現在では室町時代にすでにラーメンが食べられていたことが知られていて、水戸光圀は「日本で最初にラーメンを食べた人」ではなくなってしまいましたが、それでも茨城には水戸藩ラーメンの伝統が今でも生きています。
この『水戸黄門の食卓』の「元禄のラーメン」 の箇所には水戸光圀が中国の儒者・朱舜水から教えてもらったラーメンの作り方が書いていあります。中国で唐の時代から用いられている藕粉という澱粉をつなぎに使った麺を用い、火腿(豚のもも肉を塩漬けにしたハム)でダシを取り、五辛という5種類の薬味を入れて食べる料理です。
とはいっても、朱舜水は何もラーメンの作り方を光圀に教えるために来日したわけではありません。本来、朱舜水は満州族に滅ぼされた明を再興する資金を得るため、長崎に来ていたのです。本場の儒者を招きたいという光圀の願いを受け、朱舜水と光圀は寛文5年(1665年)にはじめて対面しました。
食通の光圀は江戸に住むことになった朱舜水をもてなすため、手製のうどんを作っています。この時代では江戸でも蕎麦よりうどんのほうが流行していました。光圀が麺好きであることを知った朱舜水は、光圀への返礼として中国の麺を紹介したのです。うどんを作っていた経験から麺打ちに自信のあった光圀は朱舜水に麺打ちを習い、朱舜水は光圀のために澱粉を取り寄せて献上しています。朱舜水が水戸藩に伝えた知識は儒式礼法や農業、造園技術など幅広いですが、その百科全書的な知識のひとつがラーメンの作り方だったということです。