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塩野七生『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』におけるアレクサンドロス大王の評価について

 

ギリシア人の物語III 新しき力

ギリシア人の物語III 新しき力

 

 

ギリシア人の物語の最終巻となるこの巻では、ペロポネソス戦争が終わり、ペルシアに翻弄されて混迷を深めるギリシアに突如として出現した天才・アレクサンドロス3世の活躍を中心に描いている。塩野氏はこの好戦的で決断力に富む若者がかなり好きなようで、全体としてかなりアレクサンドロス大王には好意的だ。アレクサンドロスを知らない読者にとってはこの稀代の「英雄」の生涯をくわしく知る楽しみが味わえるだろうし、アレクサンドロスの業績を肯定的に捉えたい読者にとっても好著といえるだろう。

 

アレクサンドロス大王という人物を考えるとき、父であるマケドニア王・フィリッポス2世について語ることは避けられない。それは、このフィリッポスこそが徹底した軍事改革を行ってマケドニアを強国の地位に押し上げ、アレクサンドロスの東征の下地を作った人物だからである。フィリッポスが創設した有名な長槍部隊であるマケドニアファランクスはアレクサンドロスの時代にその真価を発揮しているが、5.5メートルもの長さの槍を携えたこの部隊のアイデア自体はフィリッポスの頭脳から出たものだ。フィリッポスの功績はこれだけにとどまらない。開墾を奨励し、パンガイオン山の金鉱をおさえ財政基盤を確立し、ギリシアの内紛に介入して油断なく勢力を拡大している。即位した時点では滅亡の危機に瀕していたマケドニアを、フィリッポスは一代で覇権国家に作り変えた。フィリッポスこそは、ギリシア世界における一代の梟雄だった。

 

このフィリッポスを、この『ギリシア人の物語』ではどう評価しているか。塩野氏はこのように記す。

 

「鳶が鷹を生む」と、日本では言う。フィリッポスは、並の鳶ではなかった。だが、月並の鳶ではなかったからこそ、飛び始めたばかりでまだ荒けずりの、タカの威力を見抜いたのではないだろうか。

 

これは、カイロネイアの戦いでアレクサンドロスが命令を無視し、二千の騎兵を率いてテーベの神聖部隊を全滅させたことに対する評価だ。わずか18歳、しかも初陣にしてテーベ軍の隙を正確に見抜き、戦いを勝利に導いたアレクサンドロスは「鷹」だが、それに比べればフィリッポスも有能であることは認めているものの、「並の鳶ではない」というくらいの評価だ。天才そのものであるアレクサンドロスに比べて、その評価は相対的に低くなっている。

  

 

だが、人物評価というものは時代によって異なる。世界史リブレットの『アレクサンドロス大王 今に生き続ける「偉大な王」』によれば、欧米では1970年代以降フィリッポスの評価が急速に高まっていて、むしろフィリッポスの方こそ「大王」の名にふさわしいのだ、という論調もあるという。マケドニア本国を放置して果てしのない征服戦争を続けたアレクサンドロスより、マケドニアを亡国の危機から救い、富み栄えさせたフィリッポスのほうが偉大な王だというのだ。この見方からすれば、フィリッポスのほうが「鷹」になる。

 

このフィリッポスの高評価は、アレクサンドロスの評価の低下とセットになっている。アレクサンドロスの征服行における残虐さや、跡継ぎを残さなかった政治的失点をあげつらうほど、逆にフィリッポスの隙のないマケドニア統治の良さが浮かび上がるというわけである。古代ローマ時代からすでにアレクサンドロスの評価は戦争と破壊を続けた「暴君」と、広大な地域を征服した「英雄」との評価で二分されているが、『ギリシア人の物語』におけるアレクサンドロス像は、基本的に後者の見方を受け継いでいる。本書におけるアレクサンドロスは戦場の天才であり、有能な専制君主として描かれているので、ネガティブな面はあまり出てこない。イッソスガウガメラにおけるアレクサンドロスの戦術の巧みさと、対するダリウスの無能ぶりの対比も、アレクサンドロスに颯爽とした武人像を期待する読者にとっては小気味よいものだろう。もっとも、これはおおむね事実でもあるし、どの研究者でもアレクサンドロスの軍事的才能については高く評価している。

 

アレクサンドロスの評価について考えるときに避けて通れないのは、マケドニア将兵ペルシア人の娘との合同結婚式だ。このことは、アレクサンドロスが諸民族の融和と共存を目ざしていたことのひとつの証拠であるとされることもある。しかし、実際のところはどうだろうか。塩野氏はこの合同結婚式については「敗者同化と、それによる民族融和が、彼にとっての最大政略であった」と記している。ペルシアにおいては圧倒的な少数派であるマケドニア人が、ある程度ペルシア人とも協調しなければとうていこの地を治めていくことはできなかっただろう。アレクサンドロスが諸民族の平和共存などという高い理想を持っていたのではなく、あくまで現実的な政略として民族融和を選んだというのはそのとおりではないかと思う。

 

興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話 (講談社学術文庫)
 

 

この集団結婚式において、アレクサンドロスはペルシア王のものを模した豪華な天幕を用意し、ペルシア流の儀礼を採用した。このことについて、『アレクサンドロスの征服と神話』のなかで森谷公俊氏はこう書いている。

 

ペルシア王を軽蔑したはずのアレクサンドロス自身が、今やペルシア王を模倣し、それをしのぐほど豪華な天幕を作らせた。一体なぜなのか。それは、東方諸民族の王として君臨するためである。彼の王権はすでにマケドニア人やギリシア人の枠をはるかに超えていた。目の前にいたのは、これまでアカイメネス朝を支えてきたペルシア人貴族であり、ペルシア人に支配されてきた諸民族である。自分を新しい王として受け入れさせるには、彼自身がペルシア流の豪華絢爛たる儀礼を採用しなければならなかったのだ。

 

ペルシアの地では、ペルシア人にもわかるように王権を視覚化する必要がある。アレクサンドロスは王権の偉大さを表現するための現実的な手段として東方風の儀礼を取り入れる柔軟性はたしかにあった。塩野氏はこのようなリアリストとしてのアレクサンドロスの一面を評価しているのだろう。アレクサンドロスを英雄として書いているからといって、過度に理想化しているわけでもない。

 

このように優れた資質を持つアレクサンドロスではあるが、その一生を追うとき、どうしても彼の負の側面に触れなければならない出来事がある。王の側近であるクレイトスの刺殺事件だ。大王の東方協調路線に不満をつのらせるクレイトスは宴会の場でアレクサンドロスを公然と非難し、これに怒った大王がその場で彼を槍で刺し殺してしまった、というものである。澤田典子氏は、先に挙げた『アレクサンドロス大王 今に生き続ける「偉大な王」』のなかで、この事件の核心はアレクサンドロスの父フィリッポスに対するコンプレックスであると説く。クレイトスはアレクサンドロスを非難するとき、父フィリッポスの功績はすべてアレクサンドロスにまさるものだと言った。アレクサンドロスはクレイトスにフィリッポスの影を見たというのである。

澤田氏は、アレクサンドロスの東征そのものも、偉大だった父を超えたいという思いに支えられていたと書いている。彼が父へのコンプレックスに突き動かされてあの大帝国を作り上げたとするなら、アレクサンドロスとは成功した武田勝頼のような存在だったのかもしれない。だが、こうした生々しい大王の一面は『ギリシア人の物語』では描かれることはない。クレイトスとアレクサンドロスの対立は、あくまでペルシア人との融和政策をめぐる争いとして書かれている。どちらがほんとうの大王の姿か、想像してみるのも面白いだろう。

 

このアレクサンドロスの東征は、インド王ポロスとの戦いに勝利してなお進軍をやめようとしなかった王への兵士たちの従軍拒否で終わった。多くの犠牲を強いつつ続けられた東征への兵士たちの不満が、ついにここで爆発したことになる。アレクサンドロスがどこまで征服する気だったかはわからないが、より慎重な支配者だった父フィリッポスが生きていて東征を行っていたならインドまで足を伸ばすことはなかっただろう、と言われることがある。彼ならペルセポリスを占領した時点で征服行を止めていたかもしれない。しかしその場合、後世への影響力はアレクサンドロスほど大きなものにはならなかっただろう。

塩野氏はこの『ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力』の二章を「なぜアレクサンドロスは、二千三百年が過ぎた今でも、こうも人々から愛され続けているのか」という問いで締めくくっている。その答えは、彼が多くの部下に反発され、ときに暗殺の危機すら迎えてもなお東征をやめようとしなかったほど一途で頑固な性質の持ち主だったから、という気がする。地の果てまでも征服しようとし、時に無謀とすらいえる冒険行に乗り出したアレクサンドロスだからこそ、そこに後世の人々が自分の夢を投影できるのだ。冷静で現実的だったフィリッポスでは、もし彼がもっと長生きしていれば、と想像をかき立てることはむずかしい。あくまで結果論であるとはいえ、ギリシア人の活動範囲が大きく広がり、バクトリアの地にアイ・ハヌム遺跡を残すほど広範囲にギリシア文化が拡散したことも、アレクサンドロスの活動範囲が極めて巨大だったことによる。そうでなければ、後世の人間が憧れ続ける存在にはなれない。

 

以上見てきたように、基本的に『ギリシア人の物語』におけるアレクサンドロス大王像は「偉大な王」だ。先にも書いたとおり、近年アレクサンドロスの研究者はかなり彼のネガティブな側面にも光を当てているのだが、なぜ本書ではアレクサンドロス大王は古典的ともいえる英雄として書かれているのか。もちろんその方がエンターテイメントとして楽しめるからというのはあるだろうが、より大きな理由として、塩野氏の愛してやまないユリウス・カエサルの言葉がここには関係しているかもしれない。

 

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

 

 

ユリウス・カエサルはスペイン属州に赴任したとき、アレクサンドロスの伝記を読んで「今の私の年齢で、アレクサンドロスはすでにあれほど多くの民族の王となっていたのに、自分はまだ何一つ華々しいことを成し遂げていない。これを悲しむのは当然ではないか」と嘆いたという。塩野氏は『ローマ人の物語』で上下二巻もカエサルに費やすほどのカエサルびいきだ。塩野氏がローマ一の傑物と評価するカエサルが称揚するアレクサンドロス大王は、やはり偉大な人物であって欲しい、ということではないだろうか。そして実際、アレクサンドロスカエサルが憧れるほどの巨人ではあった。

 

アレクサンドロス大王東征記〈上〉―付インド誌 (岩波文庫)

アレクサンドロス大王東征記〈上〉―付インド誌 (岩波文庫)

 

 

ローマ人の物語の「前史」ともいえる『ギリシア人の物語』は、アレクサンドロスの退場によって幕を閉じた。アレクサンドロスの死後、その大帝国はすぐさま分裂し、マケドニアはヘレニズム国家のひとつとしてしばらく生きながらえる。フィリッポス2世が作り上げ、アレクサンドロスが発展させたファランクス部隊は紀元前197年、キュノスケファライの戦いにおいてローマのレギオンに敗れ去った。アレクサンドロスの後継国家のひとつとしてのマケドニアは程なくして滅亡するが、稀代の英雄としてのアレクサンドロス大王の存在は長くローマ人を魅了し続け、ローマの武人アッリアノスに彼の伝記を書かせることになる。我々が現在大王の東征について知ることができるのは、アッリアノスが『アレクサンドロス大王東征記』にその詳細を記してくれたからである。プルタルコスもまた『英雄伝』においてアレクサンドロスについて記している。ギリシアが生んだ英雄の人生は、ローマ人によって後世に語り継がれ、ローマ人にとっての英雄であり続けた。ローマ史を学んだ塩野氏がアレクサンドロス伝を書くことになるのは、必然だったのかもしれない。