明晰夢工房

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【感想】柳広司『二度読んだ本を三度読む』と「司馬史観」という枷

 

二度読んだ本を三度読む (岩波新書)

二度読んだ本を三度読む (岩波新書)

 

 

アニメ化もされた『ジョーカー・ゲーム』などが有名な柳広司さんの書評集。取り上げられている作品は『山月記』『カラマーゾフの兄弟』『夜間飛行』『竜馬がゆく』など有名作が多いので、柳さんをよく知らない人でも楽しく読めるはず。

 

この本、なにが面白いかというと、プロ作家ならではの視点が随所に盛り込まれているという点です。たとえば『山月記』についてのこうした見解などは、あまり他では見ないものです。

 

中島敦にとって、「山月記」は所謂”デビュー前(に書いた)作品”であり、感じが多く並ぶ本作が代表作と見なされているせいか、中島敦漢籍の素養を特別視する評論をよく見かける。が、小説家としてデビューするためには先行の作家たちとは異なる新機軸が必要なのは当たり前の話なので、その点をことさらに持ち上げ、賛嘆してみせる風潮はどうかと思う。取り上げるべきはむしろ、近代小説の流れに反して敢えて音読に向いた作品で勝負を挑んだ彼の心意気だろう。(p57)

 

プロの職業作家の目から見れば、漢文の素養を前面に出してくる中島敦の作風も、まずは「売るため」だというのです。柳さんはこの本の中で何度も「読まれない小説は紙くずでしかない」と書いているのですが、作家とはまず小説が売れなければ食べていけない商売であって、そのために作者がどう自分を売り出していったのか、という視点も作品を分析するうえでは欠かせないものだと気づかされます。

 

谷崎潤一郎の『細雪』の書評でも、柳さんは「どう売るか」という視点からこの作品について切り込んでいます。 

 

細雪』発表以前、谷崎は一部の読書人・好事家に熱狂的なファンを持ちつつも、批判者も多い、いわゆる「読者を選ぶ作家」だった。初期の作品は発表当時は「悪魔主義的」等と称され、いま読むとなるとなるほど”いかにも”な感じが鼻につく。尤も谷崎自身は「職業作家たるもの売り絵(読者に阿る作品)の一つや二つ、腹を括って書けなくてどうする」とどこかで嘯いていたはずなので、どぎつい作風は世に打って出るための戦略だったのだろう。新人作家が世に出るためにはまだ誰も試みていない作品を書き、かつそのことを声高に主張する必要がある。(p78) 

 

初期の谷崎作品の「悪魔的」な作風も、中島敦の中国古典を生かした作風同様に、これから新人作家が世に出ていくための戦略だった、というのです。この戦略は見事に成功しましたが、この作風を貫いている限り読者が限定されてしまうのも確かなので、『細雪』という格調高い作品を書くことで、谷崎は海外にまで広くファンを獲得することに成功したのです。

 

個人的に一番面白かったのが、柳さんの「司馬史観」についての見方です。この本では、『竜馬がゆく』が驚異的なベストセラーになったために、司馬遼太郎が流行作家から一気に国民的作家としての地位を獲得するに至った、と書かれているのですが、柳さんに言わせれば、「国民的作家」となったことがかえって司馬遼太郎に枷をはめることになってしまった、というのです。

 

小説家に歴史観・世界観があるのは当然なのだが、作品が世の中であまりに売れた・読まれたために、司馬遼太郎が作品内で提示する歴史観・世界観があたかも何か特別なことのように見做されるようになった。作者司馬遼太郎の思惑とは別なところでだ。(中略)

初期の司馬遼太郎は移ろいやすい流行を積極的に取り入れている。だが、「司馬史観」などと読者、マスコミ、果ては学者連中までが 言い出したことで、彼の作品や発言が必要以上に大真面目に取り上げられるようになった。

 

こうなっては、自由な執筆活動はむずかしくなってしまいます。柳さんが言うとおり、「小説とはバカにならなければ書けない」ものなのに、その一挙手一投足を「司馬史観」などと持ち上げられていては、下手に荒唐無稽な話など書けなくなる。

 

ペルシャの幻術師 (文春文庫)

ペルシャの幻術師 (文春文庫)

 

 

この本で書かれているように、実は司馬遼太郎という人はサブカルへの理解も深く、宮崎駿のアニメもいち早く評価していたのです。『ペルシャの幻術師』のような初期作品を読むとわかるとおり、一時は伝奇的な作品も書いていた司馬遼太郎ですが、巨大な名声の副産物としての「司馬史観」という枷がなければ、奔放な想像力を生かしてもっと自由に作品を書けていたのかもしれません。歴史学者が講演をすると「貴方のお話は司馬先生が言っていたことと違う」と年配の人から言われたりすることがあるそうですが、司馬遼太郎が権威に祭り上げられなければ、こんなことも起きなかったかもしれないのです。

 

いかに作家の歴史観が優れていようと、時代考証が正確であろうと、小説は中身が面白くなければ価値などありません。本書では、『竜馬がゆく』のことを「インテリ講談」と評しています。歴史観や史眼などよりも、まず「不世出の講談師」としての司馬遼太郎の力量をこそ、再評価しなくてはいけないのかもしれません。司馬遼太郎はまるで見てきたように歴史を描く魔性の筆を持っていたからこそ、時にかれの作品が史実と混同される事態を生むに至ったのです。