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陳舜臣『中国の歴史』は中国史入門としておすすめの本

 

中国の歴史(一) (講談社文庫)

中国の歴史(一) (講談社文庫)

 

 

ある国の歴史を知ろうとしたとき、入り口としては概説書と小説があります。

概説書の場合、多くはプロの歴史研究者が書いているので内容の正確さは問題がありません。一方、学者の書く文章は学問としての信憑性を最優先するため、読者からすれば必ずしも面白いものではなく、ときに無味乾燥なものになってしまう、ということもあります。

そして小説の場合、読み物としての面白さはあるものの、フィクションなので内容がどこまで本当かわからないという問題点があります。エンターテイメント性と学問としての正確さ、この両者は両立することもありますし、たとえば宮崎市定の一連の著作などはまさにこのふたつの要素が同居しているものです。しかし、そのような著作を書くのはなかなか困難なものです。

 

その点、この陳舜臣『中国の歴史』は、歴史作家である作者が書いているために文章は読みやすく、登場する人物についても読者の興味を引くようなエピソードを多く取り上げているため、自然と中国史に入り込めるようになっています。人物中心に書かれているため、終わることのない歴史絵巻を延々と眺めているような気分にひたることができます。それでいて内容のレベルも高く、要所要所できちんと史書から漢文を引用し、当時の空気や時代背景、人物の特徴などをできるだけ再現するよう工夫されています。歴史研究においては史料を自分で読むことができ、かつ解釈することができることが大事ですが、中国人の血を引き東洋史を学んでいる著者は漢文の文献資料を読みこなせるため歴史家としても十分な資質があます。それでいて作家らしい情感あふれる文章も随所に差し挟むので、この『中国の歴史』は概説書としての高いレベルを保ちつつ、かつ読み物としての面白さも抜群という、稀有な中国史の本になっています。

 

そして、何よりこの『中国の歴史』を特徴づけているものは、著者の中国史に対する深い愛です。記録というものに熱心で、特に人間を追求することに力を注いできたのが伝統的な中国の歴史叙述ですが、本書もまた人物を中心とした歴史叙述で、時おり各人物への陳舜臣の個人的な好悪が書き込まれることもあります。たとえば、4巻では漢の武帝、唐の太宗などと比べ、宋の太祖趙匡胤は残酷さが少ないため友人に選ぶならこの人だ、と書かれています。このように、作家である陳舜臣の筆は、ときに情緒的になることがあります。しかし、これこそがこの『中国の歴史』の良さであると私は思います。これは学者の書く冷静な歴史書にはないもので、こういう点が本シリーズを読者にとって身近なものにしています。

 

以下、各巻ごとの魅力について紹介します。

 

中国の歴史(二) (講談社文庫)

中国の歴史(二) (講談社文庫)

 

 

中国古代史のハイライトともいえる戦国時代から秦による天下統一、そして項羽と劉邦の楚漢戦争から前漢の時代までを書いています。日本でもよく知られた史実の多い時代ですが、中でも漢と匈奴の争いは有名です。匈奴はもともと月氏よりも弱体でしたが、のちに月氏を破って漠北の覇者となっています。武帝サマルカンド付近に定着した月氏に同盟を呼びかけていますが、月氏はこれを断っています。著者は想像力を働かせ、月氏が同盟を断った理由を、この地域に伝わっていた仏教の影響ではないかと推測しています。もともとミステリ作家として出発した陳舜臣は、ときおりこのシリーズの中でこうした大胆な推理を展開することがあります。こういうところもこの『中国の歴史』の読みどころのひとつです。 

少し時代をさかのぼると、始皇帝が長男の扶蘇焚書坑儒について諫言したことで北方に送られたことについて、これは懲罰ではなく扶蘇の才能に期待していたからではないかとも推理しています。北方を守る蒙恬匈奴に対抗するための30万の兵を持っており、これを監督させるのは秦にとってはきわめて重要な役目です。著者が言う通り、始皇帝扶蘇に大きな期待を寄せていたのかもしれません。扶蘇が趙高の陰謀により自殺に追い込まれなければ秦はもっと長続きしたのではないか、と考えたくなります。

  

中国の歴史(三) (講談社文庫)

中国の歴史(三) (講談社文庫)

 

 

多くの読者が親しんでいる三国志の時代から南北朝時代のはじまりまでを書いています。三国時代は多くの武将が活躍し、曹操曹植が詩人であったように文学も盛んな時代でしたが、陳舜臣は庶民の生活への目配りも欠かしていません。この時代の史書からは庶民の生活は直接うかがえないものの、陳舜臣三国時代を「光のとぼしい時代」と書いています。戦乱が続いていたのだから当然ですが、こうした視点も歴史を見る上で忘れてほしくないと思っていたのでしょう。

三国時代が終わり、普の短い統一期間を経て五胡十六国時代がはじまりますが、五胡のひとつである匈奴の容姿について、この巻では興味深い考察が加えられています。この時代においてはじめて匈奴の容姿が史書に記されるようになったことを指摘したうえで、それまで匈奴の容貌が書かれなかった理由は匈奴が種族名ではなく政治団体の名だからだ、という説を肯定的に紹介しています。多くの種族を配下に抱える匈奴の容貌はばらばらであるから、書けるはずがないというのです。

この匈奴を含む五胡をまとめあげ、華北をほぼ統一した前秦の皇帝・符堅を、陳舜臣は諸民族の融和を目ざした理想主義者として高く評価しています。中華を統一するという符堅の夢は淝水の戦いでの敗北で挫折してしまいますが、このあたりが五胡十六国時代のハイライトといえるでしょう。この時代には彼のような魅力的な人物が多く登場しているので、三国志の「その後」を知りたい方にもぜひ手にとって欲しい巻です。

 

中国の歴史(四) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

中国の歴史(四) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

 

 

唐から五代を経て北宋にいたるまで、ある意味中国史の最も輝かしい時代を書いているのがこの巻です。宋の開祖である趙匡胤が士大夫を優遇した人物であるためか、著者は全体として宋王朝にはかなり好意的であるように思います。酔っ払って寝ている間に天子の服を着せられて皇帝になった趙匡胤にはなんとも言えない愛嬌のようなものが感じられますが、それだけでなく、言論を理由として士大夫を処刑してはならないことを決めた趙匡胤を、陳舜臣はきわめて高く評価しています。

しかし、趙匡胤がそれほど残酷なことをしなくても中華を統一できたのは、すでに後周の世宗が八割型その地固めをしていたからです。この宋の前段階としての五代の時代についてもこの巻ではきちんと書かれています。五代十国時代について扱った本は日本では少ないため、その意味でもこの間は貴重です。この時代は三国時代に匹敵する乱世ですが、唐の滅亡から殺伐とした乱世を経て宋の太平の世が訪れる流れは、読んでいてもどこかほっとするものがあります。宋は契丹や金など北方の民族には常に圧迫されていたものの高い経済力を誇っていたため、この王朝を創った趙匡胤が高評価されるのも当然のことなのでしょう。

 

中国の歴史(五) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

中国の歴史(五) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

 

 

いよいよ草原の風雲児であるチンギス・カンの登場する巻です。モンゴルと南宋との戦いが内容のかなりの部分を締めていますが、陳舜臣はこの時代を代表する二人の詩人として南宋陸游と金の元好問を登場させています。このように文人の目を通して歴史を書くのも、自身が作家であり「文人」でもある陳舜臣ならではの視点です。女真族は中国に入ると急速に中華文明に染まったため、元好問も極めて高い水準の漢詩を作っているのですが、元好問は金末期の詩人であったためにモンゴルの侵入を経験し、金の滅亡をその目で見ています。この巻には金滅亡の半年後に元好問の書いた詩が載っていますが、著者のモンゴルに対する気持ちをこの激しい詩に代弁させているかのようにも思えます。

一方、南宋最後の忠臣である文天祥にも、著者は十分な思い入れを込めて書いています。モンゴルへのゲリラ活動を続け、最後まで決して屈しなかった文天祥陳舜臣は「一個の見事なもののふ」と表現しています。陳舜臣は決してモンゴルをただの野蛮人として書いているわけではなく、フビライの寛容さや開明性にも一定の評価は与えていますが、やはり心情としては中国側をよりよく評価する傾向はあります。対して、モンゴル史家である杉山正明氏はこの文天祥を「あさましい人物」とまで酷評しています。フビライは生きて自分に仕えるよう文天祥に勧めたのに死んで歴史に名を残そうとしたからですが、モンゴルの立場から見ればそうなるのかもしれません。当シリーズの人物評価は中国側に視点を置いたものだということを念頭に置きたいところです。

 

中国の歴史(六) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

中国の歴史(六) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)

 

 

この巻では、靖難の変で明の永楽帝が帝位についた頃から清の乾隆帝の頃までを扱っています。中国史とは言っても扱う内容は時に西域にまで及んでいますが、それは永楽帝のライバルとなり得たティムールについて記すためです。この巻の「ティムールの西域」はティムールの生涯を比較的詳しく書いていますが、ティムールの著書が少ない日本においてはこの章は彼の生涯を知るうえで今なお有益です。ティムールはその生涯の最後に明遠征の途上にありましたが、もしティムールと永楽帝が戦っていたらどうなったか?について、陳舜臣はこう予想しています。

 

仮にこの老皇帝の率いる軍隊が、明と戦うことになっても、おそらく勝利は望めないでしょう。即位したばかりの永楽帝は、気力充実した壮年の将軍皇帝でした。その後の5回に渡る親征でもわかるようにきわめて積極的でした。長途の遠征に疲れたティムール軍は、漠北の地に壊滅したにちがいありません。

 

中国びいきと言われればそれまでですが、この推測には一定の説得力があります。このように、学者とちがって歴史のイフを自由に考え、大胆な予測を交えることができるのが作家の書く歴史の面白さです。ティムールのことをわざわざ書いたのは、天才的な武人だったティムールすら破っていたであろう巨大な存在として永楽帝を評価していたからかもしれません。実際、永楽帝鄭和を海外に派遣し、中国における「大航海時代」を演出したスケールの大きな人物でもあったわけです。陳舜臣大航海時代を語る時に鄭和の遠征がオミットされていると指摘していますが、ここに永楽帝の偉業が軽視されていることに対する静かな怒りを読み取ることもできるかもしれません。

  

小説十八史略(一) (講談社文庫)

小説十八史略(一) (講談社文庫)

 

 

以上、すべての巻ではありませんが陳舜臣『中国の歴史』シリーズの魅力について紹介してきました。しかしなにぶん中国史の本なので、これでもまだ固いと感じる読者もいるかもしれません。そういう方には同じ著者の『小説十八史略』があります。こちらは南宋が滅亡した時点でストーリーは終わりますが、オリキャラも交えつつ小説として中国史を読める内容になっています。

 

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なお、三国時代に関しては以前 こちらのエントリを書いていましたが、この中で紹介している『三国志の世界』は講談社の中国の歴史シリーズの中の1巻で、こちらも中国史を学ぶ上ではおすすめのシリーズです。