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後醍醐天皇が明治維新に与えた巨大な影響を描く兵藤裕己『後醍醐天皇』

 

後醍醐天皇 (岩波新書)

後醍醐天皇 (岩波新書)

 

 

後醍醐天皇の評伝としては最も新しい本。どうしても太平記のイメージに引きずられがちな人物ですが、本書を読めば後醍醐という人がなにを目指していたのか、ということがかなりはっきりしてきます。

後醍醐天皇の理想とした政治とはつまるところ、天皇を中心とした中央集権的な統治です。これは宋学イデオロギーに強い影響を受けたもので、親政を開始したころ日野資朝のような中国の新傾向の儒学を身につけた貴族を取り立てているところにもその影響がみられます。資朝のような儒教の教養を身につけた「士大夫」を使いこなして政治を行う、つまり日本を宋のような官僚国家にすることが後醍醐天皇のめざすところです。後醍醐は同じく日野一族であり、やはり儒教の学識を持つ日野俊基も抜擢していますが、この人事は前例にとらわれないものだったため、反発も多いものでした。

 

鎌倉幕府が滅び、建武政権が成立すると、後醍醐天皇は本格的に家格や門閥を無視した人事を行うようになったため、当然高位の官職を独占してきた上流貴族の反発を買うことになります。出自も定かではない楠木正成名和長年のような「草莽の臣」を抜擢する後醍醐の政治は家柄や門閥を否定するものであったため、既得権を持つ上流貴族からすればそんなものは「物狂の沙汰」であるということになります。北畠顕家が後醍醐の人事を批判しているのも、出自や家柄を無視した「下克上」が行われていたからです。

このような既得権益層の声を表現しているものが有名な「二条川原落書」です。この落書は漢籍の故事をふまえて作られているので、ただの庶民が作ったものとは考えられません。つまりは後醍醐の建武の新政でメリットを失う貴族が作ったものではないか、ということです。建武の新政への批判はこうした層から出ているものが多いという点は注意する必要があります。

 

とはいっても後醍醐の統治は理念に走りすぎていて、武士に対する恩賞も不公平なものがあったことも事実です。中国では五代十国時代に貴族層が没落し、また科挙の制度がもともと存在したために士大夫を中心とする官僚国家を作ることが可能でしたが、そんな土台もなくすでに武士の時代に入って久しい日本では後醍醐の理想とする中央集権的な政治など実現しようもありませんでした。理念に現実を合わせようとして失敗した感のある後醍醐天皇の統治ですが、この後醍醐の姿勢は水戸学に大きな影響を与え、それはやがて明治維新に向けて日本を突き動かすイデオロギーにまで成長することになります。ここが、本書の読みどころのひとつです。

 

水戸学ではご存知のとおり南朝を正当としていますが、これはあくまで徳川家康が後醍醐の忠臣である新田義貞の子孫ということになっているためです。徳川光圀はあくまで徳川家の覇権を正当化するために南朝を正当としたのです。

しかし、のちに水戸藩に藤田幽谷が出、水戸学では天皇の絶対的権威が強調されるようになります。足利幕府の支配する時代は「国体を欠く」空白の時代であるということになりましたが、徳川家の武家支配もまたその延長線上にあるのであれば、天皇を中心とする「国体」を回復するためには武家社会の秩序が無化されなくてはいけないということになります。天皇の権威を絶対化する以上、幕藩体制の正当性もまた揺らいでしまうことになるのです。

 

水戸学の「国体」の観念は、吉田松陰のいわゆる「草莽崛起」のスローガンを経て、幕末の革命運動を主導する広汎なイデオロギーとなってゆく。近世の身分制社会から近代の国民国家への移行があれほど速やかに行われた背景にも、幕末の「志士」たちによって鼓吹された「国体」の観念が存在しただろう。(p224)

 

幕末の志士たちがいかに後醍醐を意識していたかは、長州の勤皇家が京・大阪の庶民相手のプロパガンダでよく用いたという「正成をする」という言い方にもあらわれています。つまり、これらの志士たちは自分たちを後醍醐の「草莽の臣」である正成に重ねていたということです。水戸学の「国体」の観念は、幕末の革命のイデオロギーとして幕藩体制を根本から揺らがせるところまで行きついたのです。これも元をたどれば、身分や出自にかかわりなく家臣を登用した後醍醐の人事にまでさかのぼることができるのです。

 

理念が先行していたために後醍醐の統治は短期間で終わってしまいましたが、政治そのものよりもそのイデオロギーが後世に与えた影響力の甚大さを考えると、やはり後醍醐という人物は特異な人物であったと思えてきます。本書では文観は「邪教立川流の中興の祖であることは否定されていて、後醍醐政権が「異形の王権」だったことも否定されているのですが、それでも後醍醐天皇はやはり史上に屹立する「巨人」であったように思えます。