明晰夢工房

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旧約聖書の面白さはもっと知られるべき。阿刀田高『旧約聖書を知っていますか』で旧約聖書の一番おいしいところがわかる

 

旧約聖書を知っていますか (新潮文庫)

旧約聖書を知っていますか (新潮文庫)

 

 

大学生一年生のとき、旧約聖書学という授業を取ったことがある。先生はいい人だったが、授業は退屈でいつも寝ていた。しかし、それは旧約聖書が退屈な書物であることを意味しない。むしろその逆で、旧約聖書は面白いところはちゃんと面白い。めっぽう面白いといってもいい。しかし全部が全部面白いというわけでもなく、面白い箇所にたどりつくまでが大変だ。活字の森をかきわけてお宝を探り当てるのは一人ではむずかしい。でもこの『旧約聖書を知っていますか』があれば大丈夫。阿刀田高旧約聖書の一番面白いところだけをピックアップして紹介してくれる。一読すれば、聖書がいかにコンテンツとして強いものなのか、を理解できるだろう。

 

この本はまず、「アイヤー、ヨッ」というかけ声からはじまる。これはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの4人の頭文字をつなげたものである。ユダヤの英雄アブラハムとその子孫のことをまず覚えてほしい、という阿刀田高の配慮だ。旧約聖書といえばまずは天地創造、アダムとイブなのだが、そこは飛ばしてアブラハムから話をはじめるのは、旧約聖書の面白い部分がアブラハムとその子孫のストーリーの部分に詰まっているからだ。ハランの地から始まるアブラハムの波乱万丈の物語も、阿刀田高の筆にかかるととても軽いノリになる。

 

「俺は家を出るよ」

 弟のナホルはさぞかし驚いただろう。

「出るって……どこへ行くの?」

 神は「私の示す地へ行きなさい」とは告げたが、それがどこかわからない。どうやら西のほうらしい。

「一緒に行くか?」

「いや、俺はやめておこう」

 アブラハムは自分の信仰についても、きっと話したにちがいないが、ナホルは肯んじない。甥のロトだけが、

「一緒に行ってもいい?」

「いいともッ」

 かくて、アブラハムは妻のサラ、甥のロト、それから自分の財産である下僕や羊の群を率いて西の道へと出発した。アブラハム75歳、サラは65歳…… 

 

若い読者だとそろそろ「いいともッ」もなんのことだかわからないかもしれないが、終始こんなノリなので、宗教書だからと構えることなく気軽に読むことができる。ちなみに、このあと阿刀田高アブラハムとサラの年齢についても突っ込んでいて、本当はアブラハムは30代後半くらい、妻はその10歳年下くらいだったろうと推測している。老人クラブの遠足では、この先の苦しい旅路を乗り切れるとは思えないからだ。

 

アブラハムといえば、甥のロトがソドムに赴いたことは有名だ。背徳の町ソドムはのちに神に滅ぼされてしまうが、この町における男色の描写は現代の倫理基準から見ると際どいというか、政治的正しさという観点からは突っ込まれるようなものかもしれない。しかし、むしろ衝撃だったのはロトのその後だ。ソドムとゴモラが滅びたため男がいなくなり、子孫を残せなくなったロトの娘たちは、なんとロトを酔わせてその子を身ごもる。男色は許されないのに近親相姦は許されるのか、と不思議に思うところだ。

 

イサクの子、エサウヤコブ兄弟のストーリーにも興味を惹かれる。イサクは思慮深いヤコブよりも荒々しい長子エサウを好んでおり、家長の座を継がせたいと考えていたが、ここでヤコブの母が入れ知恵をする。ヤコブ腕に子ヤギの毛皮を巻き、年老いて目が見えなくなっていたイサクに近寄る。その腕をなでたイサクはヤコブを毛深いエサウと勘違いし、祝福を与えてしまう。かくて兄弟の対立が始まり、エサウヤコブを殺そうとするのだが、やがてエサウも矛を収めるときがやってくる。この二人の和解するシーンはなかなかに感動的だ。ヤコブはやがてイスラエルという名を与えらえることになるのだが、兄をだますような人物にこの名が与えらえるのか、と思うとなんだか複雑な気分になるが、民族のリーダーには悪知恵も必要だということだろうか。

 

悪知恵といえば、ヤコブの息子たちもなかなかえげつないことをやっている。ヤコブ一行がハランからカナンに戻る途上、ある集落の首長の息子がヤコブの娘ディナを犯してしまうのだが、これに対するディナの兄たちの復讐の仕方にかれらの性格がよく出ている。首長の息子がディナを嫁に欲しがり、部族ごとヤコブ一族と姻戚関係を結ぼうとしたので、ヤコブの息子たちは首長の一族に割礼を受けるよう要求する。つまり、イスラエルの神と契約しろというわけである。要求をのみ、部族の男たちが割礼を受けた3日後(割礼の手術はこのころが一番痛むらしい)、歩くこともできずにいる男たちをヤコブの息子たちはことごとく殺してしまった。それだけでなく、家畜も財産も、女子供もすべて略奪している。こういう知恵が働くあたり、やはりヤコブの血筋という感じがする。

 

知恵がある、というよりは奸智に長けている感があるヤコブ一族は、それでも神に愛されている。イスラエルの神にとって善悪はあまり大事ではないのだろうか、と思えてくるが、と著者に言わせればそれは「素人のあさはか、旧約聖書の考え方ではない」のだ。

 

イスラエルの神にとっては、常識的な善悪も大切だが、それ以上に、その男が神を敬っているかどうか、その男が神の祝福を受けたものであるかどうか、それが第一義である。あえて簡単に、はっきりと言えば、神が愛している人間であれば、神を裏切ること以外はなにをやっても、まあ、おおめに見てもらえる。 

 

というわけで、ヤコブが正しいかどうかはそれほど問題ではないようだ。

 

旧約聖書はさまざまなフィクションの元ネタにもなっているが、「サムソンの謎」の章を読んでゲームやドラマへの影響を考えてみるのも楽しい。古い話で恐縮だが、バッドエンドが有名なレトロPCゲームに「アスピック」という作品がある。長々と説明はしないが、要はこのゲームのストーリーは火の鳥異形編である。どうしてこれほど救いのないエンディングにしたのか首をかしげるほどだが、実はこの作品の主人公の名は「サムソン」なのだ。旧約聖書を知っていれば、この作品がバッドエンドで終わることを予感できたかもしれない。

この本に書かれているとおり、サムソンは強力無双の勇者ではあるが、あまり頭がよさそうに見えない。しかしサムソンには意外な弱点がある。髪の毛だ。髪を剃られると、サムソンはたちまち力をなくしてしまう。ここで思い出すのが、ゲームオブスローンズのドスラク人の首長カール・ドロゴだ。ドロゴは髪が長いが、それはドロゴが戦いで敗北したことがないことを意味している。ドスラク人は負けると髪を切らなくてはいけないからだ。髪を切ることが敗北を意味すること、豪勇を誇る男であることなど、ドロゴの特徴はサムソンと重なる。悲劇的な最期を遂げるあたりも、ドロゴとサムソンは共通している。ドロゴのモデルがサムソンかはわからないが、そう考えたくなる程度には両者には共通点がある。

 

少し脱線した。「アイヤー、ヨッ」の部分が終わり、モーゼの出エジプトからヨシュアの活躍にいたる部分も見どころは多いが、おいしいところを全部紹介していると字数がいくらあっても足りないので、ここでは省略する。「ダビデの熱い血」の章ではユダヤ人もいよいよ王国を作るようになり、ダビデが主人公として登場する。ゴリアテ退治が有名なダビデだが、この人もヤコブやその息子たち同様、ある意味とても人間的で、ただ勇敢な男というわけではない。というか、むしろヤコブよりもっとひどいこともしている。なにしろかれは家臣の妻バト・シェバに一目惚れし、すぐに手を出してしまう。そればかりか、彼女の夫ウリヤを危険な戦場へ送り出し、死なせてしまう。バト・シェバを妻にしたくて間接的な殺人を犯したのだ。さすがにこれは神の怒りにふれ、バト・シェバの子が生まれてすぐ死んだり、ダビデの長男アムノンが異母妹を犯したり、復讐として妹と同じ母を持つアブサロムがアムノンを殺すなどの悲劇が起きた。とはいえ、本来殺されても仕方がなかったところを、ダビデが必死で悔い改めたのでこれで許された、ということでもある。時に間違いも犯すところがダビデが愛される理由らしいが、この個所を読むだけでも旧約聖書が単なる堅苦しい宗教書などではないことがわかる。

 

このように、本書で取り上げられるユダヤの英雄たちの姿はとても人間的だ。かれらはギリシャ悲劇さながらの愛憎劇をくり広げたり、多くの過ちを犯したりする。旧約聖書の登場人物は我々からはるか遠くへだたった人物というわけではないのだ。とはいえ、やはりこれは宗教書でもあるので、ときには登場人物が奇蹟を起こしたりする。一番有名なのはモーセだろう。かれは杖を蛇に変えてみたり、モーセの十災と呼ばれる災害を起こしてみたり、海をふたつに割ったりする。これらの記述を、信心を持たない私のような読者はどう受け止めたらいいのだろうか。阿刀田高はこう語っている。

 

  だが、ありていに言えば、私は奇蹟が起きようと起きまいと、科学の説明があろうとあるまいと、

 ──そんなこと、さほど重要じゃない──

 と今は思っている。そこが幼いころと違っている。

 実際にあったかどうかより、そう信じられたこと、そう伝えられたことのほうが大切のように思えるからである。

 

(中略)

 

 モーセは聖書に書かれた通りの奇蹟は行わなかったかもしれないけれど、神を信じ、おのれの使命を信じ、不退転の決意で何度も何度もエジプト王と交渉して、出エジプトを敢行し、偉大な指導力を発揮した、そのことを比喩的に記せば、聖書の記述となるだろう。大衆にはこの方がわかりやすいし、伝えやすい。要は、それをみんなに信じさせるだけの人格と結果が、そこにあったということのほうである。

 

これは、日本人には一番受け入れやすい考え方ではないかと思う。奇蹟を起こしても不思議ではないと思えるほど、モーセは偉大な指導力を発揮したのだ、ということである。モーセの偉業を民衆に伝えようとすれば話に尾ひれがつき、物語ができ、それはやがて伝説になっただろう。モーセがそれほど大きな存在だった、ということが重要なのだ。

 

このように、旧約聖書はただ物語として読んでみても、内容にかなりの厚みがある。もしユダヤ教キリスト教が古代において滅びてしまったとしても、聖書というコンテンツは現代まで残っていたのではないだろうか。21世紀の現代においてゼウスやアポロンを神として信じている人はいないが、それでもギリシャ神話が今でも読み継がれているのは、それだけギリシャ神話が強いコンテンツだからだ。聖書が世界一のベストセラーであるのは、もちろんキリスト教徒の教典だからなのだが、聖書を読むのはキリスト教徒だけではない。実のところ、聖書はそのエンターテインメント性ゆえに広く読まれている、という一面があるのではないだろうか。ただ、聖書の面白さに触れるのは私のような非キリスト教徒にとっては簡単なことではない。そのような人にとっても、本書は聖書へのよき案内役になってくれるだろう。キリスト教ユダヤ教ユダヤの歴史に興味がある人、あるいはそんなものに興味はなくてもとにかく面白い本が読みたい人、にもぜひおすすめしたい一冊だ。