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「日本版マグナ・カルタ」六角氏式目、今川仮名目録をコピペした甲州法度……分国法から戦国大名の個性を描き出す清水克行『戦国大名と分国法』

 

戦国大名と分国法 (岩波新書)

戦国大名と分国法 (岩波新書)

 

 

これは久々に大当たりの新書。

 

戦国大名の特徴として、領国内にしか通用しない「分国法」を制定している、ということがよく挙げられます。有名どころでは今川仮名目録や甲州法度などをあげることができますが、これらの分国法の内容までくわしく知っている人は、必ずしも多くないかもしれません。しかし、ともすれば退屈なものと思われがちなこれらの法律の中身を検討してみると、そこには戦国時代の地域差や言うことを聞かない家臣に振りまわされる大名の苦労話、商業の捉え方の違いなど、極めて興味深い戦国時代の実相が浮かび上がってきます。これは戦国時代に興味をもつ方なら必読でしょう。

 

当主の愚痴がそのまま書かれている結城氏新法度

 

本書では、まず分国法のなかでもマイナーな部類の「結城氏新法度」から解説を始めています。この分国法は他国のものに比べて内容も未整備で、完成度が高いとはとても言えないものですが、それだけに当主である結城政勝の生の声がそのまま反映されています。たとえばこんな具合です。

 

【67】実城(本丸)で合図のほら貝がなったら、無分別にただやたらと出撃するのは、とても始末の悪いことである。ほら貝が鳴ったら、まず町に出て、一人の倅者でも下人でも実城に走らせ、どこへ出撃するのか問い合わせて出撃せよ。

【68】どんなに急な事態であっても、鎧をつけずに出撃してはならない。機敏なさまを見せようと、一騎駆けで出撃してはならない。全軍が揃うのを待ってから出撃せよ。

【69】命じられてもいないのに偵察に出かけるというのは、まるで他人事のような振る舞いだな。

 

この条文からは、政勝の家臣は戦となれば敵が誰かもわからないのに勝手に出陣していることが読み取れます。しかも装備もろくに整えないのだから、これではとてもまともな戦にはなりません。結城氏はまったく家臣の統制が取れていなかったのです。

めいめいが勝手に出陣するのは一見勇ましいようにも思えますが、実はそうではありません。家臣が勝手に出陣してしまうのは、敵地で女性の一人でもさらってやろうという魂胆があるためです。私利私欲のためにしか動かない家臣をどうにかコントロールしなくてはならない、という政勝の苦労が、結城氏新法度からは読み取れるのです。分国法というのは実は面白いものなのだ、ということを読者に理解してもらうために、この結城氏新法度を一番最初に持ってきたのだと思います。

 

商人の扱いがまったく違う塵芥集と六角氏式目

 

分国法には、戦国大名の地域差が反映されます。その差がもっともよく出ているのが、塵芥集と六角氏式目です。塵芥集は伊達政宗の曾祖父にあたる伊達稙宗が制定した分国法ですが、この法度のなかでは、販売している商品が盗品だと疑われた場合、売り主が自らそれが盗品でないことを証明しなくてはなりません。ですが六角氏式目では逆に、もとの持ち主が盗まれた品が売られているのを見たときは、返してもらいたければ自分で犯人を捕まえるなどして犯罪が行われた事実を証明しなくてはいけないのです。

 

この違いはなぜ生じているのか。伊達氏の本拠地である東北に比べ、六角氏が根拠地としている近江は商業の先進地域です。実際、六角氏は信長に先がけて楽市令を施行した大名としても知られています。このような地域を治めるには、商人の保護を優先しなくてはならないのです。売り主が商っている品が盗品だと疑われるたびに自分で無罪を証明しなくてはいけないようでは、おちおち商売などやっていられません。六角氏は盗品が販売されるリスクよりも、商取引が円滑に行われるメリットを優先していたということです。

 

ちなみに、この六角氏式目は家臣団が原案を起草し、大名当主に対して提出されるという成立過程をたどっています。結城氏が言うことを聞かない家臣をどうにか統制しようと法度を作っていたのに対し、こちらは家臣が当主に対して勝手に命令を出したり課税したりしないよう法で拘束するという形になっているのです。このような性質があるため、本書では六角氏式目を「日本版マグナ・カルタと呼んでいます。

 

今川仮名目録にみる中世人の知恵

 

分国法の中でももっとも整理され、先進的な内容だったと評価されているのが今川家の今川仮名目録です。とはいえ、やはり中世の法律なので、現代人の目から見ればあまり納得できない内容のものもあります。

たとえば、川や海の侵食で川原や海になってしまった「川成」「海成」という土地の境界争いについては、双方の主張する境界線の中間を境界とせよ、と決められています。ずいぶん適当な法律のように思えますが、これは当時の人からすればかなり説得力のある処置だったのです。著者は最上義光の「人のもめ事にはどちらにもそれなりの道理があり、裁判とは道理の少ない方を非とするだけのものだ」という言葉を引用しつつ、こう説きます。

 

中世の人々を私たちよりも野蛮で劣った人々だなどと侮ってはいけない。ともすれば、ネット上の限られた情報をもとに「悪人」を決めつけ、それを袋叩きにすることで溜飲を下げている私たちのほうが、中世の人々に言わせれば、よほど野蛮な連中なのかもしれない。そして、こうした考え方を根底に持つ人々が争いを解決に導こうとした場合、中分や析中が最善ないし次善な解決策になるのは当然と言えるだろう。

 

誰にでもそれなりの道理があるのだからそれぞれの言い分の中間で手を打つ、というのが中世においてはもっとも「合理的」な判断だったのかもしれません。とかく白黒をつけたがり、間違っている方を一方的にバッシングしたがる現代人と中世人とどちらが現実的で賢いのか、と問われてみれば、これは確かに簡単に答えが出ることでもないような気がします。

 

それはともかく、今川仮名目録は内容が優れていたために、そのかなりの部分が武田家の分国法である甲州法度にコピペされています。コピペというのは私が勝手にこう言っているわけではなく、この本のなかに本当にこう書かれているのです。

 

この「甲州法度」は、全二六条のうち一二カ条までが「かな目録」とほぼ同じ内容となっている。つまり、一般的には武田信玄といえば”戦国最強の大名”として有名を馳せているが、じつは分国法については、その内容は「今川かな目録」の無断引用(コピー&ペースト)だったのである。

 

しかし武田家もただ今川仮名目録の模倣に終わったというわけではなく、甲州法度はつねに内容が更新されていて、天正八年に至るまでバージョンアップが続けられています。勝頼が天目山に滅びるのは天正十年なので、武田家滅亡の寸前までバージョンアップがくり返されていたのです。

武断的なイメージのある武田氏は、実は「法の支配」にかなりこだわっていた大名でした。にもかかわらず、武田家は滅びてしまいました。武田家だけでなく、分国法を作った今川家も六角家も大内家も皆滅びてしまっていますし、塵芥集を作った稙宗も隠居に追い込まれています。つまり分国法は、負け組の作った法律ともいえるのです。なぜ法律を整備し、内政に力を入れた大名が滅びてしまったのか?この問いに対する答えが、本書の最終章で示されます。

 

分国法なんていらなかった?

戦国時代の最終段階での覇者となった織田家や毛利家、島津家などでは分国法は作っていません。それは最終的な勝者となった徳川家も同じことです。結果から見れば、分国法の制定は戦国大名として勢力を拡大する上ではそれほど重要なことではなかった、ということになります。どうして、法律を整備することが国力を増すことにつながらなかったのか。著者はこう結論づけています。

 

そもそも当時の家臣や領民にとって、裁判というのは迂遠で面倒なものにすぎなかった。多額の費用と長大な時間を浪費して法定で敵と争うくらいなら、対外戦争に従事して、 そこで功績を上げてしまえば、恩賞としてそれに数倍する土地や権利を手に入れることが可能だった。勝ち目のない地味な裁判を争うよりも、戦争は手っ取り早い権利拡大の手段なのである。

 

法を整備する大名のほうが「文明的」であることは間違いないのですが、戦国の世が求めていたのはそのようなお上品な大名ではなく、ひたすら領土拡大に突き進むような大名だった、というのです。限られた領土内での法の整備に力を入れるより、対外戦争に勝ち続けるほうがメリットが大きい。この時代に求められているのは分国法などよりも「天下布武」を掲げて外へ繰り出すイノベーションだったのだ──とこう言われてしまうと、多くの労力を割いて分国法を定めた意味とは一体なんだったのか、と考えずにはいられません。

 

結局、これらの分国法の理念は、江戸時代に入り各大名家の藩法に継承されていくことになります。今川仮名目録や甲州法度で取り入れられた喧嘩両成敗法も江戸幕府が継承しています。法の支配が平和な時代にこそ求められるものであるとするなら、分国法を作った大名たちは著者も言う通り、時代を先取りしすぎていたことになります。喧嘩両成敗法に見られるような自力救済の否定が豊臣政権や江戸幕府に受け継がれたことを思えば、分国法は社会を文明化させる上ではたしかに役立ったのだ、と信じたいところです。