明晰夢工房

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【書評】藤田覚『岩波シリーズ日本近世史5 幕末から維新へ』

 

 

これは岩波新書日本近世史シリーズの中でも出色の出来。タイトルに幕末と入っているものの、本書ではタイムスパンを広くとって、天明の打ちこわしのころから叙述をはじめています。幕末史を理解するには、実はペリーの来航あたりから入っても流れがよくわかりません。幕末史にいたる政治や社会の変化は、すでに天明のころにはじまっているからです。

本書では、まず対外的な危機のはじまりとしてロシア船の来航について書いています。ロシアは毛皮を獲得する拠点である北米の植民地や千島列島を維持する仏師の確保ため、日本との通商を模索し始めますが、この過程でレザノフが日本へ武力行使を行い日本は劣勢に立たされています。
ロシア軍艦による攻撃と日本の敗北は日本各地に伝わって大騒動となり、幕府批判が続出する事態になっています。幕末にいたる将軍権威の低下の流れは、すでに18世紀後半にはじまっていたのです。

そして、この幕府の権威の低下と反比例するように、京都では朝廷の権威が向上していきます。このきっかけを作ったのが光格天皇です。本書では光格天皇は幕府に対し強い姿勢で臨んだこと、強い君主意識を持っていたことを強調しています。光格天皇松平定信に対し窮民の救済を要求したり、紫宸殿と清涼殿を平安時代と同じ規模に復古させて造営するなど、意欲的な天皇でした。大嘗祭も古代の儀礼に近い形で行うことにしていますが、こうした復古の流れは幕末の王政復古にもつながるもので、光格天皇の存在が重要であることがわかります。

本書の著者の藤田覚氏はNHKBS『英雄たちの選択』にも出演していますが、氏は番組中で「幕末史の一番大きな転換点は日米修好通商条約の締結だが、この条約の締結に先立ち幕府が天皇の勅許を求めなくてはいけないほど天皇の権威が上昇していた。そのきっかけを作ったのが光格天皇だった」という意味のことを話しています。18世紀末には歴代将軍は天皇から政治を任されている臣下であるという「大政委任」という考え方が出てきていますが、将軍を天皇の臣下に位置付けるこの説も光格天皇の時代に出てきたものです。

 

朱子学についてもおもしろい記述があります。朱子学は君臣間の秩序を強調するイデオロギーというイメージがありますが、実際は朱子学は緻密な論理を持つ合理的な学問という一面があり、このため朱子学を学ぶことが蘭学を吸収する土台になった、というのです。
寛政4年からはじまった「学問吟味」では朱子学の試験を行っていますが、幕末になるとこの試験の合格者から、対外関係で活躍する有能な人材が出ています。朱子学蘭学の間には交流があり、朱子学の世界観のなかに蘭学から得た西洋の知識を取り込む知識人は少なくなく、幕末においては佐久間象山横井小楠もそうした人達です。朱子学は時代遅れの封建的道徳を説く学問、とは片付けられないようです。

 

このように、本書はペリー来航以前の記述に見るべきところが多く、一読すれば幕末史を理解する土台を作ることができる一冊になっています。幕末から明治維新への流れをおさえるための入門書として、強く推奨します。