で、司馬作品から日本史をどう学ぶかを解説している。司馬作品は文学なのでそのままこれを史実として読むわけにはいかないが、かと言ってただの小説だと片付けるわけにもいかない。「司馬史観」という言葉があるように、司馬遼太郎はやはり鋭い史眼を持っているので、これをものさしとして日本史を読むことはいまだ有効だと考えられるからだ。

司馬遼太郎の創作の原点には、「なぜ昭和前期の日本はあのような国家になったのか」という疑問がある。これを突き詰めていくことで、濃尾平野に誕生した権力体にたどり着く。これを描いたのが『国盗り物語』だ。司馬作品はただの娯楽ではなく、日本そのものを書いている。時代は下って幕末では磯田氏は司馬遼太郎の最高傑作として『花神』を紹介している。幕末の合理精神を代表する人物が主人公の大村益次郎だと考えられるからだ。そしてこの合理精神を受け継いだ明治の人物が『坂の上の雲』の秋山真之だ。秋山のようなリアリズムの持ち主が活躍しているうちは日本もまだ健全だったが、日露戦争の勝利を経てしだいに日本から冷静さが失われていく。明治の坂を登りきったあとの昭和の日本に関しては、司馬は『この国のかたち』で触れるにとどめた。磯田氏はこの作品を「司馬作品のあとがき」だという。卓見であると思う。

本書は司馬遼太郎ファンなら作品を思い出しつつ楽しく読めるし、新たに得るところもある。司馬初心者にとってはブックガイドとしても使える、魅力満載の一冊だ。

 

江戸の備忘録 (文春文庫)

江戸の備忘録 (文春文庫)

 

 

『江戸の備忘録』は磯田道史入門として使える一冊。この本には後の磯田氏の著作に出てくるネタがたくさん出てくるので、これを読んでおけば一冊で磯田氏の関心のある話がだいたい押さえられる。ただし、分量の関係でそれぞれの話は簡潔に書かれている。江戸時代の寺子屋の師匠の3割は女性だった、江戸時代の医療事故、二宮金次郎の二度の結婚など興味深い話が満載なので、読みたいところだけ拾い読みしても楽しい。肩の凝らない読み物として誰にでもおすすめできる。