明晰夢工房

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ケン・リュウ『母の記憶に』は中国史好きにもおすすめできる短編集

 

母の記憶に (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

母の記憶に (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 

 

ケン・リュウ『母の記憶に』を読んだ。SF短編集として売られているし、実際に考古学のロマンを打ち砕く苦味の残る「重荷は常に汝とともに」や、皆が楽園追放のディーヴァのような世界を目指す中で取り残されたものの悲哀を描く「残されし者」のようなキレのあるSFが多く収録されているのだが、むしろわたしが本書のなかで強く印象に残ったのは中国史を扱っている「草を結びて環を銜えん」と「訴訟師と猿の王」の二作品だった。どちらのこの短編集の中では屈指の出来栄え。

 

このふたつの短編は、どちらも清が中国において行った「揚州大虐殺」を題材にしている。この短編を読むまで知らなかったが、揚州大虐殺とは南明の支配していた揚州において、満州兵が10日間にわたり繰り広げた虐殺のことだ。この蛮行で、なんと80万人もの人々が殺されたといわれている。この揚州大虐殺を背景として展開される芸妓を主人公とした人間ドラマが「草を結びて環を銜えん」で、揚州大虐殺を記した「揚州十日記」という書物をめぐって繰り広げられる物語が「訴訟師と猿の王」だ。

 

この2つの短編は、清という巨大な権力に押しつぶされそうになりながらも、人としての誇りを失わなかった人々を主人公としている。揚州の芸妓も、訴訟師も市井の人間であって英雄ではない。しょせん歴史を動かせる側の人間ではないのだ。だから二人の抵抗は無駄とも言えるのだが、だからこそ意地を通そうとする二人の生きざまは読者に深い印象を残す。友の命と揚州の人々を少しでも助けようとした緑鶸、そして揚州大虐殺を歌に託して後世に伝えようとした田。このような人物に光を当てるところに、ケン・リュウのまなざしの暖かさを感じることができる。

 

中国を扱った作品としては「万味調和ー軍神関羽アメリカでの物語」もまた素晴らしい。これはアイダホに移住した中国人移民たちとアメリカの少女との交流の物語だが、関羽を思わせる「老関公」の人柄になんともいえない深い味わいがある。作中作として出てくる微妙に間違っている三国志も楽しい。ラストはやはり苦いが、この短編集のなかでも一、二を争う傑作だろう。私はどちらかというとSFを苦手としているので今までケン・リュウを読んでいなかったが、この短編集にはこれらの非SFの傑作も含まれているので、SFを敬遠している人も一度手にとって見てほしい。最初の短編は機械の腕を持つ主人公が満州で熊と戦う話ですよ、といえばSFの方にも興味を持ってもらえるだろうか。