明晰夢工房

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【書評】牧原憲夫『岩波シリーズ日本近現代史2 民権と憲法』

 

民権と憲法―シリーズ日本近現代史〈2〉 (岩波新書)

民権と憲法―シリーズ日本近現代史〈2〉 (岩波新書)

 

 

明治という時代が国家全体としては間違いなく上昇気流に乗る時代であったとしても、その時代を生きる人びとにとってはかなり「生きづらい」時代だったということは『生きづらい明治社会』でくわしく書かれているとおりなのですが、本書でも明治時代はやはり「生きづらい」時代だったことが随所で強調されています。明治の「生きづらさ」の特徴はこの時代において強調されるようになった自己責任論にあります。『生きづらい明治社会』ではこう解説されています。

 

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通俗道徳をみんなが信じることによって、すべてが当人の努力の問題にされてしまいます。その結果、努力したのに貧困に陥ってしまう人たちに対して、人々は冷たい視線をむけるようになります。そればかりではありません。道徳的に正しいおこないをしていればかならず成功する、とみんなが信じているならば、反対に、失敗した人は努力をしなかった人である、ということになります。経済的な敗者は、道徳的な敗者にもなってしまい、「ダメ人間」であるという烙印を押されます。さらには、自分自身で「ああ自分はやっぱりダメ人間だったんだなあ」と思い込むことにもなります。 (p73)

 

「人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ」という「通俗道徳」が浸透したために、貧民のを救済する必要はないと考えられるようになったのが明治時代です。これは、年貢を払えない村民の負担は庄屋や肝煎が肩代わりしていた江戸時代とは対照的です。江戸時代の連帯責任制について、本書ではこう回顧しています。

 

「地方政治改良意見案(86年)のなかで井上毅は、江戸時代の村に流民・乞食が少なかったのは、村の土地を他村に売却するのを恥とし、借金を庄屋が立て替えるといった「一村団結の精神」があったからだ、と述べている。こうした団結の精神は、身分制が仁政を必要としたように、年貢を村単位で納入する村請制=連帯責任制が生みだしたものだった。 (p79)

 

江戸時代の人がやさしかったというよりは、システム的に村全体で村民の負債に責任を負うようになっていたために、流民が少なかったということです。しかし明治時代には租税の納入は個人の責任になり、人々は自分の才覚を頼りに生きていかなければならなくなりました。その結果、大阪の餓死者が年間300人を超えたと報告しているのが上記の「地方政治改良意見案」なのです。

 

「四民平等」の世の中になり、身分の壁がなくなれば、学力さえあれば(一応は)誰でも東大に進学することができます。しかし、『生きづらい明治社会』でも書かれているとおり、実際には上級学校への進学の道はごく限られていて、希望の学校に進学できる人はごく一握りだったのです。それでも建前上は教育の機会は誰にでも開かれていたので、良い学校へ進学できなければそれも自己責任だということになります。立身出世への道は狭き門なのに、もう出世できないことを身分のせいにはできなくなりました。

 

日本では、経済的条件を別にして、「学力」さえあれば小作農や労働者の子どもでも東大に進学できた。逆に、もし「成功」できなければ、それは身分のような外在的制約のせいではなく、本人の「実力」や「努力」が足りなかったにすぎない 、ということになった。学歴主義こそ、機会の平等、優勝劣敗、自己責任という自由競争の典型だった。(p139)

 

こうした「明治の自己責任論」については『生きづらい明治社会』でも書かれていることですが、本書ではさらに、アイヌに対しても一種の自己責任論が用いられたことが書かれています。アイヌ民族の国民化が進められるなか、明治政府はアイヌを定住させ農業に従事させていますが、狩猟で暮らしているアイヌに不慣れな農業を押しつければ、当然苦境に陥ります。しかも、日本の行商人から酒や煙草を高価に売りつけられ借金を抱えたり、漁業や道路工事に駆り出されるなど、アイヌは多くの困難を背負わされていました。この状況に対し、またしても自己責任論が展開されています。

 

アイヌは「日本人」でありながら「本来の日本人」ではなく、それでいて固有の文化は否定された。こうした政策の根底には、アイヌが困窮するのは「純然たる太古の民」とはいえ「無学無識、時勢の如何を知らず」「改心活発の精神なく」、古い習俗に固執するためであり、「自ら招く困苦」である、という文明の論理があった。(p102) 

 

 日本人ですら困難な北海道の開墾にアイヌを従事させるのだから、その苦労は想像を絶するものです。対雁や色丹島アイヌには米や塩、農機具などが支給されているものの、肉食中心のアイヌにとり穀物食のストレスは大きく、色丹島では五年で半数のアイヌが死に、対雁では300人を超える病死者が出ました。これもまた、明治社会の「生きづらさ」のひとつの形です。