明晰夢工房

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明・清と同時代のモンゴルやチベットの歴史を知りたい人におすすめの講談社学術文庫『紫禁城の栄光』

 

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫)

 

 

 明・清代の歴史の概説書としては講談社の中国の歴史シリーズ、古くは中公文庫の世界の歴史に収録されているもの、また陳舜臣の『中国の歴史』などいろいろありますが、この時代を1冊で理解したいなら間違いなくおすすめなのがこの『紫禁城の栄光』です。

なにしろこれ、まず読み物として面白い。講談社学術文庫から出ているからといって構える必要はまったくありません。政治史が中心で文化史の記述はそれほどありませんが、歴史はまず政治史をしっかり押さえることが大事なので入門書としてちょうどいい。

そして、他の本にはあまりない特色として、明・清時代のモンゴルやチベットの歴史がよくわかる、という長所がこの本にはあります。実は元代にはモンゴルが中国の農耕地帯と遊牧地帯を統一していたため、この両地域は商業で結びつけられていました。しかし明代になりモンゴルが中華世界の北に追いやられて北元となり、このふたつの世界は分裂しました。

明はこのふたつの世界の再統一を目指し、永楽帝は自ら兵を率いて出征しています。しかし農耕民族である漢民族遊牧民であるモンゴルには対抗しきれず、明は元の領域を回復することはかないませんでした。

 

なぜ、農耕民族では遊牧民に対抗しえないのか。この理由について本書の冒頭で解説がなされていますが、これは単に明朝についてだけあてはまるわけではなく、古代から長きにわたって中国史を規定してきたものでもあります。

遊牧民の軍隊の特徴は、きわめて安上がりなことである。だいたい俸給というものがなく、戦利品の十分の一を戦争指導者たる皇帝の取り分としてさしだしたのこりは全部個人の所得になる。補給も楽で、輜重隊がなくてすむ。出陣の際は、兵士はめいめい腰の革嚢にチーズや乾し肉をいれて出かけるが、それで約3か月間は行動できるのである。 (p30)

 このような特徴があるため、いくら漢人のほうが人口が多くて文明度が高くても、そう簡単に遊牧地域まで支配することはできないのです。このため、中国史匈奴の昔から遊牧民が優勢であり、明代に入ってもまだモンゴルの侵攻に悩まされています。それどころか、土木の変では皇帝が捕虜にされてしまっています。このような事情があるため、中国史を語る上では遊牧民の歴史も合わせて語らなくてはいけないのです。

 

そして、明代以降はモンゴルはチベットとの関係性を深めています。本書では北に撤退した北限の歴史をひととおり語ったあと、モンゴルの英傑アルタンがラマ教ゲルク派に帰依するところを描いていますが、このとき僧ソェナムギャムツォにアルタンがダライ・ラマの称号をささげています。これがダライ・ラマの誕生です。転生をくり返すダライ・ラマはモンゴルや中華世界の政局にも大きな影響を与えるようになり、17世紀には不世出の政治家であるダライ・ラマ5世が出ています。

やがて清朝の時代になり、モンゴル全域は清の支配下にはいりチベットも保護下に入ることになりますが、明代は「シナ」の領域しか支配していなかった王朝がモンゴルとチベットを勢力下におさめることで、現代の中国とほぼ同じ領域を手に入れることになります。この「シナから中国へ」が、本書の歴史叙述の流れになります。この過程で中華世界とモンゴル、そしてチベットの歴史が有機的に結び付けられているところが、本書の画期的な点です。 

 

海と帝国 (全集 中国の歴史)

海と帝国 (全集 中国の歴史)

 

 

このように、なにかと有益なこの『紫禁城の栄光』ですが、著者の一人がモンゴル史の専門家であるためか、どちらかというと視点が内陸に偏りがちである点は否めません。これに対し、『海と帝国』では商業ネットワークの観点から海上交易に重きを置いた叙述となっています。

もうひとつ、本書に欠点があるとすれば、清帝国が崩壊しいていく過程までは語られていないということです。それは近代史の書籍に譲るということでしょう。満州人に困窮するものが増え、白蓮教徒の乱が起きるところまでは書かれていますが、本書ではあくまで清帝国の斜陽を匂わせるだけです。タイトルが『紫禁城の栄光』である以上、清の没落までは書かないということでしょうね。

天理教徒の暴動はいちおう鎮圧されても、中国社会の諸矛盾はなんら解決されていなかし、それにはるか海上からはイギリスを先頭とする欧米諸国のあたらしい強力な勢力がしだいにせまってきていた。だがそうした世界史の歯車の大きな動きになお気づかぬままに、すぎし日の栄光の夢さめぬ紫禁城の瑠璃瓦は、秋の夕陽に照りかがやいているのであった。(p332)