明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

マクベスとマクベス夫人と「男らしさ」の枷

かつてある大物政治家を暗殺しそこねた右翼青年が「男になりたかった」と漏らしていた記憶がある。男はただ生きているだけでは「男」になれない、「男らしい」何かをなさなくてはならないのだ──こういう価値観は古びてきてはいるものの、それでもなお残るところには根強く残っている。今でもそうなのだから、中世を生きていた男たちはなお強力に男らしさに縛られている。たとえば、あまりに有名なこの作品の主人公、マクベスのように、だ。

 

マクベス (新潮文庫)

マクベス (新潮文庫)

 

 

マクベス』のあらすじはごく単純だ。ダンカン王の忠実な家臣だったマクベスが「あなたはいずれ王になる」という魔女の予言を信じ込み、ダンカン王を殺害して王になる。マクベスは魔女に「その子孫が王になる」と予言された友人のバンクォーをも恐れて殺害したため、玉座にありながら罪の意識におのれおののき、最後はイングランドに逃げのびたダンカン王の息子マルコムの家臣マクダフに討たれる、というものだ。この作品はシェイクスピアの四大悲劇のうち最後に書かれたもので、もっとも短い。

 

マクベス』の中心をなすテーマは、人間の弱さだ。マクベスはもともと勇敢な武将であり、それなりに勇気も武勇も持ち合わせているが、魔女の予言を聞いて野心を起こすものの、ダンカン王を殺害するのはかなりためらっている。なにしろ『マクベス』作中でのダンカン王は「有徳の君主」であり、相手には一点の非もない。マクベスには何の大義名分もないのである。だからマクベスはこのように思い悩む。

 

だが、こういうことは、必ず現世で裁きが来る──誰にでもよい、血なまぐさい悪事を唆してみろ、因果は逆にめぐって、元凶を倒すのだ。この公平無私の裁きの手は、毒酒の杯を、きっとそれを盛った奴の唇に押しつけてくる。王が今ここにいるのは二種類の信頼からだ。まず、おれは身内で臣下だ、いずれにしろ、そんなことはやりっこない、それに、今度は主人役、逆意を抱いて近よる者を防ぐ役目、それがみずから匕首をふりかざすなど 、もってのほかだ。そればかりか、ダンカンは生まれながらの温和な君徳の持主、王として、一点、非のうちどころがない、うっかり手を下そうものなら、その平素の徳が、天使のように大声で非道の罪を読みあげよう 、そして憐れみという奴が、生まれたての赤子の姿を借り、疾風に乗って駆けまわる、天童たちも眼に見えぬ大気の早馬に打ちまたがって御出馬だ、それが世人の眼に無慚な悪行を吹きつける、そうなれば、涙の雨で風も凪ごう。(p32)

 

この時点ではマクベスにはまだ家臣としての良心が残っている。王を弑逆などすればいずれ因果がめぐり、自分が滅ぼされるだろうと恐れてもいる。マクベスはもともと悪に徹しきれるような男ではないのだ。

 

こうして逡巡するマクベスを焚きつけるのがマクベス夫人だ。この夜、ダンカン王はマクベス宅に泊っている。暗殺の絶好の好機である。この機を逃して王妃になりそこねてはたまらないと、マクベス夫人はマクベスをさんざんに煽る。

 

夫人:ひそかにこの世の宝とお思いになり、それがほしくてたまらぬ方が、われから御自分を臆病者と思いなし、魚は食いたい、脚は濡らしたくないの猫そっくり、「やってのけるぞ」の口の下から「やっぱり、だめだ」の腰くだけ、そうして一生をだらだらとお過ごしになるつもり?

マクベス:お願いだ、黙っていてくれ、男にふさわしいことなら、何でもやってのけよう、それも度がすぎれば、もう男ではない、人間ではない。

夫人:それなら、このたくらみをお打明けになったときは、どんな獣に唆されたとおっしゃいます?大胆に打ち明けられた方こそ、真の男、それ以上のことをやってのければ、ますます男らしゅうおなりのはず。(p34)

 

ここで、マクベス夫婦の間にちょっとした「男らしさ論争」が起こっている。主君を殺すようなものは男ではない、というマクベスに対し、マクベス夫人はダンカン王を殺してしまう方が男らしいのだ、と言っているのである。なんと猛々しい妻だろう。この妻がいなければ、マクベスはダンカン王を殺していなかったのではないか。王のお付きを葡萄酒で酔いつぶしてその間に王を殺せばいいと暗殺計画を話す妻に、マクベスは「男の子ばかり生むがよい!その恐れを知らぬ気性では、男の子しか生めまい」と言っている。ある意味、マクベスよりもこの妻の方がよほど「男らしい」のだ。暗殺を実行するのが自分ではないから勇ましいことが言える、というのはあるとしても。

 

 マクベスマクベス夫人の考える男らしさの中身は異なっているものの、二人とも男は男らしく振舞わねばならない、と考えていることは共通している。マクベス夫人は家臣としての倫理は脇に置き、大胆に思ったことをやってのけるのが男らしいのだ、と主張している。こういわれると、男は弱いところがある。「男らしさ」といってもその意味するところはあいまいだが、野心があるなら逡巡せずそれを実行に移すことを男らしいと考える人もいる。男らしさは優柔不断の対極にある概念だからだ。かくて、マクベスは王殺しを実行に移してしまう。

 

しかし今まで見てきたとおり、マクベスにはダンカン王暗殺をためらう良心や小心さも持っている。だからこそマクベス夫人が背中を押したというわけである。そのようなマクベス玉座に座ったところで、その居心地がよかろうはずもない。やがてマクベスは気が狂いはじめ、バンクォーの亡霊を見るようになる。マクベスは間違っても善人ではないが、主君と友の命を奪って平然としていられるような悪人でもない。堂々と悪に居直ることのできないマクベスの姿は、マクベス夫人にはやはり「男らしくない」と映る。

 

マクベス夫人:皆さん、どうぞ、おかけになって、発作はほんのいっとき、すぐまた治ります、そうして、じっと見つめておいでだと、かえって気むずかしくなり、発作が長びきます。さあ、召しあがって、王のことは気になさらずに。(小声で)それでも男と言えます?

マクベス:(小声で)男でなくて何だ、こうしてたじろぎもせず見つめている、あの悪魔も面をそむける怪物を。

マクベス夫人:(小声で)ご立派ですこと!それもご自分の恐怖心が生んだ絵姿、あのとき空を横ぎってダンカンのところへあなたを導いたという短剣と同じこと。そんな、どなったり、わめいたり、大仰な身ぶりをなさって、恐怖も何もありはしない、子供じみたお芝居です、せいぜい冬のいろりばたで女どもの打ち興じる話の種、昔おばあさんから聴かされたお化け話のようなもの……恥ずかしくないのですか!どうしてそんな顔を?

(p74)

 

自分の椅子にバンクォーの亡霊を見るマクベスを、夫人はそれでも男かとなじる。幽霊など女たちの噂話の中にしかいないものだというわけである。そんなものを恐れて恥ずかしくないのか、とマクベス夫人は言うのだが、王殺しが恥ずかしい行為だという感覚はこの人には一切ないらしい。王として男の世界の頂点に立つこと、それだけがマクベス夫人にとっては大事であるようだ。

 

マクベス陣営に目を転じると、こちらもまた別の「男らしさ」を持ち出している。ダンカン王の息子マルコムとその家臣マクダフは、このような会話を交わしている。

 

マクダフ:ああ、女のように眼を泣きはらし、口先だけで、大口たたけたら、どんなに気楽か!いや、天に慈悲があるならば、あらゆる邪魔なものを取り除き、すぐさま、このおれを、あのスコットランドの悪鬼の鼻づらに突きつけてくれ、この剣のとどくところに、あいつを立たせてくれ、それで逃げられたら、たとえ天があいつを許しても、文句は言わぬぞ!

マルコム:それででこそ男だ。さあ、イングランド王の御前へ行こう、兵たちは待っている、暇乞いさえすればよいのだ。マクベスは熟れた果実、一揺りすれば落ちる。天使の軍勢はこちらの味方、われわれを励ましてくれよう。出来るだけ元気を出してくれ、どんな長夜も、必ず明けるのだ。(p111)

 

この「男らしさ」は、マクベス夫人が持ち出しているものにくらべればだいぶ理解しやすいものだ。マクダフは家族をマクベスに殺されているのだから、ここで立ち上がらねば男ではない、という感覚は現代のわれわれが考える男らしさともほぼ重なる。ここで男らしさが「口先だけで大口をたたく女らしさ」と対比されているのも興味深い。祖国スコットランドマクベスから取り戻すという志がどれほど立派であろうと、実際にやり遂げなければ「男」ではないのだ。逆に、王殺しという大罪でもやりとげればそれも「男らしい」とみなされる。『マクベス』の世界では事をなす強固な意志と勇気が男らしさの構成要素であって、することが善か悪かは別に関係ないようだ。

 

この物語を最後まで読んで、もしマクベスがもう少し男らしさを欠いていたなら、この悲劇は起きなかったのではないか、という感想を持った。マクベスがダンカン王殺害をためらい勇気を奮い起こすことがなかったなら、彼は妻に軽蔑されながらも平穏な一生を送ることができただろう。その意味で、男らしさには明らかに負の側面がある。少なくとも、マクベスの妻がよしとするような、ためらわず悪に邁進するような男らしさは、マクベスには似合っていなかった。マクベス自身が恐れていたとおり、因果は巡り自分自身が滅びることになったのも、しょせんはマクベスが悪事をなしても平気でいられるほどの男ではなかったからかもしれない。

 

バンクォーの亡霊を見るほど心を病んだマクベスは、のちに荒野の魔女たちから「女の産み落としたものの中にマクベスを倒す者はいない」「マクベスは滅びはしない、バーナムの大森林がダンシネインの丘に攻めのぼってこぬ限りは」という予言を聞く。この予言が幻影の口から出ているのはなぜだろうか。マクベスが自分に都合のいい予言を幻影の中に見いだしているだけなのではないだろうか。女から生まれていないものなどいないのだから、この予言は事実上、マクベスを倒せるものなどいないといっていることになる。しかしこの予言は最後には見事に裏切られることになる。シェイクスピアの技が冴える演出である。

 

マクベスが魔女の予言を信じ、そして妻の言葉に煽られて王殺しの大罪を犯したのだとすれば、男はある種の女に運命を狂わされるのだという女性観がシェイクスピアの中にはあるのだろうか。女の前では男らしくいなくてはならない、妻に侮られるような男であってはならないという一種の強迫観念めいたものも、幾分かはあったかもしれない。しかしそれは男が自分で自分にはめている枷でもある、という意味のことを、佐藤賢一は『小説フランス革命』のなかで語っている。

 

saavedra.hatenablog.com

 

「でも、本当なんですか、伯爵」

 なんの話だと怪訝な顔で確かめると、ロベスピエールは背後の建物を示した。ですから、こういう激越な行動に出られると、女性は喜ぶという先の御説のことですよ。

「リュシルは心配そうな顔ですよ。ああ、みてください、おろおろしているくらいだ。それなのに喜ぶというのは……」

「嘘に決まっているだろう」

「そ、そうなんですか」

「当たり前だ。それは女の問題ではなく、むしろ男の問題なのだ。強くあらねばならない、荒々しく振る舞わねばならない、雄々しく行動しなければならないと、そういう強迫観念から男は逃れられないものなのだ」

 

王殺しという「激越な行動」こそが女を喜ばせるものだという考えがシェイクスピアのなかにもあり、それがマクベス夫人に過激な台詞を吐かせているのだとすれば、マクベスマクベス夫人のやり取りは一人の男の頭の中の葛藤だということになる。マクベス夫人のようなことを主張する女性が現実にいないわけではないが、それを受け入れるかどうかは男性側の問題でもある。そこで男らしさにこだわるかどうかで、その後の行動は大きく変わることになる。男なら雄々しく振舞わねばならない、という観念に従ったマクベスは結局、わが身を滅ぼすことになってしまった。 

 

シェイクスピアを楽しむために (新潮文庫)

シェイクスピアを楽しむために (新潮文庫)

 

 

史実では、ダンカン王は有徳の君主などではなく、マクベスはダンカン王とは別の王系に連なる実力者だったそうである。阿刀田高シェイクスピアを楽しむために』では、「従来の王位継承の習慣から見れば、マクベスが王位に就くほうが正当であったろう」と書かれている。だとすれば、現実のマクベスシェイクスピア作品のマクベスほどには罪悪感に悩まされることはなかっただろう。17年間もスコットランドの統治に成功していたのはそのためかもしれない。