明晰夢工房

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北方謙三『チンギス紀』はモンゴル考古学者・白石典之の研究を参考にしている?

 

チンギス紀 一 火眼

チンギス紀 一 火眼

 

 

水滸伝』から『楊令伝』を経て『岳飛伝』に至る壮大なサーガを語り終えた北方謙三が次に挑むのがチンギス・カンの生涯。1巻の時点では主人公テムジンはわずか14歳でしかなく、弟を殺してしまったために故地を逃げ出し遠く金国へと赴いている。生涯のライバルとなるジャムカも早くも登場しているが、このペースだと完結はだいぶ先のことになりそうだ。

 

いつも通り、徹底的に無駄を削ぎ落とした北方謙三の独自の文体は本作でも健在で、一人砂漠をゆくテムジンに馬泥棒が襲いかかってくる場面からスタートする1巻は「ハードボイルド時代劇」としての色合いが濃い。チンギスの股肱の臣であるボオルチュはまだほんの子供で、テムジンに付き従う従者のような存在として書かれている。この巻はまだほんの序章でストーリーはあまり動いていないが、注目すべきはのちにチンギス・カンとなるテムジンが金国で漢文化の素養を身につけ、高い文化を吸収していることだ。

 

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テムジンは金国で妓楼を経営する男に気に入られ、護衛役を任されているのだが、この男に史記を読むように勧めらている。テムジンは金国では鍛冶屋の工房も見ているのだが、これはのちにチンギスが鉄製の武器をつくってモンゴルの軍事力を強化することの伏線かもしれない。モンゴル考古学者の白石典之氏はその著書『チンギス・カン "蒼き狼"の実像』のなかでモンゴルのアウラガ遺跡に鉄工房が存在したことを紹介しているが、物語上チンギスはここではじめて鉄が鍛えられる現場をみたことになる。これはもちろんフィクションなのだが、のちにチンギスが金を攻めたときに鉄資源を求めて戦っていたことは事実だ。

 

一方、ジャムカの方はといえば、モンゴル高原において素朴な遊牧民としての生活をしていて、近隣の部族との戦争に明け暮れている。金国を旅し、西夏にまで足を伸ばしているテムジンとは視野の広さが違う。この見聞の広さの差が、のちに両者の明暗を分ける原因となるのかもしれない。ジャムカはテムジンの一族とは別のモンゴル国なのだが、テムジンの一族は本書ではキャト氏と書かれている。このキャト氏という言い方は上記の『チンギス・カン "蒼き狼"の実像』で始めて見たのだが、本書はこれを踏まえて書かれているのかもしれない。白石氏の著書にはモンゴル族は遊牧だけでなく農業をおこなっていることもあったと書かれていたが、チンギス紀にも農業をする遊牧民が出てきている。

 

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モンゴル史学者の杉山正明氏は、チンギスがカンに即位するまでの人生はほとんどわからないと言っている。『元朝秘史』などの内容はほぼ創作と言っていいものらしい。つまり、現在『チンギス紀』が書いている時代のチンギスの人生は自由に創作できるということだ。本書に出てくるテムジンは漢文を読みこなし、金や西夏などの文明国の実態を知る知性的な男だ。この男が父イェスゲイを殺され、勢力を失ったキャト氏族をどう立て直し、モンゴル高原に覇権を打ち立てるのか。なにしろテムジンがチンギス・カンと称した時点で、彼はすでに40歳を過ぎている。この物語のペースだとそこにいたるまで10巻分くらい必要になる気がするが、チンギスの人生はそこからさらに21年も続いていく。完結するまでに何年かかるだろうか。上記の記事では『チンギス紀』は完結まで15巻程度を見込んでいると書かれているが、本作は取り扱う地理的なスケールにおいては、むしろ北方水滸伝を上回る大作になりそうだ。

 

以下は自分用のモンゴル高原各部族のメモ。

 

キャト氏(モンゴル族):テムジンの一族。父イェスゲイが殺されたため部族の大部分のものがタイチウトの保護下に入ったが、テムジンの母ホエルンは息子たちとともに一族を守っている。

 

タイチウト氏(モンゴル族):イェスゲイを失い勢力の衰えたキャト氏を保護下に入れるが、その内部はあまりまとまりがない。長のひとりであるタルグダイはモンゴル族をひとつにするためホエルンに求婚した過去がある。

 

ジャンダラン氏(モンゴル族):モンゴル族の中では孤高の雰囲気のある一族だが、今は大勢力のメルキトに従っている。族長カラ・カダアンの息子ジャムカはメルキトに従う父が気に入らない。ジャムカの独立不羈の気質からして、いずれテムジンとの対決も不可避か。

 

メルキト族:モンゴル高原では大勢力を持つ一族。長のひとりトクトアはジャムカの将来性を認め、一人前の男として扱う。いずれジャムカと戦う運命か?

 

バルグト族:バイカル湖付近に居住する一族で、この部族出身のホーロイが客分としてジャムカのもとにとどまっている。