明晰夢工房

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「肉食」をキーワードとした比較文明論『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』は中公新書屈指の名著

 

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公新書 (92))

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公新書 (92))

 

 初版は1966年と古いですが、これは何年経っても色褪せない名著。

「肉食」をキーワードとした日欧比較文化論、といった内容ですが、話題が日欧それぞれの食のあり方や階層意識、性文化、人権意識など多岐にわたっていて本当におもしろい。

ヨーロッパ人の主食は実はパンではなく肉なのだ、という知見から西欧文明のあり方を縦横に論じるその手際は見事というほかなく、「食」というものがここまで深く人の生き方を規定してしまうものなのか、と驚かされることばかりです。

内容が古いのでこの論考がどこまで正しいかはわかりませんが、およそ日本とヨーロッパの歴史や文明、食文化や宗教観などに少しでも興味を持つ読者なら、本書を読むことで大いに知的好奇心を刺激されることは間違いありません。

 

 日本人の食生活は欧米化しているので生活習慣病が増えている、とういことは私が子供のころからさんざん聞かされてきた話ですが、実は日本人の肉食などは西欧人に比べればままごとのようなものだ、と本書の冒頭では説明されます。たとえば『ビルマの竪琴』の著者、竹山道雄がパリの家庭でふるまわれた料理とは、こういうものです。

………こういう家庭料理は、日本のレストランのフランス料理とは大分ちがう。あるときは頸で切った雄鶏の頭がそのまま出た。まるで首実検のようだった。トサカがゼラチンで栄養があるのだそうである。あるときは子牛の面皮が出た。青黒くすきとおった皮に、目があいて鼻がついていた。これもゼラチン。兎の丸煮はしきりに出たが、頭が崩れて歯がむき出していた。いくつもの管がついて人工衛星のような羊の心臓もおいしかったし、原子雲のような脳髄もわるくはなかった。(p3)

 豚や牛などは「人間に食べられるための生き物」と信じて疑わない姿勢が、ヨーロッパにはあります。日本人はせいぜい切り身の肉を調理するくらいで、ここまで生々しい「肉料理」を家庭で作ることはまずありません。近代以降からようやく肉を食べ始めた日本人と、古くからずっと肉を食べてきたヨーロッパ人ではやはり根本的に動物に対する意識が異なるようです。

 

なぜ、ここまで肉食に対する考えが日本と西欧では違うのか。中世ヨーロッパ史が専門の著者は、それは牧畜に向いているヨーロッパと、そうでない日本の環境の違いが原因だ、と述べています。ヨーロッパは日本ほど湿度が高くないためあまり草が生育せず、家畜が食べやすい牧草になるのに対し、日本は高温多湿なので草の茎が太くなり、家畜が食べられない雑草が多くなるというのです。

 

牧畜がおこないやすいヨーロッパでは肉をたくさん食べるので、自然、動物は人間に食べられるための生き物だ、という認識が生まれます。ここで、人間と動物をはっきり分ける「断絶の論理」が生まれます。キリスト教には輪廻思想がなく、人が馬や牛にも生まれ変わる仏教とは決定的に異なりますが、ここにも「断絶の論理」がはたらいています。

放牧していると動物が乱交をするさまが目に入るので、性を秘め事にしなくてはならない、という宗教意識が生まれ、これが禁欲を理想とするカトリックの聖職者独身制として結実することになる、という見解もまた興味深いところです。

 

この「断絶の論理」はまた、西欧の内と外を分ける論理としても機能します。対外的にはこれが非キリスト教世界を侵略するためのロジックともなり、対内的には支配者層と民衆の間の隔絶を正当化するための論理にもなります。

実際、日本では武士と農民の間の格差がヨーロッパほど大きなものではなく、また武士は質素倹約を良しとしていたのに対し、ヨーロッパでは貴族は贅沢をするのがよいことで、庶民との格差も非常に大きかったのだそうです。貴族が農民をラバに例えている例がこの本では出てきますが、農民を家畜扱いしているのなら、やはり貴族と農民の間には「断絶の論理」がはっきりと働いているということになります。

 

そして、このような階層意識に苦しめられてきた民衆の怒りが人権思想となり、強烈な個人意識を生む……という流れで近代史が説明されるわけですが、あまりに明快なのでほんとうに「肉食」でここまで何もかも説明できていいのか、と逆に疑いたくなってきます。地理的環境の違いから世界史に切り込むその姿勢は『銃・病原菌・鉄』にも似たものがありますが、あれよりもはるか早くに日本人がこのような文明論を書いていたという事実には驚かされます。