明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】『ゼロから始める魔法の書 ゼロの傭兵(上)(下)』

 

  

 

『魔法使い黎明期』を読みはじめたので、先にこちらも読んでおくことにした。

10巻にわたって続いたゼロと傭兵の旅も、10巻にしてようやく終わった。

終戦の決着はわりとあっさりとついたし、ここでは派手なバトルも魔法戦も展開されることはなかったが、このシリーズはそういうものを見せるためのものではないのだろう。

今ふりかえれば、『ゼロから始める魔法の書』は、ずっと「属性や集団に対する偏見・憎悪をどう乗りこえるか」を書き続けてきたように思う。8巻から続いていたジェマとレイラントの確執が やがて和解へと至ったように、魔女や獣落ち、教会などが集団ごとに対立していた世界が、少しづつ変わっていっている。

共通の敵に立ち向かうためにゼロと騎士団は一時的に手を組み、騎士団のなかには魔法を覚えるものも出始める。生活を少しだけ便利にするために魔法を使うのは、本来ゼロが望んでいた在り方だ。しかしこの状況すらも、実は意図的につくり出されたものだった。魔女と教会の宿命的な対立を乗り越えるために払われた犠牲の大きさにくらべれば、得られた成果はまだごくささやかなものにすぎない。

 

9巻で語られているとおり、もともと魔女は教会と一体であって、魔女のなかにも正義の魔女と悪の魔女がいたに過ぎない。教会もそうであるように、結局ある特定の集団や属性が悪なのでなく、悪である特定の個人がいるだけだ。

しかし、魔女は強大な力を持ち、悪の魔女が白魔女を騙るため、教会側は魔女そのものを教会から切り離さなければならなくなった。良い魔女と悪い魔女の見分けがつかないので、魔女を皆まとめて狩り殺すという教会のやり方には一定の合理性がある。そして、それは魔女の側からみた人間も同じことだ。誰が魔女を迫害し、誰がしないのかを見分けることは容易ではない。だから、アルバスも最初は、魔女を殺された報復に村ひとつをまるごと焼き払うことを正当化していた。

 

「つまり──やったんだろ?報復だろうが何だろうが、村を一つ潰して村人全員を虐殺したんだろうが。だったら、何も悪いことなんかしてないって話にゃならねぇやな。大規模な魔女狩りが起こる原因を、この国の魔女達は確かに作ったわけだ」

「それは……!けど……じゃあ、殺されても黙ってればよかったって言うのかよ!」

「別にそうは言わねぇさ。だが、魔女を殺した報復に、村を一つ焼いたんだろ?たった一人の魔女に対して村一つ──なるほど、そいつぁ随分対等な報復だ」

「それは……だって……!」

「聞くがよ、坊主。死んだ村人全員が、赤ん坊にいたるまで魔女狩りに加担したのか?ただその村に住んでたってだけで報復の対象か。無実の村人はどうなる?たまたまいただけの村人は?それとも、ちゃんと選んで殺したのか?違うだろうよ」

「それは……!」

「無差別に村人を殺したお前らの報復が正当なんだってんなら、その報復に無差別に魔女を狩るのだって正当だろうよ。結果、はじまるのは報復のの報復で、つまり正当な戦争だ。魔女と、それ以外のな。発端が人間だろうと、魔女だろうと──小競り合いを戦争にした原因は<報復の狂宴>だ。お前ら魔女が戦争を起こしたんだよ。その事実は間違いねぇ」

ゼロから始める魔法の書1巻p84)

 

個人に対する憎悪を集団にまで拡大させることで戦争が起きる、と1巻の時点で傭兵は正確に認識している。魔女であれ獣落ちであれ教会の人間であれ、良いものもいれば悪いものもいるという当たり前の認識に立ち返らなければ、この状況を変えることはできない。

ある特定の集団への偏見の多くは、相手とじかに接することがないために起きる。つまり、対立している両者に無理やりにでも接点をつくれば、状況を改善できるかもしれないということである。ゼロの師匠は卓越した知性でその状況をつくり出し、その状況にゼロも傭兵も乗った。自分の意志でしたことではあるが、それでも二人は釈迦の掌の上で遊んでいた孫悟空のような存在だったかもしれない。

 

傭兵が一度人間に戻るものの、最終的にはまた獣落ちの身体を取りもどすことも、この作品全体からすれば大きな意味があるように思う。傭兵が人間に戻れば、偏見や悪意に悩まされることなく、堂々と料理人の仕事につくことができる。しかし、本来この世界のあるべき姿は、魔女や獣落ちや教会の人間、そしてただの庶民が共存できるようになることだ。

傭兵は必ずしも善人というわけではないし、時には暴力をふるうこともある。しかし、傭兵は特定の集団を敵とみなしているわけではなく、あくまで敵とみなした個人と戦うだけだ。この世界は善意に満ち溢れているわけではなく、個人間のいさかいも暴力もなくなりはしない。だが、それを魔女狩りのようなレベルにまで拡大させてはいけない、という共通了解がまずは必要なのだ。まだまだ課題は多く残っているものの、10巻を費やしてこの物語はようやくそこにまでたどり着いた。

 

すべてが仕組まれていたことだったからには、ゼロの師匠も本当のラスボスとはいえない。本当の敵はもっと身近にいる凡庸な存在だ。たとえばオルルクスのように、魔女と教会側の相互理解をはばもうとする者こそが、この世界の本当の敵なのだ。魔女は恐ろしく獣落ちは汚らわしい、そういうステロタイプな他者理解に、人は簡単に落ち込む。そういう安易な見方に流されないからこそ、傭兵はこの物語の主人公になる資格があった。これは、獣落ちでも普通の子同様に扱ってくれた両親の影響も大きいだろう。そして、ゼロや神父やリーリもまたそのような偏見からは自由だった。頑迷なレイラントですら、最終的には魔女を認めるに至った。多くの集団や属性のものが、少しづつ融和の方向性へと向かっている。何しろこの世界には、悪魔である禁書館の館長すら存在を許されているのだから。

 

10巻にして、故郷の村で酒屋を営むという傭兵の長年の夢が、ようやく実現した。本来当たり前のようにあるべきだった世界が、ようやく小さな村のなかにあらわれた。この当たり前の光景の中にゼロや神父までもが存在するということがどれほど奇跡的なことか、今まで読み継いできた人にはよくわかるはずだ。『魔法使い黎明期』でも書かれているとおり、まだウェニアスでは多くの対立の火種がくすぶっているのだが、それでもかりそめの平和がここで実現したことの意味は大きい。平凡であたりまえな生活こそが、傭兵が望んでも得られなかったものだからだ。獣落ちが獣落ちのままこの生活を送れてこそ、この平和の意味も大きなものになるのだろう。