明晰夢工房

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【書評】『読書する人だけがたどり着ける場所』はどこなのか?

 

この本のタイトルをグーグルで検索してみたら、「読書する人だけがたどり着ける場所 要約」と出てきて、ちょっと苦笑してしまいました。

この本は、読書とはそうやってネットで手っ取り早く情報を得ようとする姿勢とは真逆のものだ、と説くためのものでもあるからです。本書の冒頭ではこう書かれています。

 

 しかし、ネットで読むことと読書には重大な違いがあります。それは「向かい方」です。

 ネットで何か読もうというときは、そこにあるコンテンツにじっくり向かい合うというより、パッパッと短時間で次へ行こうとします。より面白そうなもの、アイキャッチ的なものへ視線が流れますね。ネット上には大量の情報とともに気になるキャッチコピーや画像があふれています。それで、ますます一つのコンテンツに向き合う時間は短くなってしまう。

 最近は音楽もネットを介して聴くことが多くなっていますが、ネットでの「向かい方」ではイントロを聴いていることができません。我慢できなくて次の曲を探し始めてしまいます。そこで、いきなりサビから入るような曲のつくり方をしているという話を、あるアーティストの方から聞きました。

 

じっくり本と向き合いましょう、と説く本にすら、ネットでは早く要約を教えてくれ、という「向かい方」になってしまう。次々とより面白いものへ 目移りしていくネット住民のあり方というのはそういうものなのでしょう。こういうネット社会の在り方は現実にも影響を及ぼしていて、2000年ころには12秒くらいあった人間のアテンション・スパン(一つのことに集中できる時間)は、今や8秒にまで短くなっています。ネットは人間を格段に短気にしているのです。

 

これだけ人間の集中力が低下しているのは、ある意味では情報の氾濫する現代社会に適応した結果でもあります。こういう社会の中で、あえてじっくりと読書に取りくむ意味とは何なのか。斎藤孝さんがこの本で説く読書の効用とはこういうものです。

 

・人格が深まり、魅力的な人間になる

・深い認識力を身につけられる

・思考力が高まる

・知識が深まり、世界が広がる

・人生を深められる 

 

いずれも、斎藤さんの本を何冊か読んでいる読者なら「いつもの」だな、と思えるものです。

実のところ、私はこういう斎藤さんの読書礼賛の傾向については、以前から疑問を持っていました。読書がそんなにいうほど立派な行為だろうか?と思っていたのです。

たとえば、たくさんの歴史書を読んで知識を深めた結果、大河ドラマの重箱の隅をつついて普通の視聴者から煙たがられているような人もいるし、政治的正しさなどを学んだ人がそれについて無知な人を過剰に叩いたり嘲笑したりする場面を見ることもあります。

こういう読書の副作用ともいうべき部分について、ちょっと無自覚すぎるのではないか。読書は必ずしも人を立派にするわけではないし、別に本を読まなくたって立派な人はたくさんいるだろう……なんて思ったりするのですが、そういう「別に本なんて読まなくてもいい」という姿勢は、斎藤さんにとっては許しがたいものなのです。斎藤さんは『読書力』の中でこう書いています。

  

読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)

 

 

 私がひどく怒りを覚えるのは、読書をたっぷりとしてきた人間が、読書など別に絶対にしなければいけないものでもない、などというのを聞いたときだ。こうした無責任な言い方には、腸が煮えくり返る。ましてや、本でそのような主張が述べられているのを見ると、なおさら腹が立つ。自分自身が本を書けるようになったプロセスを全く省みないで、易きに流れそうな者に「読書はしなくてもいいんだ」という変な安心感を与える輩の欺瞞性に怒りを覚える。

 本は読んでも読まなくてもいいというものではない。読まなければいけないものなのだ。こう断言したい。

 

読書からたくさんのメリットを得てきた人間が読書などしなくてもいいとは何事だ、というわけです。斎藤さんはあまり怒ったりしない人だと思っていたので、これほどストレートに怒りをぶつける文章を読んだときは驚きましたが、それほど「本なんて別に読まなくてもいい」という主張が許せなかったんでしょうね。(『読書する人だけがたどり着ける場所』もそうですが、最近の著書はこのころに比べるとだいぶ角が取れてきている印象があります)

 

確かに、本をたくさん読んで学識を蓄え、それによって本が書けるようになった人が「本なんて読まなくていい」などというのは欺瞞でしょう。一冊の本が書けるようになるほどの知識や文章力を得る、これは確かに「読書する人だけがたどり着ける場所」です。そういう場所に立っておきながら、読書の重要性を否定するのは矛盾している。

 

でも、本をたくさん読んでいるからといって、そこまでの高みに到達できる人はそれほど多くはありません。私はこれでも普通の人よりも本は読んでいるつもりですが、別に人格が磨かれている感じはないし、教養が深まっているかも微妙。何も読まないよりはいいでしょうが、読書することで何か特別な場所にたどり着けている気もしない。

そもそも私の本に対するスタンスは「読書=快楽」です。娯楽小説を読むことも、学術書を読んで知識を得ることも、すべて快楽。快楽を得るためにしていることを偉いとは言いません。読書も結局、ゲームやスポーツや旅行などと同様、何らかの脳内麻薬を分泌するための行為でしかなく、他の趣味から抜きんでて立派なものでもないんじゃないか、という感覚がいつもあるのです。大多数の本好きな人はこんなものではないでしょうか。少なくとも私にとって、読書は自分を磨くための行為ではないし、本を読むことでどこかにたどり着こうという気持もないのです。

 

でも、じゃあ私みたいな立場からなら「本なんて読まなくていいだろう」と言っていいかというと、それも違うような気がしてきました。私にとっては読書は快楽でしかない、と書きましたが、そもそも知識を得ることを快楽と感じられること自体が読書の産物だろう、とも思うからです。

どんな趣味でも、楽しむにはそれなりにお金はかかります。しかし、読書は図書館を利用すれば無料で楽しめてしまいます。読書習慣さえあれば、 広大な学問や文芸の世界へ無料でアクセスすることが可能になるのです。この点は、他の趣味に比べてかなり恵まれていると言えます。しかも、知識は増えれば増えるほど結びつきやすくなり、さらに多くの知識を得ることが容易になるのです。この状態について、斎藤さんはこう記しています。

 

 読書の場合も、最初の20冊30冊くらいはたいして知識も増えていないし、読むのが大変な感じがすると思います。一生懸命細胞分裂しているけれども、「まだ細胞16個かよ、そんなんじゃ人間になれないよ」という状態。ところが、あるところまで行くと突然どんどん知識が吸収できるような感覚が生まれます。知っていることが増えたので、新しい知識もスムーズに入ってくるようになるのです。

 すでに知っていることは確かな知識として定着し、新しいことも「つながり」が見えます。「あ、あれと同じだ」とか、「ここでつながっている」とわかる。どんどん知識がつながっていくから加速度的に増えていきます。 

 

こういう「学習意欲のゾーン」に入れるようになること、これは凡人でも到達可能な「読書する人だけがたどり着ける場所」ではないかと思います。こういう状態が確かにあり得ることを、私は実体験として知っています。読書で人格が磨けるかどうか、それはわかりませんし、読書が立派な人間をつくれるとも限りません。しかし、先人の築き上げた知の体系にアクセスするには、読書が一番確実な道であることは疑えません。そして、読書習慣を身につければ、この広大な世界そのものを楽しめるようになるのです。

ここで得られる快楽の多さにくらべれば、払わなくてはいけないコストなどはごくわずかであるように思えます。本を読まない人が読書習慣を身につけるのは簡単ではないかもしれませんが、だからこそ斎藤さんはあえて読書はしなくてはいけないものだ、と主張するのかもしれません。自分が味わっている豊饒な世界に読者を誘うには、時に強い言葉が必要になることもある。人格が磨かれるだとか人生が深まるだとか、そういう謳い文句は人を学問や文芸の世界に誘うためのただの方便であっても別にいいのかもしれません。要は読書が楽しめるようになればいいのです。

「読書する人だけがたどり着ける場所」は広大な書物の世界そのものでいいし、それ以上の場所にはたどり着くかもしれないし、たどり着かなくても別にいい。今はそれくらいに考えています。