明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】『世にも危険な医療の世界史』の衝撃的すぎる内容を紹介する

 

世にも危険な医療の世界史

世にも危険な医療の世界史

 

 

健康法の歴史は古い。今でも健康オタクはたくさんいるが、科学の未発達な時代の健康オタクは命がけだ。本書で紹介されているように、ヒ素やタバコ、コカインなどなどが健康に良いものとして推奨されていた時代があったのだから。健康を求めるがゆえにかえって不健康な物質を摂取し、危険な治療法を試して命を危険にさらしてしまう、そんな可笑しくもどこか切ない人間のいとなみが、この一冊には凝縮されている。

鎮痛薬として妊婦の静脈にブランデーを注入してみたり、若返りのためにヤギの睾丸を移植してみたりと、現代人の目から見ればトンデモでしかない治療法が本書ではたくさん紹介されていて、あたかも人類の愚行カタログのような様相を呈しているが、こういうものを笑ってはいけないだろう。先人が体を張ってこれらの療法が間違いであると証明してくれたからこそ、医学は進歩してきたのだ。

 

第一部の「元素」ではアンチモンヒ素、金などが薬として用いられたことが書かれているが、「薬」とされていた危険な元素としてもっとも有名なのは水銀だろう。始皇帝が水銀を飲んでいたことはよく知られている。だが水銀が薬だったのは古代中国だけのことではない。水銀入りの薬は近代に入っても用いられていて、幼児の歯ぐずりの薬として使われていたカロメルもまた水銀だ。この本では「その無害さは地下に骨折のこぎりを隠し持っているお隣さんと同レベル」と評価されているカロメルを服用するとうつや対人恐怖症などを発し、さらには頬に穴が開き、そこから舌や歯茎がむき出しになることすらあるという。

あのエイブラハム・リンカーンも水銀入りの薬を服用していたというから驚きだが、幸いにもかれはホワイトハウスに入ってからはこの危険な薬の服用を減らしている。それまでは不眠症やうつ、歩行障害まで抱えていたというから、もうすこし長く水銀を愛用していたらリンカーン奴隷解放の偉人として名を残せなかったかもしれない。トンデモ医療はときに歴史すら変えてしまいかねないほどの影響力があるのだ。

 

第二部「植物と土」ではアヘンやタバコなどが治療に用いられていたことが紹介されているが、ここで注目すべきはコカインだ。この章ではコカインの原料となるコカの葉の名を冠した世界的な企業が登場する。そう、コカ・コーラである。このコーラの開発者ベンバートンが南北戦争で負傷した兵士を治療するため、モルヒネに代わる鎮痛剤として目をつけたのがコカインで、かれはごく少量のコカインが含まれたアルコール飲料で特許を取った。

もともとインカ族が精神刺激剤として使っていたコカの葉から抽出されるコカインは、その精神高揚効果のため多くの知識人やアーティストに支持された。コカインを熱心に使用していた知識人として有名なのはフロイトで、かれの数々のすぐれた発想はコカイン依存症だったことが関係しているのではないか、と今でも議論されているそうだ。コナン・ドイルジュール・ヴェルヌアレクサンドル・デュマイプセン、スティーブンソンもコカイン入りワインを愛用しているが、創作活動にもコカインは有効だったのだろうか。エジソンもこのワインを飲んだら徹夜で実験できたというから、頭を使う職業の人にはよほど重宝されたらしい。これらの文学者や発明家の偉業のどこまでがドーピング効果によるものなのか、後世の人間としては気になるところだ。

 

第三部「器具」ではさまざまな器具を用いたトンデモ療法を紹介しているが、なかでもよく知られているのは瀉血だろう。アサシンクリード2をプレイすると、怪しい医者が町中で「健康のため週に一度は血を抜きましょう」と客引きをする声が聞こえるが、瀉血はかなりメジャーな治療法で、モーツァルト瀉血を受けていたことが知られている。

本書によれば、35歳のモーツァルトは貧血や関節炎、激しい嘔吐などさまざまな症状に悩まされていたが、医師たちがかれに勧めた治療法が瀉血だった。モーツァルトは死にいたる一週間の間、2リットルもの血を抜き取られているが、この療法がかえってかれの死を早めてしまったともいわれる。古代エジプトですでに行われていたこの治療法は、ガレノスには「どんな体の不調もこれで治る」と評価されるほどだったが、18世紀末になってもまだこの治療法は支持されていたのだ。失恋したら心不全になるまで血を抜けばよい、という医師まで存在するほど、瀉血が広い範囲の症状に効果があると考えられていたのは不思議なものだが、今瀉血が用いられるのは鉄過敏症や真性多血症の治療など、かなり限定的な場面のみだ。多くの場合、血液は外に出すよりも体内にとどめておく方がよかったのだ。

 

さらに時代が下り、20世紀に入ってもまだまだ危険な医療行為はおこなわれている。第三部13章でとりあげられるロボトミー手術はその代表例だ。前頭葉の白質を切り取るこの手術に用いる専用のメスを開発したエガス・モニスはノーベル生理学・医学賞を受賞している(これは本書では「史上最悪のノーベル賞」と評されている)。ケネディ大統領の妹ローズマリーには知的障害があり、当時のロボトミー手術の権威ウォルター・フリーマンのすすめでこの手術を受けさせられたが、それ以降、彼女は公衆の前から姿を消した。手術後、ローズマリーは歩くことも話すこともできなくなり、生涯を障害者施設で過ごすことを余儀なくされたからだ。

著者は「やり方は残酷だったものの、フリーマンは詐欺師ではなかった」と評価する。ローズマリーロボトミー手術を受けさせられたのは彼女の癇癪をおさめるためだったが、この手術によって精神的問題を抱える患者から家族を救えると、フリーマンは本気で信じていたというのだ。 だがロボトミーよりもずっと人道的な治療のできる化学物質が作られたため、このリスクの高すぎる手術はおこなわれなくなる。ロボトミー手術が「成功」すれば患者はおとなしくなったというが、ロボトミー手術で再起不能になったり、出血多量で死んだ患者も少なくない。ある内科医が「今やロボトミー手術は世界中で行われているが、治った患者よりも精神が破壊された人のほうが多いのではないだろうか」と言ったように、この精神外科療法のために払われた犠牲はあまりに大きすぎた。

 

これだけ危険な治療法が続くと、最後の章で紹介されるロイヤル・タッチなんてごく良心的なものに思えてくる。中世には「王の病」と呼ばれていた瘰癧(頭部リンパ節が結核菌に感染し腫れ物ができる病気)の患者が多かったが、王がこれに触れるだけで治る、というのだ。この治療法は効果はなくとも危険もないので、ロイヤルタッチの章はこの本のなかでは珍しく読んでいて安心できる箇所になっている。あくまで他の章にくらべれば、の話だが。

なぜロイヤル・タッチが瘰癧に効果的だと考えられていたかというと、これがかなりひんぱんに行われていたからだ。瘰癧は治療しなくても症状が落ち着くことがあるため、そのタイミングでたまたま王が触れれば良くなったと錯覚される。王は神から国を支配する権利を与えられたことを証明するため、奇跡の力をみせつけなくてはならない。このため、ヘンリー4世は一度の儀式で1500人もの病人に触れたこともあったという。これだけ触れていれば、触れられた患者の中には治ったと感じた者もいたことだろう。

しかし時代が下ると、ロイヤルタッチの効果も疑われるようになっていく。17世紀にはスコットランドに瘰癧を舐めて治す馬が存在したといわれ、この病の治療が王の専売特許ではなくなった。啓蒙の時代に入ると、ヴォルテールルイ14世の愛人が王の手でさんざん愛撫されたにもかかわらず、頭部リンパ節結核で亡くなったことを強調した。最後のロイヤルタッチは1825年にシャルル10世戴冠式で行ったものだが、このときすでにブルボン朝自体が終焉に向かいつつあった。王の手で実行されるこの治療法は、王朝とともに終末をむかえる運命にあった。

 

以上、興味を惹かれた個所について紹介してきたが、本書にはほかにもタバコの煙を肛門に注入する蘇生術や、ローマ剣闘士の肝臓を食べて癇癪を治す方法などなど、さまざまなトンデモ医療や危険な治療法がたくさん紹介されている。気になった箇所をめくってみるだけでも大いに知的好奇心が刺激され、同時に現代医学の成果を享受できる時代に生きていることへの感謝が湧いてくることだろう。

しかし、現代人とて油断することはできない。訳者があとがきで書いているとおり、人びとが効果の怪しいインチキ医療に引っかかってしまう最大の理由は「期待」にある。突然医師から余命宣告を受けたりすると、人は理性を失い、普段なら見向きもしない治療法に希望を見出してしまうのだ。トンデモ医療の落とし穴は、我々のすぐそばにも空いている。ただ、ふだんはその穴に気づくこともない、というだけのことなのだ。