明晰夢工房

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妻を3度も寝取られた田舎貴族の裁判を扱った『姦通裁判』が名著だった

 

 

こういうものを読むと、星海社はほんとうにいい仕事をしているなと思いますね。18世紀のトランシルヴァニア(当時はハプスブルク諸邦の一部)で起きた姦通事件を扱っている新書ですが、事件そのものよりも裁判記録からみえてくる近世ヨーロッパの村の生活の描写がメインの内容になっています。当時の農民の多くは文盲で記録を残さないため、こうした裁判の記録が当時の庶民の暮らしを知るための貴重な史料になるのです。

 

事件の舞台はトランシルヴァニア侯国の小さな村、コザールヴァール。ここの領主であるイシュトヴァーンの妻・ユディトの姦通の実態はなかなかに壮絶で、3度も浮気を繰り返したあげく、3人目の間男アーダームはなんとイシュトヴァーンを家から追い出してユディトとともに住み着いてしまっています。こうした浮気の様子が、付近の農民たちにすべて目撃されているのです。というのも、ユディトと浮気相手との情事の現場に農民の家が使われ、見張りに立たされていた者までいたからです。当時の農民たちは領主に税を取り立てられるだけでなく、領主の妻の情事の手伝いまでさせられていたのです。

 

庶民が姦通事件に巻き込まれていたために、この姦通事件をくわしく検討することで、自然とコザールヴァールの村人の暮らしがわかることになります。村人のライフサイクルや定住していたジプシーの存在なども知ることができますが、とりわけ面白いのはこのコザールヴァールには「魔女」が住んでいて、ユディトの浮気に協力していたということです。コザールヴァールの魔女たちはユディトのために媚薬を作っているのですが、同時代のオーストリアの君主が「啓蒙専制君主」であるマリア・テレジアであることを思い起こせば、この事実はより興味深いものとなります。ウィーンから遠い田舎の村では、まだ中世そのもののような迷信の中に生きる人々がいたということです。

 

妻を奪われたイシュトヴァーンの側も、何もしなかったわけではありません。それどころか、こちらも農民を引き連れてなんとか間男のアーダームに逆襲しようとしています。しかしイシュトヴァーンは喧嘩が弱く、銃まで持ち出しているのにいつもアーダームに返り討ちにされてしまっています。それどころか、妻のユディトにまで暴力を振るわれてしまう始末。これは一体どういうことなのか。読み進めていくと、一種の「男性問題」がここに関わっていることが浮き彫りになってきます。

 

しかし、彼ら、イシュトヴァーンとユディトの夫婦関係をよく知り、しかも、ユディトが生んだ3人の子がいずれもイシュトヴァーンの子ではないと確信する者たちにとっては、それらの事実が意味するところは、火を見るよりも明らかだったはずだ。すなわち、イシュトヴァーンが性的に不能だった、ということである。

 

イシュトヴァーンが間男のアーダームだけでなく妻にさえ敵わなかったのは、単に腕っぷしの問題だけではなかったようです。妻を満たすことのできない男としての自信の欠如が、彼の反撃を鈍らせていたのでしょう。このため、妻を寝取られた被害者であるにもかかわらず、イシュトヴァーンは農民たちにも「馬鹿」と陰口を叩かれてしまっています。当時の農民たちにとり、イシュトヴァーンは夫らしくない夫として、完全に反面教師と認識されていました。イシュトヴァーンの心中は知りようもありませんが、このような不名誉な形で歴史に名を残すなど、まったく望むところではなかったでしょう。

 

こうした庶民の生活にスポットを当てた著書は、大所高所から歴史を見ていくような書物とは異なる、 また独特の愉しみがあります。たんに東ヨーロッパの村の生活の様子がわかるだけでなく、オーストリア継承戦争の特需で大儲けした領主の存在など、大きな歴史の流れとリンクする話も出てくるので、基本はミクロな出来事を扱いつつも歴史のダイナミズム的なものも味わえる、お得な内容になっています。トランシルヴァニアという地域についてピンポイントで知りたい人はそれほどいないかもしれませんが、「中性的な様相も色濃く残す近世の村」についての入門書だと考えれば、創作にも生かせる内容ではないかと思います。