一見なんてことない食い物エッセイのようにみえるし、そのように読むこともできる。でもじっくり読んでみると、 やはり久住昌之という人はただ者ではないことがわかってくる。やはり食ネタでずっと飯を食っている人は違う。
久住昌之が語る食べ物はだいたいいつも大衆食堂的な店のカレーだとか、おにぎりだとか、庶民的なものばかりだ。こういうネタで読ませるには薀蓄を語るのではなく、いかに読者の共感を引き出せるかが重要だ。久住昌之の読者は知らない世界をのぞき込みたいのではなく、いつも食べているものを同じ目線で語ってくれることを望んでいる。つまり「わかる」と思わせてほしいのだ。
そしてその「わかる」というのは、「昔ながらの普通のラーメンってたまに食べたくなりますよね」程度の「わかる」であってはいけない。その程度の文章に人はお金を払わない。じゃあどんなレベルだったらいいのか。久住昌之はとんかつを食べながらこんなことを考えている。
とんかつと比べたら、同じ肉でもステーキなんてギャングみたいだ。見るからに悪役面をしてる。黒い革の手袋をはめていそうだ。その下に、でっかい金の指輪もしていそう。とんかつは、真っ白な軍手の似合いそうないい人だと思う。
この人のこういう表現力には関心する。私なんてとんかつを食べているときには、ごはんが余らないようにするにはとんかつひと口でごはんをどれくらい食べればいいのか、くらいのことしか考えていないのに、久住昌之はわざわざとんかつを擬人化までしているのだ。今は戦艦から細胞に至るまでなんでも擬人化する時代になっているけれども、このとんかつの擬人化は納得感が高いし、「わかる」感じがする。とんかつを擬人化するなら端正な人でなくてはいけない。
このエッセイで一番「わかる」感が高かったエピソードは、完全菜食主義の合宿を一週間体験したあと、何を食べたいか?という話だった。久住昌之の答えは駅前の喫茶店のナポリタン。これは本当に「わかる」。身も心も清めた人間が俗世に戻ってきて一番食べたいのは、ラードと焦げたケチャップにまみれたあのスパゲティだろう。パスタではなくスパゲティだ。粉チーズとタバスコをたっぷりかけて食べるやつだ。菜食主義の対極にあるハイカロリーなあのスパゲティこそ、禁欲生活から開放された人間が最初に食べたいものだろう。これを読んだあとではそう信じたくなる。
『孤独のグルメ』には「ソースの味って男の子だよな」とか「焼肉と言ったら白い飯だろうが」みたいな「わかる」フレーズがたくさん出てくる。ただおじさんが飯を食っているだけの漫画をつい読んでしまうのは、五郎の言っていることがいちいち「わかる」からだ。ドラマ版の「こういう普通のラーメンがいいんだよ。『どうだどうだ』という押し付けがましさが微塵もない」といった台詞も本当に「わかる」のだが、これも久住昌之が添削しているらしい。久住昌之はエッセイの中では自分はいつもガツガツ飯を食っていてバカみたいだと言っているが、本当はとても繊細な人なのだろう。
こういうものを読んでいると、人の才能とはなんだろうかということを考えさせられる。とんかつを擬人化してみせたり、 昔懐かしいナポリタンを目の前に浮かび上がらせるような描写をしてみせる能力がなぜ生まれるのか。結局、それはいつも食べるということについて考えつくしているから、という気がする。四六時中何かについて考え続けられるというのは、立派な才能だ。並大抵の「好き」のレベルでは、「好きなことで、生きていく」ことはできない。人生のリソースをほとんどそれにつぎ込んで構わないというレベルになってようやく、こういうものが書けるようになる。